第6節 星祭り
それから、御子は再び群衆を呼び寄せて仰せになった。「皆、私の言う事を聞いて悟りなさい。外から人の中に入るもので人を穢す事のできるものは何一つない。人の中から出てくるものが穢すのである」
そして、御子は群衆を離れて家の中に入られると、弟子達はこの喩えについて御子に尋ねた。すると、御子は仰せになった。「あなた方も他の者と同じように悟らないのか。外から人の中にはいるものはどんなものでも、人を穢すことが出来ないという事が分からないのか。それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中に入り、厠に出されてしまう」
このように御子は、食べ物は全て清いものであると宣言された。
更にまた仰せになった。「人から出てくるもの、それが人を穢すのである。内部、即ち、人の心から邪念が出る。姦淫、盗み、殺人、姦通、貪欲、悪行、詐欺、卑猥、妬み、謗り、高慢、愚かさなど、これらの悪は全て内部から出て人を穢すのである」
【マルコによる福音書 第7章】
「ねえ、サンソン―……本当にセティが行っても大丈夫かな?」
「ええ、大丈夫ですよ、セティお嬢様。俺がそばにいますから」
「うん。でもお祭りは人がたくさん来るってセティ、聞いてたから……」
小さな主人の肩を少しばかり過ぎる程度に伸びた金の髪が、昼の終わりの風を受けてサラリ、と靡く。
着付けをする前、輝くばかりに明るかった主人の表情は、着付けが進むほど反比例するように暗いものへと変わっていき、今では彼女はすっかり俯いてしまっている。不安、なのだろう。
「セティお嬢様」
主人の名前をもう一度紡ぎ、自分の唯一の主人の幼い顔を覗き込めば、揺れる大きな紅玉の瞳の中に、鏡のように自分の姿が映り込んでいた。
自分の小さな女主人は少々―……いや、かなりの人見知りだ。故に今から行く場所に不安を覚えるなというのも無理な話だろう。
「お嬢様、今から貴方様に魔法をかけます」
「魔法……?サンソンって魔法が使えたの?」
「ええ。きっとお嬢様も気に入って下さると思いますよ。さあ、目を閉じてください」
「目を閉じるの?うん……!こうね」
主人の硝子玉のように美しい相貌が目蓋の下に隠れていく。何の疑いも躊躇もなく無防備に目を閉じる彼女を、瞬間見つめ、僅かに口角を上げ、眦を下げた。
少女の彼女の母親譲りの美しい金の髪を絡まぬように梳き、棘を切った赤い薔薇を一輪、彼女の髪に飾った。今日の朝、家の庭で手折ったばかりのアメリアの薔薇を。大輪の瑞々しい花弁を持った薔薇が金糸を鮮やかな赤で彩る。
「……もう目を開けていいですよ、お嬢様」
「ふぁわあ~……サンソン、このお花……!」
「ええ、アメリアの薔薇です。その衣装を着る時、異国の女性は花や硝子玉で髪を飾ると伺っていましたから」
「ふふ……何だかセティ、お姫様みたい」
クルリ、と鏡の前で周る少女の動きに合わせて、少女が着た異国の服の裾が、そして帯がふわり、と綺麗な円を描いていた。
そう、彼女はそこにいるだけでとても可愛らしい。
「では、行きましょうか、お嬢様。……大丈夫、俺がいます。それから―……アメリアも」
主人の自分の手よりずっと小さな手を取り言葉を紡ぐ。子供特有の高い体温がじわりと自分の胸を温めていた。少しずつ夜が近付く空に、遠くから聞えて来る祭囃子の音が霧散していく。一番星が西の空低くに煌めき、瞬いていた。
「サンソン、人、凄いね……」
「星祭りは年に一度ですからね。皆、この日を楽しみにしていたのでしょう。……セティお嬢様?」
「ち……違うのよ……!怖くなんてないんだから……!セティのそばにはサンソンもアメリアもいるから……ただね、やっぱり色々な人が来ているんだなって、そう思って―……」
様々な屋台が並ぶ通りの入り口まで来た時だろうか。自分の手を握る彼女の手に僅かに力が込められたのを感じたのは。
小さな体を更に縮ませて震え、縋るように俺の手を握る彼女の手をやんわりと解き、彼女の低い目線と目を合わせるために腰をかがめた。
「大丈夫です。……怒りませんから。いいんです。怖いと感じたら怖いと言っても」
心細げに俯いてしまった主人を慰めるように彼女に顔を上げさせて、白い頬に自分の両手を添わせた。小さな手が俺の手に重なる。
「セティお嬢様が怖くても大丈夫なように俺がいるんですから」
