第15章 極北の地
今日は家族皆でお出かけをするのだから、綺麗に身支度を整えなくてはと一人鏡に向かい合っていると、パタパタと廊下から小さな足音が聞こえてきたのです。
「かか様!今日はとても良いお天気ですね!」
そこにあったのは鮮やかな赤い着物を纏った娘の姿。
髪はまだ結われておらず、あきちゃんが動く度にさらりさらりと長い黒髪が流れ揺れる。
「あきちゃん、こっちへおいで。」
ぽんぽんと隣の座布団を軽く手で叩いて招けば、あきちゃんは嬉しそうにそこへ腰を落として私に背を向ける。
「お出かけ前に、髪を結いましょうね。」
目の前に座っている娘の髪を椿油を両手で馴染ませて櫛で優しく鋤いてゆく。
指触りの良い美しい黒髪が艶めいてさらりさらりと指先から流れ落ちてゆく。
「とても嬉しそうねあきちゃん。」
「はい!だって…今日は紅葉狩りに行くのでしょう?
私、とても楽しみにしていたの!!」
愛らしい微笑みを浮かべキラキラと輝く瞳を向ける娘につられて私も笑顔になってしまう。
本当に…なんて可愛いのかしら。
最近はお洒落さんになってきて。こうして一緒に髪をお手入れしたり、可愛い簪を挿すようになったり…
どんどん大人っぽくなっていく。
私の知っているまだあどけない少女のあきちゃんはどこかへ行ってしまったようで……。
ほんの少しだけ寂しく思うときがあるのです。
いつか大人になって私のもとを離れてしまうというのは解っているのですが…。
「かか様!今日はかかさまと同じ髪型に結って欲しいです!」
「ふふ…じゃあ蝶々の髪飾りも着けましょうか。」
娘の髪を後ろで束ねて結ってそこに蝶々の髪飾りをひとつ。
前に足らした髪には赤い花の髪飾り。
旦那様に良く似た黒髪に鮮やかに映える。
鏡を見つめて嬉しそうに微笑む娘の瞳はキラキラと輝いていて…そんな姿に私も思わず笑みがこぼれた。
「とっても綺麗よ、あきちゃん。
村正様もきっと喜ばれるわ。」
「えっ……?村正さまがいらっしゃるのですか…!?」
その名を口にした瞬間、娘の白い頬が朱に染まる。くるりと勢い良く私の方へと振り返り、交わした瞳は大きく縦に開かれていた。
聞いていない…とでも言うように。
「ええ。あきちゃんの護衛に…って。村正様がご自分から申し出てくださったのよ。」
私がそう告げれば、あきちゃんは小さな両手を頬に当てて恥ずかしそうに顔を伏せてしまったの。
なんとも愛らしい娘の姿に、私は思わず両手で抱き寄せてそっと優しく頭を撫でた。
「かか様…。」
私の衣を掴む小さなその手はまだまだ子供だと…そう思わずにはいられない…。
でも…この子の内に秘める心は、もう子供のままのそれではない。
あきちゃんは恋をしているのね…。
「大丈夫よ。村正様はあきちゃんに会うのをいつも楽しみにしてくださっているわ。
心配しなくても大丈夫。いつものあきちゃんでいいのよ。」
緊張が少しでも和らぐように頭を優しく撫でてて言葉をかける。
この子の中に沸き上がる感情がどのようなものか……私は良く解っているつもり…。
私もそうだった……いいえ……私は今もなお旦那さまに恋をしているから……。
好きな人に綺麗な自分を見てもらいたい。
その気持ちは私も…あきちゃんもきっと同じだと私は思うのです。
「あきちゃん、今日だけは特別よ。
少しだけ顔をあげて。」
「?こう…ですか?」
「そのまま、少しだけ待っててちょうだい。」
筆を手に取り左手をあきちゃんの顎に軽く添えて小さく柔らかな唇に紅を差してゆく。
「お化粧をしなくてもあきちゃんはとっても可愛いって、かか様は思ってるけど…今日だけはかか様からあきちゃんに魔法をかけてあげる。」
いつもよりもちょっと大人びて見える魔法を。
今日だけ、特別に。
すっと軽く撫でるように筆を走らせれば娘の薄桃色の唇が紅く染まっていく……。
小さな手鏡を娘に手渡せば、唇が緩やかに弧を描いて微笑んだ。
その姿はまるで赤く鮮やかな牡丹の花のよう。
まだ蕾かと思っていたその花は毎日少しずつ少しずつ開花していくのだろうと私は思うのです。
「ありがとうございますかか様!!私、とと様にもお見せして来ますね!!」
そう言って廊下をパタパタと駆けて行く娘の足音を聞きながら私は再び鏡へと向き合う。
私の唇は弧を描き先程の可愛らしい娘の姿を思い返して笑みが溢れた。
筆を手に取り唇に紅を差す。
香水の瓶に手を伸ばし掌に一滴垂らし 、耳の後ろとうなじに指で優しく香水を纏わせる。
ふわりと香る白檀の甘く優しい香りが鼻腔に届いてくる。
紅も…香水も…蝶の髪飾りも……そしてこの打掛も……全て私が輿入れの時に旦那さまから贈られたもの。
旦那様とのお出掛けの折りには必ずこの香水を着けることにしているのです。
旦那様が一番好きな香りを纏わせて、紅を差し、髪を鋤いて青い蝶の髪飾りを着けて、そして最後にこの蝶が描かれた打掛に袖を通す。
旦那様には一番綺麗な姿を見ていただきたい…
妻となっても…母となっても…
忘れはしません…あの日の気持ちを。
故郷を離れ、海を越え、この家に輿入れして…旦那様に妻として優しく迎えて戴いた時のことを……。
『髪飾りと打掛と……身に着けていてくれているのだな。……俺に対する義理ではなく、お前が本当に気に入って身に着けてくれているのだとしたら―……俺は嬉しい。……春華』
誠意を尽くして迎えてくださった旦那様のお言葉…声…眼差し…全て覚えております。
贈り物のひとつひとつに旦那様のお心遣いが見えて…少々痛いほどでした…。
きっと…旦那様はずっと気に病んでいらっしゃったのかもしれません…。
家と家の取り決めによって婚姻を結んだ事…私を異国へ招くことになってしまった事…そして御自身の病の事……
私がこの家に来るよりもずっと前から……
化粧台に置かれた香水瓶へと視線を向ける。
蝶の飾りが付いた中紅色の硝子の香水瓶……
甘く優しい香りがする…サンタルウッドの香水。
職人に作らせた…と旦那様は仰っていた…。
私の為に…わざわざ…。
『サンダルウッドの香水―……春華の故郷では白檀の名で呼ばれているものだ。物で釣るような下世話な真似をと思われるかもしれないが、それでも贈りたいのだ。この国へ、そして俺の元へ海を越え遠路はるばる来てくれたお前の苦労を労わせてくれ』
この香水を纏う度に思い出すのです。あの日の事…あの日の胸の高鳴り…そして…旦那様の優しい口付けを……。
何年経とうとも忘れません…。
これから先もずっと…。
下世話などと思った事は一度たりともありません…
旦那様のお心は痛いほど伝わっています……
この香水だけでなく…貴方様が私に贈られた全ての物に貴方様の心が込められている事を私は知っております……。
私は…この婚姻によって与えられたお役目を果たす為にここにいるのではありません……。
私は旦那様を……レフ様を愛しているから……。
お役目なんて理由付けに過ぎないのです。
私は貴方にもっと触れたい……貴方のお側にいたい……これからもずっと……貴方の幸せの支えとなれるよう尽くしたいのです。
