第15章 極北の地
私達強い者は強くない人達の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。
私達一人一人は互いに他者に役立つように隣人を満足させるべきです。御子も自分の満足を求められませんでした。むしろ「あなたをそしる者のそしりが私の上に降りかかった」と書き記されている通りです。
前の時代に書かれたことは全て、私達への教訓として書かれたもので、聖書が与える忍耐と励ましによって私達が希望を持ち続ける為です。
忍耐と励ましの源である神が、あなた方に御子にならって同じ思いを抱かせて下さいますように。
それは心を合わせ声を揃えて、私達の主の神であり父である方を讃える為です。
【ローマの人々への手紙 第15章】
空からひらり、白い花弁が舞い落ちる。六つの花弁を持つ一つとして同じ形はない白い花が舞い、そして自分の手の平の上にはらりと乗り、溶けて水へ変わっていく。
一瞬にして溶けた風花を左手で握り一つ息を吐き出した。はらはらと舞う雪の中で吐き出した長い息は吐き出した瞬間に白い水蒸気へと姿を変えて暗い夜空に吸い込まれて消えていく。
初めてこの通りを歩いた季節は、まだこの時間は昼と言って差支えがない暗さだったな……と、街の大時計を見上げながら思い出す。季節の針が前へと進んだ分、自分の気持ちも多少は前へと進んだのだろうか。
あの日と同じ茶色の石畳の小道を、あの日と同じ時間にあの日と違う空の明るさの中、荷物を片手に歩く。彼女の店の前まで馬車で乗り付ける事も可能だったが、それはあえてしなかった。
理由は酷く単純なもので、俺自身歩きたいと思ったからだ。この通りを、彼女たちの店まで続く坂道を。
……まあ、時間で店の前まで来るように言いつけてはあるが。行きは自分一人だからいいとしても、俺のわがままに彼女まで付き合せるわけにもいかないからな。
薄暮の白い光ではないガス灯の淡い黄色の光がそに周囲だけ闇を払っていた。手の平に乗った時と同じようにガス灯に触れた瞬間に雪は解けて消えていく。なんとも儚い光景のように思えた。
一度足を止め見上げ、そして再び足を前へと進める。いつまでも呆けて見ているわけにもいかない。今日は物見遊山ではなく用事があってこの街へとやって来たのだから。この為にいつもより早く仕事を終わらせてきた。
カランコロンと来客を告げる店のベルが鳴る。「らっしゃーーい」というどこか気の抜けた若い売り子の娘の声が俺の鼓膜を揺さぶった。
店の暖気が頬を暖める。さっきまで感じていた身を刺すような寒さは徐々に薄らぎ、霧散していった。
今日の仕事を終えた彼女と共に外に出た時には降る雪は来た時とはうって変わり激しいものに―……はなっておらず、ここに来た時同様にチラチラと舞う程度だった。この調子なら日付が変わる時間近くになっても積もる事はなく流れていくだろう。それを確信し安堵の息を一人吐く。雪が積もっていてはもうすぐ来るはずの馬車が使えなくなってしまうからな。
「すっかり待たせちまってすまないねえ、お前さん。うちは和菓子屋だけどこの時期はそれでも菓子を買いに来る客がそれなりに多くてねえ……」
「異国の菓子はそれだけで目を引くからな。変わり種の菓子を求めて夜会用に和菓子を注文する貴族もいるだろう」
「ふふっ……お前さんがそうだったようにかい?」
「……そんな事もあったな。あの日は視察でこの街に来ていたんだ。他の街を見る事はタメになるからな」
彼女の言葉に初めてこの店を訪れた日の情景を思い出しクツリと喉を鳴らす。「錦江」を自分が訪れるようになってからまだ一年も経っていないが、それでも十分懐かしさを感じている自分がいるし、一年以上前からここに通っているようなそんな錯覚さえある。
「そう言えば―……さっきはシレネへプレゼントをありがとうねえ……ほら、あの子ああ見えて案外親孝行者なんだよ。お給料をやると殆どを故郷の親への仕送りに使っちまうんだ。いつも少しは自分の為に使えって言っているんだけどねえ……だから、お前さんがプレゼントを用意していて助かったよ」
