第15章 極北の地


夜鷹とは夜の街で客引きをする娼婦の名。

身体一つでお金を稼ぐ最も地位の低い卑しき身分の者が名乗るその名を自分が名乗ることになるなんて……。


私に残されたものはこの身に纏う母の形見の着物ただひとつ。

ボロボロの傘と茣蓙を持って雪の舞い落ちる夜の街に一人佇む。

今夜は御子様の聖誕祭。ここを通りかかる人は大勢いたのに、私はただの一人にさえ声をかけることができず路地に身を潜めてそこに立ち尽くす事しかできなかった。

声をかけようと試みた。だけど……その度に踏みとどまった。
頭では理解しているつもりだったけれど、私の心がついてこなかった。

どうしても、あと一歩を踏み出す事ができなかった……。

そうしているうちにどんどん夜はふけてゆき、あんなにも賑わっていた街も静まりかえって……誰もこの道を通りかからなくなってしまった。

何時間ここに立っていたかなんてもうわからない……

手は悴んで赤くなり、傘を持つ手に痺れを感じる。

身体の震えが止まらずカチカチと音を立てる歯の音が私の耳に届いている。

はぁ…と吐いた息が白く変わり霧散して大気に溶けるように消えてゆく。

ひゅうと風が吹き抜けてゆけばそれと同時に全身を無数の氷の針で刺し貫かれているかのような感覚が襲ってくる。

寒いを通り越して痛いと表現するほうが正しい。

降り積もった雪にまみれた両の足はとうに感覚を失っており、自分の足ではなくなってしまったよう。

痛くて…寒くて…怖くて…一言では言い表せない感情が胸の奥に渦巻いている。

本音を言えば今すぐにでも帰りたい…。
このまま誰に買われることなく清い身体のまま帰れたなら……。

それができたらどんなにいいだろうと何度も…何度も思った。


でも…それはできない。このままでは帰れない。
もううちにはお金がない。売れるものは全て売ってしまった。

ただひとつ、この母の打掛だけは売ることができずに手元に残したけれど……。

この着物だけは売りたくなかった……売れなかった。

生前母が私に「いい人のもとへ嫁ぐ日に着てほしい。」と私に譲ってくれた大切な着物だったから…。

この着物を着て私が嫁に行く事を母が望んでいたから…いつかきっと叶えばいいと淡い期待を抱きながら大切に大切に手元に残してきたのに……。

ポタリと涙が溢れ落ちる。

どんどんどんどん溢れ落ちて冷えた爪先に当たって、散って、雪に吸われて消えてゆく。

……悲しい……とても悲しい……。

こんな理由でこの着物に袖を通したくなかった……
夜鷹になるために母の打掛に袖を通すことになるなどと一体誰が望んだでしょう……

こんな生き方誰も望んでなどいない。

父も母も私に幸せな結婚をしてほしいと願ってくれた。

いい人と結ばれて温かい家庭を持って子供を産んで育てて愛する人と共に仲睦まじく心穏やかに年老いてずっと幸せに生きてくれるようにと……願ってくれていたのに……。

この打掛に描かれた鴛鴦の柄を見る度に胸が張り裂けそうになる。

どこの誰ともわからない不特定多数の人と身体を交わして、明日を生きるためのお金を稼ぐ……そんな生き方一体誰が望むというのでしょう……?

こんな生き方をしなければいけなくなったなどと……父にどんな顔で伝えればいいというのでしょう……?

とても言えない……言える訳がない。

申し訳なくて……申し訳なくて……合わせる顔がない。

「ごめんなさい……母様……ごめんなさい……父様……。」

震える唇でただただ謝ることしかできない。
今の私は……なんて不甲斐ないのだろう。

病を患った父の面倒を見ながら僅かに残った財産を質に入れてこれまでなんとか生きてきたれけど……それももうできそうにない……。

売れるものがもう何も残っていない………。

ひもじくて……寒くて……悲しくて……苦しくて……

私にはこの身一つでお金を稼ぐ方法はこれしか残されていない。

私にもっと力があったなら……父を飢えさせず養うことができただろうに……

誰でもいいから声をかけて私を買ってもらわないと……。

どうか……どうか……少しでかまわないから……父様に食べさせてあげられるだけのお金を私に恵んでください……。

この聖夜に神様が天より降りていらっしゃったと仰るならば……どうか私に僅かばかりの慈悲をお恵みください……。

「誰か……誰かいませんか……。」

震える声で誰もいない路地へ向けて声をあげる。

誰でもいい……誰でもいいからここを通ってほしい……。

絞るように声をあげて放つ私の声は降り積もった雪に吸われて消えてゆく。
誰にも届かない声。誰もいない街。こんなに雪が積もって白く美しく染まっているのに……ひどく暗くて怖い……

