第13章 来襲

そこで日を決めて大勢の人がパウロの宿舎にやって来た。パウロは朝から晩まで語り続け、神の国について厳かに証をし、またモーセの律法や預言の書を引用して、御子の事について彼らを説得しようとした。

ある者はパウロの言葉を受け入れたが、ある者は信じようとはしなかった。互いの意見が一致しないまま別れようとしていた時、パウロは一言次のように言った。

「聖霊が預言者イザヤを通して、あなた方の先祖に語った事はまさに正しい。この民のところに行って告げよ。『あなた方は聞くには聞くが決して悟らない。見るには見るが決して認めない。この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして彼らは目で見ることなく、耳で聞く事なく、心で悟らず、立ち返る事もなく、私が彼らを癒す事もない』ですから、知っていただきたい。神のこの救いの言葉は異邦人に送られたのです。彼らは聞き従うでしょう」


パウロは自費で借りた家に丸二年留まり、訪れて来る者を皆迎え入れ、少しもはばかることもなく、また妨げを受けることなく神の国を宣べ伝え、主について教え続けた。


【使徒言行録 第28章】






「ねーきれーな緑の眼のおにいさーん」


「お……お兄さん……?僕よりお姉ちゃんの方が―……」


昼と夜の狭間に一日の内で最も暗い光が差す。徐々に夜に喰われつつある昼が自分達の足元へ針のように細く長い影法師を伸ばしていた。自分とは似て非なる影を二人で踏みながら同じ歩幅で歩く。

僕よりもお姉ちゃんの方が年上でしょう。と、喉まで出掛かった言葉を寸でで冷たい空気と共に嚥下し胃の底へと送り込む。たぶん、いや、確実にこれを言ってしまったら失礼になってしまうから。……女の人に体重と年を聞くのは失礼だってザカリアスがいつか言ってたし……きっとお姉ちゃんも聞かれても困るだろうから。

傍らを黄昏の衣を纏った風が抜け、頬を斬るように撫でていく。季節は少しずつ進んでいるはずなのに夜が近いせいだろうか―……頬にあたる部分は冷たく風が感じる。けれど―……


「……お姉ちゃん。お姉ちゃんのおうちはどこ?昼間会ったお姉ちゃん達の家に住んでるわけじゃないんだよね?……お姉ちゃんは女の人だし、僕は男だから送っていくよ。……あんまり遠くだと途中までになっちゃうかもしれないけれど」


「うーん……!お姉ちゃんの家かー!ここからだとあれかなーちょっと遠いかもしれないね~」


吹く風のせいだろうか、それともお姉ちゃんが楽しそうに歩いているせいだろうか。ウサギの様に長い耳が付いたお姉ちゃんのローブとよく似た上着が、白くて軽い布でできたスカートが靡き、絡む。


「それよりも!お姉ちゃんの名前は纏よ。ま・と・い!せっかくわたしのお名前教えたんだから、どちらかと言えばお姉ちゃんじゃなくてそっちで呼んでほしいな~あとねあとね~……」


「まっ……待ってお姉ちゃ―……じゃなくて纏。早い、すっごく早口になってる……」


お姉ちゃんもとい纏と名乗った女性はどうやらとてもおしゃべりで口数が多い人らしい。一気に捲し立てるように言葉を紡ぐ彼女を制して、一つ息を吐き出した。今は二人で手を繋いでるからあれだけど、横でこうして繋いでなかったらこの人は身を乗り出して僕の事を押し倒していたんじゃないかと思う。それぐらいの勢いがあった。


「あれ?ああ~……ごめんごめん!わたし一度喋り出すとお喋り止められなくなっちゃうんだよね~。でっ、ええっと……何のお話をしていたんだって?ああっ!そうだそうだ!名前の話ね。そう、名前よ!わたしも名前教えたんだから、あなたの名前も教えてほしいな~」


纏の朱と深い藍色が混じり合ったような瞳が黄昏の光の中きらりと輝いていた。今の空とよく似た狭間に輝く色で。下から興味深げに僕の事を覗き込む彼女に、数度自分の瞳も瞬いた。


