第15章 極北の地


また仰せになった。「神の国は人が大地に種を蒔くようなものである。種を蒔く人が夜昼寝起きしているうちに、種は芽を出し生長する。しかし、種を蒔いた人はどうしてそうなるのかを知らない。大地は自ら働き、初めに苗、次に穂の中に豊かな実を生ずる。実が熟すと種を蒔いた人は直ちに鎌を入れる。刈り入れの時が来たからである」

また仰せになった。「神の国を何になぞらえようか。また、どんな喩えで言い表そうか。それは一粒の芥子種のようなものである。芥子種は土に蒔かれる時は地上のどんな種よりも小さいが、蒔かれると伸びてどんな野菜よりも大きくなり、その陰に空の鳥が宿るほどの大きな枝を張る」

御子は人々の聞く能力に応じて、このような多くの喩えをもって御言葉を語られ、喩えなしには語られなかった。しかし、ご自分の弟子達だけの時には全ての事を解き明かされた。


【マルコによる福音書 第4章】






「旦那さま、お背中の治療をいたしますね」


「ああ、よろしく頼む」


下弦の月が東の山の稜線の隙間からようやっと顔を出す。徐々に深まる秋をコオロギや鈴虫達の声が無色の色で彩っていた。遅れて現れた月明かりを受けて庭を飛んでいるつがいの夜光蝶の羽根がさらに輝きを増していた。

帯を解き衣を肌蹴させれば、冷気を含んだ晩秋の風が肌を撫でていく。健常な肌であれば寒さの一つでも感じるのだろうが、皮膚に熱を宿したこの身だ。むしろ熱を散らしてくれる冷風が心地良かった。


「旦那さま、少し冷たいかもしれませんが、我慢して下さいね」


妻の、彼女の優しい声を背中越しに聞きながら静かに両の瞼を閉じた。緩やかな弧を口元に浮かべながら。酷く穏やかな気持ちだった。

彼女がここにやって来る以前、この時間に感じていた感情の名前は自分に対する惨めさと不甲斐なさだった。業病を患った事を呪った事などただの一度もなかったが、それでも夜がとっぷりと更け、一人になり薬を塗っていると言い様のない惨めさを感じずにはいられなかった。それが今はどうだ?逆に自分は満たされている。

春華のしなやかな指が肌に触れるたび、優しく薬を塗り広げられるたび、包帯を巻くたびに穏やかな気持ちが満ちていく。時よ、この止まれと思うほどに。


「すまないな……いつも世話をかける」


「いいえ。これが私のお役目ですから……」


春華の手を借りて肌蹴させた衣を再び纏い一つ息を吐き出した。彼女が俺の体に障らぬよう気遣ってくれているのがひしひしと伝わってくる。

俺に尽くしてくれている妻の愛らしい琥珀色の瞳と空で視線が絡み交わった。そして―……彼女の柔らかな唇が両の瞼越しに、そして次に唇へと触れる。治癒の光を瞼越しに感じた。彼女の想いを唇越しに感じる。


「愛しております……レフ様。貴方の苦痛を拭えるならどんな事でも喜んでお手伝い致します……あっ……んっ……」


春華の細腕を引き、自分の胸へと引き寄せた。僅かな力にも拘らずされるがまま胸へとやって来てくれた彼女が愛おしい。愛おしさが溢れてしまう。

気持ちに動かされるままにそっと彼女の顎に手をかけ、そのまま上を向かせ唇を重ねた。彼女が先程してくれた口付けよりも自分がする口付けの方がより長く、そしてより深いものになってしまうのは自分の欲深さの表れだろう。

舌を絡め、そして吸って……ようやく解放する頃には彼女の息は荒れ乱れていた。頬を赤らめ浅い呼吸を肩を上下させ繰り返している彼女の体を腕に抱き、背中を静かに撫でる。彼女の乱れた息が整うまでそっと、優しく。


「レフ、様……」


「髪飾りと打掛と……身に着けていてくれているのだな。……俺に対する義理ではなく、お前が本当に気に入って身に着けてくれているのだとしたら―……俺は嬉しい。……春華」


「……はい」


「どうかこれも受け取ってほしい。職人に作らせる関係で渡すのが遅くなってしまった。開けてみてほしい」


彼女の息が整ったのを確認し、少しだけ身を離し、傍らに置いた小箱を引き寄せ彼女へと手渡した。箱を開けるようにと彼女に目で、そして言葉で促す。

下弦の月が箱に納められたガラス瓶を淡く煌めかせる。蝶を模した飾りがついたアンティークの香水瓶が夜に輝いていた。


「レフ様―……これは……もしかしてこれも私に……?」


「サンダルウッドの香水―……春華の故郷では白檀の名で呼ばれているものだ。物で釣るような下世話な真似をと思われるかもしれないが、それでも贈りたいのだ。この国へ、そして俺の元へ海を越え遠路はるばる来てくれたお前の苦労を労わせてくれ」


どんな女が来るのかと思った。わざわざ海を渡り、業病を患った男の元へと。その気持ちを思うと胸が締め付けられる気がした。

家と家とが交わした政略婚だ。無理強いをさせている可能性がないとは言い切れない。実際、家が取り決めた輿入れを不満に思う女も大勢いると聞く。国恋しさに泣く者もいると聞く。

だから、せめてもと選んだ。異国の地でも少しでも心の慰めになればいいと。着物も髪飾りも、紅も。そして、香水も。

政略婚という関係だったが、快く俺の妻になってくれた彼女を、慣れない生活や環境にも関わらず俺の為に尽くし、支えてくれている春華に少しでも報いてやりたい。

もし、この家に輿入れしてきたのが春華ではなく心が頑なな意固地な女だったならばこのような感情を今抱く事はなかっただろう。新しい環境に馴染む努力もせず、部屋に閉じこもり不幸に耽るような女だったならば、ここまで愛おしく思う事などなかった。ここまで誰かを想う幸福を知る事もなかった。


「春華でよかった。……春華だから贈りたいのだ。愛する妻にせめてもの贈り物を」


「沢山戴き過ぎです……レフ様……」


「そんな事はない。お前がこの家で、俺の隣で、そして腕の中で……健やかに笑っていてくれさえすればそれで自分は十分報われる。春華を愛することが出来て……よかった」


白檀の人の心を落ち着かせる甘い香りが周囲を包む。その香りの中をつがいの蝶がハラリ、ヒラリと舞っていた。もう一度指を絡め、そっと口付けを交わす俺達を下弦の月が照らしていた。






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「白檀……か」


「ふふっ……やはり分かりましたか?今日はお出掛けなので香水を身に纏ってみました。……旦那さま?」


「いや、何、少し昔を思い出しただけだ」


底が抜けるような晩秋の澄み切った青い空を仰ぐ。あの日とは空の色こそ違うが変わらぬ思い出の香りに一人青を仰ぎながら目を細めた。


「……昔、ですか?」


「ふふっ……ああ、昔だ。かけがえのない記憶の一つだな。……さて出掛けるとしようか。赤や黄色の楓や蔦で山もすっかり色付いている事だろう。あきやややにも見せてやりたい」

時が経ち何度四季が巡ろうとも、自分の一番近くにある香りの名前は―……白檀だ。


《大谷レフ》
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