第14章 呪い
律法が霊的なものである事を、私達は知っています。しかし、私は肉の弱さを纏った人間で、罪に売り渡された者です。
私は自分の行っている事が分かりません。何故なら、自分が望んでいる事はせず、却って憎んでいる事をしているからです。もし、私が自分の望まない事をしているとすれば、私は律法に同意して、それを善いものと認めている事になります。それでそういう事を行っているのは、もはや私ではなく、私達の中に住んでいる罪なのです。
私達は自分のうちに、即ち、私の肉のうちに善が住んでいない事を知っています。善い事をしようという意思はありますが、行いが伴いません。私は自分の望む善いことをせず、望まない悪い事をしているのです。とすれば、それを行っているのはもはや私ではなく、私の内に住んでいる罪なのです。
それで、善い事をしようと望む自分には、いつも悪があるという原理に気が付きます。「内なる人間」としては、神の律法を喜んでいますが、私の五体の内にある罪の原理の元、私を虜にしている事が分かります。
私はなんと惨めな人間でしょう。死に定められたこの身体から、一体誰が私を救い出してくれるのでしょうか?
要するに、私は自分の理性では神の律法に仕え、肉では罪の原理に仕えているのです。
【ローマの人々への手紙 第7章】
一つ、雫が蒼い月で照らされる森の粗末な小道の上の落ちた。月から落ちた雫ではない。これはそのような清浄な類のものではない。蒼い月の光を受け、どす黒く姿を変えた醜悪な鉄錆の臭いを纏った雫だった。
じっとりと粘つくような闇が広がっていた。その一点を一つの感情を宿した目で見つめ、細く長い息を肺の底から吐き出した。感情の名は―……歓喜。
「……い、命だけは……!金か!?それとも”ヤク”か!?いくらでも持って行っていい!!!」
「……そんな美味しい話が、あると思っているのか?本当に……?自分が今までしてきたことが何なのか……お前は分かっているだろう?」
「ヒィイッ……!!!」
でっぷりと……文字通り私腹を肥やした巨体を震わせ、今になって無様に命乞いを始めた男に向い愛刀を一太刀奮った。男の肉で狭まった喉から細く笛が鳴くような音がした。
剣が巻き付き、巻き付いた剣を通じて恐怖が伝わり、するりと渇き切った自身の体の入り込む。ざわりと背筋が歓喜に震えた。自分の口元に今空に浮かんでいる月の形とは違う三日月が上る。
この男は屑だった。貧しい山村を回り、女・子供を安く買い叩き、奴隷として自分と同じように腐った屑共に高く売り捌く。
そのまま貴族の愛玩動物として買われた人間はまだ幸せだっただろう。だが、売られた先で麻薬に手を出し破滅した者、臓器を抉り出され文字通りゴミとして打ち捨てられた者がいた事を、俺は知っている。
そう……こいつは……屑だ。俺と同じ側の人間だ。死んで喜ぶ者はごまんといるが逆はいない。碌な死に方をしない人間だ。
口元に浮かんだ笑みが更に深いものへと変わっていく。数秒前まで人であったそれは不快な臭いを纏った肉塊へと姿を変えていた。
ああ……酷く喉が渇く。
「……ん?」
粘つき広がる闇の中へ身を投じようとした―……その時だった。幌馬車の幌が不意に夜風を受けて微かに動いたのは。足先をそちらへ向け幌を捲れば、そこにあった物が姿を現す。馬車に積まれた荷が。
……こいつは屑か?……いや、おそらく違うだろう。
手近にあったボロ布を乱暴に手に取り、その荷を包むように巻き付けた。上から下まですっぽりと覆い隠して、そして今度こそ夜の中に身を投じる。
どこか遠くの方で、物悲しい夜鳥の声が、上がった。
++++++++++++++++++++
「……っ……ん……」
「……目が覚めたのか」
「あなたは―……あなたが私を買ってくれたの?じゃあ……あなたが私のご主人様……?」
部屋の隅まで伸びた細い月明かりが数刻前、ここに運び入れた荷を頼りない光で照らしていた。それを片膝を立てて座り、真っ直ぐ視界で捕らえながら言の葉を紡いだ。
積まれていた荷は、一人の女だった。
「……違う。が、あのまま捨て置くわけにもいかなかった。だから、ここへ連れて来た」
