第13章 来襲
さて、いいですか。惜しんで僅かしか種をまかない者は僅かしか刈り入れせず、惜しみなく豊かに蒔く者は、豊かに刈り入れるのです。
各々嫌々ながらとか、しなくてはならないからとか、というようにではなく心の中でこうしようと思った通りに与えるべきです。快く与える人を、神は愛して下さるからです。
あなた方が全ての点で、いつも必要な何もかも十分に持ち合わせて、あらゆる善い行いに満ち溢れた者になるように、神はあらゆる恵みを溢れるばかりに与えることがお出来になるのです。
「彼は惜しみなく分け、貧しい人に与えた。その慈しみはとこしえに続く」と聖書に書かれている通りです。
種を蒔く者に、種を食べるためのパンを与えて下さる方は、あなた方に蒔く種を与え、増やし、また、あなた方の慈しみが結ぶ実を益々大きくさせて下さいます。
あなた方は全ての点で豊かにさせていただき、惜しみなく人に物を与えるようになり、その行いは私達を通して神への感謝の念を生じさせるのです。
【コリントの人々への第2の手紙 第8章】
「なんだ。まだ先程私に童貞と言われた事を気にしているのか?尻の穴の小さい奴だ」
「その下劣な口を針と糸で縫い付けるぞ。……何の用だ」
「まあまあ。二人とも。僕達は君とお酒が飲みたくて来たんだよ。フルオライト」
視線の端でゆらりと陽炎のように蝋燭の炎が揺らめく。けして明るくない灯火が照らし出した男の顔色もけして褒められるような血色が良いものではなかった。
「まだ仕事をしていたのか?」
「……例年よりも今期は麦の備蓄が少ない。去年の長雨の影響でな。税をどこまで下げるか……下げ過ぎれば財源が底をつく―……おい」
「それは一度しまいだ。数年ぶりに友人がわざわざ訪ねて来たんだ。盛大にもてなせ」
奴の机の上に広がっている昨年度の収穫物表やここ数十年に渡る税率の変動表を、奴の了承も待たず机の端へ雑に押しのけ、空いたそのスペースに代わりに持って来た杯を一つ置く。それを見るや否や奴の眉間に深い谷が一つ刻まれた。が、それはこちらの想定内の反応だ。
むしろ、この男がだらしなく自分の眦を下げてたなら?考えただけで気色が悪くて寒気までする。
「ブランデーだ。使用人から渡されてんでな。ここの屋敷の使用人たちはよく出来ているらしい」
「ふん。随分偉そうな客人だ。……ああ、そうだろうとも。この屋敷の使用人たちは優秀だ。私と違ってな」
「捻くれて面倒な性格は変わらずか。誰もお前が劣った領主だとは言っていないだろう」
「そうそう。ここに来るまでの間、僕達ここの領民の声も聞いて来たけれど、君の悪評らしい悪評は僕もセデルも聞かなかったよ」
私の横に立っているもう一人の旧友の言葉を聞きながら、手に持った杯に注がれた中身を半分ほど飲み込んだ。沈黙で今しがたピエールが語った言葉を肯定して。
ピエールが言ったように屋敷に来る前にアウラーナが治める街をいくつか通り過ぎて来たが、そのいずれでも領主に関する悪評らしい悪評を耳にした覚えはない。人の噂話や悪口を肴に酒を飲むものが大勢たむろする、場末の安宿でさえ領主に対する不平や不満を口にする者は僅かしかいなかった。
この地に住む領民全てが今の領主を認めていると言い切る事は流石に出来ないが、少なくない数の人間にこの男は認められているのは事実だ。実際、友人の贔屓目を抜いたとして、この男はよくこの土地を治めていると客観的にそう思う。
北との間で緊張が高まっているこの時期にも拘らず上手く、器用に舵取りをしていると。だが―……
「ピエール、すまない。少しの間席をはずしてもらってもいいだろうか?」
「ふふっ。うん。アル君もまだ来てないしね。きっと着替えに手間取ってるんじゃないかな?ああいった服を着るのは彼、初めてだろうしね。様子を見てくるよ。じゃあ、セデル、フルオライト、また後で」
