第15章 極北の地
互いに愛し合う事の他に、誰に対しても負い目があってはなりません。他人を愛する者は、律法を完全に果たしているのです。
「姦通してはならない。殺してはならない。盗んではならない。貪ってはならない」など、また他に何の掟があっても、それは「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。
愛は隣人に悪を行いません。従って、愛は律法を完全に果たすものです。
あなた方は今がどのような時であると知っているのですから、事は尚更重大です。もはや眠りから覚めるべき時刻なのです。今や私達が信じ始めた時よりも、救いはいっそう近いのです。
夜は更け、日は近付きました。ですから、闇の業を捨て、光の武具を身に付けましょう。身持ちを崩したり、争ったり、妬んだりする事なく、日中歩くように慎み深く生活をしましょう。
愛を身に纏いなさい。欲望を叶えさせようと肉の為に心を煩わせてはなりません。
【ローマの人々への手紙 第13章】
自分にとっては嗅ぎ慣れた白梅香の香りが不意に鼻腔を擽った。季節は梅の花が咲く早春にはまだ遠い晩秋であり庭を彩る色彩も梅花の白ではなく散る紅葉の赤だが、屋敷の中には確かに季節外れの梅花が咲き乱れていた。香りの花が咲いている。
朱塗りの器に注がれた清酒に鏡のように自分の顔が映り込む。浮かび揺れる自身の虚像と浮かべられた梅花の花弁ごと酒を口に含み喉の奥へと流し込んだ。……少しばかり甘い梅の酒を。
ふっと、隣へと視線を向ければ白無垢の袖の下から覗くほっそりとした指先があった。桜色に染まった指先で盃を受け取り静かに口元へと運んでいる。綿帽子に隠されて表情を伺う事は今は出来ないが、赤い紅を引いた愛らしい唇だけは見る事が出来た。
自然と眦が、そして口元が三日月のような弧を描いた。それは期待からなのか、はたまた案じる気持ちから生じる苦笑だったのか……自分でそれを判断する事が出来ずにいる。
朱塗りの盃の端に残った梅花を見つめ一つ息を吐き出した。庭の小鳥は言祝ぐように囀り枝から枝へと渡る。
この女とこれから歩む道を照らすかのように祝言の席まで伸びる陽光に目を細める。ああ……梅の花が……咲いている。
「あの……為広さま……これは……」
「そりゃ確かに祝言を上げたから夫婦だけどよ……」
式の間言祝いでいた小鳥達は夜の眠りの底へと沈み、代わりに晩秋の庭に虫達の声が響く。人間の宴が酣となりお開きになろうが虫の宴は続いているらしい。まあ、その宴ももうすぐ終いになるんだろうが。もう少しすれば雪によく似た雪虫が舞い始め、そして本物の雪が天から落ちて来る。
「あの……これはやはり私達に……その……夫婦の務めを果たせという事なのでしょうか……?」
「あー……ったく!!うちの連中は何でもかんでもやる事が先走り過ぎだっての。一々せっかち過ぎんだろ……!」
部屋の隅の灯された伸び縮みする燭台の灯火が俺の隣にいる小さな女の白い頬を微かに照らしていた。薄暗い明るさの中でも分かるぐらい頬を朱色に染めて体を縮め俯いてしまった彼女に対して湧いた感情は一種の申し訳なさだった。
当たり前だ。今日はここで休めと二人で通された部屋にはたった一組しか布団が敷いてなかったんだからな。
縁談の取り纏めといい祝言の事といい……自分の親ながら行動のあまりの早さに呆れる。ある意味で感動さえする。
後ろ手で自分の頭を乱暴に掻きながらこの状況を生み出したであろう犯人の顔を浮かべ舌打ちを吐いた。間違いねえ、やったのはうちの親だ。アホか?今日顔合わせしたばっかりだぞ、俺達?そんなに孫の顔が見たいのか!?あの親は!?
