第15章 極北の地


その日はとても温かくて心地よい朝だった。

こんなに穏やかな朝を迎えたのはいつ以来だろう?

柔らかいベッドの上で朝を迎えられた。

こんなに幸せな事があっていいのだろうか……?




目が覚めたとき、隣にナハシュがいなかった。

無意識に伸ばされた手が空を切り、代わりにぬくもりを失ったシーツのヒヤリとした感触が手に伝わってくる。

まだぼんやりとした頭で身体を起こし、周囲を見渡してみるがナハシュの姿は無い。

「ナハシュ…?」

窓から射し込む朝の光に照らし出されたナハシュの部屋が夜に見た部屋とは違って見えて……急に不安になった。

部屋がとても広く見えた。

もしかして…ナハシュはもうここにはいない?

そう思った瞬間微かに胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。

……ナハシュの声が聞きたい。

不安と寂しさでじっとしていられない……こんな気持ちは本当に初めて。

ふと……扉の向こう側から誰かの足音が聞こえてきた。

この足音……知ってる。

ベッドから降りて扉の方へと歩を進める。

ドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開けばふわりとバターの甘い香りが漂ってきた。

「いい匂い……。」

お腹がくぅ…と音を立てた。
その音を耳にした瞬間、カッと頬が熱くなった。

変だな…前はお腹が鳴っても恥ずかしいなんて思わなかったのに。

無意識に周囲を見渡してる私がいる。

聞かれたくないと思って焦ってる。

今この瞬間だけはここにナハシュがいなくて良かった…って思った。



ちらりと廊下の先へと視線を向けると、僅かに開いた扉の隙間からチラチラと人影が見えた。

期待に胸を膨らませながら台所へと向かう。
周囲に漂う冷たい朝の空気も廊下の冷たさも忘れて裸足のままペタペタと足音をたてて。

寒いなんて感覚忘れてた。
あの人の姿を見つけた瞬間から私の胸に再び火が灯るのを感じたから……。

寒くない……だってここにナハシュがいるから。

ナハシュが振り向くよりも早くあの人の腰に手を回してそっと抱き締めた。

本当は「おはよう」って言いたかったんだけど……私の口から出た言葉は。


「ここにいた。」


心の底から安堵していた。
ようやく求めていた温もりに触れることができた。
そう思いながら彼の背に顔を埋めながら抱き締める腕に少しだけ力をこめる。
ナハシュが苦しくないように。

「……どうした?」


「ここにいた。……探していたの、ナハシュを。ここにいたんだね。私、ナハシュに置いて行かれちゃったんじゃないかなって、そう思って……」

彼の背中から伝わってくる温もりに心が満たされる。
胸の奥がきゅ…ってなって幸福感が満ちてくる。

おかしいね…あなたと私は昨日出会ったばかりなのに……。

私は小さな子じゃないのに……あなたのことが恋しくて仕方ない……。


「置いて行くわけがない。それに言っただろう?お前にはここにいて貰わなければ困る……と」

私の腕の上にナハシュの大きな手がそっ…と優しく重ねられた。

私の腕はナハシュの手で解かれて、流れるような動作で私は彼と向かい合うように立っていた。

彼の右手が私の顎へと伸ばされる。

私の視線が上を向くように軽く力を込めてナハシュの親指が私の唇に優しく触れている。

ナハシュの赤い瞳が私の目を捉えたまま離れない。

足には彼の長い尾が巻き付いていて……脳裏に昨夜の出来事が鮮明に浮かんできた。

ああ…この光景は昨日と同じ…。

「……喉が渇いていないか?」

鼓動がどんどん早くなる。

頬も熱がこもってきて……とても熱い。

こんなときどんな顔をしたらいいんだろう……?

「お水…」

きっと昨日よりずっと顔が赤くなってるんだろうな…そんな自分を見られたくなくて言葉がうまく出てこない。

出来たことと言えば頷く事くらい。

するとナハシュの瞳が弧を描きながら細くなって……

それはまるで夜の空に浮かぶお月様のよう。

赤い赤い三日月が私を優しく見つめていた。

重ねた唇。少しずつ流し込まれる水。

昨日と同じ。甘い水。

全部流し込まれたと思って唇を離そうとするとナハシュの舌が私の舌に絡み付いてくる。

口の端から水が溢れて一筋流れた雫もナハシュが舌で舐めとってもう一度優しく口付けを落とす。

長い長いキスの後にようやく唇を解放されて、大きく息を吸い込んだ。

「ナハ……シュ……」

ナハシュのキスはとても長い。

長くて優しい…甘い口付けに心がどんどん満ちていく……満たされていく。

うまく力が入らなくてそのままナハシュの胸に抱き止められた。

「少し食べろ。昨日は水以外何も口にしていないだろう、お前は―……」

ふらふらするのはそのせいだろうか…?