扉が開くと同時に部屋の中で澱んでいた空気が僅かに動く。既に地平すれすれまで高度を下げた落日を窓越しに見送り長い息を吐き出す。空気が動いたその後でも蟠る沈黙を破るその為に。
「……結婚をしたと聞いたが?」
「……離縁状を相手の家へと送った。彼女はもうこの屋敷にはいない」
「そうか」
「私を責めないのか。妻を送り返した薄情な男だと」
「何故?どこが?糞が付くほど真面目なお前の事だ。よほどの事があったのだろう。いや、よほど考えたからこそ出した結論だろう。……それに、だ。私が今どうこう言ったとしてお前の気持ちが動かせるとも思わない。私の心を決めるのが私自身だけであるように、お前の心を決められるのもお前自身だけだ」
杯から立ち上っていた白く細い湯気はいつの間にか消えており、先程よりもぬるくなったブランデーの残りを煽り喉の奥へと流し込む。上等なものを使っているのだろう。喉を通ると同時に香りの花が咲き、すっと払ったように消えていく。
「……休めているのか?十分に寝れているのか?食事は?だいぶやつれたように見えるが?」
「自分の体調を管理できないほど愚かではない。……私が倒れたらこの先誰がこの地を守るのだ?民を導くのだ?民を守るのが貴族の務めだ。それが私達と民との間に交わされた約定であり責務。その責務を放棄した者達が治めていた地がどんな末路を辿る事になるか、貴様にならばわかるはずだ」
男の青白い顔を蝋燭の灯火が暴く。男の言葉に今日何度目になるか分からない深い溜息が自分の口から零れて落ちた。
「……セデル。私は―……私は女が苦手だ」
並々と注がれたままの杯を両手で強く握りしめ、絞り出すように言葉を紡ぐ奴の表情は私から伺う事は出来なかった。奴が俯いている、そのせいで。
「自分からは何も相手に与えず与えられる事ばかりを望む狡い女が嫌いだ。自分を飾る事しか考えず、家や周囲に守られている事を自覚せず当然とばかり享受し甘える女が嫌いだ。都合が悪くなると引きこもり泣く女が苦手だ。そういう女ばかり見てきた。支えられる事ばかりあてにして自分からは動こうともしない。女は卑怯で弱く―……だから怖い。今まで出会って来た女は全てそうだった。例外は……ない」
「例外はない、か。……それは本当か?フルオライト」
私の最後の問いに対する返答はいつまでも返ってこなかった。北風が見えない手を使い厚い窓ガラスを叩く音だけが静まり返った部屋に響くだけ。
「……セデル。一つ聞きたい。お前の左の指にはめられたその指輪は―……」
「ああ。”そういうことだ”」
「……そうか。それには強い魔力が込められているようだ。いや、呪いかそれとも祝福の祝か?一応私からも祝っておこうか。おめでとう、セデル」
「私からも一応礼を言っておく。ありがとう、フルオライト」
淡く青く輝く左の指輪に奴も気付いていたのだろう。手の平を翳して見せればそれだけで通じ、奴の眉間の間の谷が瞬間消え、穏やかな表情が顔を覗かせる。
家族以外の人間にたいしてもこういった表情を見せることが出来る男なのだが―……自分の友人ながらこのフルオライトという男は酷く不器用な生き方を選ぶと思う。領主としてはすこぶる有能だが、な。
妙な笑みが自分の口元に浮かんだ、その瞬間―……
「っう……!」
「くっ……一体!何が!!?」
轟音、だった。突如響いた地を揺らすような轟音が会話をぶった切る。大きく開いた壁の先、もうもうと立ち上る雪煙の先にある影は―……!!
「邪竜……だと?チッ……何故、このような魔物がアウラーナの地に―……!!!」
転がった銀の杯がひしゃげ潰れる。赤い両の眼をギラつかせ大口を開けた招かれざる来訪者の上げた雄たけびが夜の大気を激しく揺さぶった。
≪セデル・レイディアント≫