「あの、まま……?」
女の目蓋が数度瞬き、首がゆっくりと横へ倒れる。女が首と両腕に着けた隷属の証である鎖がカシャリ……と耳障りな金属音を奏でていた。
知らないフリかそれとも本当に見ていなかったのか―……それはどうでもいい。些細な違いでしかない。こうしてここに連れて来た以上は。
顔を見られていたかもしれない可能性がある以上、野放しにするわけにもいかないからな。今夜の出来事を誰か他の者にこの女が吹聴しないという保証はどこにもない。
仄暗い衝動が発散できなくなる。渇きが潤せなくなる。それは俺にとって苦痛以外のなにものでもない。
「違う……?じゃあ、私はあなたを何て呼べばいいの?あなたが私のご主人様でないならなんて呼べばいいの……?」
「ナハシュ。ナハシュでいい」
「それがあなたのお名前なの……?」
「ああ、そうだ。……もう寝ろ。明日に響く。それに俺も今日はもう出掛けない。用事は済ませて来たからな」
自分の傍らにあった毛布を掴み放れば、女の頭上でばさりと広がり、落ちた。新品とはけして言えないが、今までこいつを包んでいたボロ布に比べれば幾分かはこちらの方が上等だろう。
「毛布……?うん、ナハシュ……ありがと……う?」
「……邪魔だな。これは」
女の動きに合わせて再び、女が身に着けている隷属の証が不愉快な音を立てた。耳障りだ。
その端を掴み軽く自分の方へと引けば、女はバランスを崩し体をよろめかせた。軽い力で引いたつもりだったんだが、女の体は俺が想像していたものより遥かに軽かったらしい。女の軽い体が自分の胸にぶつかった。女の青く澄んだ双眸の中には自分の姿が映り込んでいた。
「言っただろう?俺はお前の飼い主ではない、と」
力を込めて首輪を左右へ引けば、それは飴細工のように伸びて千切れ落ちた。俺自身、自分を屑だと自覚しているが愛玩動物を飼育する趣味はない。
「……どうして?私は奴隷なんだよ?ナハシュ?どうして……鎖を外してくれたの?」
「俺はお前の飼い主になったわけではない。が、顔をこうして覚えられたのはまずいんでな。しばらくここにいて貰うぞ」
女が逃げられないように女の細い足に自分の尾を巻き付け、片手で腰を抑え固定した。空いている方の手を女の顎に添え、顔を上に向かせ言を紡いで。
「俺はお前を買ったわけではない。飼うつもりもない。それにそもそも奴隷なんぞ必要としていない。が、お前にはここにいて貰わねば困る。……それだけだ」
「いいの……?私ここにいても……?奴隷としてじゃなくナハシュと一緒にいても……?」
「くどい。それにお前にも行く当てなどないんだろう?お前は奴隷商に売りに出されたんだ。……なら、けして悪い話ではないと思うが?ここにいれば自由はともかく衣食住は保証される」
女の自分のものとは違う白い手が、小さく控えめに俺の服の端を掴んでいた。渇いた風が無数の黄色い枯葉を舞わせながら、窓の外を通り過ぎて行った。
ああ、喉が……渇く……
「喉が……渇くな……」
≪ナハシュ・ヤラッド≫
私は自分の行っている事が分かりません。何故なら、自分が望んでいる事はせず、却って憎んでいる事をしているからです。もし、私が自分の望まない事をしているとすれば、私は律法に同意して、それを善いものと認めている事になります。それでそういう事を行っているのは、もはや私ではなく、私達の中に住んでいる罪なのです。
私達は自分のうちに、即ち、私の肉のうちに善が住んでいない事を知っています。善い事をしようという意思はありますが、行いが伴いません。私は自分の望む善いことをせず、望まない悪い事をしているのです。とすれば、それを行っているのはもはや私ではなく、私の内に住んでいる罪なのです。
それで、善い事をしようと望む自分には、いつも悪があるという原理に気が付きます。「内なる人間」としては、神の律法を喜んでいますが、私の五体の内にある罪の原理の元、私を虜にしている事が分かります。
私はなんと惨めな人間でしょう。死に定められたこの身体から、一体誰が私を救い出してくれるのでしょうか?
