第7節 パンデミック

神が欲するのは、生け贄ではない。

豊かな供物でもない。

神が欲するものは、愛だ。

お前達が本当に愛し合う事だ。


【ホゼアの書 第6章】






冬の名残の固まった雪の塊が屋根から、そして辺りの木々の枝から大きな音を立てて滑り落ちていく。一面の白が支配する静寂の季節から黒く柔らかな土から緑の芽が芽吹き出す季節へと確実に季節は移ろい始めていた。その証拠に、夜の闇が支配する時間は徐々に短くなり、光が支配する昼の時間が伸びていく。


「ベリル様……お目覚めでしょうか?」


「ああ……すまない。つい寝入ってしまった。コレー……おはよう。悪いが、水を一杯貰えるか?」


「ふふっ……おはようございます、ベリル様。そうおっしゃるんじゃないかと思ってお水をご用意しました」


控えめに叩かれた扉の音が鼓膜を揺する。光が透ける窓際から音がした方へと視線を向ければ、そこにも光があった。朝の差し込む光を豊かな髪に受けて、彼女の黄金色の波打つ長い髪が陽光に淡く煌めく。

コレーと彼女の名を紡げば、それだけで起き抜けの渇いた喉が僅かに潤ったようなそんな気がした。彼女が笑顔で差し出してくれた一杯の冷たい水を飲み干す事で、短い死である眠りの間に感じでいた乾きは完全に遠のき霧散していく。


「……よかった」


「コレー?」


「右手。もう不自由なく動くようになられたんですね。……安心したんです。あれから暫く動かすたびにお辛そうな顔をされていましたから……」


ガラスの杯を銀の盆に置くと同時に温かさが俺の利き手を覆った。細く白い指先で労わるように利き手に触れる彼女の健気な姿にトクリ、と一つ心音が左胸を震わせる。愛おしい……


「すまない。苦労を掛けた。コレーのおかげだ。コレーが毎日俺を癒してくれたおかげでこうして以前と同じように手を動かす事が出来るようになった。コレーの、献身のおかげで」


「そんなことはありませんわ……もっと私に治癒の力があれば―……もっと早くベリル様の怪我を治してさしあげることができたのに……」


ふるりふるり、と首を横に不利ながら自責の念を吐露した彼女の細腕を掴み、軽い力で自分側へ向かって引いた。不意のことでバランスを崩し倒れ込む彼女の体を胸で受け止め髪を撫でる。黄金の波が再びさざめいた。


「コレー、どうか自分を責めないでくれ。怪我をしたのは俺の落ち度だ。コレーのせいではない。それに……何より愛おしさしかないのだ。俺の心の中には。お前に対して」


「ベリル様……」


彼女の細い肢体を抱きしめた。陽光の化身であるかのように美しい彼女をその陽光から隠すように腕で覆う。彼女を初めてこの朽ちた洋館に攫って来たあの日のように。

渡したくなかったのだ。それがたとえ彼女の実の親だとしても。彼女が陽光の子だったとしてもだ。俺の傍に置いて俺の為だけに笑っていて欲しいと願ってしまう。……酷いエゴだ。


「ベリル様……あの……実は朝食を用意してあるんです。冷めてしまうと美味しくなくなってしまいますし……一緒に食べませんか……?」


「……そうか。すまない。寝坊をしてしまって……一人で作らせてしまったな」


「ふふっ……いいんです。ベリル様、自分で言うのも変な話ですが上手に作れたんです。だから、沢山召し上がって下さいね」


光が揺れる。鈴が転がるような愛らしい彼女の笑い声と共に。微笑み俺に告げる彼女の目蓋に一度口付けて、そろりと寝台から降りた。光が、揺れる。

ふわりと美味しそうな匂いが鼻腔を擽った。瑞々しいグリーンサラダと共に皿に盛られたカリカリに焼けたベーコン。ラズベリーが添えられたふわりと厚いフレンチトースト。そして、彼女がよく作ってくれるミルクスープが木の机の上に綺麗に並んでいる。フレンチトーストに掛けるものだろうか?机の真ん中にはメイプルシロップが入った小さな白い陶器の入れ物があった。


「フレンチトーストはもしかしたら甘いかもしれませんから、シロップはお好みで掛けて下さいね?」


「どれも美味しそうだ……。コレーが全部一人で作ってくれたのか……」


「はい……!ベリル様に食べていただきたくて頑張って作ってみたんです。食後に紅茶もご用意いたしますね」


コレーの作ってくれた料理はやはり落ち着く優しい味がした。よく焼かれたベーコンは香ばしく、またミルクスープも野菜とベーコンの旨味が程よく混ざり調和していた。彼女が初めて作ってみたというフレンチトーストも少々甘いが柔らかく、添えられたラズベリーの酸味とよく合っている。

アウラーナの家にいた時に食べていた食事よりも彼女と二人でこうしてここで食べている食事は質素なものだ。だが、実家で一人で食べていた時よりもここでの食事は俺の心を満たしてくれる。子供の頃、両親や弟や妹達と揃って食事を取っていた頃のように。


「……美味しい。上手になったな、コレー。俺が作るものよりもずっとずっとコレーが作る料理の方が美味しく感じる」


「ふふっ……ベリル様のお口に合ってよかったです。……ベリル様、お食事が終わったらお庭に出てみませんか?今日はよく晴れて外も暖かいようですし、お庭の散策をしてみたいんです」


「それは構わないが……さほど手入れされた庭ではないぞ?」


「それでも外に出てみたいんです」


「そうか。なら、上着は羽織ってでた方がいいな。日差しは確かにあるがこの時期はまだ風は冷たい」


時は流れ、季節は巡る。緩やかで優しい時が自分の傍らで笑っていた。

水はせせらぎ鳥が歌う。この洋館が立っている場所は少々奥深い針葉樹の森の中だが、小川が一本庭を突っ切るように流れている。上流の山々でも雪解けが進んでいるのだろうか?小川の水量も冬が深かった時期に比べて増えてきているように見えた。

そんな小さな川の畔では大輪の黄色の水仙が咲き誇り、冬の終わりと春の訪れを告げている。あと数週間もすれば、この周囲にも薄紫色の菫の花が顔を出すだろう。


「コレー、おいで」


両腕と外套を広げ、水仙を一本丁寧に手折る彼女の名前を呼んだ。花を手に笑顔で俺の腕の中にやって来た”春”を抱く。彼女をこうして腕に迎え入れるたびに愛おしさが去来する。

ふと触れた指先はそのまま流れるように絡み合った。全身で陽光を浴びながら、両目蓋を閉じた彼女の桜色の唇へ自分の唇を重ね合わせる。重ね合わせた唇から確かな命のぬくもりを感じた。

このまま傷一つ付けず穢さず、冬の雪のように白いままの彼女を自分の手元に置いておきたいと、そう思う自分もいる。だが、それ以上にそれでは足りないと欲深な自分が心の中で醜く叫んでいた。深く深く彼女と繋がりたいと。


「コレー……」


「ベリル様……」


自分の薄汚れた欲に眩暈を覚える。だが、それ以上に求めずにはいられなかったのだ。俺の”春”を。


「今夜俺はお前を抱く。だから、俺に恐怖を覚える時は―……その時は俺を拒絶するといい」


季節は、流転する。留まる事なく流れて。


≪ベリル・M・アウラーナ≫
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