第9章 テロ

I



王子様がノイに差し出した、箱。
小さな小さなそれに、小さな小さな輪があった。生きてくれと言われた。一瞬のようで、まるで時が止まったかのような錯覚を感じた。
どうして?ねぇ、どうしてなの、王子様?ノイは王子様より先に死んじゃうかもしれないんだよ?先に死んじゃったら、その指輪はどうなるの?王子様は幸せなの?ノイは、王子様と本当に一緒にいてもいいの?
いっぱいの疑問が頭に浮かんでは消えていき、消えてはまた現れる。ノイはこれまでに王子様にいっぱいの迷惑をかけている。そして、これからも。だってノイはとっくに……王子様がいなきゃ生きられない体になってしまっているもの。
依存、というのが答えなのかな。小さな小さな箱の中が何処かへ消えてしまわないように、王子様の手を添えてそっと閉じた。それを受け取り、ピアノの上に置く。割れ物を扱うように、優しく。
「王子様。ノイの返事を聞いてほしいな」
椅子に座り、深呼吸。鍵盤に指を置き、ゆっくりゆっくりと音を鳴らしていく。奏でられたそれは、王子様が初めてノイの演奏を聴いてくれた曲。王子様が好きだって言ってくれた曲。
ノイは王子様の気持ちに応えたいの。幸せに生きたい。だけど、死の恐怖から逃れられないのも事実。不器用だからうまく言えないけれど、ノイは生きることが怖いし、死ぬことが怖い。だから王子様と一緒にいる時は、せめて今の恐怖を拭い去りたい……
王子様が生きようって言ってくれたから。王子様が幸せに生きたいと望んでくれたから。
奏でた曲が終わり、王子様を真っ直ぐと見る。とっくに答えは出ているのに、いざとなると恥ずかしくなっちゃうね。だけど今の演奏は……王子様だけに聞いてほしかった、ノイのお返事なの。
「王子様、ノイの家に来てくれてありがとう。ノイの側にいてくれてありがとう。今がとっても幸せで、これ以上幸せなことなんてないと思ってたの」
今のノイは、笑えてるかな?何だか目が熱いけれど、ちゃんと笑えてるかな?
死ぬことへの恐怖が、王子様と一緒にいる時だけはなかった。生きたいと思った。苦しくても苦しくても、足掻いてでも息をしようと思った。十年後、ノイがこうして生きているかわからないけど……二人の思い出を、二人で開けたいと思った。
「王子様は、ノイの永遠の王子様。ノイを助けにきてくれた、理想の王子様。その思いはこれからも変わらないよ」
王子様には申し訳ないけれど、ノイの中の王子様は……ずっと王子様なの。ノイが苦しい時に助けてくれた、ノイが寂しい時に側にいてくれた、ノイが泣きそうな時に抱きしめてくれた……王子様は、本当に理想の王子様。王子様に依存して、すがり付くように生きてきたの。
「だけど、ノイはお姫様になれないから……お姫様じゃないから、王子様と一生を共にすることなんてないと思ってたの。本当は王子様を一人の男性として見たいの。一人の男性として……好きでいたいのに」
理想が、邪魔をする。王子様はお姫様と結婚して、幸せになるの。ノイは幸せになりたいけれど、お姫様にはなれない。その理想が拭えなくて、今以上の幸せを望めない。どうすればいいの、かな。
ピアノに置いていた箱を取り、蓋を開けずに眺める。王子様がくれたものだから大切にしたいのに、今のノイにはこれをつける資格がない気がして、億劫になる。
椅子から立ち上がり、改めて王子様の前に向き直る。箱を手に持って、王子様の前へ出して。
「ノイは、初めてあなたにお会いした時からあなたのことが好きでした。とても単純だけれど、あなたがノイのピアノを……この曲を好きだと言ってくれたから、あなたのことが好きになりました。ノイはこれからもあなた側にいたい、一人の男性としてあなたを見たい。だから」
怖い。とても怖いの。死ぬことよりも怖いかもしれないけれど、こうしなきゃ、ノイはあなたを愛せない。あなたの声に応えたい。ならば付きまとう理想を、今、ここで。
「……あなたの手で、ノイの『王子様』を壊してほしいの。レティ様」
精一杯にっこりと笑って、告げた。
5/10ページ
スキ