第6節 星祭り
兄弟の皆さん。あなた方の学んだ教えに反して、分裂と躓きをもたらす人達を警戒するように勧めます。
彼らから遠ざかりなさい。このような人達は私達の主に仕えているのではなく、自分の腹に仕えているのです。
また、上手い言葉やへつらいの言葉を持って純朴な人達の心を欺いているのです。あなた方の信仰による従順は全ての人に知られています。
それ故、私はあなた方の事を喜んではいますが、私の願うところは、あなた方が善には聡く、悪には疎くあって欲しい事です。
平和の神は早やかに悪魔をあなた方の足元で打ち砕かれるでしょう。私達の主の恵みがあなた方と共にありますように。
聖なる口付けを持って、互いに挨拶を交わしなさい。御子の全ての教会の方々があなた方によろしくとの事です。
【ローマの人々への手紙 第16章】
「……ハルモニア……ですか……?」
「うん。おはよう、バム。目は覚めた?」
長い夜の終わりを告げる光が一条、天窓の隙間からするりと入り込む。光と共に僅かに吹き込んだ朝の風が、彼の少しくすんだ金の髪を揺らしていた。
彼が眠る寝台へとそろり、足音を立てて起こさないように近付き、まだ浅い眠りに微睡んでいる彼の寝顔を見下ろして笑みを一つ零した。
バムの寝顔は起きている時と比べると少し……ほんの少しだけ幼く見えるの。バム自身も知らない、私だけが知っている秘密の顔。
そっと彼のそばで跪いて、自分の顔に掛かる髪を耳へと掛けた。「眠り姫みたいね」という言葉を出さぬように飲み込み封じて、彼の薄い唇に自分の唇をそっと重ね合わせる。
浅い夢の時間が終わっていく。夜が終わり朝が来る。少しずつ見え始めた赤い瞳に私の姿がぼんやりと映り込んでいた。「おはよう」と笑顔で彼に今日の始まりを告げる自分の姿が。
「ええ……おかげさまで」
「そっか。昨日も遅くまで”何か”をしていたみたいだったから……だから帰りが遅かったんでしょ?起こそうか起こさないか迷ったんだけど―……」
「ああ……!それなんですが!!ハル!聞いてくれますか!?実に興味深い―……そう、実に面白い事が分かったんです!!!」
「きゃあ……!ちょっ……ちょっとバム……落ちつ……落ち着いて……!」
不意に伸びたバムの腕が私の手を掴む。目覚めたばかりだというのにギラギラと赤い目を輝かせる彼に、少しばかり身がたじろいだ。
「邪龍ですよ!邪龍!実に興味深い!解剖して分かった事ですが、邪龍の体には消化器官がなかった!そして生殖器も!確かに蚕蛾のように口吻がない生物もいますが、それでも生殖器はある。そうでなければ増えることが出来ませんからね。しかし、邪龍にはそのどちらもがない。これが何を意味しているか分かりますか?」
「えっと……消化管がないって事は物を食べてもエネルギーに変換できないって事よね……そして増える事も出来ない……それって、生き物として不完全なんじゃ……」
「ふふっ……中々ハルは聡い。ああ……それにしてもミルファスに頼んで生け捕りにした一匹を譲り受けておいて正解でした。色々いじくる事も出来ましたし、ね」
いじくる。
バムが嬉々として口にしたその言葉に一筋背中を汗が伝う。おそらく―……いや確実に文字通りの意味なのだろう。だから、最近この家に帰ってくる時間が遅かったのね。そう言えば、ルーナさんの帰りも最近遅いみたいなんですよーって、アンゼも言ってたっけ……
「結論から言いましょう。邪龍は生き物ではない。生き物の摂理から外れた存在です。何者かに使役された”魔”と言えるでしょう」
++++++++++++++++++++
「……”鏡”は摂理から外れた存在?」
「んだよー。鏡は本来あってはならないものなんだよー。んだから、歴代の鏡の魔女は森ん奥さ引きこもって鏡を守って来たんだ。いんや、封じて来たって言った方がいいかもしれねえなあ……ふあっぷ……!!」
西の山脈を越えて吹く乾いた風が羽織った分厚い羊の毛織物の外套をはためかせる。飛ばされる寸でのところで慌てて手を伸ばしそれを掴まえて、一つ安堵の息を吐き出した。これがなくちゃオラ凍えて石になっちまう。
雪がうんと降る方と風がうんと吹く方と、どちらかを選ばねえといといけねえって言われて、風がうんと吹く方を選んだんだけんど、こっちはこっちで大変だよぉ……
