第15章 極北の地


そこで聖母は言った。

私の魂は主を崇め、私の霊は救いの主である神に喜び踊ります。主が身分の低いはしために目を留めて下さったからです。

そうです、今から後、いつの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。力ある方が私に偉大な業を行われたからです。

その名は尊く、その憐れみは代よ限りなく主を畏れる者に及びます。主はその腕を持って力ある業を行われ、心の高ぶった者を追い散らされました。

権力を奮う者をその座から引き下ろし、身分の低い者を引き上げられました。飢えた者を善い物で満たし、富める者を虚しく追い返されました。

主は憐れみを心に留め、その僕を助けてくださいました。私達の先祖に仰せになった通り、預言者とその子孫に対してとこしえに。

聖母は三カ月ほど滞在した後、家に帰って行った。


【ルカによる福音書 第1章】






一片、空から六花が落ちる。自分の手の平の上に乗ると同時に溶けて水に変わったそれを一瞥し、店の引き戸を横へと引いた。吐き出した傍から白い霧へと変わり天へと昇って行く息が、六花とは違う白で眼前を染めていく。


「ごちそうさん。また来年会いに来るわ」


「ったくしけた話だな。世間は御子の生誕祭で賑わってたって言うのによ。お前は今年もやもめで終わりか?」


「おいおい。人聞き悪いな。俺は所帯を持ったことは一度もないぞ?」


「自慢げに言う事でもないだろうに。余計に質が悪いわ」


「そういうお前だってその年まで独身だろ?ジュネーブ?」


番傘を開きながらそのまま振り返らずに軽口を返す。お互い歯に衣着せぬ物言いをしているが、それができる程度にはこの店の世話になっているし、この常連の男と会話をしてきた。独身者同士の気安さもあったからな。

服の隙間から入り込んだ冷気にぶるりと大きく身体が震えた。今夜は一段と冷える。


「んじゃな。年が明けたらまた飲もうぜ」


「おうよ。そん時は一人じゃなくてもう一人連れて来いよ?その方がこの店が儲かるだろ?」


「それは神のみぞ知るってやつだ。……お互いにな」


この国の神の生誕祭で昼の間は人でごった返していた通りも遅い時間にもなれば閑散としたもので、自分が踏む新雪の音がいとも容易く鼓膜を揺する。冬でも凍らない川のせせらぎと共に。寒いのは億劫だが中々風情はある。


「もし……もし……お見掛けして申し上げます。お情けをお掛けください」


家に帰ってから一人でもう一杯飲もうかと算段を付けていた―……そんな時だった。か細い、雪に吸い込まれて消え入りそうな震え声が俺の耳に届いたのは。声がした方へと視線を向ければ物陰に傘を差した一人の細身の女が立っていた。


「どうしたんだ?こんな遅い時間に……もうすぐ日も変わるぞ?」


それは美しい娘だった。赤い唇に愁いを帯びた紺の瞳に長い睫毛が薄く影を差している。髪は黒々しく艶めいて、そして今降る雪のような肌の白さが娘に妖しい魅力を与えていた。美しい錦の振袖を纏った娘の足は下駄を履いてはいるが裸足で、この寒さで先が赤く変色していた。そして娘が差している傘も手にした茣蓙もあまりにボロボロで、品性が滲んでいるこの娘が持つ物としてはあまりにも不釣り合いだった。


「どうか……どうか慈悲をお恵み下さい。助けると思って鳥目を少しばかり下さいませ……」


「なら、手を出すんだ」


「えっ?あっ……」


「いいから、手を出してくれ」


自分が差していた番傘を一度閉じて置き、今着ている羽織を彼女の肩に掛けながら言葉を紡ぐ。寸法はまるで合わないし錦の振袖の上に着るには変だが、この寒さの中で何も着ないよりはマシだろう。

恐る恐る差し出された娘の白い手の指先は足先同様、凍え悴み赤くなっていた。


「悪いな。さっき飲み食いをして少し使っちまったんだよ。だから財布の中身は今これだけしかねえんだ。……待ってろ?もしかしたら服の中に小銭が残っているかも―……」


自分の財布をそっくりそのままひっくり返して中の金を娘の凍えるように冷たい手の上に握らせた。まだどこかに金が残っていないかと自分の服を弄ってみたが、出てくるのは解れた服の糸ばかりだ。……こんな事なら今夜はジュネーブの奴に夕飯を奢らせるんだったと舌打ちを吐いていると奴が知ったら怨み言でも言われるだろうか?……まあ、あいつだからいいけど。


「こんなに……こんなにいただけません……だって私は卑しい夜鷹なんです……」


「……こんな真夜中に女が一人茣蓙を持って暗がりに立っていたって事はそうだろうな……こんなに身体を冷やして……いつからここに立っていたんだ?」


「今日の……夕方からです。恥を忍んで振袖を着て今日の夕方からこの場所に立っていましたがとても声をかける勇気が出なくて……とうとうこんな時間になってしまったんです。でもこのまま手ぶらで帰るわけにもいかずそれで―……」


「俺に声をかけたわけか……」


羽織らせた上着を娘の痩せた体に巻き付けるように結び、彼女の手を温めるように両手で包むこむ。手の平越しに彼女の震えが伝わって来て、背筋がぞわりと粟立った。氷のように冷たい彼女へと、高い方から低い方へと自分の体温が動き移っていく。


「わた……わたし―……」


「……買ってほしいんだろう?買うさ。お前の”時間”を買わせてくれ。……おいで」


はらはらと舞っていた六花が風が止むと同時に途切れる。黒い雲の隙間からは代わりに十六夜の白い月の光が降り注いでいた。


「……悪いな。雑炊になっちまった。もっと洒落たもん作れればよかったんだが―……湯加減はどうだった?少しは身体は温まったか?」


くつりくつりと鍋の中で米が煮える。そこに出汁を入れて溶いた卵をぐるりと回すように混ぜ、塩を振り味を整え、仕上げに緑の三つ葉を乗せた。


「あの……どうしてここまで……」


「……そんな事より、少しは食べられそうか?自分でも味見をしたが悪くないと思うぜ?……意外か?いい加減独り暮らしも長いからな。長く一人でいると男でもそれなりには作れるようにはなる」


木の盆に雑炊が入った器と箸を揃え、それを彼女の前に静かに置いた。……本当は塩漬けの肉や魚もあるが、今の寒さに衰弱し弱った彼女に重たい食べ物を食べされるのは酷だろう。慣らさないといけない。それぐらい目の前の娘は痩せていた。


「うっ……うっ……」


「……泣くな。泣いたら雑炊が塩辛くなっちまうだろ?食べていい。その為に作った。泣かなくていいんだ」


『持たざる者は持てる者』

『平和・平等・労働者』


自分の主君も所属している赤軍が掲げる言葉が脳裏をよぎった。俺の主家はあくまで大谷家だ。あの赤軍に心の底から心酔はしていないが、今、この娘のような貧困に喘ぐ人間を生み出しているのが世の中だと言うなら、社会だと言うならば彼らの主張の一部は確かにまっとうなものなのかもしれないと、そうも思う。


「……お前が悪いわけじゃないんだ。だからお前が泣く必要はこれっぽっちもない。……悪いのはお前じゃない。社会だ。この世の中だ。自分に否のないことで泣く必要などないだろう?……それよりも……俺は俺の料理を食べるお前が見たい。泣くならそれからでもいいだろう?」


何があったのか―……気にならないと言えば嘘になる。ただ、今は目の前の娘にただただ泣き止んでほしかった。


≪壬生キョウ≫
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