第15章 極北の地
私は善い羊飼いである。善い羊飼いは羊の為に命を捨てる。羊飼いではなく、羊が自分のものでもない雇い人は、狼が来るのを見ると羊を置き去りにして逃げる。すると狼は羊を奪い、また追い散らす。彼は雇い人であって羊の事を心に掛けていないからである。
私は善い羊飼いであり、自分の羊を知っており、私の羊もまた私を知っている。それは私の父が私を知っておられ、私も父を知っているのと同じである。そして、私は羊の為に命を捨てる。
私にはこの囲いに入っていない他の羊もある。私はその羊達をも導かなければならない。彼らも私の声を聴き分ける。こうして一つの群れ、一人の羊飼いとなる。再びそれを得るために、私は自分の命を捨てる。それ故、父は私を愛して下さる。
誰も私から命を奪いはしない。私が自分から命を捨てる。私は自由に命を捨て、また再び自由に命を得る力を有している。私はこの掟を父から受けた。
【ヨハネによる福音書 第10章】
「そこのあなた!暇をしているならそこに積んである栄養剤を運ぶのを手伝ってちょうだい!重くて私じゃ持ち上がらないの」
「あっ?俺もそんなに暇じゃ―……分かった。分かったから。運べばいいんだろ、運べば?」
西の山の稜線に日が沈む。昼と夜の狭間の時間だ。昼の抜けるような青が夕方の朱色に、そして夜の紫紺に飲み込まれ徐々に消えていく。今日が終わっていく。
腰を屈め女に指示された木箱を持ち上げれば、詰め込まれた瓶と瓶とが軽く触れあってガチャリ、と硬質な音を奏でた。確かにこれはそれなりに、重い。
「ありがとう。あなたが手伝ってくれてとても助かったわ」
「……物運びならあんたがいつも一緒にいる眼鏡の男にさせろよ……」
「もしかしてそれ潤ちゃんのこと?ふふっ……そんな事をさせたら潤ちゃんぎっくり腰を起こして余計な怪我人が一人増えるかもしれないけれど……それでもいいかしら?」
修道女の―……アガタという名前の女が被る赤いヴェールが北から吹く寒風を受けて瞬間ふわりと広がり、そして靡いた。エテルが被っている物とは違う赤い色のヴェールが視界の一部に広がる。
「ふふふっ……でも本当にありがとう。お手伝いをしてくれたお礼にあなたにも一本これをあげるわ」
「うげえ……これゲロ不味いってあちこちで言われてるやつじゃねえか……」
「あら?その口ぶりだとあなたはまだ潤ちゃんの栄養剤を飲んだ事がないのかしら?なら余計に一度は飲んだ方がいいわ」
アガタの瞳がゆるく弧を描いた。純粋な笑みのようにも何かを含んだようにも見える笑顔に一つ、自分の口から深い息が零れて落ちた。
「噂に踊らされて判断するなんて馬鹿げていると思わない?人というフィルターを通している以上、大なり小なりそこには偏見が含まれているわ。潤ちゃんが作ったこれだって実際飲んでみたら言うほど不味くはないかもしれないわよ?」
「……」
自分の手の平ほどの大きさのガラス瓶に夕間暮れのか細い光が一条差し込んだ。影とは違う光が自分の手の平の上に不規則な模様を描く。
瓶を封じている栓を引き抜き仰ぐようにして一気にサラリとした液状の何かを胃へと流し込んだ。それと同時に青臭い草の匂いがツン、と鼻の奥を刺激する。美味いか不味いかと問われれば間違いなく前者だ。だが―……
「確かに……不味いけど……言うほどに不味くはないかも……しれない」
「あら本当?それ、潤ちゃんに言ってあげてね。無表情で言葉を一言返されるだけかもしれないけれど、彼きっと喜ぶと思うから。……潤ちゃんね、ここに来てからもずっと味の改良を続けているの。少しでも飲みやすくなるように、少しでも栄養失調で死ぬ人がいなくなるように、ね」
「……そうだったのか。あんたらがここに来てからもう結構になるしな……」
「そうね。色々あったわ。取っ組み合いの喧嘩があったり、みんなで襲って来た竜を駆除したり。……本当に色々な事が」
夕暮れの光が流れて、消えていく。消える光に変わって一つ、また一つとキャンプのテントに明かりが灯っていく。夕餉の準備に活気付く声があたりを包んでいた。
