第14章 呪い

それはとてもとても甘く、痺れるような口移しだった。

何が起きているのかよくわからないままナハシュの口から注がれる水を飲み干した。

まさか少し前に自分がした事と同じように水を飲まされる事になるなんて思ってなかった。

ナハシュが私にお水を口移しで飲ませてくれるなんて全く予想してなかった。

少しずつ角度を変えて口から口へと注がれる。
注がれるままに飲んでいるけど…ナハシュの一口分の水が私よりも僅かに多い。
少しだけ口の端から溢れて首の方へと水が一筋流れてゆく。

これはお酒じゃない。
私がさっき井戸から汲んだお水…。

なのにどうしてこんなに頬が熱いのだろう。
お酒なんか一滴だって入ってないのに酔ってしまったかのように頭はぼんやりとしていて身体に力が入らない。

胸の鼓動が激しくて頭のなかは真っ白だ…。

舌先に温かい感触を感じる。

私の舌とナハシュの舌が絡みあっている。
私がしたときよりも深くて長い口移し。

唇を離したと思えば今度は唇の横から零れた水も丁寧に舐め取られる。

あれ……?私どうしてこんなことしてるんだろう……?
彼と私は今日出会ったばかりなのに。
何でこんなやりとりをしてるのだろう?

ようやく唇を解放されたことで自然と呼吸が激しくなる。

思考が追い付かない。
身体に力が入らない。


「……言っただろう?お前にはしばらくここにいてもらわねば困る、と。……手放す気はない。戻るぞ」


ごめんね、頭が回らなくてなんて言葉を返したらいいか…わからない。

でも…これだけは解るよ…
ナハシュの目が私を抱き上げる腕がとても…とても優しいんだって事…

ここにいてもいいんだと。そう言ってくれてるんだと……受け取ってもいいんだよね…。
私を抱き上げてくれたナハシュの服の端を掴む。
戻るという言葉にただ小さく頷いて返事を返して…。

ふと見上げれば夜空に浮かぶ蒼い月。


辺りの景色もナハシュの姿も青白く染め上げていて吹き抜けてゆく秋の夜の風も冷たいのに……なのに……私はとても温かい…。


こんな気持ちはなんと言うのだろう……?
胸の奥が温かくて鼓動が早くて……。

恩人として感謝してる……だけじゃない。
きっともっと別の気持ちが私の中にあるんだと…そう思うの。


何であんな思いきったことができたのだろう…。
何でナハシュも同じ事ができたのだろう…。

最初に私から口移しをした時は恥ずかしさはもちろんあったけど…そうしてあげなきゃっていう気持ちの方が強かった。
ナハシュの渇きを癒してあげたかったから。
でもナハシュは……?
どうして私にお水をくれたの……?
どうしてあんなに深く長い口付けができるの…?

貴方から見た私は今日出会ったばかりの他人に等しい人間なのに…。

この感情の名前は何なのか今の私にはまだよく解らないけど…

ナハシュはどんな人なのか…私は何一つ解らないけれど……私はナハシュの事を怖いと思っていない…私を見つめる瞳の底に何かを求めるような…すがるようななにかを感じるの。

脚にはナハシュの長い尻尾が巻き付いていて、ここにいろ、逃がすつもりはないと言っているよう……

だけど貴方の尻尾は……私を抱き上げる腕はこんなにも優しくて…全然苦しくないの。

逃げたりなんかしないよ。

貴方に出会ってしまったもの。

貴方の瞳の底にある感情が何なのか私の胸にある感情は何なのかを私は知りたい…。


「ナハシュ……本当にここで眠ってもいいの?いいんだよ?私は床でも……だって今までもそうしてきたから……」


「言ったはずだ。お前を奴隷として使役するつもりも愛玩動物として飼うつもりもない、と。……明日起きたら買い出しに連れて行ってやる。今夜だけはここで我慢しろ」


私は今ナハシュのベッドに身を横たえている。
私とナハシュが一緒に寝ても余裕があるくらいの大きなベッドに。
柔らかくて…温かくて…いいにおいがする……。


「……うん。あのね、ナハシュ……」

私は今とても幸せなの。
拾ってくれたのがナハシュでよかった……ってそう思ってるの。

「……しばらく満足に寝てもいなかったんだろう?いいから寝ろ。明日に響く」


「シャツも……ありがとう、おやすみなさい……ナハシュ……」


背中越しに感じる温もりに心もじわじわと温められていく。大きくてブカブカのシャツに頬を寄せればふわりと優しい香りが鼻腔に届く。

徐々に意識が沈んでゆく。

私は今とても幸福を感じているの……
貴方にとっては取るに足らないことかもしれないけれど……私にとってはそうじゃないの……



少しだけ怖い夢を見た。

外してもらった筈の鎖が着いていて、目の前にあの奴隷商人がいて……
乱暴に鎖を引っ張ってどこかへ連れて行こうとするの。

乾いた音がピシャリと周囲に響き渡り黒く長い皮の鞭が激しく地面を打ち付ける。その音にビクリと身体が萎縮して震えが止まらなくなる。

嫌……そっちに行きたくない。

私はそっちに行きたくない。

足を強く踏みしめてその場に踏みとどまる。

商人は抵抗する私を見つめたまま手にした鞭を高く高く振りかざした。
打ち付けられる鞭の痛みを瞬時に思い出して、反射的に両手を目の前に出しきつく目を閉じて身を竦めた。


ふと温かい何かが身体に触れて意識がそちらへと引き寄せられる。

鞭の痛みじゃない…これは何…?

とても温かくて柔らかい。
全身を覆うように感じる温もりに悪夢が霧散していくよう。

これは腕……私を引き寄せる大きな腕……。

悪夢に沈んでいた意識がどんどん引き戻されてゆく。


「……ん……っ………。」

ゆっくりと瞼を開いて見えてきたのは静かに寝息を立てるナハシュの寝顔。

いつの間にか私はナハシュの懐に身を寄せて眠ってしまっていたらしい…。

眠っているはずなのにしっかりと私の身体を抱きしめて脚には彼の長い尻尾が絡み付いている。

とても不思議な気持ちだった。
この人の顔を見たら怖い夢が何処かへ消えていってしまった。

この人の温もりが私の心を落ち着かせてくれている。

「……ナハシュ。」

もう少しだけ貴方の温もりに浸らせて欲しい……。

そう思いながら彼の胸に顔を埋めるようにして再び瞼を閉じる。

もう震えなくていいんだ。

もうあの乾いた鞭の音を聞かなくていいんだ…。


もう二度と味わう事のない感覚だと思っていた…人の肌の温かさが身体に…心に…染み込んでゆく。

もう私を縛る重く冷たい鎖はない…
ナハシュが全て砕いてくれたから。

ナハシュの温もりが私を癒してくれている。
とても…とても…温かい……私は今とても満たされている。


もう少しだけ瞼を閉じていてもいいよね。
もう私は普通に生きてもいいんだとナハシュはそう言ってくれたんだもの。

こんなに穏やかな朝を迎えたのは本当に久しぶりなの。

もう少しだけこのまま…
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