「うん……でもね、お祭りには来たかったの……ほんとよ?でも、知らない大人の人も沢山いて、セティからは足以外何も見えなくて―……それでね、少し不安になったの」
確かに……
ぐるり、と周囲を一巡しながら考えた。さっきまでは自分は立っていて気が付かなかったが、こうして彼女と同じ高さまで視線を下げると見える世界が違うように感じる。視界に入るのは大人の足ばかりだ。圧迫感もある。人混みが苦手な彼女が恐怖を感じるのも当然だった。
「セティお嬢様、失礼いたします」
「きゃあ……!」
小さな主人の口から可愛らしい悲鳴が一つ、零れ落ちる。彼女の小さな体を肩に乗せ、バランスを取りながらそこから一歩、そしてまた一歩と歩を進めた。肩車をしながら彼女と共に練り歩く。「怖くないですか?」と彼女に尋ねながら。
「怖くはないけど―……びっくりしたの……サンソン、いきなりセティの事肩車するんだもの……」
「ふふっ……驚かせてすみません。でも、ここなら足だけでなく遠くまで見えるかと思いまして」
……本当はそれだけではなく慣れない下駄という履物を履いたせいで、主人の足が赤く擦れているのに気付いたからというのもあるのだが―……
「うん……高いね、サンソン。サンソンはいつもこんなに高いところから景色を見ているんだね」
「セティお嬢様も。先程、お嬢様と同じ目線に屈んで俺も初めて知りました。お嬢様が普段見ていらっしゃる風景を」
そう……知らなかった。いや、忘れていたというのが正しいだろうか?俺にも間違いなく子どもだった時があったのだから。低い位置から見る人混みの風景を。その圧迫感と言いようのない恐怖を。
「サンソン?」
「ふふっ……なんでもありません。ところで、お嬢様?お嬢様は何か食べたいものはありますか?」
「あのね、サンソン。あっちの方にね、イチゴアメって書いてあるの!セティ、あれが食べてみたいな。どんな味がするのかな?いつも舐めてる飴とは違うのかな?やっぱり甘い?それともイチゴだから甘酸っぱいかな??」
まだ知らぬ味を想像し俺に語る主人の声は、先程とは違い、明るく、そして楽しげに弾んでいた。
「ふふっ……食べ物で体を穢すものはありませんから。食べてみたらわかるかもしれませんね」
囃子の音が響く。赤い街燈が夏風に揺れる。空には星の道が、広がっていた。
≪サンソン≫
そして、御子は群衆を離れて家の中に入られると、弟子達はこの喩えについて御子に尋ねた。すると、御子は仰せになった。「あなた方も他の者と同じように悟らないのか。外から人の中にはいるものはどんなものでも、人を穢すことが出来ないという事が分からないのか。それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中に入り、厠に出されてしまう」
このように御子は、食べ物は全て清いものであると宣言された。
更にまた仰せになった。「人から出てくるもの、それが人を穢すのである。内部、即ち、人の心から邪念が出る。姦淫、盗み、殺人、姦通、貪欲、悪行、詐欺、卑猥、妬み、謗り、高慢、愚かさなど、これらの悪は全て内部から出て人を穢すのである」
【マルコによる福音書 第7章】
「ねえ、サンソン―……本当にセティが行っても大丈夫かな?」
「ええ、大丈夫ですよ、セティお嬢様。俺がそばにいますから」
「うん。でもお祭りは人がたくさん来るってセティ、聞いてたから……」
小さな主人の肩を少しばかり過ぎる程度に伸びた金の髪が、昼の終わりの風を受けてサラリ、と靡く。
着付けをする前、輝くばかりに明るかった主人の表情は、着付けが進むほど反比例するように暗いものへと変わっていき、今では彼女はすっかり俯いてしまっている。不安、なのだろう。
「セティお嬢様」
主人の名前をもう一度紡ぎ、自分の唯一の主人の幼い顔を覗き込めば、揺れる大きな紅玉の瞳の中に、鏡のように自分の姿が映り込んでいた。
自分の小さな女主人は少々―……いや、かなりの人見知りだ。故に今から行く場所に不安を覚えるなというのも無理な話だろう。
「お嬢様、今から貴方様に魔法をかけます」
「魔法……?サンソンって魔法が使えたの?」
「ええ。きっとお嬢様も気に入って下さると思いますよ。さあ、目を閉じてください」
「目を閉じるの?うん……!こうね」
主人の硝子玉のように美しい相貌が目蓋の下に隠れていく。何の疑いも躊躇もなく無防備に目を閉じる彼女を、瞬間見つめ、僅かに口角を上げ、眦を下げた。