ううん…それだけじゃない。

私はきっとナハシュのキスに酔っているんだ……。


ナハシュに促されて椅子に腰かける。

彼に言われて初めて気づいた。
確かに昨日はお水以外何も口にしていない。

「お前は…軽過ぎる。」

コップに注がれた牛乳と白パンにイチゴのジャムとスクランブルエッグ。

大した料理じゃないとナハシュは言うけれど、私にとってはとても素敵な朝食に見えた。

白いパンなんて本当に久しぶり……
ふわふわで柔らかくて……とても美味しい。

一口頬張る毎に頬が緩む。
ふと気づけば向かい合って座るナハシュと目が合った。

頬杖をつきながら「お前は本当に幸せそうな顔をして食べるんだな。」って…赤い三日月が笑ってた。

「うん。こんなに温かくて美味しい食事は久しぶりなの。
ナハシュ…本当にありがとう。」

彼に向けて感謝の言葉を口にする。

本当に…心から感謝しているの。
私にこんなに良くしてくれて……何度感謝の言葉を口にしても足りないくらい……。

ナハシュは失敗したと言っていたけど、彼が作ったスクランブルエッグもほんのり甘くてふわふわしててとっても美味しかった。

白パンにイチゴのジャムをつけて頬張れば甘酸っぱい味が口いっぱいに広がってゆく。

久しぶりに味わうイチゴの甘さと酸味に更に頬が緩んでしまう。

私は今、きっと変な顔をしてるよね……そう思いながらちらりと顔を上げればナハシュの赤い瞳と視線が交わる。

彼の口元にも三日月が浮かんでいた。

「あのね…ナハシュのごはんがとっても美味しくて…頬が緩んじゃって…」

食事を進めながら何気なく会話を交わしている。

だけど、そのやりとりの中でナハシュの新しい一面が見えてきて……

ああ…こんな顔で笑うんだって思いながら彼の顔を眺めてて…

もっともっと貴方のことが知りたいと思ってる私がいる。

††††††††††††††††††††††

辺りに漂う白い湯煙と石鹸の香り。

髪も身体も翼も丁寧に洗って温かい湯船に浸かる。

私の髪がお湯のなかでゆらゆらと揺れている。

(ちゃんと綺麗になったかな…。)

自分の髪をひと房手にとって顔の側へと導いて匂いを嗅いでみる…髪は前よりずっと手触りが良くなってお花のようないい匂いがした。

(良かった…。これから一緒にお買い物に行くんだもの。
ちゃんと綺麗にしなきゃナハシュに迷惑をかけちゃうよね…。)

昨夜の事を思い返せば本当に恥ずかしくて仕方がない…。
私はどこからどう見ても薄汚れた奴隷だったから……。

なのに彼は嫌な顔ひとつせずこうして私の事をもてなしてくれている…
それどころか……昨日からのやりとりも彼は私に対して嫌悪感を示したことは一度としてなかった。

(どうして……?)

彼の気持ちは私にはまだよく解らないけど…私は…ナハシュには嫌われたくないって……そういう気持ちが自分の中にあるって気づいたの。

薄汚れた奴隷の姿では貴方の隣を歩けない。
だからうんと綺麗にして一緒にお出掛けしたいな……。


ありがとうの言葉だけじゃ全然足りない。

彼が私にしてくれた事に私も何かを返したいな……。

何も持たない奴隷だった身の私が出来ることなんて限られているけど……。

私には何ができるだろう……?


『俺はお前を買ったわけではない。飼うつもりもない。それにそもそも奴隷なんぞ必要としていない。が、お前にはここにいて貰わねば困る。……それだけだ』

昨日のナハシュの言葉。

奴隷はいらないって言ってたよね…。

だったら……家事手伝いならいいかな?

後でナハシュに言ってみよう。
お掃除もお水汲みもお洗濯もお料理も……なんでもさせてほしいって。


きっとナハシュは奴隷として買った訳じゃないから必要無いって言うかもしれない。

でも……感謝しても感謝しても全然足りない。
言葉だけじゃお礼にはならない。

私を自由にしてくれた貴方に私は恩返しが……したい。

そっと唇に触れてみる。
朝に交わした口付けの感触…今でもはっきりと思い出せる。
ナハシュの口付けはとても深くて、優しくて、甘い……。

私の思い違いでないなら…そこには確かに愛を感じる。

こんなに穏やかな朝を迎えたのはいつ以来だろう……?

こんなに幸せでいいのだろうか……?

幸せ過ぎて少し怖いくらい……。

頬に熱がこもるのは、きっと湯に当てられたせいじゃない。
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