第15章 極北の地
温かな日の光降り注ぐ秋晴れの日。
私は文を交わしたお相手の所へ嫁ぐ事になりました。
父様母様からは、お相手のお家にご挨拶に伺うと聞いた筈なのですが……
「初めまして平塚様。私は千代と申します、この度はお招きくださり本当にありがとうございま………
「千代さん!!」
深々と頭を下げ、三つ指をついて挨拶を口にしていた途中で突然降りかかった声に驚き顔を上げると、目の前には大奥様のお顔。
「こっちへいらっしゃいな!!祝言を挙げますよ!!祝言!!」
「え……えっ?……ご挨拶じゃ……??」
勢い良く右手を掴んで引き寄せられる。
大奥様の行動に思考が追い付かず、そのまま引きずられるようにお屋敷の奥へと通される。
それはまるで嵐のようでした。
大奥様の一声でお屋敷の人達が慌ただしく動き始め、本当に祝言の準備を始めていて……私はというと白無垢に袖を通していました。
梅の花と飛び立つ鶴が描かれた美しい白無垢。
目の前には大奥様がいらっしゃって赤い唇が弧を描いていました。
「私の時の白無垢ですけれど……問題はないみたいですね。」
そう言うと大奥様は私の顔に化粧を施し始めました。
おしろいを塗って頬紅をつけて、最後に筆で赤い紅をひいていく。
「よし、できた!ほら見てごらんなさいな!」
大奥様が差し出した鏡には化粧を施された私の顔が映る。
白無垢を纏い紅をさした自分の姿。
大奥様の嬉しそうなお顔を見ていると心からこの祝言を喜んでくださっているのだという感情が伝わってきて……
私もつられて笑みが溢れました。
しかし……本当にこのまま祝言をあげてしまうつもりなのでしょうか……?
私はまだお相手の方に……為広さまに一度もお会いしたことは無いというのに……。
「あの……大奥様……」
せめて祝言の前に為広さまとお話はできないでしょうか…?
そう問いかけようと口を開いた私でしたが、その言葉はお屋敷の人の呼び声にかき消されてしまいました。
「大奥様!お式の準備が整いました!!」
「よしよし、じゃあ、行きましょうか千代さん!!」
「あ……はい。」
沢山の人が慌ただしく動いている。
きっと思考が追い付いていないのは私だけ……。
だってこの結婚はもう決まっていた事なのですから。
それが少し早まっただけ。
とても緊張している……指先が冷たくなって……頭のなかは真っ白でどうしたらいいのか解らない。
白無垢に袖を通し、綿帽子を被って大奥様に手を引かれて通路を歩いているけれど……。
私はこれから何をするのか……何をしたらいいのかが解らない……お式の事も…お相手のお顔も解らないまま私は祝言に臨もうとしている。
指先が震えている。
一歩、また一歩と歩を進める度にどんどん緊張していって、胸の奥は不安な気持ちでいっぱいになった。
心臓の音が煩くて他の音が耳に入らない。
こんな気持ちで式に臨んでいいのでしょうか…?
そんな事を考えながら歩いているとやがて大奥様は大きな部屋の前で足を止めた。
わずかに視線を上げてみると、目の前に男の人の両足が見えた。
ゆるりと揺れる美しく整えられた灰色の獣の尾。
もしかして……この方が為広さまでしょうか……?
何か大奥様と会話をされているけれど……今の私はそれを聞き取れる程の余裕はなくて……。
視線を落として自分の爪先を見つめていると、ふと脳裏にこんな思いが過る。
今ならお相手のお顔が見れるのではないのでしょうか…?と。
もう少しだけ顔を上げたら私の目の前に立つお相手の顔を……為広さまのお顔を見ることができるのではないでしょうか……?