「……今は小康状態。前よりも活気を取り戻して来たわ。でも本当の正念場はここから。彼らが―……難民達が落ち着ける場所を探さなくては―……」
「王都か?そりゃ無理な話だ。確かにここには赤軍所属の衛生兵達もいるが、これは一種のパフォーマンスの慈善事業だからな。ここにいる連中はみんな善意から活動しているんだろうが、難民をキャンプで足止めをし、これ以上南下させないようにする意図があるようにも見える。大方そんなところだろう、臨時政府の考えている事なんざ」
「そうね。私もそうだと思っているわ。難民が全て善人ではない事も知っている。難民が流出する事で治安が悪くなる場所もあるでしょう。……だから本当はこの人達を国へ帰してあげることが一番なのよ。でも、ここより北は―……」
そこまで言葉を紡ぐとアガタはふるりと首を一度横に振り口を閉ざした。この先は言いたくないと言うように。
「私達に出来る事は小さなこと。小さなことを大きな愛を込めて行う。……ただそれだけよ」
名残日が散っていく。原始的な人の叡智の結晶である焚火の火がその周りだけ闇を払っていた。
++++++++++++++++++++
「……キャンプの司令官とは、話をしてきました。私は、キャンプを離れてさらに先に進みたいと思っています。“現実”を知るために。そのためには、メドラウトさんの力が絶対に必要です。だから、――だから、私と一緒に、この先も一緒に来てくれませんか? 無理にとは言いません。でも、……ついてきてくれたら、嬉しいです」
乾燥した空気が渦巻いていた。バチリ、と目の前で焚火にくべた木が小さく爆ぜる。エテルの被る半透明のヴェールが靡き、踊っていた。月影が、そして火の灯りが彼女の白い頬を淡く染めている。
俺が割り当てられたテントまでやって来て言葉を切り出すと、エテルは薄い唇を真一文字に結んだ。けして俯かず真っ直ぐに俺を見据えながら言葉を待っている。
「……エテル。お前、自分が今何を言ったか分かってるのか?俺がお前に何を言いたいか分かるか?」
「……行くな、と引き留められる可能性が高いとは思っています。この先は純血主義者達の住む領域です。半純血の私が彼の地の方々に歓迎を受ける事はないでしょう。それに、先日キャンプを襲撃した竜は北の地より飛来したように見えました。何かが起きている、それも良くない事が。……メドラウトさんは私の護衛としてここまで来てくださいました。私が先に進むという事はあなたをも危険な目に合わせるかもしれないという事です。でも……それでも……私は……何かを、したい……」
彼女は、エテルは賢い。きちんと自分が置かれた現状を把握し、その先をも予測する。それどころか周りにも心を配り、心を砕く。だが―……
「分かってねえよ……お前……やっぱり……」
「あっ……メド、ラウトさん……?」
身体が自然に動いていた。思うよりも早く。エテルの細腕を引き手繰り寄せ、閉じ込めていた。自分の腕の中に。自分のものとは違う体温が腕を通じ伝わる。乾いた夜風が腕で覆いきれなかった彼女のヴェールを揺らしていた。
「エテル。お前は周りの人間に対して心を砕く事が出来る。他人を想う事が出来る。だけど、お前を案じる人間もいるんだ。お前がさっき俺の身を案じてくれたように、な」
腕に微かに力を込めた。彼女の、エテルの髪の香りが優しく鼻腔を擽る。じわりとした情が胸に広がっていった。
ああ、本音を言えば進ませたくない。エテル自身が言ったようにこの先何があるか予想ができないからだ。でも、同時にこうも思う。ここで無理矢理押さえつける事は彼女の覚悟を殺す行為なんじゃないか、と。
エテルは言った。”現実”を見たいのだ、と。ここで彼女を引き留めれば彼女の覚悟を無為にすることになる。だが、危険な目には合わせたくない。俺はどうすればいい?……答えは一つしかない。
「行こう、エテル」
「メド、ラウト……さん……」
「エテル……一緒に行こう。俺は王宮騎士だ。だが……ここから先はお前を守る騎士にしてくれ。お前の身に降りかかる厄は俺が全て払おう」
身体と心を両方守ればいい。彼女が”現実”を見る覚悟を決めたというならば、俺は守る覚悟を決めればいい。惚れた女一人守れないで何が騎士だ。