「為広さま……あの……私、は……」
「……そう縮こまんなって。別に取って喰うつもりもお前に無体を働く気もねえよ。……何もしない。が、少し話はしたい。こうして二人だけで話す機会もなかっただろう?俺もお前もあれよあれよと話が進んじまって祝言の日になっちまった」
嫁の……千代と名乗る娘の華奢な背を片手で軽く叩き座るように促した。戸惑う背中を僅かに押すようにして。
「まあ、座れよ。……勿論、無理強いをするつもりはねえけどな。部屋なら他にもある。俺が出て行く。……千代はとにかく少し休んだ方がいい。体力に無駄に自信がある俺と違ってお前は女だ。それに遠方からわざわざこの家に来てくれたわけだしな」
「あの……私、今日は色々あってまだ気持ちの整理がついて来ていないのですが……もう少しお話をしたくて……」
「……俺もだ。俺も千代と話がしたい。さっきも言ったが二人きりでこうしてゆっくり話すのも初めてだからな。改めて……初めまして、だな。千代」
祝言の時、陽光に浮かび上がっていた桜色の指先が、そして鮮やかな唇が脳裏に蘇る。今は橙の行燈の灯りで染まった細い千代の指先を自分の武骨な手で包むように握り締めた。……やはり細く、そして何より温かい。
行燈の灯りが照らしていた。彼女の匂い立つ桜の花のように瑞々しい姿を。千代は可憐な女だった。滝のように流れる烏の濡れ羽根のような黒々とした髪、雪を固めたような白磁の肌、薔薇(ソウビ)のように赤い唇。そして、深い青と緑とが混じった玉の瞳。ここまで美しい娘だったとは……。感嘆の息が部屋に満ちる香の煙と混ざり靡く。
「……愛らしいな」
「えっ?」
「千代が、だ。今まで声と文だけでやり取りをしてきたが―……考えていたんだ。もっとお前の声が聞きたい出来るのならば顔を見てみたいってよ。……思った通りだ、お前は愛らしい」
緩慢な動作で腕を伸ばし、白磁の頬へと触れれば、彼女は驚く様子も嫌がり俺の手を振り払う素振りも見せなかった。代わりに目蓋を閉じて甘えるように手に頬を寄せる姿が……愛い。
「……怖くはないのか?今日顔を知ったばかりの男とこうして二人でいる事が。お前よりも図体がデカくて牙もある俺の事が」
「……はい、怖くは……ありません」
その問い掛けに返って来た言葉は俺を受け入れる言葉だった。澄んだ碧玉に俺の姿を真っ直ぐに映し微笑む千代の姿に胸が掴まれる思いがした。気持ちがグラリと頼りなく揺れる。
「千代……」
「あっ……」
熱に動かされるように彼女の細腕を引き自分の腕の中に囲い彼女の体を覆った。梅花の香りとは違う……彼女の甘く優しい香りが俺の鼻腔を擽り満たしていく。
「取って喰うつもりはないとは言ったが……前言撤回だ。千代にこうして触れていたい。千代をこうして抱きしめていたい。お前ともっとこうして言葉を交わしていたい」
気持ちを流し注ぐように彼女の唇に唇で触れて封をした。無体は働かないと千代に言ったのは自分自身だろう、と笑う自分を心の中でぶん殴り黙らせる。
親密な時間が流れていた。今まで感じた事がない感情だった。触れて寄せて、満ちていく。水が沁みるように。悴む手が温まっていくように。じわりじわりと広がっていく。指を絡め、もう一度柔らかな唇へと口付けを落とした。
愛おしい。容姿に惹かれただけではない。何より千代の仕草がそして言葉が愛おしく思えるんだ。優しく微笑むその姿が、俺を信頼し甘えるような仕草が愛らしいんだ。
「……千代、すまん。お前があまりに可愛らし過ぎて欲が抑えられなかった。……許してほしい」
夜が更けているにも拘らず光が満ちていた。千代に八千代に、苔の生すまで。この女と共に歩みたいと思うのは早計だろうか?……いや、違う。早計なんかじゃねえ。
