第13章 来襲
愛に偽りがあってはなりません。悪を忌み嫌い、全から離れてはなりません。互いに兄弟愛を持って心から愛し、競って尊敬し合いなさい。
熱心で怠らず、心を燃やし、主に仕え、希望を持って喜び、苦難に耐え忍び、弛まず祈りに励みなさい。聖なる人々の貧しさを自分のものと考え力を貸し、手厚く人をもてなしなさい。
あなた方を迫害する者の上に祝福を願いなさい。祝福を願うのであって呪いを求めてはなりません。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。
互いに想いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々の仲間になりなさい。誰に対しても悪に悪を返さず、全ての人の前で善い事を行うように心掛けなさい。
「敵が飢えているならば食べさせよ。渇いているなら飲ませよ。そのようにする事で、貴方は敵の頭の上に燃える炭火を積むからである」
悪に負けてはなりません。むしろ善を持って悪に勝ちなさい。
【ローマの人々への手紙 第12章】
天にまします我らが父よ。願わくは御名の尊まれんことを。御国の来たらんことを。御旨の天に行わるる如く、地にも行われん事を。
我らの日用の糧を今日我らに与え給え。我らが人を許す如く、我らの罪を許し給え。我らの試みに引き給わざれ、我らを悪より救い給え。
「エリーはその祝詞が好きですよねえ。いっつも朝一の食事の度に唱えてるんじゃないですか?」
「そうですねえ……習慣のようなもの、でしょうか」
「ああ、そうか。ここに来る前って確か修道院で修道女をしていたんでしたっけ?」
決して高くない、かと言えば低くもない天井に空いた採光目的の天窓から差し込んだ朝の光が、私達の手元を照らしていた。既に食事を始めている同僚の異国の女性の言葉に「はい」と肯定の言葉を返し、彼女が朝焼いたばかりのパンを一つ手に取り指先で小さく引き裂く。
彼女はここの料理人の一人で私よりも早くここに来て、そして私よりも早く仕事を終わらせて帰っていく。そんな彼女の作ったパンはとても甘い、小麦の味がするパンだった。……おいしい。
「でも、祈りの習慣は修道院に入るずっと前からですね。物心ついた時には一日の始まりに唱えていたと思います。家が信仰していたのが旧教でしたから」
「ふ~~~ん……信仰っていうのはたいへんなんれすねえ……」
「ふふっ……マリさん、お口いっぱいですね。はい、お水です」
話を振って来たのはマリさんからだけれど、彼女の興味の矛先は私ではなくすでに食事に移っているのだろ。パクリ、パクリとパンを頬張り、ハムスターのように頬を膨らませている彼女の姿に笑みが一つ、自分の口元から零れて落ちた。
そんな彼女にコップに注いだお水を手渡せば、片手にパンを持ったまま彼女は慌てて受け取り、水を飲み込んだ。「はあ……苦しかった」と肩で大きく息をしながら。
彼女の頓着のなさを快く思わない人もいるだろうが、どちらかと言えば私は彼女の明け透けのないこの気安さが好きだった。喋っていて小気味がいい、とでも言うのだろうか―……
「しっかし―……聞きました?また侍女が一人辞めたんですって。最後の一人だったのに」
「あら……それって……もしかしなくても―……」
「ここで侍女が次々に辞めていく部署なんて一つしかないじゃないですか。なんでも、その侍女曰く『夜廊下を歩いていると壁の向こうからパリパリ、バリバリ骨を噛み砕いているかのような咀嚼音がする時がある。そんなお屋敷にはいられない』って事らしいですけど―……まあ、理由は絶対それだけじゃないですよねえ。ジルさんにいびられたんですよ。また」
白パンをもう一欠片裂き、指で千切りながら目蓋を伏せて口へと運んだ。甘いパンを咀嚼し、飲み込んで息を漏らすと同時に「どうでしょうか……?」と曖昧な返事を返して。
