第7節 パンデミック
御子は他の喩えを示して仰せになった。「天の国は一粒の芥子種に似ている。ある人がそれを取って畑に蒔いた。それはどんな種よりも小さいが、成長するとどんな野菜よりも大きくなり、そして空の鳥が来てその枝に巣を作るほどの木になる」
御子は人々に他の喩えを語られた。「天の国はパン種に似ている。女がそれを取って三サトンの小麦粉の中に混ぜると、やがて全体が発酵する」
御子はこれらの事全て喩えを用いて群衆に語り、喩えを用いずには何もお話にならなかった。これは預言者を通し語られた事が成就する為である。
「私は口を開いて喩えを語り、世の初めから隠されている事を告げる」
【マタイによる福音書 第13章】
乾いた北からの風が、すぐ横を通り過ぎていく。石畳の通りに敷き詰められるように落ちた無数の木の葉は、木枯らしに吹かれ運ばれ、風の吹き溜まりに集まっていた。
晩秋の肌寒さが入り込まないように、厚手の外套の襟を掴み固く閉ざす。自分の従兄達はこれぐらいの寒さは物ともしないのだろうが、生憎俺も妹も暑さ寒さは人並みに感じる。
向かい風が直接顔に当たらぬように俯きがちで歩けば、当然だが視線は前ではなく下を向きがちになる。天気がいいからといってこの街を訪れたついでに視察でもするかと外に出たのは失敗だったかもしれない、と、代わり映えしない足元を見つめながら考えた。苛立つ気持ちのまま一つ舌打ちを打って。
そんな時だった。炉端の石の間から割るように花を咲かせているそれに気付いたのは。いつもであれば足を止めることはなかっただろう。いや、そもそもここに花が咲いていること自体に気付かなかったかもしれない。
だが、この時は違った。このちっぽけな花から目を逸らせないでいる。辺り一面全ての物が枯れ始める時期だからこそ、けして華美ではない遅咲きの小さな花に目が留まったのかもしれない。
白と薄紫と……揃って咲いていた小さな花を身を屈めて手折った。少し力を入れただけで容易く折れるほど頼りなげな細い茎を持つ花だが、手折られたにも拘らず、その花は自分の手の中で微笑むように咲き誇り揺れている。
「……この店は……?」
手元の花から視線を前へと戻すと同時に自分の目に飛び込んできたのは、周囲の店とは異なる趣の外観を持つ一軒の店の看板だった。「錦江」と異国の文字で店名が掛かれている店の軒先を考えもなしに潜ってしまったのは、文字通り気紛れからに他ならない。
野の花を摘んだのも気紛れ。この店に入ったのも……気紛れ。
「いらっしゃい。お客さんだね、今日は何をお求めだい?」
「いや……特別何をと言うわけではないんだが―……この店は菓子屋、なのか……?」
「ふふっ……何の店か分からないで入ったクチかい?まあ、確かにこの街でうちみたいに和菓子を取り扱っているところはないかもしれないね。綺麗なもんだろ?そっちにあるのは練り切り、そして瓶に入っているのは金平糖さ」
緩慢な動きで振り返った女の肩まで伸びた柔らかな髪が揺れる。先程摘んだ野の花の色を二つ混ぜたような不思議な色合いをした女の髪が。ほっそりと目元と口元で弧を描く女の優し気な姿に胸を掴まれたような、そんな気がした。
「ようこそ、錦江へ。おまけは出来ないけれど味はどれも保証するよ。ゆっくり見て行っておくれ。あっしは奥にいるからさ。決まったら声を掛けてくれれば―……」
「あっ……待ってくれ」
「どうしたんだい……これは、花……かい?」
今考えても突飛のない行動であったと、そう思う。何故あの時、出会ったばかりの女に対してあのような行動を取ったのか……自分自身でも理解不能だ。
前後も脈絡もない俺の行動に、女も少し驚いたような顔になり……それから再び優しい微笑を浮かべた。俺から手渡された野の花を受け取りながら。
「野菊だね……」
「菊……これは菊と言うのか……」
誰も知らない、自分ですら自覚できない心の奥底で、何かが微かな音を立てて動こうとしていた。何かが、確かに変わろうとしていた。
それが二人の……俺と薄烟の出会いであり、一つの始まりだった。
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「これは……苗か」
「ああ、そうさ。あっしの故郷に咲いてる花のね」
指先と指先とがふっと触れ合った。初めて出会った晩秋の日のように、細い指先が武骨な自分の指に触れる。
「ミヤマキリシマって言うんだ。ツツジの一種さ。本当は花束で渡したかったけど、開花の時期はまだでね……。礼はなるべく早くにしたいって思ってたから、時期を待っていたらそれが遅くなってしまう。苗で申し訳ない気はあるけど、綺麗な花だからお前さんにも見てほしいって思ってどうしても渡したかった」
「……故郷の花……そうなのか……これが」
受け取った苗ごと彼女の手を覆うように包んだ。そうするのが自然であるというように手が動き口元に三日月型の弧が浮かぶ。
「ラント様……?」
「こっちだ。ここは午後になると日が陰る。あちらなら一日中日当たりがいい」
緩やかに、溶けていく……解けて、崩れていく。冬の終わりの空気が。あの日と違い南から吹く風が傍らを通り抜けていった。
「ふふっ……兵士さん随分驚いていたみたいじゃないか。ラント様が自分で土をいじるなんてって泡を吹いていたよ。……やっぱり領主様ともなるとあまり土には触れないんだねえ……」
「ん。ああ……確かに普段はあまり土には触れないかもしれないな。薄烟、苗を植える穴はこれぐらいの深さで大丈夫だろうか?」
鈴が転がるような涼やかな笑みが彼女の口から零れて落ちる。耳障りの良い声を聞きながら、シャツの腕をまくりシャベルで庭の一角の土を掘り起こした。掘り起こすと同時に子供の頃は身近にあったどこか懐かしい匂いがする。
家の兵が俺の行動に驚いたのは、俺が領主と言う地位にあるからと言うよりは、俺の普段の行動や性格のせいなんだろうが……敢えてこの場で薄烟に言う必要性もないだろう。もっとも、もしかしたら既に自分の潔癖を彼女は見抜いているかもしれないが。
「……そうだね……そのぐらいの深さで大丈夫さ。じゃあ、あとはこの苗を肥料と一緒に植えて上から水を―……っう……!」
「……どうした?」
「少し枝で指を切っちまってね……なあにそんなに大した傷じゃないさ。だからあまり心配しないで……」
彼女が息を飲む音がした。自分の口内に僅かに鉄錆の味が広がる。伏せた目蓋を上げれば、今まで見たことがないほど顔を赤くし、目を白黒とさせる彼女の顔が近くにあった。
細い唾液の糸が、プツリと途切れる。細い指から自分の口を離し、捕まえた手も解放した。
「あとで屋敷の者にきちんとした手当てをさせる」と言葉を紡いで。真冬の夜に彼女に贈った菊の髪飾りは陽光の光を受けて淡く煌めいていた。
野菊を摘んだのも彼女の営む店に初めて訪れたのも気紛れだった。だが、菊の髪飾りを贈ったのも、そして今の行動もけして気紛れからなどでは……ない。
天の国は一粒の芥子種に似ている。ある人がそれを取って畑に蒔いた。それはどんな種よりも小さいが、成長するとどんな野菜よりも大きくなり、そして空の鳥が来てその枝に巣を作るほどの木になる
≪ラント・ブラウン≫
