第15章 極北の地

さて、いいですか。惜しんで僅かにしか種を蒔かない者は僅かにしか刈り入れず、惜しみなく豊かに蒔く者は豊かに刈り入れるのです。

各々嫌々ながらとか、しなくてはならないからとか、というようにではなく心の中でこうしようと思った通りに人に与えるべきです。

快く与える人を神は愛して下さるからです。あなた方が全ての点で、いつも必要なものは何もかも十分に持ち合わせて、あらゆる善い行いに満ち溢れた者になるように、神はあらゆる恵みを溢れるばかりに与えることがお出来になるのです。

「彼は惜しみなく分け、貧しい人に与えた。その慈しみはとこしえに続く」

と聖書に書かれている通りです。種蒔く者に種と食べるためのパンを与えて下さる方は、あなた方に蒔く種を与え、増やし、またあなた方の慈しみが結ぶ実を益々大きくさせてくださいます。

あなた方は全ての点で豊かにさせていただき、惜しみなく人に物を与えるようになり、その行いは私達を通して神への感謝の念を生じさせるのです。


【コリントの人々への第2の手紙 第8章】






「人……沢山いるね……少し怖いな……」


「何故?」


「ナハシュとはぐれちゃったら大変かな……って思ったの。波に飲まれて流されちゃったら沖まで流されちゃって見つけるのが大変なんじゃないかな、って……そう思ったの」


「だからこうして手を繋いでいる。お前に勝手にいなくなられては困るからな」


様々な人種や種族の人間が石畳と煉瓦の大通りを行き交っていた。今は休日の午後だ。人出が平日よりも多いのは当然なのだが、今日は何かの催しがこの先で行われている関係か、通りは一層色付き騒めいている。

様々な色の風船が空に浮かび上がり底が抜けるような青い空を飾っていた。行事の関係者なのだろう。道化の格好をした男がおどけながらビラを配っていた。少し離れた場所から、自分には少々耳障りに聞える音楽が風に乗って聞えて来る。


「……ナハシュ?」


「なら、こうすれば少しはマシか?」


不安そうに俺が着せたブカブカな外套を裾を掴んでいるピエリスの指に一つ、そしてまた一つと自分の武骨な手を絡めた。自分とは異なり滑らかな彼女の細く白い指に。

今までの繋ぎ方よりも深く絡む繋ぎ方に変えて彼女に問い掛ける。

何故?理由は一つ。この女に飛んで逃げられては困るからだ。理由は、それだけ……のはずだ。


「……さっきよりも温かいね、ナハシュ」


「お前が着ている服が薄すぎるんだ。いつまでも俺のコートを着ているわけにもいかないだろう。……服屋は……ここか」


嬉しそうに言葉を紡ぐ彼女の横顔を見ているとそれだけが理由ではないのかもしれないと……自分の心の奥で何かが燻り俺に訴えかける。

赤い焔ではない。心にヒビを入れ渇かす熱風のような衝動でもない。もっと穏やかな灯火が指先から自分を温めていた。

カラリ、と店に来客が来た事を告げる鈴の音が鼓膜を揺すった。







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「ナハシュ……あの……」


「いつまでもあの奴隷の服を着せておくわけにもいかないからな。言っただろう?俺は奴隷を飼う趣味はない、と。お前はもう奴隷じゃないんだ。あの服は必要ないだろう。……鎖と一緒でな」


カーテンレールの滑車が軽い音を立てて回る。厚手のカーテンで仕切られた個室の奥から恐る恐る洗われた女の姿を見つめれば、鏡に映る自分の虚像は目を細めた。


「似合う……かな?ナハシュ……?」


女が纏った白と青の衣の裾が、女が被ったヴェールが女の動きに合わせて、一瞬、羽根のようにふわりと動いた。

どこか不安気に俺を見上げるピエリスの頬に自分の腕を伸ばし、静かに白い頬に自分の手の平を沿わせるようにし触れる。


「こんな事で嘘を吐いて俺に何の得がある?……よく似合っている。心配せずとも、な」


実際のところ、世辞を抜きに女が新しく選び身に纏った服は彼女によく似合っていた。白く柔らかなゆったりとした衣を鮮やかな青い帯が飾る。半透明の薄手のヴェールは光を通し、彼女の白銀の髪を淡く輝かせている。……どこかの地方の女が身に着ける民族衣装の一種なのだろうが、聖職者の衣のようにも……婚礼の衣装のようにも見えなくもない。


「本当に……?そうなら嬉しいな……ナハシュ?」


「これもつけておけ。お前が試着している間に買っておいた。安物だが、これでも何もつけないよりは胸元が寂しくは見えないだろう」


ピエリスの青い瞳が不思議そうに数度瞬いた。そのまま首をこてりと横に傾けた彼女の頬から自分の手を放し、代わりに一つの小さな包みからそれを取り出し手の平の上に乗せた。

さらりとした彼女の髪の感触が自分の指先を優しく擽った。細い金属のチェーンを彼女の首へと巻く。彼女の胸元で金のペンダントトップが揺れていた。日輪を模した華奢な首飾りが彼女の胸元を飾る。


「さっき自分の物も買ったからな。そのついでだ。気に入らなかったら後から外せ」


「本当だ……ナハシュの方はお月さま……なんだね」


「安物だがな。……服はそれでいいのか?」


「うん……!この服がいい!」


「そうか」


ピエリスの青い瞳が幸せそうな弧を描く。桜色の唇を花のように綻ばせると彼女は一つ頷いた。「ありがとう……、ナハシュ……!」と無邪気な笑みを浮かべて。






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季節の花とリースと風船、そして様々なリボンで飾られた花車の前に甘い香りの花が咲いていた。

売り子はその前で溶いた小麦粉を熱した鉄板の上に薄く広げ、破らぬように器用に焼き上げ鉄板から離す。その上に果物のソースと生クリームを塗りくるりと巻き果物を乗せると、売り子の女は否の付けどころがない営業の笑顔で二つクレープを差し出した。


「ほら、買って来たぞ。どっちがいい?」


「あっ……イチゴ……!ナハシュ、ありがとう!」


「……お前は本当にイチゴが好きなんだな」


「うん……!私、イチゴ大好きだよ!……甘酸っぱい……美味しい……こんなおいしいお菓子があったんだね……」


「クレープを食べたのは初めてか?」


「私の村にはなかったものだから……。本当に美味しいね……。ナハシュの方は私のとは味が違うんだよね?ナハシュ、一口食べる?イチゴ、美味しいよ?……あっ……」


いつでも心の中では赤い砂礫が舞っていた。不釣り合いな青空が自分の頭上に広がっていようが、お似合いの曇天が広がっていようが変わらずに。

昨晩や今朝とは違い今俺の手元には水はない。それどころか手元にあるのは逆に喉が渇く甘ったるい菓子だ。

クリームとストロベリーソースで少し濡れたピエリスの不意に唇に唇を重ね、舌先でそれを拭った。昨晩や今朝と違って喉を潤してくれる水はない。にも拘らず、水を飲んだ時と同じように心が満ちていく感覚がした。

心の奥深い場所に何かが満ち注がれて、枯れた心が少しずつ癒えていく。今朝コップから水を飲んだ時は砂を飲んだような感覚しかなかったというのに。


「ナハ……シュ……?」


何故、水がないのも関わらずピエリスに口付けたのか―……自分の行動が自分でも理解不能だった。だが―……


「……確かに、甘いな」


クツリ、くつりと自然と喉が鳴った、不快だからではない。むしろ逆の理由で。……けして悪いものでは、ない。


≪ナハシュ・ヤラッド≫
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