第14章 呪い
愛に偽りがあってはなりません。悪を忌み嫌い、善から離れてはなりません。互いに兄弟愛を持って心から愛し、競って尊敬しなさい。
熱心で怠らず、心を燃やし、主に仕え、希望を持って喜び、苦難を耐え忍び、弛まず祈りに励みなさい。聖なる人々の貧しさを自分のものと考えて力を貸し、手厚く人をもてなしなさい。
あなた方を迫害する者の上に祝福を願いなさい。祝福を願うのであって、呪いを求めてはなりません。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。互いに想いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々の仲間となりなさい。
自分は賢い者だと己惚れてはなりません。誰に対しても悪に悪を返さず、全ての人の前で善い事を行うように心掛けなさい。
出来る事なら、あなた方の力の及ぶ限り、互いに慈しみ、愛し合い、全ての人と平和に暮らしなさい。
【ローマの人々への手紙 第12章】
晩夏の風が少しずつ紅や金色の錦に色付き始めた庭の草木を、あやすかのように撫で通り過ぎていく。わずかに湿った夜の空気に混ざり香って来た金木犀の香りに、夏ではなく秋が来る事を教えられ一人瞳を細めた。
風の腕は目には見えないが、その音と香りが告げている。季節の移ろいを。変化の時を。
うすぼんやりと霞む自分の視界の先にある香炉から細く立ち上った煙が燻っていた。その奥にある襖の向こう側で休んでいるであろう女の姿を一人思い出し、思っていた。今日、海を越えてこの家に嫁いできた、一人の華奢な女の姿を。
「ゆっくり休めていると……よいのだが……」
誰に聞かせるわけでもなく紡いだ言の葉が香炉の煙と混ざり、天へ向かい昇り、霧となり散って行く。それを不自由な視力で見送り一つ息を吐いてから、自分の腕を覆う包帯の一部を解いた。
包帯の下から現われた自らが纏う皮膚の醜悪さに眉を顰める。いい加減見慣れればいいものを……と自分が自分を嘲笑っていた。
業病。
これは前世で犯した罪の報いであり、今生を賭けて清算しなければならない宿業である。
病の発症直後、自分の体を見た医師にそう言われた事があった。果たしてその通りなのか、自分にそれを確かめる術などない。だが、一生を賭けて付き合っていかねばならぬ問題というには違いなかった。
「……旦那さま、お休みになられていなかったのですか?何か私にお手伝いできることはございませんか……?」
「あ、ああ……いや、なに……寝る前に薬を塗る必要があってな。……何、いつもの事だ。一人で塗るのにも慣れている。……春華も疲れているだろう?今日はゆっくり休みなさい。長い旅路だったのだろう?」
皮膚に塗る薬壺を手に取ったその時だった。襖の向こう側から酷く柔らかな女の声がしたのは。
起こさないようになるべく物音を立てないように気を付けていたつもりったのだが―……それはつもりでしかなかったらしい。
「旦那さま一人では届かないところもございますでしょう?私、お手伝いいたしますよ?私、気にしていませんから……ご病気の事はちゃんと伺っておりますから……旦那さま……」
襖越しに聞えて来る女の、耳触りの良い声に一度目蓋を下ろして、すぐに目を開け立ち上がった。立ち上がり、あちらとこちらとを隔てている襖に手を掛け、僅かに開く。
「見苦しい姿ですまない。もしよければ、背中に薬を塗ってくれぬか?……醜悪な姿だ。けして無理はしなくていい」
