第15章 極北の地
あなた方が躓く事のないように私はこれらの事を話して来た。人々はあなた方を会堂から追放するだろう。それどころか、あなた方を殺すものが皆、自分は神に仕えているのだと思う時が来る。彼らがこのような事をするのは、父も私も知らないからである。しかし、あなた方にこれらの事を話したのは、その時が来た時、私が言った事を思い起こさせる為である。
これらの事を、初めから言わなかったのは私があなた方と共にいたからである。しかし、今、私は私をお遣わしになった方の元に行こうとしているが、あなた方のうち誰もどこへ行くのかと尋ねる者はいない。むしろ、このような事を言ったので、あなた方の心は悲しみに満たされている。しかし、私はあなた方に本当の事を言う。
私が去っていくのは、あなた方にとって有益である。私が去っていかなければ、弁解者はあなた方の元においでにならないからである。しかし、私が行けば、私は弁解者をあなた方の元に遣わす。その方がおいでになれば、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにして下さるであろう。
罪についてとは、彼らが私を信じない事である。義についてとは、私が父の元へ行き、あなた方がもはや私を見なくなる事である。裁きについてとは、この世の支配者が裁かれた事である。
私にはまだまだ沢山あなた方に言いたい事があるが、今、あなた方はそれに耐える事が出来ない。
【ヨハネによる福音書 第16章】
「ファティマ……大丈夫か?その身体は……?」
「ふふっ……ええ、大丈夫よ。今は朝よりも吐き気が治まっているから。こうして起きていたの」
晩秋の夕日に染められた紅い木の葉が北から吹く風に飛ばされ流れていく。風が溜まる吹き溜まりで文字通り渦巻くそれを一瞥し、家の扉を潜れば刺すような夕暮れの寒さが一瞬で遠ざかり、温かさで包まれる。刺すような冷気に代わり溶かすような温かさがじんわりと指先を温めていた。
「ゲッツ……お帰りなさい……んっ」
「……おう。ただいま、ファティマ」
ファティマの水色の瞳が柔らかな弧を描いた。先程、彼女が言った通り、体調は悪くはないのだろう。今朝俺が家を出た時よりも顔色が良く見える。
身を屈め、腰を丸めて彼女の淡い桜色に色付いた唇に軽く触れるだけの口付けを落とせば、細い腕が静かに自分の首の後ろに回った。温かさが先程よりも強くなる。ファティマの甘い髪の香りが自分の鼻腔を優しく擽っていた。
……ファティマの見せる仕草の一つ一つが、表情の一つ一つが愛おしく思えるんだ。俺には。
「夕飯食べられそうか?帰りに材料買って来た。勿論、しんどいようなら寝ててもいい。……一人の体じゃねーんだからよ……」
「言ったでしょう?今は体調がいいって。一緒に作りましょう、ゲッツ?この子にも食べさせてあげたいもの。二人で作ったお料理を」
ファティマの白く細い指がそっと彼女の、まだ目立たない腹の上へと重なる。両手で慈しむように自分の腹に触れている彼女の姿に、自然と自分の瞳も弧を描いていた。
……もうすぐ会えるんだ。彼女の腹に宿った命に。
「……やっぱり寒い日はこれだな。美味しいからな、ファティマが作ったシチューは」
「ふふっ……でも子供の頃から好きだったわよね、ゲッツ?私が作ったものじゃなくても美味しい美味しいって食べていたじゃない?」
「んっ。特にって意味だよ。ファティマの作ったやつは特に美味いんだ」
暖炉にくべた薪が乾き爆ぜてパチリパチリと燃える。人を安心させる火をぼんやりと瞬間見つめ、すぐに彼女へと向き直った。優しい味がするシチューを作ってくれた自分の嫁さんと向かい合い、一つ包みを手渡す。
「ゲッツ、これは……?」
「ん。開けてみれば分かるさ」
かさりかさりと包装の紙が擦れる音が暖炉の燃える音と混ざり合う。包みから出て来たこれと俺とを交互にキラキラとした瞳で見つめるファティマに、思わず笑みが零れて落ちた。
「このストール……ゲッツが買ってくれたの?」
「おう。これから益々寒くなるだろう?寒さは今のお前の体にはよくないんじゃないかと思ってな。一応、お前が好きそうなものを選んだつもりなんだけどよ……ファティマ、ちょっとそれ貸してもらえるか?」
椅子から立ち上がり彼女に渡したばかりのそれを受け取った。肌触りのいい布を広げ、彼女の小さく華奢な肩へと巻き付ける。彼女が小柄なせいもあるが、見本のマネキンが身に着けていた時よりも少々、布が余ってしまったように見えなくもない。
