第15章 極北の地

その日、不思議な夢を見た。

深い深い森の奥…月の光さえ届かない暗闇に満ちた夜の森だ。

辺りを見渡してみるが、私以外には誰もいない…

「ヘンゼル…どこだ?」

片割れの名を呼んでみるが返事はない。

どうやらはぐれてしまったようだ。

ああ……覚えている……ここはあのときの森だ。

二人で手を繋いでさ迷い歩いたあの森だ……だが……少々状況が異なる。
あのとき私は一人になったことがあっただろうか……?

いや……それだけじゃない……目の前で牙を向けるこの犬は何だ……

私は逃げた。一目散に森を駆け抜けた。

先程の犬の咆哮が耳に届く。
振り返らなくても解る、すぐ近くにあの犬は迫ってきている。

おかしい……これは夢だ……夢のはずなんだ……なのに何故こんなにも息が乱れる?
踏みしめる土の感触も生々しくてまるで現実のようだ。

足を止めてはいけない…そう思いながら必死に走り続ける。
すると突然目の前に朽ちた瓦礫の塀が見えてきた。

あそこに登れば逃げられるだろうか?

私は今にも崩れそうな瓦礫に手をかける。

……ここを登るのか……怖い……だが……ここで登らなければ逃げ切れない気がする。

意を決して塀を登る。

ふらふらとした足取りで塀の上を歩いて先を進む。
少しでもここから離れようとそう思いながら。

「何してるんだ、お前」

「み、見ればわかるでしょ!?あの犬から逃げてるんだよ!」


突然かけられた声に驚き反射的に答えながら周囲を見渡すが人の姿はどこにも見当たらない。

今の声はどこから……?

「ふぅん……塀の上に子供がするみたいに上ってまでか?」

再び聞こえてきた声のする方へと視線を向ければそこにいたのは一匹の黒猫。

黒猫はじっとこちらを見つめたまま動かない。
私の言葉を待っているのか?
こいつは一体何者だ?一見普通の猫だが、こいつからは強い魔力を感じる……
だが……

「猫に言われる筋合いはないよ!!」

何故だろう……こいつの言い方がちょっとだけ気に触った。
何だ?この態度は……こいつは本当に猫か?

この不遜な態度……まるでどこかの誰かさんのようだ……

そんな事を思っていると、黒猫は重い腰をあげてくるりと踵を返して足早に歩きだした。

「置いて行かないで」と言いながら足を踏み出せば、黒猫はチラリと私を横目に見ながら少々ふてぶてしい物言いで再び私に語りかけてきた。


「そこ、塀が崩れかけてるから踏まないように気を付けろ。……誰も置いていくとは言っていないだろう。ついて来な。……あの犬、ちょっとヤバそうだしな」

そう言ってまた足早に去っていくのだ。

「待って……!ねえ待って!私を置いて行かないで……!」


「猫に縋るのか、お前。さっき猫に言われる筋合いはないと言ったのはお前だろう?」


「そ、それは……」

確かに矛盾している。
関わるつもりなんかなかった。
誰かの使い魔に違いない…と警戒したのは私だ。
だが……

似ているんだ……こいつの目が……態度が……後ろ姿が……あいつの姿に。

気だるげで、飄々としていて、本心を決して人に見せようとはしない……つかみどころのない男……

忘れてない……忘れるわけない……

こうして私の前を歩く姿も…こちらを気遣って時折振り向く姿も…遠い記憶を呼び起こされて…どんどん心が揺さぶられていく。

(なんて生意気なのかしら……猫なのに……)

徐々に闇が去っていく。

私の頭上には未だ去りきらない夜の空が青く薄く広がっている……黒猫の方には赤く染まり始めた朝焼けの空が広がっていた。

目の前にいる猫は塀の端に腰を降ろして私をじっと見つめている。
ここで道は途切れている。と言いたげに。


ここから先へ進むには飛び降りるしかないのだが……飛び降りるのを躊躇う程に高い……

そんな私を見かねたのか、黒猫は軽やかな身のこなしで塀の下へと降りてゆく……そして……黒猫は瞬く間に姿を変えてしまったのだ。
濡羽色の長い髪と蒼玉のような瞳を持つ長身の男の姿へ……