自分が醜悪な姿をしていると自覚しているにも拘らず、何故自ら彼女との間の境界を緩めたのか……理由ははっきりとしていた。女の、春華の声が俺を気遣っているからこそ発せられたものだと分かったからだ。彼女が善意から言葉を掛けてくれている事に気付いたからに他ならない。
自分を拒絶される恐怖から人の手を―……善意を否定することは容易い。が、それは拒絶された側に深い傷を時に残す事もある。俺はそれを知っている。
「旦那さま、お心遣いありがとうございます。私なら大丈夫です、無理などしておりません。……こちらこそ、旦那様の事をまだよく知らない立場で無理を言って申し訳ありませんでした。でも……旦那さまの事を思うとどうしてもここで引き下がれない気持ちが勝ってしまうのです」
「……優しいな、春華は。そして温かい」
対の琥珀球が真っ直ぐに自分の事を見つめていた。弱視の俺でも表情がよく見えるほど近くで。
白く滑らかな雪を押し固めたような手が自分の頬と重なった。月から舞い落ちる沈黙が降り積もる。自分自身の気持ちと共に。満ちて、積もっていく。柔らかな雪の手の上に自分の武骨な情緒も何もない手を添わせた。
「ふふっ……だが、こう頬を掴まれては頭巾と口布が取れぬな」
互いの顔が近いせいだろう。言葉を聞くや否やまるで化粧をしたかのように春華の頬に朱が広がっていく様が、自分にもよく見えた。オロオロと困ったように瞳を惑わせるその姿が少し滑稽でもあり、何より可愛らしいものとして自分の目に映る。その愛らしさに思わず、笑みが一つ零れて落ちた。
「本当に申し訳ありません……お恥ずかしいです。もっと近くで旦那さまのお顔が見たくてつい……」
「ふふふっ……いや、すまん。こちらこそつい笑ってしまった。お前があまりに必死な顔をするものだから可愛く思えてしまってな。……そうだな、夫が自分の妻に顔を隠したままと言うのもおかしな話だ……」
晩夏の夜風が剥きだしになった頬を撫ぜる。庭の草木を撫でるのと同じように、平等に撫でて去っていく。
月下の下で晒された俺の顔を見た春華が瞬間、息を飲んだ事が音として伝わって来る。引いてしまっただろうか?怖がらせてしまっただろうか?……所々爛れ変色している皮膚だ。それも無理ない事と、そう思う。どんな罵倒も憐れみも甘んじて受けよう。と、そう思う。いや、思っていた。
「……旦那さま……」
「……もう一度お前の顔が見たい。もう一度見せてはくれぬか?……愛らしい顔をしているな……春華は」
「もう一度……改めてそう申されますと……何だか恥ずかしいですね……どうしてでしょうか?さっきは自然と出来たのに……」
月明かりの頼りなげな光の下でも、弱視の俺でも分かるほど顔を赤らめている春華の細腕を静かに取り、自分へ向って軽く引けば、トスリ……と心地良い重さが胸の上に乗った。その重みに僅かに自分の左胸が早鐘を打つ。
「……私は旦那さまのお顔を覗いてみたいなどと……半ば邪な心で近付いた浅はかな女ですよ……?旦那さまのお気持ちも知らず、まるで女童のような私がそのように褒められるのは……」
積もる。降り積もっていく。月下の光と共に自分自身の気持ちも。
そっと指通りの良い髪を梳き、抱きしめていた。自分の姿に臆することなく、こうして温かな言葉を掛けてくれる小さな女の体を。愛おしさが満ちて、積もっていく。
「……邪な心があるのは……俺も同じだ……」
自然と身体が動いていた。女の細い指と自分の指とが絡み合い、互いの影が音なく重なっていく。ああ……唇を軽く重ねただけだというのに、何故、こうも自分は満たされているのだろうか?
