第15章 極北の地
神から享けたこの世での生活を存分に楽しむがいい。
独りではなく愛する女性と共に楽しむがいい。
それがあなた方が享ける相応の分と言うものだ。
あなた方がこの世で成す働きの分け前と言うものだ。
だから、しても良いと思う事を満足するまで成すがいい。
【コヘレットの書 第9章】
十六夜の月が西の山の稜線低くまで沈み、空が徐々に暁の光を受けて白み始めていく。かわたれの狭間の世界を一陣、朝を導くように北風が渡り窓をカタリと叩いて行った。
眠りに落ちる前感じた甘美な花の香りはまだ俺の腕の中で咲いている。……よく寝ている。昨夜は寝るのも遅かったからな……
夢の浮橋の向こうにいる微睡む彼女をもう少しこのままここで休ませてやりたい。だが、そろそろ起こさなければ朝のうちに彼女を家に帰してやることが出来なくなってしまう。
彼女とは昨日会ったばかりの間柄だが、何となく彼女の性格は理解できていた。きっと彼女は自分の父親に何も告げずに家を出てあの辻に立っていたはずだ。親に心配を掛けない為に。……自分の尊敬する父親に、今から夜鷹になり男に体を売って来ます。と、言えるだろうか?出来るだろうか?出来るわけがない。
「……いざよい、十六夜―……もう起きろ。朝が来る」
彼女の華奢な肩を静かに掴み、そのまま左右へ揺れば、キシリ……と自分の良心が微かな音を立てて、痛んだ。
出汁の中で青菜が踊るように揺れる。一度火を止め煮立つ出汁の中に味噌を溶けば、ふわりと味噌の香りが広がり煮汁が淡く色付いた。
味噌は東方のある異国の調味料だが、この地域の住民にとっても馴染み深い調味料の一つだ。ここは東方から渡ってきた人間も多ければ東方との混血も多い地域だ。彼女の名前や着ていた服を見る限り、彼女も味噌は馴染がある食べ物だろう。朝と言えば味噌汁に白米と相場が決まっている。少なくとも自分の中では、な。
……思えばこうして家で誰かと一緒に朝食を取るのも両親が生きていた頃以来だな。久しくなかった。
そんな事をぼんやり考えているうちに釜の米も炊き上がったようで、食欲を刺激する仄かな米の香りが湯気と共に天井へと上って行く。……どうやら上手く炊けたらしい。あとは、漬けて置いた浅漬けでも出すか……
朝食を乗せた木の盆を今へと運べば、どこか緊張した面持ちで真っ直ぐ背筋を伸ばして正座をしている彼女がそこにいて、そんな彼女の姿に自分の喉の奥がくつり、と小さな音を立てた。……真面目な性格なんだろう。
「……んじゃ、食べるか。質素なもんだけどな。……外は今日も寒そうだ。今のうちに温かい物を食べておいた方がいい」
++++++++++++++++++++
「これは花嫁衣装だろ?着ると目立つ。帰りはこっちを着て行け」
「これは……」
「箪笥の肥やしになってた物だ。……十六夜と同じだ。俺も捨てられなかったし売れなかったんだよ。だけど男の俺が着るわけにもいかねーしな……十六夜が着るならきっとおふくろも喜ぶ」
虫干しをする時以外、文字通り箪笥の中で眠っていた着物を一着取り出し彼女の前で広げれば、彼女の紺の瞳が刹那大きく開いた。記憶の中にいるおふくろが一番好んで着ていた着物が、この春先に咲く桜のように淡い色をした着物だった。
「いいんですか……本当に……?だってお母様の形見の品なんでしょう?これを着て私があの辻に立つという事がどういう意味か……キョウさんはご存知なのでしょう?」
着物を見せた直後に見せた嬉しそうな表情はすぐに陰り、彼女の長い睫毛が彼女の眼もとに淡い影を落とす。彼女が何を心配しているか、何を追い目に感じているかすぐに察しがつき、察すると同時に彼女の頬へと手を伸ばした。滑らかな少し痩せこけた頬にそっと手の平を添える。