少女の彼女の母親譲りの美しい金の髪を絡まぬように梳き、棘を切った赤い薔薇を一輪、彼女の髪に飾った。今日の朝、家の庭で手折ったばかりのアメリアの薔薇を。大輪の瑞々しい花弁を持った薔薇が金糸を鮮やかな赤で彩る。
「……もう目を開けていいですよ、お嬢様」
「ふぁわあ~……サンソン、このお花……!」
「ええ、アメリアの薔薇です。その衣装を着る時、異国の女性は花や硝子玉で髪を飾ると伺っていましたから」
「ふふ……何だかセティ、お姫様みたい」
クルリ、と鏡の前で周る少女の動きに合わせて、少女が着た異国の服の裾が、そして帯がふわり、と綺麗な円を描いていた。
そう、彼女はそこにいるだけでとても可愛らしい。
「では、行きましょうか、お嬢様。……大丈夫、俺がいます。それから―……アメリアも」
主人の自分の手よりずっと小さな手を取り言葉を紡ぐ。子供特有の高い体温がじわりと自分の胸を温めていた。少しずつ夜が近付く空に、遠くから聞えて来る祭囃子の音が霧散していく。一番星が西の空低くに煌めき、瞬いていた。
「サンソン、人、凄いね……」
「星祭りは年に一度ですからね。皆、この日を楽しみにしていたのでしょう。……セティお嬢様?」
「ち……違うのよ……!怖くなんてないんだから……!セティのそばにはサンソンもアメリアもいるから……ただね、やっぱり色々な人が来ているんだなって、そう思って―……」
様々な屋台が並ぶ通りの入り口まで来た時だろうか。自分の手を握る彼女の手に僅かに力が込められたのを感じたのは。
小さな体を更に縮ませて震え、縋るように俺の手を握る彼女の手をやんわりと解き、彼女の低い目線と目を合わせるために腰をかがめた。
「大丈夫です。……怒りませんから。いいんです。怖いと感じたら怖いと言っても」
心細げに俯いてしまった主人を慰めるように彼女に顔を上げさせて、白い頬に自分の両手を添わせた。小さな手が俺の手に重なる。
「セティお嬢様が怖くても大丈夫なように俺がいるんですから」
「うん……でもね、お祭りには来たかったの……ほんとよ?でも、知らない大人の人も沢山いて、セティからは足以外何も見えなくて―……それでね、少し不安になったの」
確かに……
ぐるり、と周囲を一巡しながら考えた。さっきまでは自分は立っていて気が付かなかったが、こうして彼女と同じ高さまで視線を下げると見える世界が違うように感じる。視界に入るのは大人の足ばかりだ。圧迫感もある。人混みが苦手な彼女が恐怖を感じるのも当然だった。
「セティお嬢様、失礼いたします」
「きゃあ……!」
小さな主人の口から可愛らしい悲鳴が一つ、零れ落ちる。彼女の小さな体を肩に乗せ、バランスを取りながらそこから一歩、そしてまた一歩と歩を進めた。肩車をしながら彼女と共に練り歩く。「怖くないですか?」と彼女に尋ねながら。
「怖くはないけど―……びっくりしたの……サンソン、いきなりセティの事肩車するんだもの……」
「ふふっ……驚かせてすみません。でも、ここなら足だけでなく遠くまで見えるかと思いまして」
……本当はそれだけではなく慣れない下駄という履物を履いたせいで、主人の足が赤く擦れているのに気付いたからというのもあるのだが―……
「うん……高いね、サンソン。サンソンはいつもこんなに高いところから景色を見ているんだね」
「セティお嬢様も。先程、お嬢様と同じ目線に屈んで俺も初めて知りました。お嬢様が普段見ていらっしゃる風景を」
そう……知らなかった。いや、忘れていたというのが正しいだろうか?俺にも間違いなく子どもだった時があったのだから。低い位置から見る人混みの風景を。その圧迫感と言いようのない恐怖を。
「サンソン?」
「ふふっ……なんでもありません。ところで、お嬢様?お嬢様は何か食べたいものはありますか?」
「あのね、サンソン。あっちの方にね、イチゴアメって書いてあるの!セティ、あれが食べてみたいな。どんな味がするのかな?いつも舐めてる飴とは違うのかな?やっぱり甘い?それともイチゴだから甘酸っぱいかな??」
まだ知らぬ味を想像し俺に語る主人の声は、先程とは違い、明るく、そして楽しげに弾んでいた。
「ふふっ……食べ物で体を穢すものはありませんから。食べてみたらわかるかもしれませんね」
囃子の音が響く。赤い街燈が夏風に揺れる。空には星の道が、広がっていた。
≪サンソン≫