「大丈夫、シーアンさん?」
「大丈夫よーオラこれでも騎士だかんなー。あっ、それでオラどこまで鏡の話をしたっけ?」
「そうだねー森の奥に封じて来た。って所までかな?でもさ、なんでわざわざ封印なんて手段を選んだんだ?摂理に反してるっていうんなら気付いた時にすぐに割ってしまえば―……」
「そうなんだけんどよお……出来なかったんだよぉ。”鏡”が運命に抗ったからなあ……。なあ、飛燕?飛燕は運命ってあると思うけ?」
木のカップから立ち上るくゆる湯気が夜の間に悴んだ指先を少しずつ温めていく。僅かにさざ波立つ濃い琥珀色をしたお茶の液面に歪んだ自分の顔が映り込んでいた。
「元々この世の事は運命に支配され任されているのであって、たとえどんなに思慮を働かせても進路を直す事は出来ない。対策さえ立てようもない。……んな事はねえだろ?だって、オラ達は足掻く事も逆らう事も出来る。仮に半分、運命に裁定されていたとしても、少なくともあと半分か半分近くはオラ達自身に任されてると思うんだよぉ」
運命を一つの破壊的な河川としよう。川は怒り出すと岸辺に氾濫し、樹木や建物をなぎ倒し、抵抗のすべなく猛威に屈するしかなくなる。
けれど、平穏な時、あらかじめ堰や堤防を築いて備えておくこともできる。
「ちょっ……ちょっと待って、シーアンさん。シーアンさんが言うその話ってまるで鏡自体が―……」
旅の連れの飛燕の瞳が驚きからか縦へ僅かに見開いた。飛燕が詰まらせた言の葉の先。そこにあるものを察して一つ頷く。喉を潤すために一口口に含んだお茶は、すっかり冷めてぬるいものへと変わっていた。
「鏡は生きてるんだよぉ。だから、壊そうとするたんびに逃げるんだ。運命に抗うみてえによぉ。んだから、壊さずに封じておくしかなかったんだよぉ。でも、誰かが里から鏡を持ち出しちまったんだ」
この国は今乱れに乱れている。その全てが鏡によるものとは思わない。鏡はあくまで要素の一つ。
人の世を乱すのも、そして治めるのも、全ては人。
けれど、要素の一つとして利用されているというならば、それを断たねばならない。それがオラの責務。
「んじゃ、行くべ、飛燕。鏡に勘付かれるその前にな」
≪ハルモニア/シーアン≫
彼らから遠ざかりなさい。このような人達は私達の主に仕えているのではなく、自分の腹に仕えているのです。
また、上手い言葉やへつらいの言葉を持って純朴な人達の心を欺いているのです。あなた方の信仰による従順は全ての人に知られています。
それ故、私はあなた方の事を喜んではいますが、私の願うところは、あなた方が善には聡く、悪には疎くあって欲しい事です。
平和の神は早やかに悪魔をあなた方の足元で打ち砕かれるでしょう。私達の主の恵みがあなた方と共にありますように。
聖なる口付けを持って、互いに挨拶を交わしなさい。御子の全ての教会の方々があなた方によろしくとの事です。
【ローマの人々への手紙 第16章】
「……ハルモニア……ですか……?」
「うん。おはよう、バム。目は覚めた?」
長い夜の終わりを告げる光が一条、天窓の隙間からするりと入り込む。光と共に僅かに吹き込んだ朝の風が、彼の少しくすんだ金の髪を揺らしていた。
彼が眠る寝台へとそろり、足音を立てて起こさないように近付き、まだ浅い眠りに微睡んでいる彼の寝顔を見下ろして笑みを一つ零した。
バムの寝顔は起きている時と比べると少し……ほんの少しだけ幼く見えるの。バム自身も知らない、私だけが知っている秘密の顔。
そっと彼のそばで跪いて、自分の顔に掛かる髪を耳へと掛けた。「眠り姫みたいね」という言葉を出さぬように飲み込み封じて、彼の薄い唇に自分の唇をそっと重ね合わせる。
浅い夢の時間が終わっていく。夜が終わり朝が来る。少しずつ見え始めた赤い瞳に私の姿がぼんやりと映り込んでいた。「おはよう」と笑顔で彼に今日の始まりを告げる自分の姿が。
「ええ……おかげさまで」
「そっか。昨日も遅くまで”何か”をしていたみたいだったから……だから帰りが遅かったんでしょ?起こそうか起こさないか迷ったんだけど―……」
「ああ……!それなんですが!!ハル!聞いてくれますか!?実に興味深い―……そう、実に面白い事が分かったんです!!!」
「きゃあ……!ちょっ……ちょっとバム……落ちつ……落ち着いて……!」