誰でもいいから私を見つけてほしい。

そんなことを思いながら顔をあげてみれば視界の先にようやく一人……男の人の姿を見つけた。

私は縋るような思いでその人の方へと声をあげる。
あの人にこの声が届くようにと祈るような思いで。


「もし……もし……お見掛けして申し上げます。お情けをお掛けください」

私の声に振り返った男の人と視線が交わる。
短く切り揃えられた榛色の髪と大きな翼を持った偉丈夫で、黒い瞳をこちらへ向けて静かに私を見つめていた。

年の頃は私よりも少し上だろうか……。

鍛え上げられた腕と逞しい身体……そして、腰に下げた立派な刀を見る限りこの方はきっとどこかの家にお仕えする武家の方なのだろうと私は思った。

「どうしたんだ?こんな遅い時間に……もうすぐ日も変わるぞ?」

「どうか……どうか慈悲をお恵み下さい。助けると思って鳥目を少しばかり下さいませ……」


羽織らせてくれた大きな上着、優しく包んでくれた両の手、そして私を見つめる優しい瞳……。

私を卑しい身分と知りながら嫌な顔ひとつ浮かべずに財布をひっくり返して私の両手にお金をくれた。
まだどこかにお金があるかもしれないと言って服を探る姿に私はただその場に立ち尽くすことしかできなかった。

こんなことしてもらえると思ってなかった……

こんなに優しい言葉をかけてもらえるなんて思ってなかった……。



私を夜鷹と知りながら……この人は何故こんなに優しくしてくれるのだろう……。

「……買ってほしいんだろう?買うさ。お前の”時間”を買わせてくれ。……おいで」

『おいで』とこれまで何度呼ばれただろう…。父も母も…何度も何度も私を呼ぶときに口にした耳慣れた言葉のはずなのに……。
なのに何故この人の言葉はこんなにも優しく聞こえるのだろうか……。

私の『身体』ではなく、『時間』をくれと言ってくれた……。

「私の時間…それだけで本当にいいんですか?」

私の問いに男の人は短く「ああ。」と答えた。

いつの間にか雪は止み、暗闇に閉ざされた世界に見えていた辻は十六夜の月に照らし出されて白く輝いて見えた。

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男の人は私を家に招いて温かいお風呂と食事を用意してくれた。

本当にいいのだろうか……私は娼婦で……この人は私を買った客というそれだけの関係なのに……。


「あの……どうしてここまで……」


「……そんな事より、少しは食べられそうか?自分でも味見をしたが悪くないと思うぜ?……意外か?いい加減独り暮らしも長いからな。長く一人でいると男でもそれなりには作れるようにはなる」

どうしてここまでしてくれるのかと問えば彼は明確な答えは返さずに粥を取り分けて私の前に差し出してくれた。


差し出された粥を手にとって戸惑う私を男の人は優しい微笑みを浮かべながらただ静かに見つめていた。


「ありがとうございます……いただきます。」

緑の三つ葉の乗った温かい卵粥。
それを一口また一口と口にする度にお腹のなかが徐々に満たされてゆく。

粥を匙ですくって口に運ぶ度にじわりと涙が滲んでポロポロと溢れだした。

こんなに温かくて心のこもった食事を口にしたのはいつ以来だろうか……。

胸がいっぱいになって口から嗚咽が漏れた。

涙が……止まらない……。

「……泣くな。泣いたら雑炊が塩辛くなっちまうだろ?食べていい。その為に作った。泣かなくていいんだ」

涙を流す私を前にただ静かにそこに居て優しく諭すように言葉を紡ぐ。

「……お前が悪いわけじゃないんだ。だからお前が泣く必要はこれっぽっちもない。……悪いのはお前じゃない。社会だ。この世の中だ。自分に否のないことで泣く必要などないだろう?……それよりも……俺は俺の料理を食べるお前が見たい。泣くならそれからでもいいだろう?」

男の人の言葉が胸に染み込んでいく。
冷えきった心がどんどん……どんどん溶かされてゆく……。

「路頭に迷ったのは私のせいなんです……!
もっと生きる術を身に付けておけば良かった……そしたら父様を飢えさせたりなんかしなかったのに……!」

私の口から言葉が溢れた。
今まで自分の胸の中だけに仕舞い込んできたものがどんどん溢れてきて止まらない。

「これしか思い付かなかったんです……!いつか売れるものも無くなっていくって知ってた……仕事だってもっと沢山選べたのに……私が愚図だったからこんなことになってしまったんです……!

卑しい夜鷹になってでも食べさせてあげたかった……父様を養いたかったんです……!!」

男の人は何も言わずただ静かに私の身の上話を聞いてくれた。

私が泣き止むまでずっと側に居てくれた。

こんな出会いがあっていいのでしょうか……?
私は卑しい夜鷹……この人はそれを買ったお客様……なのに……


こんなに優しくしてもらって本当にいいのでしょうか……。

「取り乱してしまってすみませんでした……私の身の上を聞いてくださって……それに……こんなに美味しいお食事まで頂いてしまって……本当にありがとうございます。」

ようやく心を落ち着けて改めて言葉を口にする。
感謝の言葉と共に僅かに微笑みを浮かべながら。

「私の名は十六夜と申します。
よろしければ…貴方様のお名前を教えていただけますか……?」
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