第14章 呪い


たとえ私が人間の異言、御使いの異言を話しても、愛がなければ私は鳴る銅鑼、響くシンバル。たとえ預言の賜物があり、あらゆる神秘、あらゆる知識に通じていても、たとえ、山を移すほどの完全な信仰があったとしても、愛がなければ私は何者でもない。たとえ、全財産を貧しい人に分け与え、たとえ、賞賛を受けるために自分の身を引き渡しても、愛がなければ私には何の益にもならない。

愛は寛容なもの、慈悲深いものは愛。愛は妬まず、高ぶらず、誇らない。見苦しい振る舞いをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人の悪事を数え立てない。不正を喜ばないが、人と共に真理を喜ぶ。全てを堪え、全てを信じ、全てを望み、全てを耐え忍ぶ。

愛は決して滅び去る事はない。預言の賜物なら、廃れもしよう。異言なら止みもしよう。知識なら無用となりもしよう。私達が知るのは一部分、また預言するのも一部分であるが故に。完全なものが到来する時は、部分的なものは廃れ去る。

私は幼い子供であった時、幼い子供のように誇り、幼い子供のように考え、幼い子供のように思いを巡らせた。だが、一人前の者となった時、幼い子供の事は止めにした。私達が今見ているものは、ぼんやり鏡に映ったもの。「その時」に見るのは顔を顔を合わせたもの。私が今知っているのは一部分。「その時」には、自分が既に完全に知られているように、私は完全を知るようになる。

だから引き続き残るのは、信仰・希望・愛。このうち最も優れているのは、愛。


【コリントの人々への第一の手紙 第13章】






蒼い月明かりが足元に蒼い月影を生み出していた。足下から細長く伸びた影を女と共に踏み、井戸へと向かい歩を進める。……妙な距離感があった。

きっかけは自分が発した些細な―……本当に些細な一言だった。「喉が……渇く……」という呟きを女が聞いてしまったのが原因だった。

俺の言葉を文字通りの”渇き”として受け取ったのだろう。喉が渇いたならば水を飲めばいい。……女の考えは至極まっとうなものだった。こちらが拍子抜けするほどに。

女の細い肩に毛布を掛け裏口へと通じる扉を開けば瞬間、渇いた寒風が傍らをごうっ……と通り抜けていく。風を頬で感じながら反射的に女の体を僅かに自分側へと引き寄せた。腰に手を添え、尾を女の体に絡ませる。

……先程枷は外したが……だが、逃げられては困るというのが理由だった。寒風のように傍らを足早に通り過ぎられてしまっては困るのだ。

女が純血のヒュームや混じっている血が普通の獣人のものであればこのように警戒はしない。だが、都合が悪いことに女に流れている血の一部は鳥だった。女の背に顕在する月光に染められた純白の翼を横目で一度見つめ、気付かれぬように一人目を細める。

自身の内側から湧き上がる砂を飲んだかのような激しい渇き、大雨に氾濫する河のような制御が効かない激情。これを潤し鎮める事が出来なくなる事は、自分にとって死以上の苦痛に他ならない。

屑を殺すその瞬間、俺は渇きから解放される。刹那、一瞬―……その後、それ以上の不毛な渇きが自身の身を襲うとしても、その時だけは渇きを忘れることが出来た。

カラリ、からりと井戸の滑車が乾いた音を立てて回っていた。他に音がない沈黙の夜に唯一、その音だけが響き、霧散していく。

この女があの奴隷商のように屑だったならば俺は今すぐにでもこの渇きを潤す事が出来たのに。内から湧き出る感情を溜息に混ぜ吐き出した。落胆の息だった。……この女は屑ではない。間違いなく。むしろ、それとは真逆に位置する人間だろう。清純で清廉で穢れを知らない。堕ち切った自分と対極に位置する者。

世界を浄化するかのような蒼月の光が女の美しい横顔を淡い光で照らし出していた。


「あっ……コップ……忘れちゃった……」


不意に女が小さく声を上げた。その声に女の手元へと視線を向ければ―……なるほど、確かに女の指の間からさらり、さらりと透明な雫が零れ落ちていく。女の穢れのない白い手の隙間から曇りない月の雫のような水がサラリ、さらりと。