くるりとこちらへと振り返り男は私を招くように両手を広げて見せたのだ。

「飛び降りて来い。犬ももういないしな。怖いなら目を瞑ってそこから飛べばいい」

「でも……」

「受け止める。こい×××××」

何と呼ばれたのかは聞き取れなかった……でも……私には解る……唇の動きでお前が何と呼び掛けたのか……

ああ……知っている……知っているよ……あんたは私をよく知る男だ……

「鬼…」

両手を広げて私を待つ男の胸に思いきって飛び込んだ。
朝の光が周囲に満ちて私を抱き止めた瞬間に男も溶けるように消えて行ってしまった。

ああ……そういうところも本当にお前らしいよ……

数十年前に私の心をそうして持っていってしまったあの人……

本当に……何年経ってもずるい男なんだから……

その日は雨だった。
どうしても昨夜見た夢が忘れられなくてぼんやりと窓から外の景色を眺めていた。

胸騒ぎがする……何故こんなにもあの夢が脳裏に焼き付いたまま離れないのか……

「チルチル、ミチル、留守を頼む。
私は少し散歩に行ってくる。
誰か知らない人が来ても扉を開けないようにな。」

「はい!行ってらっしゃい師匠!」

「早く帰ってきてね!」

可愛らしい声で私を見送る二人の頭を軽く撫でて私は傘を手にして外へ出た。

パラパラパラパラと打ち付ける雨の音。

ぼんやりとその音を聞きながら森の中を一人歩く。

そうだ……そういえばあの夢……最後には森を抜けていたな……

たまには違うところを散歩してみようか…

本当に……ほんの気まぐれだったんだ。
雨の街を散歩してみようだなんていつもなら考えたりしなかった。

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驚いた。何故あんたがここにいるのか……何故こんなところで雨に濡れて途方にくれているのか……私には状況がさっぱり読めない……

本当にただの気まぐれで街を散歩してただけなのに……こんなところであんたに出会うとは思わなかった。

「あんたは……?……何してるんだい、風邪、引くよ……」

傘を差し出し声をかける。
濡れた髪からはポタポタと雫が落ちて隙間から覗く青い目がゆっくりと上を向き私の姿を捉えた。

「お前は……」

間違いない……この男はあの夢に現れた男だ……

私が呼んだのか……それとも私が呼ばれたのか……

不思議なこともあるものだと思いながら私は男に向かって再び声をかける。

「こんなところで何をしているんだい…鬼…?」

その名を口にした瞬間、男は目を縦に見開いた。

ああ……やっぱり……お前はあいつなんだ……。
大分変わってしまったようにも見えるけれど……お前は私がよく知るあいつなんだな。

「何でこんな所にいるかは聞かないよ。
それより……何処にも行く宛がないのなら……私の家に来ないかい?

もちろん、あんたさえ良ければ……だけど。」

その場にしゃがみこみ、ハンカチを取り出して男の顔を拭う。

なんて冷たい頬……一体どれだけ長い間雨さらしになっていたのか……。

男の頬に触れた右手にヒヤリとした感触が伝わる。

交わす瞳もどことなく奥底に闇を含んでいて……これまでどんな生き方をしてきたのか大体は想像することができる……。


「あんた……一人なんだろ?うちにおいでよ。」

何を言っているんだろう……私は……勝手に一人でどんどん口走って……

でも、そうしなきゃいけないと思った……ここでこの男を一人にしてはいけない…そう思ったから……

だって…こんなに生気を無くしたこの人を……かつて想いを寄せた相手が途方にくれている姿を見てどうして見てみぬふりができるというのか……

出来ない……私には出来ない……

男の目の前に右手を差し出すと男は無言のまま私の手を取り立ち上がった。

あの頃よりも高くなった背丈を見上げる私。

私を見下ろす青い瞳。

ああ……懐かしい……本当に懐かしい……

「行こう……鬼。
うちにおいで。温かい飲み物とお風呂を用意してあげる。
一晩だっていい……なんならあんたが次の行き先を決めるまで何日だって居たっていい。」

あんたが道に迷った時に再びこうして会えたのはきっと運命なんだろう……。

あの夢を見たのもきっと偶然じゃない。

私はきっとあんたを呼んだんだ。

そして私はあんたに呼ばれたんだ。

「……変わってないな、お前は。」

クク……と喉で笑いながら男が言葉を口にした。

低い男の声が耳に届く。

「本当に、お人好しだよお前は。」

ああ……なんだ、変わってないじゃないか。
そういう可愛くないところ…。

「放っておけるわけないじゃない。
こんな所であんたにのたれ死なれたら気分が悪いったらありゃしないよ。」

少し強めに言い放って視線を反らした。

「ああそうだよ、私はお人好しだよ。
人が嫌いなくせに困っている人間を見ると手を伸ばさずにはいられないお人好しで可愛げのない魔女だよ。」

ああ……本当に可愛くないよ。あんたも……私も……

光が差し始めていた。
空に広がる雲は薄くなり、光が満ちて白い雨を降らせていた。

もう少し……可愛い言い方のひとつでもできないもんかね……私は。

本当に……可愛くないよ。
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