「ああ……だから昨日も言っただろう?5時きっかりに、って。早過ぎても遅過ぎても駄目だ。それに雨や雪の日、風が強い日も駄目だ。……十六夜が寒さで凍えちまうだろ?……それから茣蓙ももう必要ないからここに置いていけ。茣蓙を持たないで俺のおふくろの小袖を着て辻に立つんだ。……そうすれば皆にジロジロ見られる事もないだろう?普通の娘の格好をして待つんだ。……それでも俺だけは分かるから」
言葉の意味を理解したのだろう。着物を見せた直後に彼女が見せてくれた笑みが再び戻って来る。柔和な笑みを浮かべ盾に頷く彼女の頬をそっと撫でた。
「……さあ、んじゃ、出るとするか。父上のところへ帰るんだ」
++++++++++++++++++++
「夕方5時、か……」
十六夜を辻まで送り届け家に帰った後にもうひと眠りすれば、次に起きた時には既に真南まで太陽は上っていた。二度寝の間に凝ってしまった肩を回し、腕を伸ばし解す。と、同時にあの甘美な花の香りが俺の鼻を優しく擽っていく。十六夜の残した香りが胸を満たしていった。
正直、昨晩から明け方にかけての出来事は夢だったんじゃないかと思っている自分がいた。だが、違う。彼女がこの家にいた証はこんなに優しい形で俺の傍らに残っている。都合のいい夢物語ではなく全て現実にあった事、だ。
「なあ、おふくろ?おふくろが大事にしていた小袖、十六夜に譲っちまったけど……許してくれよ。質に流してどこの馬の骨かもわからない糞女に着られるぐらいなら、って思ったんだよ。十六夜は親思いの娘さんだからきっと俺以上におふくろの小袖を大事にしてくれると思う」
天上を見上げてとうの昔にそのはるか上へと昇って行った母に向って言葉を紡ぐ。叱られるか笑われるか―……どっちもちげーな、それは。
「あんたが選んだんだから好きになさい。だろ?……分かってる。後悔はしてねーんだ」
ふっ、と目を細めれば昨夜見た大輪の白い花の幻が薄く眼前に浮かび上がり……昼の光の中に散り、消えて行った。……さて、今日は非番だ。夕方までに少し部屋の掃除でもしておくか……
++++++++++++++++++++
「キョウさん……!」
「よお、十六夜。待たせたか?」
「いいえ……!ちょうど今来たところなんです……!よかった……本当に来てくれた……」
煌めく黄昏の光が彼女の艶やかな黒髪を淡く輝かせている。僅かに吹いた寒風は彼女が纏った薄紅色の小袖の裾を翻した。……よく似合っている。
「……今日のお前の”時間”の対価は家で渡す。ここで今渡すと目立っちまうからな。……それでもいいか?」
昨日は遅い時間だったこともあり俺しかいなかったが、夕刻のここはそれなりに人通りもある。彼女が変な目で見られるのを避けるにはその方が賢明だろう。
俺の提案に一つ首を縦に振ってくれた十六夜を見つめ目を細める。十六夜が客として俺の事を信頼してくれている。それが何だか嬉しかった。まあ、代金を踏み倒そうなんてこっちも一切考えてねーけど、な。
「……よし、じゃあ行くか」
「キョウさんのお家に……でしょうか?」
「んー……まあそれはそうなんだが―……その前に寄りたいところがある。……十六夜、お前って甘い物は好きか?」
「甘い物、ですか……?」
彼女の白く細い指先を握り、そっと扇動するように歩を進め手を引く。昨晩よりも温かい手の温度に一人胸を撫で下ろしながら。
「ああ、俺の主人が贔屓にしている錦江って名前の菓子屋があるんだが―……そこに行こうぞ?……甘い物を食べさせてやりたいんだよ。十六夜とお前の父上に。汁粉、食べに行こうぜ。で、土産に饅頭でも買っていこう」
夜鷹にハマり貢ぐ愚か者。今の俺は確かにそうなのかもしれない。ただ―……そう罵られても構わないと、思っていた。彼女の手が温かくなるなら……彼女が笑ってくれるなら構わないと、そう思うんだ。
≪壬生 キョウ≫