少しずつ顔を上げてみる。
見えるのは胸元だけでお顔は見えない……。
もう少し……もう少し私の背があったら為広さまのお顔が見れるのに……。
「千代。」
「は…はい……!?」
頭上から降ってきた低く太い男性の声に驚き返事を返す。
今自分が返した声の不自然なことと言ったら……そう思うとなんだか恥ずかしくなってきて頬が一気に熱を持つ。
すると目の前に大きな手が差し出されて再び声が降ってくる。
「おいで。千代。」
力強く胸に響く優しい声。
これが為広さまのお声……。
差し出された掌に私の右手を重ねる。
右手に伝わる温もり……この人が私のお相手……
優しく甘い梅の花の香りが鼻腔に届く。
為広さまが動く度にその香りは強くなっていく。
なんて良い香りでしょう……。
導かれるようにして隣に並ぶようにして立てば周りに聞こえないくらいの小さな声で「怖いか?」と貴方は問う。
ちゃんと聞こえてます…。今度は聞こえます。
為広さまの声だけが私の耳に届いています。
「いいえ…怖くありません。」
先程まで煩かった心臓の音も今は少しだけ落ち着いて、身体の緊張も和らいでいる。
「怖くありません。為広さまとなら……一緒に歩けます。」
私がそう答えると「そうか。」と短く言葉が返る。短い言葉だったけれど…その声には微かに喜びの感情が滲んでいるように聞こえるのです。
朱塗りの杯に注がれたお酒に赤い紅をさした私の顔が映る。
鏡で見たときとは違う私の顔がそこに映されている。
もう不安などありません。
私はこの人と共に歩みたい……。
杯に浮かべられた花弁と一緒にお酒を口にすれば、微かに頬が熱を持つ。
痺れるような感覚を舌先に感じながら少しずつ口にする。
杯に残った酒の香りか、部屋に満ちるお香の香りか……強い梅の花の香りが鼻腔に届いている。
頬がほんのりと熱を帯びてさっきよりも鈍くなった思考の私を他所に式はどんどん進行していく。
ふと、隣に立つ為広さまの方へと視線を向ける。
どうにかお顔は見れないものかと少しずつ視線を上げてみるけれど……やはり見えない。
この人とお話をしたい。もっとお声を聞きたい。
まだ祝言の途中だというのにそんな事ばかりを考えている……。
陽の光りが満ちる祝言の席に二羽の小鳥の楽しげな囀ずりが届いてくる。
まるでこの祝言を祝福してくれているかのように。
すっかり日が落ちてお庭からは虫達の声が響いている。
式を終えて化粧を落とし、白無垢の代わりに寝巻を纏う。
ようやく為広さまと二人だけでお話ができると安堵していたのですが……
「あの……為広さま……これは……」
今夜はここで休むようにと通された部屋には大きな布団が一組だけ。
隣の方へと視線を向ければそこには申し訳なさそうな顔をした為広さまのお姿……
「あの……これはやはり私達に……その……夫婦の務めを果たせという事なのでしょうか……?」
「あー……ったく!!うちの連中は何でもかんでもやる事が先走り過ぎだっての。一々せっかち過ぎんだろ……!」
頭の後ろをガシガシと乱暴に掻いてここにいない誰かへ向けながら言葉を口にする。
そんな為広さまの横顔を見ながらふと思う……私は今日この方の妻になった。
ならば……この状況も至極当然の流れなのだと。
頬が熱い。あの光景を見て理解できない私ではありません。
望まれているものが何なのかも……
ですが……いざこうして目の前にそれが広がっているのを見ると……
奇妙な沈黙が続いて、なんと切り出せば良いのか解らない。
こんなときはなんと言えばいいのでしょうか……?
私から……誘えばいいのでしょうか?
「為広さま……あの……私、は……」
声をかけようと顔を上げれば燭台に照らし出された為広さまのお顔が視界に映る……そのお顔は心なしか困っていらっしゃるようにも見えて……
なんだか……申し訳ない気持ちになってしまった。
だって……義務感で抱かなければいけないなんて……そんなのおかしい。
為広さまの気持ちがなければそれは本当の意味で結ばれた事にはならないとそう思うから……。
抱いてくださいなんて言えない。
「……そう縮こまんなって。別に取って喰うつもりもお前に無体を働く気もねえよ。……何もしない。が、少し話はしたい。こうして二人だけで話す機会もなかっただろう?俺もお前もあれよあれよと話が進んじまって祝言の日になっちまった」
突如かけられた声に驚いて顔を上げれば優しく微笑みながら言葉を紡ぐ為広さまのお顔があった。
式の直前に聞いたあの甘く優しい声で私に語りかけている……。
強ばっていた身体が解けていく。式の時のように……。
為広さまが動くと同時に白梅花の香りがふわりと漂う。
「まあ、座れよ。……勿論、無理強いをするつもりはねえけどな。部屋なら他にもある。俺が出て行く。……千代はとにかく少し休んだ方がいい。体力に無駄に自信がある俺と違ってお前は女だ。それに遠方からわざわざこの家に来てくれたわけだしな」
為広さまが…別のお部屋に…?