「シレネにも世話になっているかなら。いつも俺の住む領地まで菓子の郵送の手配を整えてもらっているだろう。……妹もここの菓子が好きなんだ。だからあれは俺一人ではなく妹からのプレゼントでもある」
「ふふっ……道理で。お前さんが選んだんにしちゃ随分と洒落たもんを寄越したもんだと思ったんだよ。中身がワンピースだったからね」
「妹が選んだものだ。俺は若い女のファッションの流行り廃りにはそこまで詳しくない。……妹曰く『フリーサイズなので着れるはず』だそうだ」
彼女―……薄烟の口から鈴が鳴るような笑い声が零れたのはその直後で、ひとしきり楽しげに笑うと彼女は改めて紅を引いた薄い唇に綺麗な弧を描いた。「ありがとうよ」という言葉を紡ぐとともに。
「さあて、立ち話もなんだし行くとするかい?お前さんを店で長く待たせちまったことだしねえ……」
「待て。その前に薄烟に渡したいものがある」
「あっしにかい?」
「ああ。……少し失礼するぞ」
俺の行動が読めなかったのだろう。薄烟の瞳が数度不思議そうに瞬いた。彼女は俺よりも5つばかり年上だが、時折年上には思えないような可愛らしい仕草を見せる。それが自分の目にはとても好ましいものとして映っていた。
指先に彼女の柔らかな髪が触れた。彼女の美しい艶のある髪を赤や紫、黄色の菊を模した髪飾りが彩る。いつか渡した時は確か野菊の生花だったな……
「これ……あっしにくれるのかい?いいのかい?貰っちまっても?」
「メリークリスマス、薄烟。どうか今夜は一晩、あなたの時間を私に譲っていただきたい」
日々の水仕事で荒れてしまったのだろう。所々あかぎれがある華奢な手を自分の手に取り言葉を紡ぐ。ありきたりでありふれた言葉を彼女の手の甲にそっと唇を寄せながら贈る。
「あっ……」
「エスコートするさ。クリスマスの夜に薄烟を誘ったのは俺だからな」
雪が舞っていた。一つとして同じ花弁のない六花の花が彼女の髪を飾る菊の花の上に僅かに触れて溶けていく。身を切るような張り詰めた冬の夜の空気の中でもさほど寒さを感じないのは―……繋いだ手の暖かさのおかげなのだろう。
教養として叩き込まれたから?貴族としての礼儀?それもある。が、理由はそれだけでは、ない。
《ラント・ブラウン》
私達一人一人は互いに他者に役立つように隣人を満足させるべきです。御子も自分の満足を求められませんでした。むしろ「あなたをそしる者のそしりが私の上に降りかかった」と書き記されている通りです。
前の時代に書かれたことは全て、私達への教訓として書かれたもので、聖書が与える忍耐と励ましによって私達が希望を持ち続ける為です。
忍耐と励ましの源である神が、あなた方に御子にならって同じ思いを抱かせて下さいますように。
それは心を合わせ声を揃えて、私達の主の神であり父である方を讃える為です。
【ローマの人々への手紙 第15章】
空からひらり、白い花弁が舞い落ちる。六つの花弁を持つ一つとして同じ形はない白い花が舞い、そして自分の手の平の上にはらりと乗り、溶けて水へ変わっていく。
一瞬にして溶けた風花を左手で握り一つ息を吐き出した。はらはらと舞う雪の中で吐き出した長い息は吐き出した瞬間に白い水蒸気へと姿を変えて暗い夜空に吸い込まれて消えていく。
初めてこの通りを歩いた季節は、まだこの時間は昼と言って差支えがない暗さだったな……と、街の大時計を見上げながら思い出す。季節の針が前へと進んだ分、自分の気持ちも多少は前へと進んだのだろうか。
あの日と同じ茶色の石畳の小道を、あの日と同じ時間にあの日と違う空の明るさの中、荷物を片手に歩く。彼女の店の前まで馬車で乗り付ける事も可能だったが、それはあえてしなかった。
理由は酷く単純なもので、俺自身歩きたいと思ったからだ。この通りを、彼女たちの店まで続く坂道を。
……まあ、時間で店の前まで来るように言いつけてはあるが。行きは自分一人だからいいとしても、俺のわがままに彼女まで付き合せるわけにもいかないからな。
薄暮の白い光ではないガス灯の淡い黄色の光がそに周囲だけ闇を払っていた。手の平に乗った時と同じようにガス灯に触れた瞬間に雪は解けて消えていく。なんとも儚い光景のように思えた。
