第9章 テロ
御子はその人が外に追い出されたと聞き、彼に会って「あなたは人の子を信じるか」と仰せになった。
その人は答えて言った。「主よ、一体その方はどなたですか。私はその方を信じたいのですが」
御子は仰せになった。「あなたはその人に会っている。今あなたと話しているのがその人である」
彼は「主よ、信じます」と言って御子を礼拝した。すると御子は仰せになった。
「裁きの為に私はこの世に来た。それで見えない人が見えるようになり、見える人が目が見えない者となるのだ」
御子と共に居合わせたファリサイ派の人々の中にはこれを聞いて「我々も目が見えていないというのか」と言う者がいた。御子は彼らに仰せになった。
「あなた方の目が見えないのであったならあなた方に罪はなかったであろう。ところが今、見えるとあなた方が言っている以上、あなた方の罪は残る」
【ヨハネによる福音書 第2章】
記憶の引出しを漁り、引き出しの中から古びた鍵を一つ取り出した。キラリ、と硬質な光を反射し光る鍵が合う錠前は一つだけ……僕の記憶の扉だ。
錠の落ちる音が何もない空間へと吸い込まれて消えて行く。もっと重たいと思っていた記憶の扉は、鍵を回したまま片手で押せば案外簡単に開いた。
扉の先にいたのはー……僕だ。当然だった。これは僕の記憶なのだから。そして、もう一人……けして振り返らない人の姿が瞳に像を結ぶ。
記憶の中のその人はいつも僕に背を向けていた。優しくされた記憶どころか僕はその人の顔すら満足に思い出せないでいる。僕は間違いなくその人の血を引いているというのに……その人は僕の実の父なのに。
政治、経済、それを含めた教養や帝王学……物心ついた時から僕はその人の命で様々な知識を詰め込まれた。家の嫡男として必要な教育を受けさせられた。
別にそれを怨んでいるわけではない。学ぶ事は苦ではなかったからだ。知らないものを知るという行為は少なくとの僕にとっては魅力的なもの以外の何物でもなかったから。
それに僕自身、父の期待に応えたいという想いもあった。打算と言い換えてもいい。それは父の背中を見る幼い自分にごく自然に生じた想いだった。
父の言いつけ通りに振る舞えば、父が望むように成長すれば……僕は父に息子として見てもらえる。認めてもらえる。
だから、落馬事故が元で半身が不随になった時、僕は焦りそして絶望したんだ。どうしてそれが自分でなければならないのかと金切り声を上げて叫び出したかった。未来がないと、そう思ったから。
僕は屋敷の、塀で囲まれた空しか外を知らなかった。それを嫌だと思った事はない……はずだったんだ。
だけど思ってしまったんだ、この時に。あの寂しさはいったい何のためだったんだと。自由を選ばずただひた向きに父の意向に沿って来たのはこんな思いをする為じゃない、と。
だが、そこまで分かっていながらそれでもなお僕は父を詰り泣きつく事はしなかった。いいや、出来なかった。
それを選ぶ事は今まで自分が作り上げて来た自分を殺すのと同義だったから。寂しさを押し殺して自分が作り上げてきたものを壊す勇気が僕にはなかった。
身体を疎まれ、屋敷から左遷され今の家に追いやられてもそれは変わらなかった。家や父に逆らわず”いい子”な自分でいなければ……今になって考えれば自分に自分で呪詛をかけていたのかもしれない。
『僕はねこんな体になって疎まれて追い出されたけれどそれを怨んだ事は一度もないんだ。当然だと納得させて生きて来たからね。地位も身分も自分には分不相応で過ぎたものだと。……でも違った。今はこう思うんだ。それは逃げでしかないんじゃないか、って。……そう、僕は逃げて来た。そうするのが楽だったんだ』
『でも違った。僕は父と衝突する事を避けていたんだね。父は強い人だから僕は逃げたんだ。物分かりのいい子供でいるのは……楽だったんだ。でも、それも……おしまい』
あの日、昼と夜の狭間の時間、暮れ霞む自室でアシュリーに対して自分が語った言葉がふっ、と蘇った。彼女に聞いてもらうと同時に自分にも言い聞かせていた、言葉を。
この戦乱の世で無力でいる事は赦されない。この混沌とした時代で彼女を守る為にも僕は強くなければならないんだ。子供のままではいられない。力がなければ何も守れない。……何も成せない。アルが言っていた事が今なら少し分かる気がする。
鳥は卵の中から出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲する者、変わりたいと願う者は一つの世界を破壊しなければならない。
「……チャード……リチャード……」
「お、父様……申し訳ありません。ついうたた寝を……」
舗装が行き届いていない田舎道を僕と父を乗せた馬車が行く。ガタゴトと規則正しく揺れる動きに誘われるように自分は居眠りをしていたようだ。最後に見た時は青かった空も朱色からそして紫紺へと色を変えている。
馬車の窓から一条、夕間暮れの光が入り込む。徐々に暮れ行く光が父の瞳の色を昼の色から夜の色へと変えて行った。
昼の緑から夜の紫へと変わっていく。僕が受け継いだ瞳の色から妹の……ヴィクトリアが受け継いだ色へ。
「ここまで長旅だったからな。疲れが出たんだろう。……今夜中には目的地に着くはずだ。……もう少し休んでいなさい。着いたら起こそう」
居眠りをしている間に落ちてしまったのだろう。床に落ちたブランケットを拾い僕に手渡す父と瞬間視線が交わった。父の背ではなく顔が僕の目の前にあった。冷たい瞳ではない、酷く穏やかな父の瞳がー……そして……
僕の視界はひしゃげ、或いは砕け、燃え上がった。白に、黒に染まる。紅蓮の炎が狂ったように死の舞踏を踊っていた。轟音が鼓膜をつんざく。足が焼けるように痛い。声にならない声を上げる喉が焼けた……僕は……
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「テレーズ!聞いてちょうだい!街の北で大きな爆発があったそうよ!!」
「爆発!?まさか、テロですか!?住民は……街の皆さんは無事ですか!?」
「正確な被害状況はまだ分からないわ……けれど逃げて来た人達の様子を見る限り小さいとは言い難いでしょうね……」
「……アガタ。すぐに支度をして下さい。救援に向かいます」
「言うと思ったわ。半刻だけ待ってちょうだい。ありったけの物資をかき集めて来るわ」
鳥は卵の中から出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲する者、変わりたいと願う者は一つの世界を破壊しなければならない。
≪リック≫
