第15章 極北の地
貴方様のお名前を教えていただけますか?
そう問いかけた私を亜人の男性は私の手をとり優しく引き寄せて、大きな胸で抱き止め両の腕でそっと包むように私を抱き締めてくれた。
「キョウだ。俺の名はキョウ。壬生キョウと名乗っている。……あんなに暗くて寒い場所に何時間も一人で―……辛かっただろう、ひもじかっただろう、怖かっただろう。母上の残した着物に袖を通すのも悔しかっただろう。」
突然の事に驚き反射的に身を竦めてしまったけれど、その緊張も頭上から降りてくる優しい声にすぐに溶かされてゆく。
……キョウ……それがこの方の名前……。
辛かっただろう、ひもじかっただろう、怖かっただろう、悔しかっただろう……。
ああ……どうしてこのひとはこんなにも優しい言葉をかけてくれるのだろう……。
私は女としての誇りを捨てて両親の願いを…想いを裏切って母の形見を身に纏って己の身体を…性を売って金銭を得ようとした卑しい夜鷹だというのに……。
じわりと視界が滲む。涙が溢れて止まらない。
優しく抱き締めてくれる腕にゆっくりと力が込められてゆく。
満たされてゆく。こんなに温かく優しい感情を向けてもらえるなんて思っていなかった……。
これを幸福と言わずしてなんと言えば良いのでしょう……。
「……頑張ったな、十六夜。」
その言葉が深く深く胸に染み込んで私の心に温もりを与えてくれるように思えた。
「キョウ……さん……。ごめんなさい……もう少しこのままでいさせてください……。涙が溢れて止まらないんです……。」
キョウさんの袖に涙が落ちないように手の甲で涙を拭っているけれど……それでも受け止めきれずにキョウさんの着流しの袖がどんどん濡れてゆく。
†††††††††††††††††††††
その後私は結局身体を売る事はなく、キョウさんは私に寝床を譲って壁に寄りかかるようにして夜を明かそうとしてくれた。
キョウさんの気づかいが痛いほど胸を締め付ける。
どうして……?何故貴方はそこまで私に誠意を尽くしてくれるの……?
「俺がここで眠りたいと思ったからそうするんだ。お前が後ろめたさを覚える理由はねーんだよ。それにほら、その為にもう一枚箪笥の奥から毛布を引っ張り出してきたことだしな。俺の羽根は十六夜とは違って鳥の羽毛だから暖かい」
そう言ってキョウさんは背中の大きな羽根を指差して笑ってみせた。
胸の奥が切なくて…ざわめいて…じっとしていられなくなった。
「いいえ、そういうわけにはいきません。それなら私もここで寝かせて下さい。貴方だけが壁に寄り掛かって寝るのは嫌です」
首を左右に振って意思を示す。
貴方だけ壁に寄りかかって眠るなんて……そんな事は私は望んでいないのです……。
いくら私に無体は働かないと約束したとはいえ……貴方だけが冷たく硬い床で一夜を明かすなんて……。
「そこまでしてくださらなくていいのです……貴方の誠意は痛いほど伝わって来ています……だから…だからどうか…私もお側に……」
側へと近づいてキョウさんの大きな手に自分の手を重ねて懇願するように言葉を口にする。
金銭だけ頂いて身体を捧げない不誠実な私にこんなに良くしてくださらなくて良いのです……と。
こんなに良くしてくださる人はきっと他にいない。
……私は幸せ者なんです。
「分かった、分かったよ。じゃあ、俺が横になって寝れば十六夜も布団で寝るな?」
「……キョウさんなら、一緒に寝たいです……」
自然と口から溢れた言葉だった。
この人になら触れて貰っても構わない……いえ……このまま触れずに終わるだけにしたくないと私自身が、そう思ったのです。
「……おいで、十六夜」
『おいで』と、また私を呼んだその声はあのときと同じとても優しい声で……
もしかしたら私にとって都合の良い夢を見ているのかも知れないと……そんな風に思ってしまうほど……。
優しい時間が流れていた。
腕で体を抱いて、大きく柔らかい羽根で私を覆い包みこむ。
布団の中で二人で横になって温もりを分かち合う。
これではまるで夫婦のよう……そんな事を考えながらキョウさんの隣に横たわっていた。
胸の鼓動が酷く煩い……。
甘い香りがふわりと漂って、夢見心地でキョウさんの顔を見つめていた。