一度足を止め見上げ、そして再び足を前へと進める。いつまでも呆けて見ているわけにもいかない。今日は物見遊山ではなく用事があってこの街へとやって来たのだから。この為にいつもより早く仕事を終わらせてきた。
カランコロンと来客を告げる店のベルが鳴る。「らっしゃーーい」というどこか気の抜けた若い売り子の娘の声が俺の鼓膜を揺さぶった。
店の暖気が頬を暖める。さっきまで感じていた身を刺すような寒さは徐々に薄らぎ、霧散していった。
今日の仕事を終えた彼女と共に外に出た時には降る雪は来た時とはうって変わり激しいものに―……はなっておらず、ここに来た時同様にチラチラと舞う程度だった。この調子なら日付が変わる時間近くになっても積もる事はなく流れていくだろう。それを確信し安堵の息を一人吐く。雪が積もっていてはもうすぐ来るはずの馬車が使えなくなってしまうからな。
「すっかり待たせちまってすまないねえ、お前さん。うちは和菓子屋だけどこの時期はそれでも菓子を買いに来る客がそれなりに多くてねえ……」
「異国の菓子はそれだけで目を引くからな。変わり種の菓子を求めて夜会用に和菓子を注文する貴族もいるだろう」
「ふふっ……お前さんがそうだったようにかい?」
「……そんな事もあったな。あの日は視察でこの街に来ていたんだ。他の街を見る事はタメになるからな」
彼女の言葉に初めてこの店を訪れた日の情景を思い出しクツリと喉を鳴らす。「錦江」を自分が訪れるようになってからまだ一年も経っていないが、それでも十分懐かしさを感じている自分がいるし、一年以上前からここに通っているようなそんな錯覚さえある。
「そう言えば―……さっきはシレネへプレゼントをありがとうねえ……ほら、あの子ああ見えて案外親孝行者なんだよ。お給料をやると殆どを故郷の親への仕送りに使っちまうんだ。いつも少しは自分の為に使えって言っているんだけどねえ……だから、お前さんがプレゼントを用意していて助かったよ」
「シレネにも世話になっているかなら。いつも俺の住む領地まで菓子の郵送の手配を整えてもらっているだろう。……妹もここの菓子が好きなんだ。だからあれは俺一人ではなく妹からのプレゼントでもある」
「ふふっ……道理で。お前さんが選んだんにしちゃ随分と洒落たもんを寄越したもんだと思ったんだよ。中身がワンピースだったからね」
「妹が選んだものだ。俺は若い女のファッションの流行り廃りにはそこまで詳しくない。……妹曰く『フリーサイズなので着れるはず』だそうだ」
彼女―……薄烟の口から鈴が鳴るような笑い声が零れたのはその直後で、ひとしきり楽しげに笑うと彼女は改めて紅を引いた薄い唇に綺麗な弧を描いた。「ありがとうよ」という言葉を紡ぐとともに。
「さあて、立ち話もなんだし行くとするかい?お前さんを店で長く待たせちまったことだしねえ……」
「待て。その前に薄烟に渡したいものがある」
「あっしにかい?」
「ああ。……少し失礼するぞ」
俺の行動が読めなかったのだろう。薄烟の瞳が数度不思議そうに瞬いた。彼女は俺よりも5つばかり年上だが、時折年上には思えないような可愛らしい仕草を見せる。それが自分の目にはとても好ましいものとして映っていた。
指先に彼女の柔らかな髪が触れた。彼女の美しい艶のある髪を赤や紫、黄色の菊を模した髪飾りが彩る。いつか渡した時は確か野菊の生花だったな……
「これ……あっしにくれるのかい?いいのかい?貰っちまっても?」
「メリークリスマス、薄烟。どうか今夜は一晩、あなたの時間を私に譲っていただきたい」
日々の水仕事で荒れてしまったのだろう。所々あかぎれがある華奢な手を自分の手に取り言葉を紡ぐ。ありきたりでありふれた言葉を彼女の手の甲にそっと唇を寄せながら贈る。
「あっ……」
「エスコートするさ。クリスマスの夜に薄烟を誘ったのは俺だからな」
雪が舞っていた。一つとして同じ花弁のない六花の花が彼女の髪を飾る菊の花の上に僅かに触れて溶けていく。身を切るような張り詰めた冬の夜の空気の中でもさほど寒さを感じないのは―……繋いだ手の暖かさのおかげなのだろう。
教養として叩き込まれたから?貴族としての礼儀?それもある。が、理由はそれだけでは、ない。
《ラント・ブラウン》