千代とならば……俺との祝言を自身の身に降りかかった理不尽な悲劇と思わず、恐れず拒絶せずに優しく微笑んでくれた女とならば……歩んでいけるという確信がある。
「千代。俺は為広という。平塚為広だ。……よろしく頼む。俺の……妻よ」
≪平塚為広≫
「姦通してはならない。殺してはならない。盗んではならない。貪ってはならない」など、また他に何の掟があっても、それは「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。
愛は隣人に悪を行いません。従って、愛は律法を完全に果たすものです。
あなた方は今がどのような時であると知っているのですから、事は尚更重大です。もはや眠りから覚めるべき時刻なのです。今や私達が信じ始めた時よりも、救いはいっそう近いのです。
夜は更け、日は近付きました。ですから、闇の業を捨て、光の武具を身に付けましょう。身持ちを崩したり、争ったり、妬んだりする事なく、日中歩くように慎み深く生活をしましょう。
愛を身に纏いなさい。欲望を叶えさせようと肉の為に心を煩わせてはなりません。
【ローマの人々への手紙 第13章】
自分にとっては嗅ぎ慣れた白梅香の香りが不意に鼻腔を擽った。季節は梅の花が咲く早春にはまだ遠い晩秋であり庭を彩る色彩も梅花の白ではなく散る紅葉の赤だが、屋敷の中には確かに季節外れの梅花が咲き乱れていた。香りの花が咲いている。
朱塗りの器に注がれた清酒に鏡のように自分の顔が映り込む。浮かび揺れる自身の虚像と浮かべられた梅花の花弁ごと酒を口に含み喉の奥へと流し込んだ。……少しばかり甘い梅の酒を。
ふっと、隣へと視線を向ければ白無垢の袖の下から覗くほっそりとした指先があった。桜色に染まった指先で盃を受け取り静かに口元へと運んでいる。綿帽子に隠されて表情を伺う事は今は出来ないが、赤い紅を引いた愛らしい唇だけは見る事が出来た。
自然と眦が、そして口元が三日月のような弧を描いた。それは期待からなのか、はたまた案じる気持ちから生じる苦笑だったのか……自分でそれを判断する事が出来ずにいる。
朱塗りの盃の端に残った梅花を見つめ一つ息を吐き出した。庭の小鳥は言祝ぐように囀り枝から枝へと渡る。
この女とこれから歩む道を照らすかのように祝言の席まで伸びる陽光に目を細める。ああ……梅の花が……咲いている。
「あの……為広さま……これは……」
「そりゃ確かに祝言を上げたから夫婦だけどよ……」
式の間言祝いでいた小鳥達は夜の眠りの底へと沈み、代わりに晩秋の庭に虫達の声が響く。人間の宴が酣となりお開きになろうが虫の宴は続いているらしい。まあ、その宴ももうすぐ終いになるんだろうが。もう少しすれば雪によく似た雪虫が舞い始め、そして本物の雪が天から落ちて来る。
「あの……これはやはり私達に……その……夫婦の務めを果たせという事なのでしょうか……?」
「あー……ったく!!うちの連中は何でもかんでもやる事が先走り過ぎだっての。一々せっかち過ぎんだろ……!」
部屋の隅の灯された伸び縮みする燭台の灯火が俺の隣にいる小さな女の白い頬を微かに照らしていた。薄暗い明るさの中でも分かるぐらい頬を朱色に染めて体を縮め俯いてしまった彼女に対して湧いた感情は一種の申し訳なさだった。
当たり前だ。今日はここで休めと二人で通された部屋にはたった一組しか布団が敷いてなかったんだからな。
縁談の取り纏めといい祝言の事といい……自分の親ながら行動のあまりの早さに呆れる。ある意味で感動さえする。
後ろ手で自分の頭を乱暴に掻きながらこの状況を生み出したであろう犯人の顔を浮かべ舌打ちを吐いた。間違いねえ、やったのはうちの親だ。アホか?今日顔合わせしたばっかりだぞ、俺達?そんなに孫の顔が見たいのか!?あの親は!?