「ラス……みんなは僕の事ラスって呼んでるよ。……纏」


「そっか~ラスね!覚えたわ!ふふっ……私の家遠いからラスの家でもいいよ~行くところ!だって面白そうだもん、あなたの家。私の勘がそう告げているの」


「それは駄目」


「どうして?」


「……”悪魔”が来るから。だからダメなんだ」


頬にあたる風は冷たいのに不思議と芯から凍えずに済んでいるのは、纏とこうして手を繋いでいるからかもしれないと心の半分でぼんやりと考えていた。ああ……今日が終わって、夜が来る……昼が喰われて、影が蠢く。


「僕の家は駄目だけど……家が遠いなら街まで。街まで行けば纏が泊まれるところあるだろうから」



++++++++++++++++++++


砂塵の代わりに不毛の荒野に舞うのは白い雪の煙。北の山脈から吹き降りて来る強風が身を刻む。まあ、今俺の頬を切ったのは寒風ではなく女が放った一本の矢だが。一筋、生温かな雫が頬を伝い落ちていく。一点の汚れもない雪の原を汚れた赤が穢した。


「ほう……?この風の中でも命中させるか。たいした腕だな、女。身分が兵士ならばさぞ優秀な弓兵になっていただろうに」


「……私の問いに答えなければ次はお前の心の臓を打ち抜く。答えろ。貴様は何者だ?何故、私を狙う」


女の金の髪が暴れるように踊り、一対の青い瞳は真っ直ぐに俺を捉え映していた。矢を弓へ番え、ぴたりと俺の左胸に弓を弾き狙いを定めながら。


「さっきも言っただろう?お前に用がある。お前に協力してもらいたいと。……まあ、正確に言うなら”王女”という地位に、だが」


「……私を利用するつもりか?無駄だ。私は誰にも利用されない。これまでも、これからもだ」


王女という言葉を俺が紡ぐと同時に微かに女の瞳が揺れ、動いた。その様子に自身の口元がいびつな弧を描く。女が番えた矢を放つ寸前で横へ大きく飛び、雪の中に潜らせ隠していた不可視の糸を思い切り引き女の手から弓を奪った。糸に弾かれた弓が放物線を描きそのまま地に導かれるように落ち、雪に刺さる。


「お前は聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが決して認めない。目で見ることなく、耳で聞く事もなく、心で悟らない、か。……ふふっ、いいじゃないか。それも。大切なのはお前自身の認識ではない。世の中がどうお前の事を認識するか、だ」


一歩、また一歩、雪を踏みしめ踏み躙りながら女へ近付く。雪原に真新しい足跡が刻まれていく。


「自己認識は重要ではないんだよ、王女様。世の中があんたを王女と思えばあんたは王女だ。王女という強力なカード。その事実さえあればいい」


「……ッ!!?放せ!汚らわしい……ッ!!!」


「手を放せと言われて素直に放した人間を見たことはないな、一度も」


「そうですか―……ならば、無理矢理にでも放していただきましょうか」


「ッ!!!!?」


不意に今まで場になかった低く枯れた声が響き、俺の鼓膜を揺すった。反射的に女の細腕から手を放し後ろへ大きく飛べば、数瞬前まで自分が立っていた場所の雪が吹き飛び、抉れる。煙幕のように立ち上る雪の煙の向こうに見える人影に、口元に浮かぶ弧が一際大きなものへと変わった。


「……じ、じい!?ど、どうしてここへ……王宮にいたんじゃ……」


「遅くなりました、姫様。お怪我はありませんか?」


「あ……ああ―……だが……」


「ほう……お前は……」


錆びた記憶の引出しの一つから一人の男の姿を引き摺り出す。銀の短い髪。靡く燕の尾を模した服を来た初老の男。……あの男に付き従っていた者か。


「積もる話は後にしましょう、姫様。今はこやつをどうにかせねば……」


ああ、愉快だ。実に。


「ふふっ……いいだろう、相手をしてやるよ。いつかのように、な。なあ?ワツァルス?」


≪ラス・ヨクラートル≫
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