為広さまの気遣いはとても嬉しい……でも……それでは為広さまのお気持ちはどうなるのでしょう……?
祝言をあげたその日の夜に、私に気を遣って1人で夜を過ごすなど……そんな酷なことはできません。
私はこの方と一緒にいたい…もっとお話がしたい…。
「あの……私、今日は色々あってまだ気持ちの整理がついて来ていないのですが……もう少しお話をしたくて……」
思わず為広様の寝巻の裾を掴んだ。
ここにいてほしいと貴方のことを引き留めたくて。
視界の端で為広さまの尾がゆるりと揺れた。
「……俺もだ。俺も千代と話がしたい。さっきも言ったが二人きりでこうしてゆっくり話すのも初めてだからな。改めて……初めまして、だな。千代」
そう言って私の手を優しく包む。
ああ……この手の温もりは……祝言の前に触れたあの手と同じ。
「……愛らしいな」
「えっ?」
「千代が、だ。今まで声と文だけでやり取りをしてきたが―……考えていたんだ。もっとお前の声が聞きたい出来るのならば顔を見てみたいってよ。……思った通りだ、お前は愛らしい」
胸の奥で私の心臓が跳ねる。
煩いくらいに騒いで息をするのも難しい…。
文を交わしていたとはいえ、満足に言葉を交わすことも顔を合わせる事もなく祝言をしてしまったこと……本当はどう思っていらっしゃるのだろうかと……少しだけ不安だった……為広さまは本当は望んではいなかったのではないかと。
でも…そうじゃなかった…この方は私を受け入れてくださっている。
愛情を向けてくださっている……。
その言葉が嬉しかった。不安な気持ちがかき消されて、愛おしい気持ちがどんどん満ち溢れていく……。
もっと触れたい、もっと声を聞きたい……この方にもっと触れてもらいたい……。
優しく私の手を包む大きな手が愛おしくてたまらない……誰に教えられた訳でもなく自然とその手に頬を寄せている自分がいた。
「……怖くはないのか?今日顔を知ったばかりの男とこうして二人でいる事が。お前よりも図体がデカくて牙もある俺の事が」
「……はい、怖くは……ありません」
確かに、私達はお互いをまだ良く知りません……祝言だって気持ちの整理がつかないまま執り行われてしまいました。
ですが……私は式の間もずっと為広さまに惹かれていました。
ずっと貴方とお話がしたかった。お顔を見たくてずっと貴方の事ばかり考えていた。
貴方の声が……重ねてくれた手の温もりが私の心を解きほぐしてくれた。
名前を呼ばれて引き寄せられる。
包むように抱き締めて頬をすり寄せる。
愛おしくてたまらないと言うように……強く優しく。
私もそれに答えるように頬を寄せる。
もっと触れてほしいと口には出さずに。
私も貴方ともっと触れたい……言葉を交わしたい……貴方の愛をもっと感じていたい。
自然と引き寄せられるように唇が重なり、白梅香の香りがいっそう強くなる。
この香りが好き……為広さまの纏う甘く優しい梅の香が……。
「千代。俺は為広という。平塚為広だ。……よろしく頼む。俺の……妻よ」
琥珀色の瞳が緩やかな弧を描いて私を見つめている。
ああ……ようやくお顔を見ることができました。
こんなに綺麗な目をしていらっしゃるのですね為広さま……。
「この日をずっと待ちわびていました……。
為広さまの妻になる日を……それが少し早くなってしまっただけ……それだけです。
私の気持ちはとうに決まっていたのです。
為広さま……私の旦那さま……どうぞよろしくお願いいたします。」
そっと髪を撫でるように触れながら頬へと手を伸ばし為広さまの唇へと口付ける。
貴方の愛に応えたい。私からも貴方へ愛を返したい。
