第6節 星祭り
シャワシャワシャワシャワと騒がしく鳴く蝉の声。
鳴き声が止んだかと思えば、今度は別の蝉がジーィジィジィと鳴き始める。
夏の盛りの一番日の高いこの時間…
うだるような暑さもあって、すっかりやる気を削がれた男の子が一人部屋の畳に四肢を投げ出して天井を見つめている。
投げ出された筆が机の上に広げられた紙面にコロリと転がっており、書かれた文章は途中で切れてしまっている。
「あーーー…暑い…もうやだ。海に行きたい。」
この屋敷の主の一人息子、豊玉彦が誰に向けるわけでもなく愚痴を溢す。
ふと視線を向けた窓には硝子の風鈴が風に揺れてチリリと鳴っていた。
日が高くなる前にお勉強をしておきなさいと母親に言いつけられ、言われるままに机に向かっていたものの、心の中では青く美しい海を思い浮かべており、僅かに残っていた集中力も蝉の鳴き声で途切れてしまった。
気がつけば時刻は正午。
台所の方からは美味しそうな匂いが漂ってきていて、その匂いから今日のお昼ご飯はなんだろうと想像を膨らましてはくぅ…とおなかを鳴らしていた。
「あら、若様またですか?」
やる気を失った豊玉彦のもとへ使用人の一人である浅花緒が様子を見にやってきた。
彼女は未だ四肢を投げ出したままの豊玉彦の顔を覗きこんで小さく小首を傾げた。
「ご主人様が『お勉強終わったかしらー?』って言ってましたよー?」
そう…母は知っているのだ。
時折こうして誰かが見に来ないと息子は勉強の手を止めてしまう…という事を。
浅花緒の緑がかった灰色の瞳がこちらを見つめてくる中、嘘はつけない空気を悟り、少年は再び筆を手に取り机に向かい合った。
「うっ…もう少しだよ…もう少しで終わるから…!」
「ふふ。そうですか。」
後ろでくすりと笑う浅花緒の微笑みに、豊玉彦はまいったな…とポツリと一言粒き、ちょんと墨を含ませて広げられた白い紙にさらさらと筆を走らせていくのだった。
その文字がお手本のように美しくはないものだから、なんだか嫌になってしまって投げ出してしまうというのはいつもの流れ。
「これでいいかな?」と言いながら後ろに控える浅花緒に問いかける。
「ええ、大丈夫だと思います!」
にこりと微笑む彼女の言葉にようやく解放されたと言わんばかりに豊玉彦は再び四肢を投げ出し大きな欠伸をひとつついてみせた。
「あぁーーーーー…!終わったぁーーー!!」
「お疲れ様です。さあ、お片付けしてお食事にしましょう?
今日はお友達がいらっしゃる日でしたよね?」
「あっ…!そうだった…!!」
そう言われて飛び起きると、机に転がる筆を片付け、バタバタと慌ただしく部屋から出ていってしまった。
チリチリと風に揺れる風鈴の音が静かになった部屋に響く。
その音色がとても心地よく思わず耳をすませば、廊下の方から元気の良い男の子の声が響いてくる。
「朝花緒ーー!!早くこっち来てよーー!!」
「はーい!只今参ります!」
涼やかな色をしたガラスの風鈴がゆらゆらと風に揺れてチリチリと音を響かせている。
潮の香りを含んだ海風がそよそよと部屋に吹き込み夏の暑さを払っていてくれているような優しい風が吹いていた。
「トヨちゃーん?少しいいかしら?」
「なーにー?」
昼食を食べ終え、心地よい日陰のある縁側で食休みをしていた豊玉彦の側へゆっくりと歩み寄る一人の女性…
そう、この女性が豊玉彦の母であり浅花緒の主の由良である。
くるりと自分の方へと向けてくる大きな赤い瞳を優しく微笑み見つめ返して彼女は更に言葉を続ける。
「ちょっとお使いに行ってきてくれないかしら?」
「ムーンさんのとこ?」
「そうよ。今日はうちに遊びにくる約束だったでしょう?そろそろ来ると思うけど…ちょっと心配だから行ってきてくれないかしら?」
母の言葉に豊玉彦は大きな返事を返して腰掛けていた縁側からピョンと飛び降りくるりとこちらへと向き直って自信満々にこう答えた。
「うん!わかった!ムーンさんお迎えにいけばいいんでしょ?簡単簡単!!」
サンダルを履き、トントンと地面を爪先で突いて一目散に駆け出していく。
まだ伝えたい事もあったのだけど…と由良はくすりと苦笑いを浮かべて傍らに立つ浅花緒に向かって言葉を続けた。
「トヨちゃんのことお願いね?それから、ムーンは目が見えないから危ない所はちゃんと教えてあげてね?」
「はい!お任せください!行って参ります!」
ぱっと咲くような笑顔を浮かべて答える彼女に由良もまた笑みを浮かべて「行ってらっしゃい。」と答えた。
先に行った豊玉彦と後から続いた浅花緒が合流したのを見届けて由良はゆっくりと屋敷へと戻っていく。
「まずは西瓜を冷やしましょう!そうしましょう!」
これから訪れるお客様達の為に今夜のお食事は何にしましょうかとウキウキと思案を巡らせる。楽しげに鼻歌を歌いながら。
そよそよ…そよそよ…
ゆらゆら…ゆらゆら…
優しい海風が庭に吹き渡っている。
耳をすませば届いてくる波の音。
とてもとても穏やかな海だ。
由良は石垣の向こう側に広がる青い海原を眺め、ゆっくりと瞼をとじてみる。
目ではなく耳で感じてみる。
あなたの世界はこんな風に見えているものなのかしら…と思いを馳せながら。
