第15章 極北の地
愛に偽りがあってはなりません。悪を忌み嫌い、善から離れてはなりません。互いに兄弟愛を持って心から愛し、競って尊敬し合いなさい。熱心で怠らず、心を燃やし、主に仕え、希望を持って喜び、苦難に耐え忍び、弛まず祈りに励みなさい。聖なる人々の貧しさを自分のものと考え力を貸し、手厚く人をもてなしなさい。
あなた方を迫害する者の上に祝福を願いなさい。祝福を願うのであって、呪いを求めてはなりません。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々の仲間となりなさい。
自分は賢い者だと己惚れてはなりません。誰に対しても悪に悪を返さず、全ての人の前で善いことを行うように心掛けなさい。出来る事なら、あなた方の力の及ぶ限り、全ての人と平和に暮らしなさい。
愛する皆さん、自分で復讐せず神の怒りに任せなさい。「主は仰せになる。『復讐は私のする事、私が報復する』」と書かれているからです。
しかし、次のようにも書かれています。「敵が飢えているなら食べさせよ。渇いているならば飲ませよ。そのようにする事であなたは敵の頭に燃える炭火を積むからである」
悪に負けてはなりません。むしろ、善を持って悪に勝ちなさい。
【ローマの人々への手紙 第12章】
一面の闇を一つの頼りなげな幻燈が照らしていた。上も下も左右すらわからない深淵、あるいは他の一抹の光すら届かぬ深海の底を幻燈は照らしていた。
自分が今歩いているのか立っているのかそれとも漂っているのか―……それすら自分には分からない。ただ一つ、まだ自分が自分としてこの空間に存在しているという事だけは分かった。自我は確かにまだここにある。
でなければ、こうしてくだらねえ事を考えることすら出来ないだろうからな。自分が今生きているか死んでいるかはひとまず置いて行くとしても。
……自分は本懐を遂げる事が出来たのだろうか?残された自我を使い思考する。頼りなく揺れているだけの目の前のにある幻燈に対して心中で尋ねた。ならばこの状況の説明がつくからだ。
「もしそうなるなら、てっきり無数の紅い火の粉の群れでも迎えに来てくれるのかと思ったんだがな」
人を呪った代償に狂った蛍のような火の粉の群れが死の舞踏を踊り術者を喰らう。それぐらいは跳ね返ってくると思っていただけに肩透かしを食らった気分にもなる。ここはあまりにも静か過ぎる。
願えば願う分だけ払わなければならないものは大きくなる。物を金で買うのと同じ理屈だ。まあ、それでも構わないと思ったからこそ魔道に進んだわけだが―……
「ん?」
そんな時だった。幻燈の下、闇以外の何かがある事に初めて気が付いたのは。これは……朽ちた煉瓦の塀……か?
「……森の中に煉瓦の塀?なんでこんなところにわざわざ塀が立ってるんだ?」
草の青い匂い、湿った黒い土の匂いが鼻を擽る。そう―……気が付けば自分は夜の森の中にいた。
「……夢、か?にしては妙にリアルだな……土を踏む感触まである……」
不意に響いた獣の嘶き声が自分の思考をそこで止めた。野犬か狼の類だろうか?酷く興奮しているように聞こえる。そして―……
「何してるんだ、お前」
「み、見ればわかるでしょ!?あの犬から逃げてるんだよ!」
「ふぅん……塀の上に子供がするみたいに上ってまでか?」
「猫の言われる筋合いはないよ!!」
そいつは女だった。顔は生憎この暗さと女が被ったフードに隠され見えないが、この声で男なら薄ら寒いだけだろう。だから、やっぱりこいつは女だ。
「ちょ……ちょっと……!置いて行かないでよ!」
「そこ、塀が崩れかけてるから踏まないように気を付けろ。……誰も置いていくとは言っていないだろう。ついて来な。……あの犬、ちょっとヤバそうだしな」
どうやらここは本当に夢の中らしい。でなければ説明がつかないほどには場面と場面の脈絡がない。……明晰夢というやつだろうか。話には聞いていたが実際こうして自分が見るのは初めてだ。もし本当に明晰夢なのだとしたら自分が思う通りに夢の内容を動かせるはずだ。
塀の上を歩きつつ時折それを止め振り返れば、相変わらず女の顔は見えないがちゃんと後ろをついて来ていると言う事は分かった。
犬はと言えば先程よりは離れたのだろうか……そのはるか後方に血走ったような赤い眼が二つあるだけだ。生臭い息の臭いはもうしない。
しかし、小さな子供ならまだしもいい年の大人が塀歩き、ね。まあ、あの犬のせいなんだが―……
「待って……!ねえ待って!私を置いて行かないで……!」
「猫に縋るのか、お前。さっき猫に言われる筋合いはないと言ったのはお前だろう?」
「そ、それは……」
深淵の底はもう過ぎたのだろう。徐々に周囲の闇が薄れていく。薄暮の色に染まっていく。夜と朝の端境の色……かわたれの浮橋の色だ。
「あっ……塀が……」
「それじゃ、これならいいか?」
一人先に塀の下へと降り立ち後ろを振り返れば、驚いた様に瞳を縦に見開きこちらを見つめる女の姿があった。当然だろう、先程まで猫だったものが人の姿をして塀の下に立っているのだから。
「飛び降りて来い。犬ももういないしな。怖いなら目を瞑ってそこから飛べばいい」
「でも……」
「受け止める。こい×××××」
かわたれに一条の光が差し込んだ。この光は幻燈の光だろうか?それとも本当の朝の光だったのだろうか?それは分からないが、分かった事もある。
俺はこの女の事を間違いなく知っている。ああ……これは残骸だ。数十年前に置いて来た、愛おしい恋の残り香。記憶の隅に留まり、思い出してもらう日を待っていた、記憶。
もう一度その女の名を紡げば、紡いだその瞬間に解かれ溶けて、自分は消えた。
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雨が降る。雨が降る。石畳の通りを白い家の壁を、そして俺自身を飛沫で叩きつけて。咽返る様な水煙がヴェールのように包み周囲を満たしていた。
「まさか……もうくたばってたなんてな……」
頬を雪になり損ねた氷雨が滑り筋を残して流れていく。自分の瞳からは一筋も流れてはいないというのに、見ようによっては涙にも見えなくないそれが不快だ。
そいつを殺すために生きて来た。その為に呪いを覚えた。そいつを自分自身の手で呪い殺す事―……それが自分の本懐であり、言い換えれば人生の指針でもあった。
「本っ当に最期までお前は……どこまで俺の人生を無茶苦茶にすれば気が済むんだ……クソッタレが……」
今朝見た夢が優しい記憶の残響ならば、これは記憶の残穢だ。
本懐を遂げさえすれば後はどうなろうがよかったっていうのに。呪いの代償が自身に返ってこようが遂げる事さえできれば何ら問題がなかった。なのに―……それはもう永遠に叶わない。
「あんたは……?……何してるんだい、風邪、引くよ……」
不意に雨が上がった。いや、それは正しくない。俺の周囲に雨が落ちて来なくなった。正しく言うならこうだろう。差し出された傘のおかげで。
「お前は……」
薄紫のフードの下、夢の中で見たものと同じ瞳が驚いた様に見開き、俺を見つめていた。
雨が……降っていた。
≪阿部鬼≫