お家の為ではありません。
私は本当に……心から貴方を愛しています。
私は文を交わしたお相手の所へ嫁ぐ事になりました。
父様母様からは、お相手のお家にご挨拶に伺うと聞いた筈なのですが……
「初めまして平塚様。私は千代と申します、この度はお招きくださり本当にありがとうございま………
「千代さん!!」
深々と頭を下げ、三つ指をついて挨拶を口にしていた途中で突然降りかかった声に驚き顔を上げると、目の前には大奥様のお顔。
「こっちへいらっしゃいな!!祝言を挙げますよ!!祝言!!」
「え……えっ?……ご挨拶じゃ……??」
勢い良く右手を掴んで引き寄せられる。
大奥様の行動に思考が追い付かず、そのまま引きずられるようにお屋敷の奥へと通される。
それはまるで嵐のようでした。
大奥様の一声でお屋敷の人達が慌ただしく動き始め、本当に祝言の準備を始めていて……私はというと白無垢に袖を通していました。
梅の花と飛び立つ鶴が描かれた美しい白無垢。
目の前には大奥様がいらっしゃって赤い唇が弧を描いていました。
「私の時の白無垢ですけれど……問題はないみたいですね。」
そう言うと大奥様は私の顔に化粧を施し始めました。
おしろいを塗って頬紅をつけて、最後に筆で赤い紅をひいていく。
「よし、できた!ほら見てごらんなさいな!」
大奥様が差し出した鏡には化粧を施された私の顔が映る。
白無垢を纏い紅をさした自分の姿。
大奥様の嬉しそうなお顔を見ていると心からこの祝言を喜んでくださっているのだという感情が伝わってきて……
私もつられて笑みが溢れました。
しかし……本当にこのまま祝言をあげてしまうつもりなのでしょうか……?
私はまだお相手の方に……為広さまに一度もお会いしたことは無いというのに……。
「あの……大奥様……」
せめて祝言の前に為広さまとお話はできないでしょうか…?
そう問いかけようと口を開いた私でしたが、その言葉はお屋敷の人の呼び声にかき消されてしまいました。
「大奥様!お式の準備が整いました!!」
「よしよし、じゃあ、行きましょうか千代さん!!」
「あ……はい。」
沢山の人が慌ただしく動いている。
きっと思考が追い付いていないのは私だけ……。
だってこの結婚はもう決まっていた事なのですから。
それが少し早まっただけ。
とても緊張している……指先が冷たくなって……頭のなかは真っ白でどうしたらいいのか解らない。
白無垢に袖を通し、綿帽子を被って大奥様に手を引かれて通路を歩いているけれど……。
私はこれから何をするのか……何をしたらいいのかが解らない……お式の事も…お相手のお顔も解らないまま私は祝言に臨もうとしている。
指先が震えている。
一歩、また一歩と歩を進める度にどんどん緊張していって、胸の奥は不安な気持ちでいっぱいになった。
心臓の音が煩くて他の音が耳に入らない。
こんな気持ちで式に臨んでいいのでしょうか…?
そんな事を考えながら歩いているとやがて大奥様は大きな部屋の前で足を止めた。
わずかに視線を上げてみると、目の前に男の人の両足が見えた。
ゆるりと揺れる美しく整えられた灰色の獣の尾。
もしかして……この方が為広さまでしょうか……?
何か大奥様と会話をされているけれど……今の私はそれを聞き取れる程の余裕はなくて……。
視線を落として自分の爪先を見つめていると、ふと脳裏にこんな思いが過る。
今ならお相手のお顔が見れるのではないのでしょうか…?と。
もう少しだけ顔を上げたら私の目の前に立つお相手の顔を……為広さまのお顔を見ることができるのではないでしょうか……?
