第9章 テロ
ところで祭りにあたって礼拝の為に上って来た人々の中で異邦人の姿があった。この人達は御子の弟子の一人の所に来て「私達は御子のお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。
弟子はまた違う弟子の所に行ってこの事を伝え、二人の弟子は御子の所に行って伝えた。御子は彼らにお答えになった。
「人の子が栄光を受ける時が来た。よくよくあなた方に言っておく。もし一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである」
「しかし、死ねば豊かな実を結ぶ。自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者はそれを保って永遠の命に至る」
「私に仕えようとする者は私に従いなさい。そうすれば、私のいる所に、私に仕える者もいる事になる。私に仕えようとする者があれば父はその人を大切にして下さる」
【ヨハネによる福音書 第12章】
黒く狭い空間が私の上に真っ直ぐと伸びていた。夜、ではない。もっと人工的な黒が無数、狭い空間をよじ登る私の頭の上にはらり、ばさりと降り積もる。
次々に降り注ぐ黒を吸い込まないように口元を使い古した布できつく覆ってはいるけれど、それで完全にこの黒が防げるかと言えば決してそうではない。片手で梯子を、もう片方の手でブラシの柄を掴み壁を擦りながら……少しずつ、一段ずつ梯子を登っていく。磨く度に黒が私の視界を遮り、覆った。
この仕事は過酷……なんだと思う。思うというのは今の仕事と比較しようにも私は他の仕事をした事がないから比較しようがないのだ。お金も学もない。女の私がこの時勢で選べる仕事の数は世辞にも多くはない。そもそも私は売られてここの主人に買われた人間だ。最初から選びようがなかった。
私の故郷はここよりもさらに山間にある寒村で、カラス麦も満足に育たないぐらいに痩せていた。耕しても耕しても……実りは決して多くはならない。僅かばかり収穫できた麦も大部分は税として徴収されていく。
この仕事は過酷なんだと思う。でも、それと同時にこう考える自分もいる。私一人売られた事で、そのお金で故郷の家族が飢えずに過ごせたのだとしたら……意味はあったのだ、と。たとえそれが数カ月……いいえ、数日であったとしても。お腹を空かせてひもじい思いをしないで過ごせる日があったのなら、と。
あの悲しさも、今の辛さにも意味はある。意味は……あるの。
光が近付く。夜明けの光ではない。でも、それと同じぐらい待ちわびている外の光が目の前にある。終わりが見えて気が緩んだからだろうか?僅かに綻んだ唇の隙間から入り込んだ黒が肺を刺激して、咳へと姿を変える。一つ、咳払いの音が響いた。
「はあ……今日の天気は霧かあ……青空が良かったなあ……」
口元を覆っていた黒煤で汚れた布が山から吹き下ろす乾いた風に棚引いていた。それを外し片手に持って、綺麗な冷たい風をお腹が一杯になるまで吸い込んだ。さっき不注意で吸い込んでしまった煤に汚れた空気と置換するように、大きく胸を膨らませて、それがしぼむまで吐き出して、それを何度も、何度も繰り返す。
赤茶色の煉瓦の屋根の上で、今登って来た煙突を支えにして街並みを見下ろした。一番高い、その場所で。この仕事は楽しいものではないけれど、今、この瞬間だけは何よりも、何よりも好きなの。
古い、古い教会を街の中心にして放射状に幾筋も伸びている石畳みの道を、そして朝の準備をするために外へ出始めた人達の、ここから見ると小さく見える姿が。
そして両手を精一杯、広げれば、悲しい事も苦しい事もひもじい事も、髪に付いた煤と一緒に風が攫って空へと連れて行ってくれる。そう思える気がした。そんな事あるわけないのに。
「……?あの人達は……?」
そんな時だった。霧の途切れた街の入り口近くの通りにその人達の姿を見つけたのは。まだ朝が早い時間だからだろうか。住宅地から離れているのもあってそこには二人の姿しかない。目に留まったのは、二人のいで立ちが私の目にはとても奇異なものに見えたからというのもあるんだろうけど。