「……好きだ、エテル。俺をエテルの騎士にしてくれ」
視界の端でエテルから貰った飾り紐が揺れていた。
≪アナム・メドラウト≫
私は善い羊飼いであり、自分の羊を知っており、私の羊もまた私を知っている。それは私の父が私を知っておられ、私も父を知っているのと同じである。そして、私は羊の為に命を捨てる。
私にはこの囲いに入っていない他の羊もある。私はその羊達をも導かなければならない。彼らも私の声を聴き分ける。こうして一つの群れ、一人の羊飼いとなる。再びそれを得るために、私は自分の命を捨てる。それ故、父は私を愛して下さる。
誰も私から命を奪いはしない。私が自分から命を捨てる。私は自由に命を捨て、また再び自由に命を得る力を有している。私はこの掟を父から受けた。
【ヨハネによる福音書 第10章】
「そこのあなた!暇をしているならそこに積んである栄養剤を運ぶのを手伝ってちょうだい!重くて私じゃ持ち上がらないの」
「あっ?俺もそんなに暇じゃ―……分かった。分かったから。運べばいいんだろ、運べば?」
西の山の稜線に日が沈む。昼と夜の狭間の時間だ。昼の抜けるような青が夕方の朱色に、そして夜の紫紺に飲み込まれ徐々に消えていく。今日が終わっていく。
腰を屈め女に指示された木箱を持ち上げれば、詰め込まれた瓶と瓶とが軽く触れあってガチャリ、と硬質な音を奏でた。確かにこれはそれなりに、重い。
「ありがとう。あなたが手伝ってくれてとても助かったわ」
「……物運びならあんたがいつも一緒にいる眼鏡の男にさせろよ……」
「もしかしてそれ潤ちゃんのこと?ふふっ……そんな事をさせたら潤ちゃんぎっくり腰を起こして余計な怪我人が一人増えるかもしれないけれど……それでもいいかしら?」
修道女の―……アガタという名前の女が被る赤いヴェールが北から吹く寒風を受けて瞬間ふわりと広がり、そして靡いた。エテルが被っている物とは違う赤い色のヴェールが視界の一部に広がる。
「ふふふっ……でも本当にありがとう。お手伝いをしてくれたお礼にあなたにも一本これをあげるわ」
「うげえ……これゲロ不味いってあちこちで言われてるやつじゃねえか……」
「あら?その口ぶりだとあなたはまだ潤ちゃんの栄養剤を飲んだ事がないのかしら?なら余計に一度は飲んだ方がいいわ」
アガタの瞳がゆるく弧を描いた。純粋な笑みのようにも何かを含んだようにも見える笑顔に一つ、自分の口から深い息が零れて落ちた。
「噂に踊らされて判断するなんて馬鹿げていると思わない?人というフィルターを通している以上、大なり小なりそこには偏見が含まれているわ。潤ちゃんが作ったこれだって実際飲んでみたら言うほど不味くはないかもしれないわよ?」
「……」
自分の手の平ほどの大きさのガラス瓶に夕間暮れのか細い光が一条差し込んだ。影とは違う光が自分の手の平の上に不規則な模様を描く。
瓶を封じている栓を引き抜き仰ぐようにして一気にサラリとした液状の何かを胃へと流し込んだ。それと同時に青臭い草の匂いがツン、と鼻の奥を刺激する。美味いか不味いかと問われれば間違いなく前者だ。だが―……
「確かに……不味いけど……言うほどに不味くはないかも……しれない」
「あら本当?それ、潤ちゃんに言ってあげてね。無表情で言葉を一言返されるだけかもしれないけれど、彼きっと喜ぶと思うから。……潤ちゃんね、ここに来てからもずっと味の改良を続けているの。少しでも飲みやすくなるように、少しでも栄養失調で死ぬ人がいなくなるように、ね」
「……そうだったのか。あんたらがここに来てからもう結構になるしな……」
「そうね。色々あったわ。取っ組み合いの喧嘩があったり、みんなで襲って来た竜を駆除したり。……本当に色々な事が」
夕暮れの光が流れて、消えていく。消える光に変わって一つ、また一つとキャンプのテントに明かりが灯っていく。夕餉の準備に活気付く声があたりを包んでいた。
「……今は小康状態。前よりも活気を取り戻して来たわ。でも本当の正念場はここから。彼らが―……難民達が落ち着ける場所を探さなくては―……」