不意に伸びたバムの腕が私の手を掴む。目覚めたばかりだというのにギラギラと赤い目を輝かせる彼に、少しばかり身がたじろいだ。
「邪龍ですよ!邪龍!実に興味深い!解剖して分かった事ですが、邪龍の体には消化器官がなかった!そして生殖器も!確かに蚕蛾のように口吻がない生物もいますが、それでも生殖器はある。そうでなければ増えることが出来ませんからね。しかし、邪龍にはそのどちらもがない。これが何を意味しているか分かりますか?」
「えっと……消化管がないって事は物を食べてもエネルギーに変換できないって事よね……そして増える事も出来ない……それって、生き物として不完全なんじゃ……」
「ふふっ……中々ハルは聡い。ああ……それにしてもミルファスに頼んで生け捕りにした一匹を譲り受けておいて正解でした。色々いじくる事も出来ましたし、ね」
いじくる。
バムが嬉々として口にしたその言葉に一筋背中を汗が伝う。おそらく―……いや確実に文字通りの意味なのだろう。だから、最近この家に帰ってくる時間が遅かったのね。そう言えば、ルーナさんの帰りも最近遅いみたいなんですよーって、アンゼも言ってたっけ……
「結論から言いましょう。邪龍は生き物ではない。生き物の摂理から外れた存在です。何者かに使役された”魔”と言えるでしょう」
++++++++++++++++++++
「……”鏡”は摂理から外れた存在?」
「んだよー。鏡は本来あってはならないものなんだよー。んだから、歴代の鏡の魔女は森ん奥さ引きこもって鏡を守って来たんだ。いんや、封じて来たって言った方がいいかもしれねえなあ……ふあっぷ……!!」
西の山脈を越えて吹く乾いた風が羽織った分厚い羊の毛織物の外套をはためかせる。飛ばされる寸でのところで慌てて手を伸ばしそれを掴まえて、一つ安堵の息を吐き出した。これがなくちゃオラ凍えて石になっちまう。
雪がうんと降る方と風がうんと吹く方と、どちらかを選ばねえといといけねえって言われて、風がうんと吹く方を選んだんだけんど、こっちはこっちで大変だよぉ……
「大丈夫、シーアンさん?」
「大丈夫よーオラこれでも騎士だかんなー。あっ、それでオラどこまで鏡の話をしたっけ?」
「そうだねー森の奥に封じて来た。って所までかな?でもさ、なんでわざわざ封印なんて手段を選んだんだ?摂理に反してるっていうんなら気付いた時にすぐに割ってしまえば―……」
「そうなんだけんどよお……出来なかったんだよぉ。”鏡”が運命に抗ったからなあ……。なあ、飛燕?飛燕は運命ってあると思うけ?」
木のカップから立ち上るくゆる湯気が夜の間に悴んだ指先を少しずつ温めていく。僅かにさざ波立つ濃い琥珀色をしたお茶の液面に歪んだ自分の顔が映り込んでいた。
「元々この世の事は運命に支配され任されているのであって、たとえどんなに思慮を働かせても進路を直す事は出来ない。対策さえ立てようもない。……んな事はねえだろ?だって、オラ達は足掻く事も逆らう事も出来る。仮に半分、運命に裁定されていたとしても、少なくともあと半分か半分近くはオラ達自身に任されてると思うんだよぉ」
運命を一つの破壊的な河川としよう。川は怒り出すと岸辺に氾濫し、樹木や建物をなぎ倒し、抵抗のすべなく猛威に屈するしかなくなる。
けれど、平穏な時、あらかじめ堰や堤防を築いて備えておくこともできる。
「ちょっ……ちょっと待って、シーアンさん。シーアンさんが言うその話ってまるで鏡自体が―……」
旅の連れの飛燕の瞳が驚きからか縦へ僅かに見開いた。飛燕が詰まらせた言の葉の先。そこにあるものを察して一つ頷く。喉を潤すために一口口に含んだお茶は、すっかり冷めてぬるいものへと変わっていた。
「鏡は生きてるんだよぉ。だから、壊そうとするたんびに逃げるんだ。運命に抗うみてえによぉ。んだから、壊さずに封じておくしかなかったんだよぉ。でも、誰かが里から鏡を持ち出しちまったんだ」
この国は今乱れに乱れている。その全てが鏡によるものとは思わない。鏡はあくまで要素の一つ。
人の世を乱すのも、そして治めるのも、全ては人。
けれど、要素の一つとして利用されているというならば、それを断たねばならない。それがオラの責務。
「んじゃ、行くべ、飛燕。鏡に勘付かれるその前にな」
≪ハルモニア/シーアン≫
