第14章 呪い


愛する者達よ、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るものだからです。愛する人は皆、神から生まれた者で、神を知っています。愛さない人は神を知りません。神は愛だからです。

神は独り子を世に遣わされました。それは、私達がこの方を通して生きるようになるためです。ここに、愛が、私達のうちに現されたのです。私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛して、私達の罪の為に、贖いの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

愛する者達よ、神がこのように私達を愛されたのですから、私達も互いに愛し合わなければなりません。いまだかつて神を見た者はいません。しかし、私達が互いに愛し合うなら、神は私達に留まり、神の愛は私達のうちに全うされるのです。

神は愛です。愛のうちに留まる人は神のうちに留まり、神もまた、その人のうちに留まっておられます。こうして愛は私達のうちに全うされました。それ故、裁きの日に確信を持っている事ができます。この世において、私達もあの方のようであるからです。

愛には恐れがありません。完全な愛は恐れを閉め出します。恐れには罰が伴い、恐れる人は愛のうちに全うされていないからです。私達が愛するのは、神がまず、私達を愛して下ったからです。

「神は愛している」と言いながら、自分の兄弟を憎むなら、その人は嘘吐きです。目に見えている兄弟を愛さない人は、目に見えない神を愛する事は出来ません。

神を愛する者は、自分達も愛さなければなりません。

これが、私達が神から受けた掟です。


【ヨハネの第一の手紙 第4章】






その封書が俺の元に届けられたのは一月の半ば過ぎ―……一年のうちで最も寒い冬の底の午後の事だった。送り主の名も記されていないその封書の蜜蝋を迷うことなくナイフで削り切り、何の変哲もない手紙を中から取り出し、そこに記されている文字の羅列を目でなぞった。


『ダンタリオン家当主に謀反の動きあり』


封書の中を読み終えると同時に薄い水色の封筒ごと、赤々と燃える暖炉の火へくべ燃やした。これで万が一俺が捕縛されたとしても、この手紙を俺に寄越した者にまで追部の手が及ぶ事はない。……当然だ。唯一の証拠である書は今まさに目の前で燃え、みすぼらしい灰へと姿を変え散っている。

ダンタリオン家と俺の生まれたアウラーナ家との関係は政敵と言って差支えのない間柄だ。

今北の彼の地を治めているのはアローゼ家だが、アローゼ家が失脚した場合、その座に座するのはダンタリオン家になるだろう。アローゼ家よりも保守的で排他的なダンタリオン家が座に上がれば、それは北で境界を接しているアウラーナにとって脅威にしかならない。

だから、ダンタリオン家の思惑を潰すためだけにこのような危険な橋を渡る事を選んだ―……というわけではない。そのような立派な大義名分は今から自分がしようとしている行動の中には含まれていない。……酷くエゴに塗れた行いであると自分自身、誰よりも理解していた。

影と血を馴染ませ、術の触媒である細剣で床を軽く一つ突いた。朽ちかけた古びた洋館の壁を影が這う蔦のように網状に奔り、覆っていく。

……全く、浅はかだな。酷く……


浮上した先には”春”がいた。無垢な、穢れを知らない清らかな女の姿があった。春先の花が綻ぶように笑みを浮かべ、溢し、大輪の水仙を手折ろうと手を伸ばす彼女の姿があった。……花を贈る者の事を思い柔和な笑みを湛えた”乙女”の姿が。

ダンタリオン家の思惑を打ち砕くため。アウラーナにとっての将来の不安の芽を芽吹く前に刈り取るため。……言い訳ならいくらでも並べる事が出来る。だが、そのいずれもが、言い訳だ。俺はただ……ただ……

水仙の花を手折るように乙女の体を強引に抱き締め、引き摺り込んだ。温かな春を無理矢理冷たく暗い地中へ引き摺り込む。酷く心細げで、儚げで、今にも闇の底に沈み溶けて行ってしまいそうな一粒の光を。

優しく、温かく、か細い胸の中にある春の灯火は、奇妙な事に無限の彼方まで遠く広がっていくようだった。瞬間、自分の周り、固まっていた時間が緩やかに解けて、音もなく崩れ落ちていく。

互いの家の事など後から考えた言い訳に過ぎない。俺はただ―……ただ……これからもお前に―……


「……ん……っ……コレット……」


「ベリル様……はい、お水です……」


冷たく暗い夜の釜の底にあった意識が急激に浮上していく。垂らされた一本の光の糸を手で辿り、鉛の様に重たい目蓋を薄く開けば、ぼやけ滲む視界に春が映った。彼女に導かれるままに一口、冷えた水を口にする。……酷く渇いていたのだろう。細胞の一粒一粒に水が満ちていくかのような―……そんな感覚を覚えた。