「王都か?そりゃ無理な話だ。確かにここには赤軍所属の衛生兵達もいるが、これは一種のパフォーマンスの慈善事業だからな。ここにいる連中はみんな善意から活動しているんだろうが、難民をキャンプで足止めをし、これ以上南下させないようにする意図があるようにも見える。大方そんなところだろう、臨時政府の考えている事なんざ」
「そうね。私もそうだと思っているわ。難民が全て善人ではない事も知っている。難民が流出する事で治安が悪くなる場所もあるでしょう。……だから本当はこの人達を国へ帰してあげることが一番なのよ。でも、ここより北は―……」
そこまで言葉を紡ぐとアガタはふるりと首を一度横に振り口を閉ざした。この先は言いたくないと言うように。
「私達に出来る事は小さなこと。小さなことを大きな愛を込めて行う。……ただそれだけよ」
名残日が散っていく。原始的な人の叡智の結晶である焚火の火がその周りだけ闇を払っていた。
++++++++++++++++++++
「……キャンプの司令官とは、話をしてきました。私は、キャンプを離れてさらに先に進みたいと思っています。“現実”を知るために。そのためには、メドラウトさんの力が絶対に必要です。だから、――だから、私と一緒に、この先も一緒に来てくれませんか? 無理にとは言いません。でも、……ついてきてくれたら、嬉しいです」
乾燥した空気が渦巻いていた。バチリ、と目の前で焚火にくべた木が小さく爆ぜる。エテルの被る半透明のヴェールが靡き、踊っていた。月影が、そして火の灯りが彼女の白い頬を淡く染めている。
俺が割り当てられたテントまでやって来て言葉を切り出すと、エテルは薄い唇を真一文字に結んだ。けして俯かず真っ直ぐに俺を見据えながら言葉を待っている。
「……エテル。お前、自分が今何を言ったか分かってるのか?俺がお前に何を言いたいか分かるか?」
「……行くな、と引き留められる可能性が高いとは思っています。この先は純血主義者達の住む領域です。半純血の私が彼の地の方々に歓迎を受ける事はないでしょう。それに、先日キャンプを襲撃した竜は北の地より飛来したように見えました。何かが起きている、それも良くない事が。……メドラウトさんは私の護衛としてここまで来てくださいました。私が先に進むという事はあなたをも危険な目に合わせるかもしれないという事です。でも……それでも……私は……何かを、したい……」
彼女は、エテルは賢い。きちんと自分が置かれた現状を把握し、その先をも予測する。それどころか周りにも心を配り、心を砕く。だが―……
「分かってねえよ……お前……やっぱり……」
「あっ……メド、ラウトさん……?」
身体が自然に動いていた。思うよりも早く。エテルの細腕を引き手繰り寄せ、閉じ込めていた。自分の腕の中に。自分のものとは違う体温が腕を通じ伝わる。乾いた夜風が腕で覆いきれなかった彼女のヴェールを揺らしていた。
「エテル。お前は周りの人間に対して心を砕く事が出来る。他人を想う事が出来る。だけど、お前を案じる人間もいるんだ。お前がさっき俺の身を案じてくれたように、な」
腕に微かに力を込めた。彼女の、エテルの髪の香りが優しく鼻腔を擽る。じわりとした情が胸に広がっていった。
ああ、本音を言えば進ませたくない。エテル自身が言ったようにこの先何があるか予想ができないからだ。でも、同時にこうも思う。ここで無理矢理押さえつける事は彼女の覚悟を殺す行為なんじゃないか、と。
エテルは言った。”現実”を見たいのだ、と。ここで彼女を引き留めれば彼女の覚悟を無為にすることになる。だが、危険な目には合わせたくない。俺はどうすればいい?……答えは一つしかない。
「行こう、エテル」
「メド、ラウト……さん……」
「エテル……一緒に行こう。俺は王宮騎士だ。だが……ここから先はお前を守る騎士にしてくれ。お前の身に降りかかる厄は俺が全て払おう」
身体と心を両方守ればいい。彼女が”現実”を見る覚悟を決めたというならば、俺は守る覚悟を決めればいい。惚れた女一人守れないで何が騎士だ。
「……好きだ、エテル。俺をエテルの騎士にしてくれ」
視界の端でエテルから貰った飾り紐が揺れていた。
≪アナム・メドラウト≫