少しずつ顔を上げてみる。
見えるのは胸元だけでお顔は見えない……。
もう少し……もう少し私の背があったら為広さまのお顔が見れるのに……。
「千代。」
「は…はい……!?」
頭上から降ってきた低く太い男性の声に驚き返事を返す。
今自分が返した声の不自然なことと言ったら……そう思うとなんだか恥ずかしくなってきて頬が一気に熱を持つ。
すると目の前に大きな手が差し出されて再び声が降ってくる。
「おいで。千代。」
力強く胸に響く優しい声。
これが為広さまのお声……。
差し出された掌に私の右手を重ねる。
右手に伝わる温もり……この人が私のお相手……
優しく甘い梅の花の香りが鼻腔に届く。
為広さまが動く度にその香りは強くなっていく。
なんて良い香りでしょう……。
導かれるようにして隣に並ぶようにして立てば周りに聞こえないくらいの小さな声で「怖いか?」と貴方は問う。
ちゃんと聞こえてます…。今度は聞こえます。
為広さまの声だけが私の耳に届いています。
「いいえ…怖くありません。」
先程まで煩かった心臓の音も今は少しだけ落ち着いて、身体の緊張も和らいでいる。
「怖くありません。為広さまとなら……一緒に歩けます。」
私がそう答えると「そうか。」と短く言葉が返る。短い言葉だったけれど…その声には微かに喜びの感情が滲んでいるように聞こえるのです。
朱塗りの杯に注がれたお酒に赤い紅をさした私の顔が映る。
鏡で見たときとは違う私の顔がそこに映されている。
もう不安などありません。
私はこの人と共に歩みたい……。
杯に浮かべられた花弁と一緒にお酒を口にすれば、微かに頬が熱を持つ。
痺れるような感覚を舌先に感じながら少しずつ口にする。
杯に残った酒の香りか、部屋に満ちるお香の香りか……強い梅の花の香りが鼻腔に届いている。
頬がほんのりと熱を帯びてさっきよりも鈍くなった思考の私を他所に式はどんどん進行していく。
ふと、隣に立つ為広さまの方へと視線を向ける。
どうにかお顔は見れないものかと少しずつ視線を上げてみるけれど……やはり見えない。
この人とお話をしたい。もっとお声を聞きたい。
まだ祝言の途中だというのにそんな事ばかりを考えている……。
陽の光りが満ちる祝言の席に二羽の小鳥の楽しげな囀ずりが届いてくる。
まるでこの祝言を祝福してくれているかのように。
すっかり日が落ちてお庭からは虫達の声が響いている。
式を終えて化粧を落とし、白無垢の代わりに寝巻を纏う。
ようやく為広さまと二人だけでお話ができると安堵していたのですが……
「あの……為広さま……これは……」
今夜はここで休むようにと通された部屋には大きな布団が一組だけ。
隣の方へと視線を向ければそこには申し訳なさそうな顔をした為広さまのお姿……
「あの……これはやはり私達に……その……夫婦の務めを果たせという事なのでしょうか……?」
「あー……ったく!!うちの連中は何でもかんでもやる事が先走り過ぎだっての。一々せっかち過ぎんだろ……!」
頭の後ろをガシガシと乱暴に掻いてここにいない誰かへ向けながら言葉を口にする。
そんな為広さまの横顔を見ながらふと思う……私は今日この方の妻になった。
ならば……この状況も至極当然の流れなのだと。
頬が熱い。あの光景を見て理解できない私ではありません。
望まれているものが何なのかも……
ですが……いざこうして目の前にそれが広がっているのを見ると……
奇妙な沈黙が続いて、なんと切り出せば良いのか解らない。
こんなときはなんと言えばいいのでしょうか……?
私から……誘えばいいのでしょうか?
「為広さま……あの……私、は……」
声をかけようと顔を上げれば燭台に照らし出された為広さまのお顔が視界に映る……そのお顔は心なしか困っていらっしゃるようにも見えて……
なんだか……申し訳ない気持ちになってしまった。
だって……義務感で抱かなければいけないなんて……そんなのおかしい。
為広さまの気持ちがなければそれは本当の意味で結ばれた事にはならないとそう思うから……。
抱いてくださいなんて言えない。
「……そう縮こまんなって。別に取って喰うつもりもお前に無体を働く気もねえよ。……何もしない。が、少し話はしたい。こうして二人だけで話す機会もなかっただろう?俺もお前もあれよあれよと話が進んじまって祝言の日になっちまった」
突如かけられた声に驚いて顔を上げれば優しく微笑みながら言葉を紡ぐ為広さまのお顔があった。
式の直前に聞いたあの甘く優しい声で私に語りかけている……。
強ばっていた身体が解けていく。式の時のように……。
為広さまが動くと同時に白梅花の香りがふわりと漂う。
「まあ、座れよ。……勿論、無理強いをするつもりはねえけどな。部屋なら他にもある。俺が出て行く。……千代はとにかく少し休んだ方がいい。体力に無駄に自信がある俺と違ってお前は女だ。それに遠方からわざわざこの家に来てくれたわけだしな」
為広さまが…別のお部屋に…?