瞬間、困ったような表情でこちらを見上げる女と虚空で視線が交わる。何をそんなに困る必要があるのか……それが分からず俺はそのまま女を見つめていた。コップはここにはないが、自分が水を飲むのであればそのまま手で掬って口にすればいいだけの話だ。


「ねえ……ナハシュ……もう少し……屈んでくれる?」


女の白い顔に微か、恥じらう様な朱が混じる。意図が掴めないまでも害はないだろうと僅かに身を前へ屈めれば、仄かに温かな女の両手が自分の頬に控えめに触れた。そして―……

月影が濃くなる。重なったその分だけ。唇と唇が重なったのと同時に。女の予想だにしていなかった行動に自身の瞬膜が、瞳孔が見開く。

水の流れる音がした。女の柔らかな唇から俺の渇いた唇を通じて流れ、移っていく。満ちていく。……酷く、甘い。


「突然ごめんね、でも……あなたの渇きを癒してあげたくて……お水……沢山飲めたかな……もう喉……渇いてない……かな?」


「ああ……飲めた……な」


俯きながら言葉を紡ぐ女の足に自分の尾を再び絡め直した。口角が上がり、瞳が緩く弧を描く。不思議な感覚だった。だが少なくとも不快ではない。この感覚は―……


「ねえ……ナハシュ……私はまだ名前……あなたに教えてなかったよね。私の名前はピエリスだよ。お願い……ここにいさせて……ナハシュの傍に。私あなたにもっとお礼がしたいの……んっ……あっ……」


女の言葉が終わった刹那、今度は自ら口に水を含み女の唇に唇を重ねた。女が俺にそうしたように少しずつ角度を変えて水を注ぐ。注がれた分注ぎ返すように水を贈った。先程とは違い息苦しさから逃げようとする女の舌を絡め、捕まえながら。……やはり、甘い。上質の酒のようだ。ただの水でしかないにも関わらず。痺れるように、痴れるように……甘い。


「あっ……はあ……ナハ、シュ……」


呆けた焦点の合っていない彼女の瞳が鏡のように俺の姿を映す。彼女の唇の横から僅かに零れた水を舌先を使い拭う。力なく倒れ込むようによろけたピエリスと名乗った女の体を片腕を使い受け止めた。……腰が抜けたのだろう。


「……言っただろう?お前にはしばらくここにいてもらわねば困る、と。……手放す気はない。戻るぞ」


抱えるように軽い体を持ち上げれば、先程までとは言わずとも自然に互いの顔が近くなる。顔を赤らめたまま控えめに俺の服の端を掴み頷くピエリスの仕草に、またあの……不思議な感覚が胸に去来した。

月が、見ていた。





「ナハシュ……本当にここで眠ってもいいの?いいんだよ?私は床でも……だって今までもそうしてきたから……」


「言ったはずだ。お前を奴隷として使役するつもりも愛玩動物として飼うつもりもない、と。……明日起きたら買い出しに連れて行ってやる。今夜だけはここで我慢しろ」


だいぶ西へ傾いた月が窓の外から細く光の柱を部屋の奥へと伸ばす。天球に浮かぶ星々もポラリスを除き西へと動いていた。あと数刻もすれば月に代わり陽の光が世界を満たすだろう。……夜が明けねば良いものを……朝は……苦手だ。夜明け前の空が一番暗い。


「……うん。あのね、ナハシュ……」


「……しばらく満足に寝てもいなかったんだろう?いいから寝ろ。明日に響く」


背中越しにピエリスの声が聞こえる。背を向けたままの体勢を崩さずそのまま言葉を待てば、井戸の前でも感じたものと同じ温かさが背を通じ伝わって来た。ああ……なんて……


「シャツも……ありがとう、おやすみなさい……ナハシュ……」


『ああ……こいつの血を舐めたらどれほど甘美な味がするだろうか?今度こそ渇きを癒すに足りるだろうか?』

刹那過った内からの言葉に封を施し目を閉じる。そんなわけあるかと自分自身で否定しながら。眠りに就く。


夜が……明けねばよいものを。


≪ナハシュ・ヤラッド≫
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