「……寝れないのか、寝ないと辛いぞ?」
「貴方の事を忘れたくないんです」
忘れたくないんです。貴方の顔を、声を、優しく見つめる瞳をずっと焼き付けておきたいんです。
もしかしたら今夜限りでもう会えないかもしれないと思ったから。
この先どんな人に買われようと、貴方の事だけは決して忘れたくないと……そう思ったから……。
徐々に重くなる瞼を閉じないようにしながらずっとキョウさんの顔を見つめていた。すると貴方はふっ…と微笑んで私の髪を片手で優しく撫でて言葉を紡いだ。
「また会える。今生の別れじゃないさ。……だから無理をするな」
「また会えますか?あの辻でまたキョウさんに会えますか……?」
私の髪を撫でるキョウさんの温かく大きな手……。なんて心地よいのだろう……。
抗えない……瞼がどんどん重くなっていく。
「……いいか?もしこれからもあの辻に立つつもりなら晴れた日の夕方5時きっかりにするんだ。遅過ぎても早過ぎても駄目だ。雨や雪、風が強い日も駄目だ。……今日みたいに十六夜が凍えちまうだろう?」
「……また……また買って下さるんですか……私を……?」
「ああ、また十六夜の時間を買う。……だから今日は休むんだ……」
貴方の言葉を耳にしながら私は深い眠りに沈んでいった。
甘い甘い花の香りを感じながら。
翌朝、キョウさんは私にお母様の形見の着物を譲ってくださいました。
「それは花嫁衣装だろ?着ると目立つ。帰りはこっちを着ていけ。」とそう言って差し出してくれたのは、薄桜色のとても美しい着物だった。
「これは……」
「十六夜が着るならきっとおふくろも喜ぶ。」
そう言ってキョウさんは優しく微笑んでくれた……。
とても嬉しかった……そんな大切な品を私に譲ってくださる貴方の優しさが……でも……それと同時に私がこの着物に袖を通す意味を思い出さずにはいられませんでした……。
「いいんですか……本当に……?
だって……お母様の形見の品なのでしょう?
これを着て私があの辻に立つということはどういう意味か……キョウさんはご存知なのでしょう?」
「ああ……だから昨日も言っただろう?5時きっかりに、って。」
キョウさんの撫でる手がとても優しい…。
罪悪感でいっぱいになっていた私の心が晴れていくよう……。
優しく微笑んで口にする言葉の意味を理解して私も自然と笑みが溢れた。
†††††††††††††††††††††††
キョウさんが私の手を引いて隣を歩く。
片手にはお粥の入ったお鍋を持って、私の歩調に合わせながら昨日の辻まで送ってくれた。
私が持っていた茣蓙は「もう必要ないから置いていけ。」と言われて、キョウさんの家に置いてきてしまった。
空は薄暗く、夜明け前の人気の無い路を二人で歩く。
ギュッギュッと踏みしめる雪の音を耳にしながら、キョウさんに手を引かれて歩く。
空にはまだ星が輝いていた。
「キョウさん、もうここで大丈夫です。」
そう言って繋いでいた手を離してキョウさんと向かい合う。
風が一つ吹き抜けて行く…けれど、もう寒くはない。
「目立たないように。普通の娘の格好でここに来るんだ。大丈夫。俺は分かるからな。」
「はい。この着物を着てここで待っています…。夕方の5時ぴったりに…。」
そう言ってキョウさんと別れて家路についた。
あの人に手渡された鍋と母様の打掛を包んだ風呂敷を抱えて。
早く父様に温かい食べ物を食べさせてあげたい。
キョウさんのお粥を食べさせてあげたい。
そう思いながら息をきらして雪道を足早に駆けていく。
まだ誰も歩いていない柔らかい雪を踏みしめながら。
家の戸を開いてみると、布団から身を起こした父様と視線が合った。
「おお…十六夜、今朝は早かったな。どうした?そんなに息を切らして。」
「父様…!」
どきりと心臓が大きく跳ねた。
私が昨晩家にいなかったということを父様は気づいていらっしゃるのだろうか…と不安になった。
何事も無かったとはいえ、私は父様に夜鷹になるだなどと一言も告げずに家を抜け出してきてしまったから……。
「どうした?そんなところにいないで早く家に入りなさい。今朝は冷える。」
「あっ……はい…父様。」
父様は何も気づいていないご様子でした。