自分のこの病は宿業だという。持って生まれた定めだと。前世までに積んできた業の、その報いであると。一種の”呪い”であると。……だが―……
++++++++++++++++++++
「ああ、ややちゃんが……どこからとと様の采配を見つけて……」
「……ややは物探しの天才だな。よく見ているのだろう」
「あっ、旦那さま、いつお帰りに……!すみません……気付かずに……」
「ややのおしめを換えていたのだろう?気付かなくて当然だ」
晩夏の風が庭の草木を撫でていた。ややの柔らかな髪とともに。
ややの小さな体を抱き上げれば、ややは人懐きする笑みを浮かべ楽しげな声を上げた。
この病があったから彼女は自分のところへやって来た。もし病が呪いだというのならば、この縁をくれたのだと思えば……それはけして悪い物では、ない。
≪レフ・オオタニ≫
熱心で怠らず、心を燃やし、主に仕え、希望を持って喜び、苦難を耐え忍び、弛まず祈りに励みなさい。聖なる人々の貧しさを自分のものと考えて力を貸し、手厚く人をもてなしなさい。
あなた方を迫害する者の上に祝福を願いなさい。祝福を願うのであって、呪いを求めてはなりません。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。互いに想いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々の仲間となりなさい。
自分は賢い者だと己惚れてはなりません。誰に対しても悪に悪を返さず、全ての人の前で善い事を行うように心掛けなさい。
出来る事なら、あなた方の力の及ぶ限り、互いに慈しみ、愛し合い、全ての人と平和に暮らしなさい。
【ローマの人々への手紙 第12章】
晩夏の風が少しずつ紅や金色の錦に色付き始めた庭の草木を、あやすかのように撫で通り過ぎていく。わずかに湿った夜の空気に混ざり香って来た金木犀の香りに、夏ではなく秋が来る事を教えられ一人瞳を細めた。
風の腕は目には見えないが、その音と香りが告げている。季節の移ろいを。変化の時を。
うすぼんやりと霞む自分の視界の先にある香炉から細く立ち上った煙が燻っていた。その奥にある襖の向こう側で休んでいるであろう女の姿を一人思い出し、思っていた。今日、海を越えてこの家に嫁いできた、一人の華奢な女の姿を。
「ゆっくり休めていると……よいのだが……」
誰に聞かせるわけでもなく紡いだ言の葉が香炉の煙と混ざり、天へ向かい昇り、霧となり散って行く。それを不自由な視力で見送り一つ息を吐いてから、自分の腕を覆う包帯の一部を解いた。
包帯の下から現われた自らが纏う皮膚の醜悪さに眉を顰める。いい加減見慣れればいいものを……と自分が自分を嘲笑っていた。
業病。
これは前世で犯した罪の報いであり、今生を賭けて清算しなければならない宿業である。
病の発症直後、自分の体を見た医師にそう言われた事があった。果たしてその通りなのか、自分にそれを確かめる術などない。だが、一生を賭けて付き合っていかねばならぬ問題というには違いなかった。
「……旦那さま、お休みになられていなかったのですか?何か私にお手伝いできることはございませんか……?」
「あ、ああ……いや、なに……寝る前に薬を塗る必要があってな。……何、いつもの事だ。一人で塗るのにも慣れている。……春華も疲れているだろう?今日はゆっくり休みなさい。長い旅路だったのだろう?」
皮膚に塗る薬壺を手に取ったその時だった。襖の向こう側から酷く柔らかな女の声がしたのは。
起こさないようになるべく物音を立てないように気を付けていたつもりったのだが―……それはつもりでしかなかったらしい。
「旦那さま一人では届かないところもございますでしょう?私、お手伝いいたしますよ?私、気にしていませんから……ご病気の事はちゃんと伺っておりますから……旦那さま……」
襖越しに聞えて来る女の、耳触りの良い声に一度目蓋を下ろして、すぐに目を開け立ち上がった。立ち上がり、あちらとこちらとを隔てている襖に手を掛け、僅かに開く。
「見苦しい姿ですまない。もしよければ、背中に薬を塗ってくれぬか?……醜悪な姿だ。けして無理はしなくていい」