要するに、私は自分の理性では神の律法に仕え、肉では罪の原理に仕えているのです。
【ローマの人々への手紙 第7章】
一つ、雫が蒼い月で照らされる森の粗末な小道の上の落ちた。月から落ちた雫ではない。これはそのような清浄な類のものではない。蒼い月の光を受け、どす黒く姿を変えた醜悪な鉄錆の臭いを纏った雫だった。
じっとりと粘つくような闇が広がっていた。その一点を一つの感情を宿した目で見つめ、細く長い息を肺の底から吐き出した。感情の名は―……歓喜。
「……い、命だけは……!金か!?それとも”ヤク”か!?いくらでも持って行っていい!!!」
「……そんな美味しい話が、あると思っているのか?本当に……?自分が今までしてきたことが何なのか……お前は分かっているだろう?」
「ヒィイッ……!!!」
でっぷりと……文字通り私腹を肥やした巨体を震わせ、今になって無様に命乞いを始めた男に向い愛刀を一太刀奮った。男の肉で狭まった喉から細く笛が鳴くような音がした。
剣が巻き付き、巻き付いた剣を通じて恐怖が伝わり、するりと渇き切った自身の体の入り込む。ざわりと背筋が歓喜に震えた。自分の口元に今空に浮かんでいる月の形とは違う三日月が上る。
この男は屑だった。貧しい山村を回り、女・子供を安く買い叩き、奴隷として自分と同じように腐った屑共に高く売り捌く。
そのまま貴族の愛玩動物として買われた人間はまだ幸せだっただろう。だが、売られた先で麻薬に手を出し破滅した者、臓器を抉り出され文字通りゴミとして打ち捨てられた者がいた事を、俺は知っている。
そう……こいつは……屑だ。俺と同じ側の人間だ。死んで喜ぶ者はごまんといるが逆はいない。碌な死に方をしない人間だ。
口元に浮かんだ笑みが更に深いものへと変わっていく。数秒前まで人であったそれは不快な臭いを纏った肉塊へと姿を変えていた。
ああ……酷く喉が渇く。
「……ん?」
粘つき広がる闇の中へ身を投じようとした―……その時だった。幌馬車の幌が不意に夜風を受けて微かに動いたのは。足先をそちらへ向け幌を捲れば、そこにあった物が姿を現す。馬車に積まれた荷が。
……こいつは屑か?……いや、おそらく違うだろう。
手近にあったボロ布を乱暴に手に取り、その荷を包むように巻き付けた。上から下まですっぽりと覆い隠して、そして今度こそ夜の中に身を投じる。
どこか遠くの方で、物悲しい夜鳥の声が、上がった。
++++++++++++++++++++
「……っ……ん……」
「……目が覚めたのか」
「あなたは―……あなたが私を買ってくれたの?じゃあ……あなたが私のご主人様……?」
部屋の隅まで伸びた細い月明かりが数刻前、ここに運び入れた荷を頼りない光で照らしていた。それを片膝を立てて座り、真っ直ぐ視界で捕らえながら言の葉を紡いだ。
積まれていた荷は、一人の女だった。
「……違う。が、あのまま捨て置くわけにもいかなかった。だから、ここへ連れて来た」
「あの、まま……?」
女の目蓋が数度瞬き、首がゆっくりと横へ倒れる。女が首と両腕に着けた隷属の証である鎖がカシャリ……と耳障りな金属音を奏でていた。
知らないフリかそれとも本当に見ていなかったのか―……それはどうでもいい。些細な違いでしかない。こうしてここに連れて来た以上は。
顔を見られていたかもしれない可能性がある以上、野放しにするわけにもいかないからな。今夜の出来事を誰か他の者にこの女が吹聴しないという保証はどこにもない。
仄暗い衝動が発散できなくなる。渇きが潤せなくなる。それは俺にとって苦痛以外のなにものでもない。
「違う……?じゃあ、私はあなたを何て呼べばいいの?あなたが私のご主人様でないならなんて呼べばいいの……?」
「ナハシュ。ナハシュでいい」
「それがあなたのお名前なの……?」
「ああ、そうだ。……もう寝ろ。明日に響く。それに俺も今日はもう出掛けない。用事は済ませて来たからな」
自分の傍らにあった毛布を掴み放れば、女の頭上でばさりと広がり、落ちた。新品とはけして言えないが、今までこいつを包んでいたボロ布に比べれば幾分かはこちらの方が上等だろう。
「毛布……?うん、ナハシュ……ありがと……う?」
「……邪魔だな。これは」
女の動きに合わせて再び、女が身に着けている隷属の証が不愉快な音を立てた。耳障りだ。
その端を掴み軽く自分の方へと引けば、女はバランスを崩し体をよろめかせた。軽い力で引いたつもりだったんだが、女の体は俺が想像していたものより遥かに軽かったらしい。女の軽い体が自分の胸にぶつかった。女の青く澄んだ双眸の中には自分の姿が映り込んでいた。
「言っただろう?俺はお前の飼い主ではない、と」
力を込めて首輪を左右へ引けば、それは飴細工のように伸びて千切れ落ちた。俺自身、自分を屑だと自覚しているが愛玩動物を飼育する趣味はない。
「……どうして?私は奴隷なんだよ?ナハシュ?どうして……鎖を外してくれたの?」
「俺はお前の飼い主になったわけではない。が、顔をこうして覚えられたのはまずいんでな。しばらくここにいて貰うぞ」
女が逃げられないように女の細い足に自分の尾を巻き付け、片手で腰を抑え固定した。空いている方の手を女の顎に添え、顔を上に向かせ言を紡いで。
「俺はお前を買ったわけではない。飼うつもりもない。それにそもそも奴隷なんぞ必要としていない。が、お前にはここにいて貰わねば困る。……それだけだ」
「いいの……?私ここにいても……?奴隷としてじゃなくナハシュと一緒にいても……?」
「くどい。それにお前にも行く当てなどないんだろう?お前は奴隷商に売りに出されたんだ。……なら、けして悪い話ではないと思うが?ここにいれば自由はともかく衣食住は保証される」
女の自分のものとは違う白い手が、小さく控えめに俺の服の端を掴んでいた。渇いた風が無数の黄色い枯葉を舞わせながら、窓の外を通り過ぎて行った。
ああ、喉が……渇く……
「喉が……渇くな……」
≪ナハシュ・ヤラッド≫