ほっと胸を撫で下ろして、竈に火を起こしてお鍋を温める。
キョウさんに言われたように、水を足して父様が食べやすいように粥をゆっくりとかき混ぜながら伸ばして。
「父様、今お粥を出して差し上げますね。
とても親切な方に分けていただいたんですよ?」
とても幸せな気持ちでいっぱいで、思わず笑みが溢れた。
ふつふつと音を立てる粥を見つめながら昨晩の出来事を思い返して。
お椀に温めた粥を取り分けて、父の元へと運ぶ。
私の姿を見た父様がにこりと微笑んでくれた。
「粥か……とても美味そうだ。」
「はい、とても美味しいお粥でした。先に頂いてしまってすみません…。
はい、どうぞ父様。」
少し震える手で父様が粥を口へと運んでいく。
とても美味しそうに食べてくださって、あっという間にお粥を平らげてしまった。
良かった……本当に……。
じわりと涙が滲んで視界が霞んだ。
父様にようやく温かいお食事を食べさせてあげられた事が本当に嬉しかった……。
するりと私の肩にかけられていたキョウさんの上着を脱いで、そっと父様の肩にかけて差し上げると「ありがとう。」と微笑みを返された。
着物も譲って頂いたことを父に説明しながら私はキョウさんの事を思い出して自然と笑みが溢れていた。
「いい人でもできたのか?」
「えっ……?」
「とても幸せそうに笑っていたからな。
もしそうならばどんなに良いか……。
お前を一人で残して逝けないからな。」
「父様……そんな事を仰らないでください……。
私は父様にはまだ元気でいて欲しいのです……。」
「ああ、そんなに心配そうな顔をするな十六夜。
すぐに死ぬつもりなど無いよ。
だが……そうだったなら安心なんだがなぁ……と思わずにいられないのだよ。」
私も……父を安心させてあげられたならどんなに良いだろう……とそう思っていた。
私は運が良かったのだ……
出会ったのがキョウさんだったから……。
清らかな身体のまま父の元へと帰って来ることができたのだから……。
今夜は晴れるだろうか……どうか降らないで欲しい……キョウさんにお会いしたい。あの人に会ってお礼がしたい。
そう問いかけた私を亜人の男性は私の手をとり優しく引き寄せて、大きな胸で抱き止め両の腕でそっと包むように私を抱き締めてくれた。
「キョウだ。俺の名はキョウ。壬生キョウと名乗っている。……あんなに暗くて寒い場所に何時間も一人で―……辛かっただろう、ひもじかっただろう、怖かっただろう。母上の残した着物に袖を通すのも悔しかっただろう。」
突然の事に驚き反射的に身を竦めてしまったけれど、その緊張も頭上から降りてくる優しい声にすぐに溶かされてゆく。
……キョウ……それがこの方の名前……。
辛かっただろう、ひもじかっただろう、怖かっただろう、悔しかっただろう……。
ああ……どうしてこのひとはこんなにも優しい言葉をかけてくれるのだろう……。
私は女としての誇りを捨てて両親の願いを…想いを裏切って母の形見を身に纏って己の身体を…性を売って金銭を得ようとした卑しい夜鷹だというのに……。
じわりと視界が滲む。涙が溢れて止まらない。
優しく抱き締めてくれる腕にゆっくりと力が込められてゆく。
満たされてゆく。こんなに温かく優しい感情を向けてもらえるなんて思っていなかった……。
これを幸福と言わずしてなんと言えば良いのでしょう……。
「……頑張ったな、十六夜。」
その言葉が深く深く胸に染み込んで私の心に温もりを与えてくれるように思えた。
「キョウ……さん……。ごめんなさい……もう少しこのままでいさせてください……。涙が溢れて止まらないんです……。」
キョウさんの袖に涙が落ちないように手の甲で涙を拭っているけれど……それでも受け止めきれずにキョウさんの着流しの袖がどんどん濡れてゆく。
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その後私は結局身体を売る事はなく、キョウさんは私に寝床を譲って壁に寄りかかるようにして夜を明かそうとしてくれた。
キョウさんの気づかいが痛いほど胸を締め付ける。
どうして……?何故貴方はそこまで私に誠意を尽くしてくれるの……?