ガラスのコップの水を飲み終える頃にはぼやけていた意識もはっきりとし、周囲を確認する余力も戻っていた。……ここは自分の館……か。そうか……無事にここまで帰って来ることが、出来たのか……


「……ベリル様……すみません。少しだけ時間をいただけますか……?」


彼女が心を込めて作ってくれたスープから柔らかな優しい香りが立ち上り、朝の光と混ざり合う。細く、緩くスープから立ち上る湯気と朝日に染まり煌めく波打つ金の髪をただ静かに見つめていた。何か―……とても大切な何かを言の葉として生み出そうとしているコレットの姿を。


「ベリル様に……伝えたいのです……私の気持ちを……私の本当の名前を……貴方に伝えたいのです。知って欲しいのです……他の誰でもない貴方に……飾り立てられた名ではなく私にとって一番大切な本当の名前を……」


沈黙が降っていた。身を凍てつかせるような寒々しい沈黙でも、冥府と常世を隔てている鉛の扉のように重々しい沈黙でもない。柔らかで酷く穏やかな沈黙が。

衣擦れの音が微かに響く。寝台の横に膝をつき、俺の手を両手で包むようにして握ると、彼女は小さく一度息を吸い込んだ。湖水色をした美しい対の瞳に自分の姿が映り込む。


「愛を込めて私の名を呼んで下さるのはこの世で唯一人だけ……ベリル様……貴方に呼んで欲しいのです。……貴方のお声で……私の本当の名前を……私の名前は……コレーです」


コレー。それは、異国の言葉。異国の言葉で”乙女”を意味する言葉。春と農耕の女神の名前。……彼女の母がどれだけ彼女を深く愛していたのか……その名に察した。


「ベリル様……お慕いしております。貴方となら常世の国へまで共に……」


愛には恐れがない。完全な愛は恐れを閉め出してしまうのだから。

聖書の一節が脳裏を過る。俺の怪我した右手を包むように静かに握っている彼女の両手の上に自分の左手を重ねた。


「自分は……俺はお前が家に帰る為の最後の機会を潰してしまった。……それでもお前はこうしてここにいてくれるのか?それにも拘らず、俺に微笑んでくれるのか……」


「はい、私はもう決めました。たとえ家と決別する事になったとしても私はベリル様のお傍に……」


「俺はお前の気持ちも聞かず、無体に扱いここへ攫った人間だ。だが、それでも言いたい。自分の罪を承知で言いたい。……ここにいてほしい。俺の、傍に。……お前を、コレーを……愛しているから……」


愛おしい春の温かさが胸を満たす。万感の思いが胸に去来する。彼女の細く華奢な体を自分側へと引き、強く抱きしめていた。満ちていく。去来する。彼女への、愛おしさが。夜の底に光が差した。冬が終わりを越えて春が来る。


「コレー……コレー……愛している。何よりも、誰よりも……」


彼女の滑らかな白い頬に手を添えて、薄く桜色に色付く唇へ口付けを落とした。浅く―……だが、何度も角度を変えて。お互い無意識のうちに互いの指に指を絡めていた。


「はい……お傍にいます……これから先もずっと……ベリル様……」


「俺も、後悔は……ない。お前をこの館へ攫って来たことも、お前を追い掛けたことも、こうしてお前を取り戻した事も―……後悔など……なにもない」


そう……俺はただ、これから先もお前に笑っていて欲しかったんだ。だから、あの寒々しい家からお前を攫い、ここへと連れて来た。


「お前がこの先、道具として扱われ傀儡になるのかと思うと……冷たい枷をはめられ人として生きる事を許されず人形として傅かれるのかと思うと―……俺は許せなかった……」


お前は春だ。お前の愛する母が付けた名が示す通り、眩い喜びの季節。


「ベリル様……んっ……」


再び彼女と唇と唇を重ね合わせた。先程したものとも違う、深く深く―……お互い沈んでいくような口付けを。春と交わる口付けを。水の音が微か、響いていた。


「俺は……お前と共に……歩みたい。お前を守りたい。愛している……共にいてくれ」


「私も……ベリル様……死する時が二人を別つまで共に。いえ……死する時が来たとしても私の心は常に貴方と共に……」


温かなスープの香りが、コレーの口から紡がれる言の葉の一つ一つが……溶かしていた。冷えた、心を。


「ああ、たとえ肉体が朽ち魂だけの存在になったとしても……共に……」


≪ベリル・M・アウラーナ≫
11/20ページ
スキ