「為広さま……あの……私、は……」
「……そう縮こまんなって。別に取って喰うつもりもお前に無体を働く気もねえよ。……何もしない。が、少し話はしたい。こうして二人だけで話す機会もなかっただろう?俺もお前もあれよあれよと話が進んじまって祝言の日になっちまった」
嫁の……千代と名乗る娘の華奢な背を片手で軽く叩き座るように促した。戸惑う背中を僅かに押すようにして。
「まあ、座れよ。……勿論、無理強いをするつもりはねえけどな。部屋なら他にもある。俺が出て行く。……千代はとにかく少し休んだ方がいい。体力に無駄に自信がある俺と違ってお前は女だ。それに遠方からわざわざこの家に来てくれたわけだしな」
「あの……私、今日は色々あってまだ気持ちの整理がついて来ていないのですが……もう少しお話をしたくて……」
「……俺もだ。俺も千代と話がしたい。さっきも言ったが二人きりでこうしてゆっくり話すのも初めてだからな。改めて……初めまして、だな。千代」
祝言の時、陽光に浮かび上がっていた桜色の指先が、そして鮮やかな唇が脳裏に蘇る。今は橙の行燈の灯りで染まった細い千代の指先を自分の武骨な手で包むように握り締めた。……やはり細く、そして何より温かい。
行燈の灯りが照らしていた。彼女の匂い立つ桜の花のように瑞々しい姿を。千代は可憐な女だった。滝のように流れる烏の濡れ羽根のような黒々とした髪、雪を固めたような白磁の肌、薔薇(ソウビ)のように赤い唇。そして、深い青と緑とが混じった玉の瞳。ここまで美しい娘だったとは……。感嘆の息が部屋に満ちる香の煙と混ざり靡く。
「……愛らしいな」
「えっ?」
「千代が、だ。今まで声と文だけでやり取りをしてきたが―……考えていたんだ。もっとお前の声が聞きたい出来るのならば顔を見てみたいってよ。……思った通りだ、お前は愛らしい」
緩慢な動作で腕を伸ばし、白磁の頬へと触れれば、彼女は驚く様子も嫌がり俺の手を振り払う素振りも見せなかった。代わりに目蓋を閉じて甘えるように手に頬を寄せる姿が……愛い。
「……怖くはないのか?今日顔を知ったばかりの男とこうして二人でいる事が。お前よりも図体がデカくて牙もある俺の事が」
「……はい、怖くは……ありません」
その問い掛けに返って来た言葉は俺を受け入れる言葉だった。澄んだ碧玉に俺の姿を真っ直ぐに映し微笑む千代の姿に胸が掴まれる思いがした。気持ちがグラリと頼りなく揺れる。
「千代……」
「あっ……」
熱に動かされるように彼女の細腕を引き自分の腕の中に囲い彼女の体を覆った。梅花の香りとは違う……彼女の甘く優しい香りが俺の鼻腔を擽り満たしていく。
「取って喰うつもりはないとは言ったが……前言撤回だ。千代にこうして触れていたい。千代をこうして抱きしめていたい。お前ともっとこうして言葉を交わしていたい」
気持ちを流し注ぐように彼女の唇に唇で触れて封をした。無体は働かないと千代に言ったのは自分自身だろう、と笑う自分を心の中でぶん殴り黙らせる。
親密な時間が流れていた。今まで感じた事がない感情だった。触れて寄せて、満ちていく。水が沁みるように。悴む手が温まっていくように。じわりじわりと広がっていく。指を絡め、もう一度柔らかな唇へと口付けを落とした。
愛おしい。容姿に惹かれただけではない。何より千代の仕草がそして言葉が愛おしく思えるんだ。優しく微笑むその姿が、俺を信頼し甘えるような仕草が愛らしいんだ。
「……千代、すまん。お前があまりに可愛らし過ぎて欲が抑えられなかった。……許してほしい」
夜が更けているにも拘らず光が満ちていた。千代に八千代に、苔の生すまで。この女と共に歩みたいと思うのは早計だろうか?……いや、違う。早計なんかじゃねえ。
千代とならば……俺との祝言を自身の身に降りかかった理不尽な悲劇と思わず、恐れず拒絶せずに優しく微笑んでくれた女とならば……歩んでいけるという確信がある。
「千代。俺は為広という。平塚為広だ。……よろしく頼む。俺の……妻よ」
≪平塚為広≫