「俺がここで眠りたいと思ったからそうするんだ。お前が後ろめたさを覚える理由はねーんだよ。それにほら、その為にもう一枚箪笥の奥から毛布を引っ張り出してきたことだしな。俺の羽根は十六夜とは違って鳥の羽毛だから暖かい」
そう言ってキョウさんは背中の大きな羽根を指差して笑ってみせた。
胸の奥が切なくて…ざわめいて…じっとしていられなくなった。
「いいえ、そういうわけにはいきません。それなら私もここで寝かせて下さい。貴方だけが壁に寄り掛かって寝るのは嫌です」
首を左右に振って意思を示す。
貴方だけ壁に寄りかかって眠るなんて……そんな事は私は望んでいないのです……。
いくら私に無体は働かないと約束したとはいえ……貴方だけが冷たく硬い床で一夜を明かすなんて……。
「そこまでしてくださらなくていいのです……貴方の誠意は痛いほど伝わって来ています……だから…だからどうか…私もお側に……」
側へと近づいてキョウさんの大きな手に自分の手を重ねて懇願するように言葉を口にする。
金銭だけ頂いて身体を捧げない不誠実な私にこんなに良くしてくださらなくて良いのです……と。
こんなに良くしてくださる人はきっと他にいない。
……私は幸せ者なんです。
「分かった、分かったよ。じゃあ、俺が横になって寝れば十六夜も布団で寝るな?」
「……キョウさんなら、一緒に寝たいです……」
自然と口から溢れた言葉だった。
この人になら触れて貰っても構わない……いえ……このまま触れずに終わるだけにしたくないと私自身が、そう思ったのです。
「……おいで、十六夜」
『おいで』と、また私を呼んだその声はあのときと同じとても優しい声で……
もしかしたら私にとって都合の良い夢を見ているのかも知れないと……そんな風に思ってしまうほど……。
優しい時間が流れていた。
腕で体を抱いて、大きく柔らかい羽根で私を覆い包みこむ。
布団の中で二人で横になって温もりを分かち合う。
これではまるで夫婦のよう……そんな事を考えながらキョウさんの隣に横たわっていた。
胸の鼓動が酷く煩い……。
甘い香りがふわりと漂って、夢見心地でキョウさんの顔を見つめていた。
「……寝れないのか、寝ないと辛いぞ?」
「貴方の事を忘れたくないんです」
忘れたくないんです。貴方の顔を、声を、優しく見つめる瞳をずっと焼き付けておきたいんです。
もしかしたら今夜限りでもう会えないかもしれないと思ったから。
この先どんな人に買われようと、貴方の事だけは決して忘れたくないと……そう思ったから……。
徐々に重くなる瞼を閉じないようにしながらずっとキョウさんの顔を見つめていた。すると貴方はふっ…と微笑んで私の髪を片手で優しく撫でて言葉を紡いだ。
「また会える。今生の別れじゃないさ。……だから無理をするな」
「また会えますか?あの辻でまたキョウさんに会えますか……?」
私の髪を撫でるキョウさんの温かく大きな手……。なんて心地よいのだろう……。
抗えない……瞼がどんどん重くなっていく。
「……いいか?もしこれからもあの辻に立つつもりなら晴れた日の夕方5時きっかりにするんだ。遅過ぎても早過ぎても駄目だ。雨や雪、風が強い日も駄目だ。……今日みたいに十六夜が凍えちまうだろう?」
「……また……また買って下さるんですか……私を……?」
「ああ、また十六夜の時間を買う。……だから今日は休むんだ……」
貴方の言葉を耳にしながら私は深い眠りに沈んでいった。
甘い甘い花の香りを感じながら。
翌朝、キョウさんは私にお母様の形見の着物を譲ってくださいました。
「それは花嫁衣装だろ?着ると目立つ。帰りはこっちを着ていけ。」とそう言って差し出してくれたのは、薄桜色のとても美しい着物だった。
「これは……」
「十六夜が着るならきっとおふくろも喜ぶ。」
そう言ってキョウさんは優しく微笑んでくれた……。
とても嬉しかった……そんな大切な品を私に譲ってくださる貴方の優しさが……でも……それと同時に私がこの着物に袖を通す意味を思い出さずにはいられませんでした……。
「いいんですか……本当に……?
だって……お母様の形見の品なのでしょう?