自分が醜悪な姿をしていると自覚しているにも拘らず、何故自ら彼女との間の境界を緩めたのか……理由ははっきりとしていた。女の、春華の声が俺を気遣っているからこそ発せられたものだと分かったからだ。彼女が善意から言葉を掛けてくれている事に気付いたからに他ならない。
自分を拒絶される恐怖から人の手を―……善意を否定することは容易い。が、それは拒絶された側に深い傷を時に残す事もある。俺はそれを知っている。
「旦那さま、お心遣いありがとうございます。私なら大丈夫です、無理などしておりません。……こちらこそ、旦那様の事をまだよく知らない立場で無理を言って申し訳ありませんでした。でも……旦那さまの事を思うとどうしてもここで引き下がれない気持ちが勝ってしまうのです」
「……優しいな、春華は。そして温かい」
対の琥珀球が真っ直ぐに自分の事を見つめていた。弱視の俺でも表情がよく見えるほど近くで。
白く滑らかな雪を押し固めたような手が自分の頬と重なった。月から舞い落ちる沈黙が降り積もる。自分自身の気持ちと共に。満ちて、積もっていく。柔らかな雪の手の上に自分の武骨な情緒も何もない手を添わせた。
「ふふっ……だが、こう頬を掴まれては頭巾と口布が取れぬな」
互いの顔が近いせいだろう。言葉を聞くや否やまるで化粧をしたかのように春華の頬に朱が広がっていく様が、自分にもよく見えた。オロオロと困ったように瞳を惑わせるその姿が少し滑稽でもあり、何より可愛らしいものとして自分の目に映る。その愛らしさに思わず、笑みが一つ零れて落ちた。
「本当に申し訳ありません……お恥ずかしいです。もっと近くで旦那さまのお顔が見たくてつい……」
「ふふふっ……いや、すまん。こちらこそつい笑ってしまった。お前があまりに必死な顔をするものだから可愛く思えてしまってな。……そうだな、夫が自分の妻に顔を隠したままと言うのもおかしな話だ……」
晩夏の夜風が剥きだしになった頬を撫ぜる。庭の草木を撫でるのと同じように、平等に撫でて去っていく。
月下の下で晒された俺の顔を見た春華が瞬間、息を飲んだ事が音として伝わって来る。引いてしまっただろうか?怖がらせてしまっただろうか?……所々爛れ変色している皮膚だ。それも無理ない事と、そう思う。どんな罵倒も憐れみも甘んじて受けよう。と、そう思う。いや、思っていた。
「……旦那さま……」
「……もう一度お前の顔が見たい。もう一度見せてはくれぬか?……愛らしい顔をしているな……春華は」
「もう一度……改めてそう申されますと……何だか恥ずかしいですね……どうしてでしょうか?さっきは自然と出来たのに……」
月明かりの頼りなげな光の下でも、弱視の俺でも分かるほど顔を赤らめている春華の細腕を静かに取り、自分へ向って軽く引けば、トスリ……と心地良い重さが胸の上に乗った。その重みに僅かに自分の左胸が早鐘を打つ。
「……私は旦那さまのお顔を覗いてみたいなどと……半ば邪な心で近付いた浅はかな女ですよ……?旦那さまのお気持ちも知らず、まるで女童のような私がそのように褒められるのは……」
積もる。降り積もっていく。月下の光と共に自分自身の気持ちも。
そっと指通りの良い髪を梳き、抱きしめていた。自分の姿に臆することなく、こうして温かな言葉を掛けてくれる小さな女の体を。愛おしさが満ちて、積もっていく。
「……邪な心があるのは……俺も同じだ……」
自然と身体が動いていた。女の細い指と自分の指とが絡み合い、互いの影が音なく重なっていく。ああ……唇を軽く重ねただけだというのに、何故、こうも自分は満たされているのだろうか?
自分のこの病は宿業だという。持って生まれた定めだと。前世までに積んできた業の、その報いであると。一種の”呪い”であると。……だが―……
++++++++++++++++++++
「ああ、ややちゃんが……どこからとと様の采配を見つけて……」
「……ややは物探しの天才だな。よく見ているのだろう」
「あっ、旦那さま、いつお帰りに……!すみません……気付かずに……」
「ややのおしめを換えていたのだろう?気付かなくて当然だ」
晩夏の風が庭の草木を撫でていた。ややの柔らかな髪とともに。
ややの小さな体を抱き上げれば、ややは人懐きする笑みを浮かべ楽しげな声を上げた。
この病があったから彼女は自分のところへやって来た。もし病が呪いだというのならば、この縁をくれたのだと思えば……それはけして悪い物では、ない。
≪レフ・オオタニ≫