「ちいとお前にはデカかったみたいだな……悪い」
「ふふっ……そうね。でも巻いてしまえば平気よ。それにとっても温かいわ。……これはカシミアね」
「あー……店員がそんな事を言っていたような……いなかったような……?」
自分の顎に手を当てて近い記憶を掘り起こす。確かに買う時にそんな事を言われたような気もするが、生憎この手の話題に自分は疎くてなあ……話半分に聞き流してしまった。
「あなたの事だから真面目に店員さんのお話を聞かなかったんでしょう?」
「ああ……まあな。手触りが良くて温かければそれでいいと思って選んじまったからな。素材の名前までは聞いてなかったんだ」
「ふふっ……正解よ、これで。だってとても温かいもの。ありがとう、ゲッツ」
ファティマの後ろから彼女の体を包むように抱きしめれば、ファティマの柔らかな頬が俺の頬に触れた。竜の姿をしていた時も彼女はこうして頬に頬を寄せてくれていたが、彼女もヒュームの姿になった今、あの時以上にファティマを近くに感じることが出来る。それが俺は……少なくとも自分は嬉しかったんだ。
「……ファティマ、聞いてくれ。大事な話だ。生まれてくる子供なんだが―……俺はヒュームとして育てようと思っている。少なくともこの地域から逃げ出すその時までは」
「……私も同じ事を考えていたわ。生まれてくる子は混血ですもの。ここは混血への差別が根深いから……私もこの子にそんな罪の十字架を背負わせたくないもの。個人単位でよくしてくれる人がいても、全体で見た時にそういう価値観の人は飲まれてしまうから。……でも、それを責めないであげてちょうだい。それは仕方がないことだから。この地で生きていく以上、そうせざるを得ない人も大勢いるわ。……私はそれを、見て来た」
「子供が大きくなった時、実は混血だと伝えてショックを受けねーといいんだがな……」
「きっと大丈夫。だって私達の間に来てくれる子ですもの。きっといい子だわ……」
瞬間、指と指が絡み合った。柔らかくて穏やかで何処に行く当てもない口付けを彼女と交わす。雨の雫が乾いた土へ染み込むように彼女への想いが溢れ、染みていった。先程より深く、深くに。
行く当てなどない。逃げた先で迫害されないという保証はない。だが―……
「ファティマ―……」
彼女となら、彼女と俺の間に生まれて来る子供と一緒なら乗り越えられる。根拠のない強い確信が確かにあった。
「守る。俺が。お前の事を。だから、一緒に歩んでほしい」
≪ゲッツ・フォーゲル≫
これらの事を、初めから言わなかったのは私があなた方と共にいたからである。しかし、今、私は私をお遣わしになった方の元に行こうとしているが、あなた方のうち誰もどこへ行くのかと尋ねる者はいない。むしろ、このような事を言ったので、あなた方の心は悲しみに満たされている。しかし、私はあなた方に本当の事を言う。
私が去っていくのは、あなた方にとって有益である。私が去っていかなければ、弁解者はあなた方の元においでにならないからである。しかし、私が行けば、私は弁解者をあなた方の元に遣わす。その方がおいでになれば、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにして下さるであろう。
罪についてとは、彼らが私を信じない事である。義についてとは、私が父の元へ行き、あなた方がもはや私を見なくなる事である。裁きについてとは、この世の支配者が裁かれた事である。
私にはまだまだ沢山あなた方に言いたい事があるが、今、あなた方はそれに耐える事が出来ない。
【ヨハネによる福音書 第16章】
「ファティマ……大丈夫か?その身体は……?」
「ふふっ……ええ、大丈夫よ。今は朝よりも吐き気が治まっているから。こうして起きていたの」
晩秋の夕日に染められた紅い木の葉が北から吹く風に飛ばされ流れていく。風が溜まる吹き溜まりで文字通り渦巻くそれを一瞥し、家の扉を潜れば刺すような夕暮れの寒さが一瞬で遠ざかり、温かさで包まれる。刺すような冷気に代わり溶かすような温かさがじんわりと指先を温めていた。
「ゲッツ……お帰りなさい……んっ」
「……おう。ただいま、ファティマ」
ファティマの水色の瞳が柔らかな弧を描いた。先程、彼女が言った通り、体調は悪くはないのだろう。今朝俺が家を出た時よりも顔色が良く見える。
身を屈め、腰を丸めて彼女の淡い桜色に色付いた唇に軽く触れるだけの口付けを落とせば、細い腕が静かに自分の首の後ろに回った。温かさが先程よりも強くなる。ファティマの甘い髪の香りが自分の鼻腔を優しく擽っていた。