これを着て私があの辻に立つということはどういう意味か……キョウさんはご存知なのでしょう?」
「ああ……だから昨日も言っただろう?5時きっかりに、って。」
キョウさんの撫でる手がとても優しい…。
罪悪感でいっぱいになっていた私の心が晴れていくよう……。
優しく微笑んで口にする言葉の意味を理解して私も自然と笑みが溢れた。
†††††††††††††††††††††††
キョウさんが私の手を引いて隣を歩く。
片手にはお粥の入ったお鍋を持って、私の歩調に合わせながら昨日の辻まで送ってくれた。
私が持っていた茣蓙は「もう必要ないから置いていけ。」と言われて、キョウさんの家に置いてきてしまった。
空は薄暗く、夜明け前の人気の無い路を二人で歩く。
ギュッギュッと踏みしめる雪の音を耳にしながら、キョウさんに手を引かれて歩く。
空にはまだ星が輝いていた。
「キョウさん、もうここで大丈夫です。」
そう言って繋いでいた手を離してキョウさんと向かい合う。
風が一つ吹き抜けて行く…けれど、もう寒くはない。
「目立たないように。普通の娘の格好でここに来るんだ。大丈夫。俺は分かるからな。」
「はい。この着物を着てここで待っています…。夕方の5時ぴったりに…。」
そう言ってキョウさんと別れて家路についた。
あの人に手渡された鍋と母様の打掛を包んだ風呂敷を抱えて。
早く父様に温かい食べ物を食べさせてあげたい。
キョウさんのお粥を食べさせてあげたい。
そう思いながら息をきらして雪道を足早に駆けていく。
まだ誰も歩いていない柔らかい雪を踏みしめながら。
家の戸を開いてみると、布団から身を起こした父様と視線が合った。
「おお…十六夜、今朝は早かったな。どうした?そんなに息を切らして。」
「父様…!」
どきりと心臓が大きく跳ねた。
私が昨晩家にいなかったということを父様は気づいていらっしゃるのだろうか…と不安になった。
何事も無かったとはいえ、私は父様に夜鷹になるだなどと一言も告げずに家を抜け出してきてしまったから……。
「どうした?そんなところにいないで早く家に入りなさい。今朝は冷える。」
「あっ……はい…父様。」
父様は何も気づいていないご様子でした。
ほっと胸を撫で下ろして、竈に火を起こしてお鍋を温める。
キョウさんに言われたように、水を足して父様が食べやすいように粥をゆっくりとかき混ぜながら伸ばして。
「父様、今お粥を出して差し上げますね。
とても親切な方に分けていただいたんですよ?」
とても幸せな気持ちでいっぱいで、思わず笑みが溢れた。
ふつふつと音を立てる粥を見つめながら昨晩の出来事を思い返して。
お椀に温めた粥を取り分けて、父の元へと運ぶ。
私の姿を見た父様がにこりと微笑んでくれた。
「粥か……とても美味そうだ。」
「はい、とても美味しいお粥でした。先に頂いてしまってすみません…。
はい、どうぞ父様。」
少し震える手で父様が粥を口へと運んでいく。
とても美味しそうに食べてくださって、あっという間にお粥を平らげてしまった。
良かった……本当に……。
じわりと涙が滲んで視界が霞んだ。
父様にようやく温かいお食事を食べさせてあげられた事が本当に嬉しかった……。
するりと私の肩にかけられていたキョウさんの上着を脱いで、そっと父様の肩にかけて差し上げると「ありがとう。」と微笑みを返された。
着物も譲って頂いたことを父に説明しながら私はキョウさんの事を思い出して自然と笑みが溢れていた。
「いい人でもできたのか?」
「えっ……?」
「とても幸せそうに笑っていたからな。
もしそうならばどんなに良いか……。
お前を一人で残して逝けないからな。」
「父様……そんな事を仰らないでください……。
私は父様にはまだ元気でいて欲しいのです……。」
「ああ、そんなに心配そうな顔をするな十六夜。
すぐに死ぬつもりなど無いよ。
だが……そうだったなら安心なんだがなぁ……と思わずにいられないのだよ。」
私も……父を安心させてあげられたならどんなに良いだろう……とそう思っていた。
私は運が良かったのだ……
出会ったのがキョウさんだったから……。
清らかな身体のまま父の元へと帰って来ることができたのだから……。
今夜は晴れるだろうか……どうか降らないで欲しい……キョウさんにお会いしたい。あの人に会ってお礼がしたい。
