第14章 呪い
目が覚めた私が始めに目にしたのは血のように暗く…赤いふたつの眼だった。
暗闇に包まれた部屋に月明かりが一筋差し込み、目の前の男の姿を蒼白く浮かび上がらせていた。
ここは何処……?目の前にいるこの人は一体誰……?
目覚めたばかりで追い付かない頭で思考を巡らせ、一つの答えに辿り着く。
カチャリと鈍い音が響く。
私を縛る冷たく重い鉄の鎖。
月明かりに照らされ鈍く光る長い鎖が視界に映る。
私とこの人の関係の答えはこれしかない。
そう思いながら目の前の男の人に問いかける。
「あなたは―……あなたが私を買ってくれたの?じゃあ……あなたが私のご主人様……?」
そう問いかけてみるが、返ってきたのは私が思っていたものとは別の答えだった。
「……違う。が、あのまま捨て置くわけにもいかなかった。だから、ここへ連れて来た」
この人は何を言っているのだろう…?
私は確かに奴隷商に連れられて荷馬車に乗っていたはず……。
なのに私を買った訳じゃないって…どういう事……?
この人と私は一体どういう関係でここにいるというのだろう……?
私を買ったわけではないならあなたは私の主人ではないという事……。
なら私はあなたを何と呼べばいいの?
困惑しながら問いかければ男は暫く間を置いて静かに口を開いて言葉を紡いだ。
「ナハシュ。ナハシュでいい」
ナハシュ……それがあなたのお名前?
心のなかでもう一度繰り返す。
私の目の前に立つあなたの名前。
初めて耳にする異国の響き…とても不思議で…素敵なお名前ね。
そんな事を考えていると不意にバサリと頭の上から何かが降ってきた。
手で触れてみればふわりとした柔らかな感触…暫く触れてこなかった温かい手触り…これは……毛布……?
感謝の言葉を伝えようと顔を上げれば、首にかかった鎖がカシャリと無機質な音を立てた。
その音を耳にした瞬間、ナハシュは眉間にシワを刻んで私の目の前へと歩み寄る。
腰を降ろしてポツリと一言。
鎖の端を掴むとくいっと引き寄せられて、私はバランスを崩してよろめき彼の胸にぶつかった。
「あ……ごめんなさ……」
「言っただろう?俺はお前の飼い主ではない、と」
「えっ……?」
私の謝罪の言葉に重なるように彼の低い声が耳に届く。
その言葉の意味を理解するよりも早く彼は私の首輪に手をかけ、左右に引き千切った。
パキン…!と音を立てて千切れたその首輪は今は無造作に床に打ち捨てられている。
私が奴隷である証とも言えるその首輪を…この人はいとも簡単に引き千切ってしまった。
何故?私がそう問えば彼は私の耳元でこう告げる。
「俺はお前の飼い主になったわけではない。が、顔をこうして覚えられたのはまずいんでな。しばらくここにいて貰うぞ」……と。
腰と顎に手を添えられ、足には彼の長い尾が巻き付いている。
「逃がさない。」とでも言いたげな意思を感じながら。
顔を上に向かせられたまま私は彼の瞳をじっ…と見つめていた。
何故?あなたは何故そんなに優しい目をしているの?
この感情は…何?