……ファティマの見せる仕草の一つ一つが、表情の一つ一つが愛おしく思えるんだ。俺には。
「夕飯食べられそうか?帰りに材料買って来た。勿論、しんどいようなら寝ててもいい。……一人の体じゃねーんだからよ……」
「言ったでしょう?今は体調がいいって。一緒に作りましょう、ゲッツ?この子にも食べさせてあげたいもの。二人で作ったお料理を」
ファティマの白く細い指がそっと彼女の、まだ目立たない腹の上へと重なる。両手で慈しむように自分の腹に触れている彼女の姿に、自然と自分の瞳も弧を描いていた。
……もうすぐ会えるんだ。彼女の腹に宿った命に。
「……やっぱり寒い日はこれだな。美味しいからな、ファティマが作ったシチューは」
「ふふっ……でも子供の頃から好きだったわよね、ゲッツ?私が作ったものじゃなくても美味しい美味しいって食べていたじゃない?」
「んっ。特にって意味だよ。ファティマの作ったやつは特に美味いんだ」
暖炉にくべた薪が乾き爆ぜてパチリパチリと燃える。人を安心させる火をぼんやりと瞬間見つめ、すぐに彼女へと向き直った。優しい味がするシチューを作ってくれた自分の嫁さんと向かい合い、一つ包みを手渡す。
「ゲッツ、これは……?」
「ん。開けてみれば分かるさ」
かさりかさりと包装の紙が擦れる音が暖炉の燃える音と混ざり合う。包みから出て来たこれと俺とを交互にキラキラとした瞳で見つめるファティマに、思わず笑みが零れて落ちた。
「このストール……ゲッツが買ってくれたの?」
「おう。これから益々寒くなるだろう?寒さは今のお前の体にはよくないんじゃないかと思ってな。一応、お前が好きそうなものを選んだつもりなんだけどよ……ファティマ、ちょっとそれ貸してもらえるか?」
椅子から立ち上がり彼女に渡したばかりのそれを受け取った。肌触りのいい布を広げ、彼女の小さく華奢な肩へと巻き付ける。彼女が小柄なせいもあるが、見本のマネキンが身に着けていた時よりも少々、布が余ってしまったように見えなくもない。
「ちいとお前にはデカかったみたいだな……悪い」
「ふふっ……そうね。でも巻いてしまえば平気よ。それにとっても温かいわ。……これはカシミアね」
「あー……店員がそんな事を言っていたような……いなかったような……?」
自分の顎に手を当てて近い記憶を掘り起こす。確かに買う時にそんな事を言われたような気もするが、生憎この手の話題に自分は疎くてなあ……話半分に聞き流してしまった。
「あなたの事だから真面目に店員さんのお話を聞かなかったんでしょう?」
「ああ……まあな。手触りが良くて温かければそれでいいと思って選んじまったからな。素材の名前までは聞いてなかったんだ」
「ふふっ……正解よ、これで。だってとても温かいもの。ありがとう、ゲッツ」
ファティマの後ろから彼女の体を包むように抱きしめれば、ファティマの柔らかな頬が俺の頬に触れた。竜の姿をしていた時も彼女はこうして頬に頬を寄せてくれていたが、彼女もヒュームの姿になった今、あの時以上にファティマを近くに感じることが出来る。それが俺は……少なくとも自分は嬉しかったんだ。
「……ファティマ、聞いてくれ。大事な話だ。生まれてくる子供なんだが―……俺はヒュームとして育てようと思っている。少なくともこの地域から逃げ出すその時までは」
「……私も同じ事を考えていたわ。生まれてくる子は混血ですもの。ここは混血への差別が根深いから……私もこの子にそんな罪の十字架を背負わせたくないもの。個人単位でよくしてくれる人がいても、全体で見た時にそういう価値観の人は飲まれてしまうから。……でも、それを責めないであげてちょうだい。それは仕方がないことだから。この地で生きていく以上、そうせざるを得ない人も大勢いるわ。……私はそれを、見て来た」
「子供が大きくなった時、実は混血だと伝えてショックを受けねーといいんだがな……」
「きっと大丈夫。だって私達の間に来てくれる子ですもの。きっといい子だわ……」
瞬間、指と指が絡み合った。柔らかくて穏やかで何処に行く当てもない口付けを彼女と交わす。雨の雫が乾いた土へ染み込むように彼女への想いが溢れ、染みていった。先程より深く、深くに。
行く当てなどない。逃げた先で迫害されないという保証はない。だが―……
「ファティマ―……」
彼女となら、彼女と俺の間に生まれて来る子供と一緒なら乗り越えられる。根拠のない強い確信が確かにあった。
「守る。俺が。お前の事を。だから、一緒に歩んでほしい」
≪ゲッツ・フォーゲル≫