「悪い御方ではないとは思うのですが―……この館の主の方は」
「何でエリーはそう思うです?」
「本当に慈悲がない人ならば、末端の私達までこうしてパンを配る事はないと思うのです。しかも白いパンを……」
自分が半分ほど裂いた、バスケットの中にある白いパンの断面をマリさんと共に見つめ、白さに目を細める。硬く酸っぱい黒ではなく柔らかく甘い味がするパンの断面を。厨房で働いている彼女にも私が何を言おうとしたのかが伝わったのだろう。「あー」っと声を漏らし「それもそうですね」っと深々と頷いていた。
「……とはいえ、物事には言い方ってもんがあります。あたしから言わせてもらえば、ジル様の他の人達に対する態度は青鼻垂らしたガキの態度ですよ。大ガキです。あれじゃ不用意に敵を作るだけですもん。辞めた侍女さんだって最後の一人だったじゃないですか。これからどうするつもりなん―……」
「ここに今日一日、外に出られる下女はいるか!?」
上の階で働いている方の声が不意に詰め所に響き、マリさんの言葉を遮ったのはそんな時で、入り口のそばで息を切らし酷く焦った様子で中を見回しているその人を私達もまた何事かと見つめていた。
「ジル様の領地の視察に供としてついて行く侍女の数が足りなくなった。一人、至急その任についてもらいたい!」
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「……で、ただの内地の視察に侍女の代わりについて行ったエリーが額に怪我して帰って来るんですか?視察だったんでしょ?しかも戦地ではなく農地の」
「その……話せば色々あるんですが、色々ありまして―……」
朝の白い光ではなく薄ぼらけたランプの光が手元を頼りなげに照らしていた。硬く絞ったタオルをマリさんから受け取り額に当てれば、当てたその場所から気化をし、籠っていた熱が逃げていく。……気持ちいい。
『……っう……』
『ああ……ああ……違うの……あなたに石を当てるつもりは―……あなたではなくあたしは―……!』
田舎の畦道を不釣り合いな一行がいく。青い小麦畑の中からこちらを狙っている少女に気が付き、他の人が気付く前にその人が乗る馬の前に身を躍らせて石を受けた。
堪らず地面に手を付けば、一筋ぽたりと流れた血が地面に吸い込まれて、跡を残し消えていく。立ち上がろうとしてよろけた私の身体を先程石を投げた少女が支えていた。
『あいつが……あいつが税を重く取り立てたせいで、父さんは……私と母さんと養えなくなって―……面目が潰れて自殺、しちゃって……母さんは病気になってしまうし……だから……だから……わたし、私……』
『ええ……分かるわ。分かったわ。あなたがどんな思いで石を投げたのか。でも、人に石を投げては駄目。……何よりあなた自身の為にも。あの御方を狙っていったと言えばどんな咎を賜わうか分からない。……いいですか?もしこの先誰を狙ったのかと尋ねられたら、侍女を狙いました。と、言いなさい。いい暮らしをして、いい服を着ている女が許せなかったから、と』
『ふん。いつまでそうしているつもりだ。置いて行くぞ、女』
カタカタと私の腕の中で震えている少女の小さな声にこちらも小さく耳打ちをし、彼女の身体を解放した。最後に痩せ細った少女の身体を強く抱きしめて、立ち上がり遠ざかりつつある蹄の音を追う。他者だけではない自分すらも燃やしてしまう様な炎を飼っている人のあとを。
「……時間がかかりそうですね。傷が治るまで……」
「傷の治り―……ですか?」
「いえ、そちらではなく―……もっと深い深い傷です」
それはこの領地に限った事ではないだろう。この国は今病んでいる。だからこそ、手を打たなければならないのだ。……取り返しがつかなくなる、その前に。私はそれを見てきた。
「取り返しがつかなくなるその前に、あの御方が気が付けば、よいのですが―……」
≪エリザベータ・ケセド≫
