第15章 極北の地

神はこの世に男と女を作った。

その男と女はそれぞれの親から離れ、互いにあいまみえ、ついに結ばれる。この時はこの男女はもう二人ではない。一体となっている。

それは神の手によって引き合わされたものだ。神が一体にしたのだ。

そんな二人を引き離してはならない。


【マルコによる福音書 第10章】






窓の外、十六夜の月が空に浮かび、冬の青い昴星が身を寄せ合うようにして煌めく。雪はとうに止んでいたが、その前に積もったせいだろう。沈黙の音以外一切外からは響いてこない。

俺が財布の中身を全額渡し買った娘は俺の前ではらりはらりと涙を流し、震える声で途切れ途切れに自分の身の上を俺に語って聞かせた。

母親は亡くなり自分の家には病床の父親がいること、昼の間は自分一人で父親の介護をしているということ、今までは家財道具を少しずつ質に入れて金に換えながら父親と二人で細々と生きてきたということ。それもとうとう底を尽き、最後に残った母の形見を身に纏い夜鷹となってあの辻に立っていたということ。

彼女が一筋涙を流すたび、嗚咽混じりのか細い声で言の葉を紡ぐたび、自分の中で感情が大きく肥大していく。

それは怒りだった。目の前の彼女に対してでも彼女の父親に対してでもない。それは今の世に対する怒りだった。

何故、この親子にそのような不条理が降りかからなければならない?二人で慎ましやかに身を寄せ合って暮らしていただけだ。この親子が世に何をしたという?ここまで追い詰めたのは一体誰だ?誰の仕業だ?


「これしか思い付かなかったんです……!いつか売れるものも無くなっていくって知ってた……仕事だってもっと沢山選べたのに……私が愚図だったからこんなことになってしまったんです……卑しい夜鷹になってでも食べさせてあげたかった……父様を養いたかったんです……!!」


「……お前が愚図なわけないだろう。そうあまり自分を虐めるな、責める必要はない」


文字通り身を切られるような思いだった。こんな気持ちを感じたのは初めてだった。彼女が漏らした悲痛な叫びが俺の心の臓に不可視の刃物を突き立てる。

今のこの国は―……今の世はけして生きやすい世の中ではない。それは俺自身も感じている事だ。彼女のような女性―……しかも病床の親の介護まで一人でしていたら尚更だろう。

女中や下女として働こうにもそれはほぼ住込みだ。店で働こうにも昼間は介護に追われる彼女にそれは出来ない。夜に出来る仕事など限られてくる。彼女をここまで追い詰め夜鷹に貶めたのは不平等で不条理な社会に他ならない。


「取り乱してしまってすみませんでした……私の身の上を聞いてくださって……それに……こんなに美味しいお食事まで頂いてしまって……本当にありがとうございます。私の名は十六夜と申します。よろしければ…貴方様のお名前を教えていただけますか……?」


思い通りにならないのが世の常だと皮肉な笑みを浮かべながら小賢く評する者もいる。なるほど、確かにそれは正しい。だが、同時に自分はこうも思う。そういう風に割り切りたくないと。


「あっ……」


「キョウだ。俺の名はキョウ。壬生キョウと名乗っている。……あんなに暗くて寒い場所に何時間も一人で―……辛かっただろう、ひもじかっただろう、怖かっただろう。母上の残した着物に袖を通すのも悔しかっただろう。……頑張ったな、十六夜」


あでやかな錦の晴れ着に皺が寄らぬように静かに彼女の軽い体を腕で抱く。分かったような口を聞くなと彼女に罵られても構わないと思った。今はただ、このまま儚くなってしまいそうなこの娘を抱きしめてやりたかった。

自分が着た着流しの袖が雨に濡れた。温かな、娘の瞳から零れる雨に濡れていた。


「……あの、キョウさん……本当に私がここを使ってもいいのでしょうか……」


「ああ。まあ、新品でもねーしそこまで上等な寝床でもねーけど。昼の間はずっと父親の介護をして夜はずっとあの場所で立っていたんだろう?疲れているはずだ……もう寝ろ。寝て、そして幸せな夢を見るんだ……」


「でも、そこでは貴方が冷えてしまいます!私はそのようにしていただけるような身分ではないんですよ!」


彼女の青白い頬に僅かに影が過ぎる。布団から身を起こして壁に寄り掛かる俺に近付くと十六夜は白く細い指先で俺の手に触れた。……よかった、手はあたたかい。


「俺がここで眠りたいと思ったからそうするんだ。お前が後ろめたさを覚える理由はねーんだよ。それにほら、その為にもう一枚箪笥の奥から毛布を引っ張り出してきたことだしな。俺の羽根は十六夜とは違って鳥の羽毛だから暖かい」


空いている方の手で自分の背中をちょいちょいと指差せば、彼女はふるふると自分の首を横へと振った。彼女と繋がった自分の手に互いの体温が僅かに移っていく。


「いいえ、そういうわけにはいきません。それなら私もここで寝かせて下さい。貴方だけが壁に寄り掛かって寝るのは嫌です」


酷く真剣な彼女の声色に自分の瞳が瞠目した。本気で言っている。本気で彼女は壁に寄り掛かって休む気でいる。それが言葉から、瞳から、指先から伝わって来た。重ねられた手をそっと握り返し微かに息を漏らす。俺がこのままここにいては彼女は横になってゆっくり眠ることが出来ない。


「分かった、分かったよ。じゃあ、俺が横になって寝れば十六夜も布団で寝るな?」


「……キョウさんなら、一緒に寝たいです……」


僅かに白い頬に朱を混ぜて、控えめに答えた彼女のいじらしい仕草に芽吹く様な温かな想いが去来し、胸を満たしていく。気が付けば自分の無骨な硬い手で彼女のやつれた頬に触れていた。あの言葉を紡ぎながら。


「……おいで、十六夜」、と。


腕で彼女の細い体を抱き、自分の羽根で彼女を覆い布団を被り身を縮める。ふわりと漂う今までに嗅いだ事のない甘い香りが俺の鼻腔を揺すっていた。


「……寝れないのか、寝ないと辛いぞ?」


「貴方の事を忘れたくないんです」


夜が更ける。彼女の解いた艶やかで柔らかな黒髪が優しく俺の腕を擽っていた。夜を溶かしたような美しい黒髪だった。


「また会える。今生の別れじゃないさ。……だから無理をするな」


「また会えますか?あの辻でまたキョウさんに会えますか……?」


ようやく一日の疲れを思い出したんだろう。夢の国へ迎えに来た睡魔に抗いながら彼女は俺を真っ直ぐに見つめていた。宇宙(そら)の色の瞳の中に自分が漂う。

十六夜の髪を片手で宥めるように梳けば、また甘い香りが辺りに漂った。俺の胸を締め付け満たす香りが。


「……いいか?もしこれからもあの辻に立つつもりなら晴れた日の夕方5時きっかりにするんだ。遅過ぎても早過ぎても駄目だ。雨や雪、風が強い日も駄目だ。……今日みたいに十六夜が凍えちまうだろう?」


「……また……また買って下さるんですか……私を……?」


「ああ、また十六夜の時間を買う。……だから今日は休むんだ……」


彼女の瞼に自分の手を翳せば、手を離したその時にはすでに彼女の瞳は閉じられていた。……やはり疲れていたのだろう。肉体的にも
精神的にも。

ひっそりと言葉もなく夜だけが流れていた。甘美な白い花の香りを纏いながら。


「……十六夜。お前の羽根はこんなにも綺麗な花だったんだな」


《壬生 キョウ》
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