感情を出すことを許されなかった私の心が今確かに…動いている…。
胸が激しく鼓動を打っていて……少し苦しい……あなたの瞳を見ているだけでどうしてこんなに切なくなるのだろう……。
「いいの……?私ここにいても……?奴隷としてじゃなくナハシュと一緒にいても……?」
「くどい。それにお前にも行く当てなどないんだろう?お前は奴隷商に売りに出されたんだ。……なら、けして悪い話ではないと思うが?ここにいれば自由はともかく衣食住は保証される」
不機嫌そうな表情のまま紡がれたその言葉。
…どうしてだろう、彼の言葉には優しさが滲んでいるような気がする…。
私の思い込みのせいかな…ナハシュ……。
あなたは私に『ここにいてほしい』と言ってるように聞こえるの。
彼の服の端を掴み身体を預けるように胸に頬を寄せる。
私の思い違いでないなら…ここに居させてほしい…帰る場所の無い私を……奴隷だった私を人間として扱ってくれたあなたの所に……
「ナハシュ…あのね…」
「喉が……渇くな……」
不意に呟かれた言葉に再び私の言葉が遮られた。
「喉が…渇くの?」
私がそう問えば窓の外を見つめていた彼は私の方へと視線を落とし、聞いていたのかと言いたげな顔をして再び窓の外へと視線を戻す。
「ひどく渇く」と誰に向けるわけでもなく一人呟きながら不愉快そうな表情を浮かべて喉元に触れていた。
「私も……お水飲みたいな。
ねぇ、井戸……どこかな?」
「井戸……か。」
私の言葉に彼はゆっくりと扉の前へと歩を進める。
足に絡んでいた尾がしゅるりと離れ、黒い蛇の尾が遠ざかってゆく。
「こっちだ。ついて来い。」
扉の前に立つ彼の隣へと歩み寄る。
無言のままだったけど、部屋を出る直前、ナハシュはそっと私の肩に毛布をかけてくれた。
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渇いた風が通りすぎてゆく。
毛布のおかげでそれほど寒さを感じていないけど…
何より温かいと思ったのは…ナハシュの腕の温もりだった。
井戸の前に立つ私の隣でやはり彼の長く細い蛇のような尾が私の足に巻き付いていて…左手は私の腰の位置に添えられている。
そっと添えられた手と長く絡み付く尾。
だけど……これは束縛じゃない……私を縛り付けていた鎖とは違う…。
だって…とても優しくて温かいもの…。
あの奴隷商人のように乱暴に引っ張ったりぶったりなんかしないもの。
私の思い違いかもしれないけれど……少なくとも私は彼の温もりを分けて貰えているのだとそう思ってる。
井戸から水を汲み、ナハシュの方へと視線を向けてふと気づく。
「あ…コップ…忘れちゃった。」
どうやってお水を飲ませたらいいのだろう…?
手で掬ってみるが水はみるみるうちに手から溢れてほんの僅かしか残らない。
(うまく掬えないや……これだけじゃ喉の渇きは癒せない…よね。)
再びナハシュの方を見る。
不思議そうな表情を浮かべながら何も言わずにその場に立つナハシュ。
どうしたらあの人の喉の渇きを癒せるだろう…。
少しの水では足りない。もっと一度に沢山飲ませてあげないと…。
「ねぇ…ナハシュ、もう少し……屈んでくれる?」
心臓が煩い。
でもこの方法くらいしか私には思い付かない。
私はナハシュに沢山お水をあげたいから…。
水を掬って口に含む。
そっと彼の両頬に手を添えてその水をナハシュの口へと流し込む。
周囲の音が聞こえない。
心臓の音がとても煩くて…口移しをしているという事意外何も考えられなくなっていた。
少しずつ少しずつ飲みやすいように水を流していく。
すべて口から流し終えて口を離せば静かに私を見つめるナハシュと目が合った。
頬がすごく熱い。私…とんでもないことしちゃった…。
今日出会った人に突然口移しされたんだもの…ナハシュだって驚いてるよね…。
「突然ごめんね、でも…あなたの渇きを癒してあげたくて…。
お水…沢山飲めたかな…もう喉…渇いてない…かな?」
「ああ……。飲めた…な。」
ナハシュの口角が上がってる気がする…。瞳も少しだけ弧を描いていて…気のせいかな…さっきよりも柔らかい表情を浮かべている気がする…。
「ねぇ…ナハシュ……私まだ名前……あなたに教えてなかったよね。」
とても…嬉しかった……。
身売りに出されてから私を人間として見てくれる人に出会えると思っていなかった。
このまま奴隷として私の生は終わると思ってた…ううん。そうなることを受け入れてた。
でもナハシュはそれを否定して私の鎖を壊してくれた…。
…これまでずっと縛られていた私の心が溶けて動き出している。
私はこの人にお礼がしたい…この人と一緒に生きていたい。
「私の名前は、ピエリスだよ。
お願い…ここにいさせて…ナハシュの側に。
私あなたにもっとお礼がしたいの。」