為広さまの気遣いはとても嬉しい……でも……それでは為広さまのお気持ちはどうなるのでしょう……?
祝言をあげたその日の夜に、私に気を遣って1人で夜を過ごすなど……そんな酷なことはできません。
私はこの方と一緒にいたい…もっとお話がしたい…。
「あの……私、今日は色々あってまだ気持ちの整理がついて来ていないのですが……もう少しお話をしたくて……」
思わず為広様の寝巻の裾を掴んだ。
ここにいてほしいと貴方のことを引き留めたくて。
視界の端で為広さまの尾がゆるりと揺れた。
「……俺もだ。俺も千代と話がしたい。さっきも言ったが二人きりでこうしてゆっくり話すのも初めてだからな。改めて……初めまして、だな。千代」
そう言って私の手を優しく包む。
ああ……この手の温もりは……祝言の前に触れたあの手と同じ。
「……愛らしいな」
「えっ?」
「千代が、だ。今まで声と文だけでやり取りをしてきたが―……考えていたんだ。もっとお前の声が聞きたい出来るのならば顔を見てみたいってよ。……思った通りだ、お前は愛らしい」
胸の奥で私の心臓が跳ねる。
煩いくらいに騒いで息をするのも難しい…。
文を交わしていたとはいえ、満足に言葉を交わすことも顔を合わせる事もなく祝言をしてしまったこと……本当はどう思っていらっしゃるのだろうかと……少しだけ不安だった……為広さまは本当は望んではいなかったのではないかと。
でも…そうじゃなかった…この方は私を受け入れてくださっている。
愛情を向けてくださっている……。
その言葉が嬉しかった。不安な気持ちがかき消されて、愛おしい気持ちがどんどん満ち溢れていく……。
もっと触れたい、もっと声を聞きたい……この方にもっと触れてもらいたい……。
優しく私の手を包む大きな手が愛おしくてたまらない……誰に教えられた訳でもなく自然とその手に頬を寄せている自分がいた。
「……怖くはないのか?今日顔を知ったばかりの男とこうして二人でいる事が。お前よりも図体がデカくて牙もある俺の事が」
「……はい、怖くは……ありません」
確かに、私達はお互いをまだ良く知りません……祝言だって気持ちの整理がつかないまま執り行われてしまいました。
ですが……私は式の間もずっと為広さまに惹かれていました。
ずっと貴方とお話がしたかった。お顔を見たくてずっと貴方の事ばかり考えていた。
貴方の声が……重ねてくれた手の温もりが私の心を解きほぐしてくれた。
名前を呼ばれて引き寄せられる。
包むように抱き締めて頬をすり寄せる。
愛おしくてたまらないと言うように……強く優しく。
私もそれに答えるように頬を寄せる。
もっと触れてほしいと口には出さずに。
私も貴方ともっと触れたい……言葉を交わしたい……貴方の愛をもっと感じていたい。
自然と引き寄せられるように唇が重なり、白梅香の香りがいっそう強くなる。
この香りが好き……為広さまの纏う甘く優しい梅の香が……。
「千代。俺は為広という。平塚為広だ。……よろしく頼む。俺の……妻よ」
琥珀色の瞳が緩やかな弧を描いて私を見つめている。
ああ……ようやくお顔を見ることができました。
こんなに綺麗な目をしていらっしゃるのですね為広さま……。
「この日をずっと待ちわびていました……。
為広さまの妻になる日を……それが少し早くなってしまっただけ……それだけです。
私の気持ちはとうに決まっていたのです。
為広さま……私の旦那さま……どうぞよろしくお願いいたします。」
そっと髪を撫でるように触れながら頬へと手を伸ばし為広さまの唇へと口付ける。
貴方の愛に応えたい。私からも貴方へ愛を返したい。
お家の為ではありません。
私は本当に……心から貴方を愛しています。
