第7節 パンデミック

暖かい陽の光を受けてキラキラと輝く氷柱。

ぽたりぽたりと滴る水を眺め、ぼんやりと昨夜の出来事を思い返していた。



本当は怖かった……生きるため、父を養うためと理解していてもやはり身体を売ることに抵抗があった。

性を売りお金を得て……そんなお金で養われる事を父が望むだろうか……

きっと父はそれを望まない。

父はこのような暮らしにあっても私を案じてくださった。

そしてこうも言っていたのです。

決して悪事に手を染めてはいけない。

どんなに貧しくとも苦しくとも盗みや殺しはしてはならない。

人としての誇りは失ってはいけないとそう言っていた。

だからなにも告げず家をこっそり抜け出してあの辻に立っていたのです。


……罪悪感で押し潰されそうでした。


自分の行いがどれ程親不孝なものか……私は解っていたから。


父の望まぬ方法でお金を得る事が心苦しくて誰にも声をかけられず路地に潜んでいたけれど……私に残された生き方はこれしかないと意を決して声をあげた。

通りかかったあの人にすがる思いで声をかけた。


私は運が良かったのだ。

あの人だったから私に情けをかけてくれて……夢のような一夜を過ごすことができたのだ。

あの一夜は夢ではない。
あの約束は確かに交わした事なのだと…この小袖がそれを証明してくれている。

淡く美しく染め上げられた桜の小袖が…あの人のお母様の形見の小袖が。

『箪笥の肥やしになってた物だ。……十六夜と同じだ。俺も捨てられなかったし売れなかったんだよ。だけど男の俺が着るわけにもいかねーしな……十六夜が着るならきっとおふくろも喜ぶ』

本当にそのように大切なものを私が袖を通しても良いのでしょうか?

そう問いかけるとあの人はふっ…と優しく微笑んで私の方へと手を伸ばしそっと頬に触れながら言葉を返した。


『ああ……だから昨日も言っただろう?5時きっかりに、って。早過ぎても遅過ぎても駄目だ。それに雨や雪の日、風が強い日も駄目だ。……十六夜が寒さで凍えちまうだろ?……それから茣蓙ももう必要ないからここに置いていけ。茣蓙を持たないで俺のおふくろの小袖を着て辻に立つんだ。……そうすれば皆にジロジロ見られる事もないだろう?普通の娘の格好をして待つんだ。……それでも俺だけは分かるから』


夢のような一夜を過ごして、朝になっても覚めない幸せな夢を見ていたよう。

そんな一夜をまた過ごしたい……貴方にまた私の時間を買って貰いたい……。


顧客という関係を口実に貴方に会いたいと願っている私がいるのです…。

雨が降らなければいい、雪が降らなければいいとずっと願っていました。

貴方は憐れみの感情から私に良くしてくださったのかもしれません……ですが私は違うのです。


こんな気持ちを抱えたらいつか必ず苦しくなる日が来ると解っているのに……。

会いたいんです。貴方にまた会いたいと願わずにいられないんです。

貴方に譲って頂いた桜の小袖に袖を通して、少しでも美しく見えるようにと髪を綺麗に整えて……。

可笑しい、これではまるで逢瀬のよう……。

思わず笑みが溢れて「ふふ。」と笑う。

思い違いでもいい……今はこの気持ちのまま夢に浸っていたい。

キョウさんは約束通りあの辻へ来てくださいました。
『お前の時間を買わせて貰う。』と昨日と同じように微笑んで。

それは私がずっと思い描いていた事が叶ったような光景で…。

嬉しくて、楽しくて、幸せな気持ちでいっぱい。

甘味屋さんに連れていって貰って、キョウさんと一緒に美味しいお汁粉をいただいて、店主さんと売り子さんとお話をして、可愛いお菓子を沢山眺めて。

父様に手土産にとキョウさんが買ってくれたお饅頭を手にして甘味屋さんを後にした。


その後で二人で市場に足を運んで今夜の晩御飯は何にしようかと相談しながら買い物をして。

「それなら鍋はどうだろう?」と貴方が言えば私は「お豆腐とお揚げを入れたお鍋はどうでしょう?」と提案してみた。すると貴方は「酒が進みそうだな。」と嬉しそうに微笑んだ。


繋いだ手と手。大きな背中に美しい翼。風に揺れる榛色の髪。

胸の奥が暖かくて胸の音が少し騒がしい。

貴方の名前を口にする度に気分が高揚してしまう。


周りには沢山の人が行き来しているのに、私の目に映るのは貴方の姿だけ。

こんな気持ちになったのは初めての事で浮かれてしまう。

でも、それと同時に胸の奥にじわりと広がる罪悪感。

キョウさんになにもかも甘えてしまっている……本当にこれでいいのかと胸の奥がざわざわとして不安になった。


私は貴方に買われた夜鷹なのに…こうして手を繋いで言葉を交わして身体を売らずに一夜を過ごす。それだけで本当にいいのだろうか…と。


「キョウさん……。」

「ん?どうした…?」

つい呼び止めてしまった。
不思議そうな目で私を見つめるキョウさんと視線が交わる。
繋いだ手は離さずにこちらを静かに見つめてくれている。


「キョウさん……私、とても嬉しいんです。
こうして好いた人と一緒に歩いてお買い物をするのが……ずっと……夢だったんです。」

ぎゅ…っと繋いだ手に力を込めて握り返す。離れたくない。このままこの時間が続いたらどんなにいいだろうと……そう思いながら。

「このまま貴方と一緒にいられたらどんなにいいだろうって……ずっと考えていたんです。

ご迷惑でなければ……貴方に買われている間だけでも夫婦の真似事をしていてもいいでしょうか……?」

少し背伸びをして貴方の頬に口付ける。
目の前には驚き目を見開く貴方の顔。

「本当なら身体で払うのが私の仕事なのでしょうけれど……キョウさんがそれを望まないので……これでお許しください。」

私は貴方の好意に甘え過ぎてしまっているんです……。本当に今のまま甘えていていいのかと思ってしまって……。

このままこの夢が覚めないでほしいと願わずにいられないんです。
都合がいいから……貴方に甘えているだけでいい思いをできるからとかそうじゃないんです。

私はキョウさんと一緒にいたい。
夫婦の真似事でもいい……このままずっと一緒に手を繋いでいたい。
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