第7節 パンデミック

愛にはけして偽りが混じらないように。愛しながらも相手を尊敬するように。

仕事は熱心に。絶えず希望を持ち、苦難に耐えよ。

そして、訪ねてきた人、旅人には親切に愛を持って迎えなさい。

喜ぶ人と共に喜び、泣く人と一緒に泣きなさい。

ゆめゆめ高ぶらないように。そして、自分を知恵ある者だとも思わないように。


【ローマの人々への手紙 第12章】






クルリ、カラリ、糸車が回る。私のすぐ隣で回るよく耳に馴染む音を聞きながら、一針、そしてまた一針と私は布に針を通した。自分の心も一緒に絹の布に糸と共に縫い付けるように。

点々と庭に明かりが灯った。灯りを点しながら点灯夫が夕焼けに背を向けて、夜へと先を急いでいく。部屋の真ん中に置かれた香炉から立ち上った伽羅(きゃら)と呼ばれている香の香りが部屋を満たし昼から夜に向って流れて行く。


「……できた……!」


「おや、アグネス?刺繍が終わったのかい?」


「はい……!ナミさんや永久に手伝っていただいたので……時間は掛かってしまいましたが……」


想いを玉結びと共に結び、糸を切った。永久と一緒に色を染め、糸車を使い紡いだ糸。その糸を使い一針一針少しずつ今日まで縫い進めて来た。完成したばかりの帯を胸に抱き、一つ深く息を吐く。あの人の―……私の想い人の顔を思い浮かべながら。

刻は喜んでくれるかな?喜んでくれたら、いいな。次に手紙を贈る時、この帯も一緒に刻に届けて貰おう。遅くなってしまったけれど、それでも受け取って欲しい。


「……刻に渡すのかい?」


「はい……やっと刻さんに渡す事が出来ます。あとは手紙を……ナミさん、硯と筆と、紙をお借りしますね」


好意で貸していただいている硯と筆を手元に引き寄せようとした、その時だった。微かな羽音が私の耳に届いたのは。筆を取る手を止めて立ち上がり光が零れる障子を開ければ、いつも刻からの手紙を私に運んでくれている一羽の白い鳥が軒下で長旅で疲れた羽根を休めていた。いつものように手紙と―……そして小さな綺麗な小箱を足元に置いて。


「おや、その鳥は息子の使い魔の鳥だね。文と……それからそれは紅……だね。この国の物とは違うようだけど」


「はい、ナミさん。手紙と……それと一緒にこの小箱も……」


不意に肩越しに聞えてきた声に振り返り見上げれば、覗き込むように私の後ろに立つナミさんがいた。手紙と共に刻から贈られてきた小箱を見せれば途端にナミさんの顔に綺麗な笑みが浮かぶ。三日月を唇で描くと、ナミさんは永久とよく似た声で楽しそうに声を漏らした。


「懐かしいねえ~……私も娘さんの時に旦那から贈られたからねえ。ふふっ……やっぱり親子なんだねえ……やることがそっくり」


「……ナギさんが、ですか?」


「ふふっ……そうさ。若い頃に、ね。さあて、アグネス。男が女に紅を贈る意味を、アグネスは知っているかい?」


昼と夜の狭間に名残日が散っていく。儚い、けれど夜を払う点灯夫が点した淡いオレンジ色をした光が周囲を照らしていた。






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不思議な静けさと安らぎが夜を満たす。月の灯りが溶けた鏡を前に私は正座で座り手を組み、そして祈っていた。この国にいるという八百万の神々にも私が生まれた国で愛されている全ての父に対しても祈る。あの人に―……私の想い人にどうか会わせて下さいと、一心に祈った。伽羅の香りが夜に靡いて行く。

香炉から立ち上る煙が無風の中さざめき香りが揺らいだ。変わる空気の中、伏せていた目蓋を持ち上げ前を見れば見知らぬ部屋と、想い人の広い背中が瞳に映る。


「……刻……!!」


「アグネス……!?本当に……アグネス……なのか……?」


彼に差し伸ばした私の手は、彼の手と絡む前にするり、とすり抜け通り過ぎていく。でも、それでも構わなかった。透ける腕越しに彼を強く抱きしめた。私の姿に瞠目し固まる彼の事を。

彼の国の衣装を纏って、彼から贈られた口紅を唇に引いて、彼の名前を紡ぐ。刻……刻……と、大好きな人の名前を。何度も刻と名前を呼ぶうちにじわりと温かい涙が浮かんできて、堪えようとしても堪えきれなくて溢してしまったけれど、今の私は幻影であなたの袖をけして濡らしはしないので許してほしい。

今あなたが見ている私は魔法の力で映った私の影だから。幻影としてでしか刻の傍にいられない私をどうか許して。


「どうしてお前がここに……それにその姿は……」


「ナギさんとナミさんにお願いして魔法の鏡を使わせて貰ったの。どうしても……どうしても刻に会いたくて……刻の声を聞きたくて我がままを言ったの。だから、今の私は幻。でも、私だよ。刻……刻にね……会いたかった……」


夜が流れて行く。伽羅の香りがなお一層強くなる。けして彼には触れられない。でも、私は確かにこの時彼に触れていた。透ける私の髪を、変わらない逞しい刻の手が優しく梳いてくれている。それだけで嬉しくて、幸せで……また涙が一つ零れた。


「……刻少し痩せちゃったね。大丈夫?ちゃんとご飯は食べてる?ちゃんと温かいベッドで寝られてる?」


「ああ……少しは寝ている……つもりだ」


別れたあの日よりも弱弱しい刻の声。彼を抱きしめる腕に力を込めた。手紙を受け取った直後は漠然としたものだった不安が確信に変わっていく。……こんなに弱弱しい彼を私は今まで見たことがなかった。


「……刻……」


少しだけ体を離し、そして僅かに笑みを浮かべた。一度は離れた距離が徐々に、徐々に再び近付いて行く。彼の少し薄い唇に私の唇が重なる。彼から贈られた淡い紅色の口紅で彩った唇で彼の唇に自ら触れた。……どうしても触れたかったの。どうしても。

けして触れられないと知っていても、それでも刻に返してあげたかった。私の想いを。


「刻……私、やっぱり駄目なの。永久と一緒に春の国へ来て皆によくしてもらって身体も良くなって幸せだけど……それだけじゃ駄目なの。あなたがいないと心に穴が開いてしまったようで……スースーして幸せだけど、それだけじゃ足りないの……」


あなたは不器用でそして真面目だから、だから色々と考えて不安を感じてしまったのかもしれない。でも、刻の想いは私にちゃんと届いているって刻は知ってた?そして、こんなにも、こんなにも私があなたを求めている事を、刻は知っていましたか?


「アグネス……?」


「刻。刻……私ね……刻の事が大好きなの。きっとあなたが考えている以上にずっと、私は刻の事が大好き」


あなたと離れて想いは離れるどころか募るばかりで……あなたと旅できるぐらいに私も強ければよかったと何度唇を噛んだろうか。

あなたは強いから……弱い私の弱音に幻滅してしまうかもしれない。重荷に感じてしまうかもしれない。でも、それでもこれだけは……これだけは伝えたいの。


「刻……あなたを愛してる……」


こんなにもこんなにも……私はあなたを求めています。


愛にはけして偽りが混じらないように。愛しながらも相手を尊敬するように。


≪アグネス・サーンクタ≫
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