思考をそこまでまとめ上げて、ふるりと首を横へと振りもう一度登って来た時と同じように布を口元にきつく巻きつけた。風に混じって雨の匂いがしたからじきにここにも雨が降る。それまでにこの煙突の掃除をしてしまわないとあの親方にまたどやされて頬を打たれるかもしれない。それだけはごめんだわ。
「旅人……なのかもしれないわね……けほっ……」
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「今日はお仕事はお休みなんですか、アグネスさん?」
「うん。今日は朝から雨だからお休みだよ。……どうしたの、トキ?」
「いや、何……お前はあまりパンを食べないんだと思ってな」
低い天井だからだろうか。この部屋の中にいると雨の日は雨の音がとても近くに感じる。タタン、タタタン……っと規則正しく刻まれる音が会話と会話の間に僅かに蟠った沈黙を揺らしていた。
「俺達がいるからか?一人が三人に増えたからあまり食べられなくなった?」
「ち、違うよ!トキやトワが来る前から私の食事の量はこれ。これ以上背が伸びたり太ったりしたら仕事が出来なくなっちゃうから……だからね、普段からあまり食べないようにしてるの」
手に持ったパンのかけらをお皿に一度戻して、顔の前で大きく手を振り、トキの言葉を遮るように自分の言葉を重ねた。勿論、彼の問い掛けを否定する為に。
タタン、タタタンッ……と雨の音だけが変わらずそばで残響し、澱を動かす。
「お仕事……そう言えばアグネスが何の仕事をしているのか、ここにお世話になってからしばらく経ちますがまだ聞いていませんでした」
トワの薄い銀の髪が彼女の首の動きに合わせてさらりと動き、簾のように瞬間、彼女の顔を隠した。彼女の髪色のせいだろうか?まるで今まさにシトシトと降っている雨の流れのように見えて、刹那、言葉を紡ぐのを忘れて彼女の仕草を見つめていた。初めて会った時から薄々そうなんじゃないかと思ってはいたけれど、一緒にいるうちに確信したことがある。
トキもトワも、本来はもっと位が高い人間なんだということを。でなければ、仕草で人の目を奪うことなどできない。それほどこの二人の見せる所作は洗練されたものだったから。
二人の所作も纏う雰囲気も……私とは違う世界に住む人間のそれだったから。
「あっ、えっと……それよりもトワ。こっちのパンも食べてみて。私はさっきも言ったけどこれ以上は食べられないから。このパンね、新作なんですって」
だからだろうか。喉まで出掛かっていた煙突掃除婦という言葉を咄嗟に飲み込んでしまったのは。底辺の仕事に従事している自分に気後れを感じてしまったのは。
見栄、あるいは自尊心。そんな類の褒められたものではない感情を守る為に言葉を読み込んで……はぐらかしてしまった自分に対する嫌悪感がじわりじわりとインクを布の上に溢した時のように広がっていく。
……知っているわ。二人は聡い。いいえ、聡い人間でなくても私の住んでいるこの部屋を見たら暮らしぶりが良くないことぐらい一目瞭然だろう。けれど、それでも口に出来なかったのは……
「トキも食べてみて。最近、食物の流通が少しずつ減って来て……次はいつ同じ味のパンを食べられるか分からないから」
二人は旅人だ。分かっている。今は旅の間の一次の宿として私の部屋を使ってくれているけれど、明日にはこの兄妹はまた流れて行ってしまうかもしれない。”次”はないかもしれない。
それを責めるわけがない。そもそもその権利は私にはないわ。二人の旅路は二人が決めるものだから。私の道を決まられるのは私だけなのと一緒で。けれど……
「食べてみて。一つでも多くこの街で楽しい記憶を作っていってほしいから」
けれどせめて、二人の記憶の片隅に留まり、時には記憶として引き出しの奥底から引っ張り出してほしい。そう思うことぐらいは許してもらえるんじゃないかって、そう思っているの。
「ね?……ごほっ……」
《アグネス・サーンクタ》
