第8章 安寧と不穏
さて、いいですか。惜しんで僅かしか種を蒔かない者は僅かしか刈り入れせず、惜しみなく豊かに蒔く者は豊かに刈り入れるのです。
各々嫌々ながらとか、しなくてはならないからとか、というようにではなく心の中でこうしようと思った通りに人に与えるべきです。
快く与える人を神は愛して下さるからです。
あなた方が全ての点で、いつも必要なものは何もかも十分に持ち合わせてあらゆる善い行いに満ち溢れた者になるように神はあらゆる恵みを溢れるばかりに与えることがお出来になるのです。
「彼は惜しみなく分け、貧しい人に与えた。その慈しみはとこしえに続く」
と、聖書に書かれている通りです。種蒔く者に種と食べるためのパンを与えて下さる方はあなた方に蒔く種を与え、増やし、またあなた方の慈しみが結ぶ実を益々大きくさせて下さいます。
あなた方は全ての点で豊かにさせていただき、惜しみなく人に物を与えるようになり、その行いは私達を通じて神への感謝の念を生じさせるのです。
何故なら、この様な「援助」の奉仕は聖なる人達の必要を補うだけでなく、神に対する厚い感謝の念によって益々溢れるばかりになるからです。
【コリントの人々への第二の手紙 第8章】
「熱心に何を見てるかと思えば……お前馬鹿かよ。これ銀貨何枚すると思ってんだ」
「ふん、たかが銀だろう。金ならまだしも。おかしな事を言う」
「たかが銀って……お前なあ……」
休日の市を行き交う人々の雑踏がどこか遠いもののように聞こえる。今日何度目か分からない女の金銭感覚がずれた発言に何度目になるか分からない痛みが頭に生じて、思わず自分の眉間に指先を当てて俯き息を吐き出した。
買うのか買わないのかどっちなんだと言いたげな売り子の、文字通り痛い視線が俺に刺さる。顔を上げると同時にどうしたもんかと頭を片手で掻けば……って、もうあの女横にいねえし!!興味の先が映るの早過ぎるだろ!?
「連れのお嬢様なら行ってしまわれましたわ。で、どうされますか?買いますか?それとも買いませんか?」
「いや、買わない……」
「こちらにあるものは全て一点ものですので明日にはなくなってしまうと思います。……熱心に見ていらっしゃいましたよね……彼女」
売り子の女性が被った赤い三角頭巾が、赤によく栄える金の三つ編みが女性の首の動きに合わせるように揺れる。にこりと人が良さそうな笑みを浮かべ無言の圧力を送る売り子にヒクリ……と自分の口元が痙攣したように引き攣った。
「おい。だからあんまり勝手に動くんじゃねーよ。そのうち迷子になるぞ?」
「遅いお前が悪い」
「ほんっとうに可愛げねーな、お前」
「別にお前に可愛いと思われなくても……えっ……」
「取り敢えずそれで勘弁してくれ。今手元にある金じゃこれが精いっぱいだったんだよ」
俺が女に追い付いたのは数日前も二人で来た見晴らしの丘の上で、振り向きもせず背中越しに憎まれ口ばかり叩く女の背中にゆっくり近付いて、そのすぐ後ろで立ち止まった。
腕に抱えながら持って来た荷物の中からさっき買ったばかりのそれを引っ張り出し、女の首に緩く巻き付けて。
首に急に何かを巻かれれば誰だって驚くだろう。自分だって驚く。それが分かっていながらあえてしたのは、そうでもしないとこのヘソが曲がった強情な女はこっちを見ないと思ったからだ。酷く意地っ張りで酷く世間知らずのこいつは。
少しの間、互いの視線が空で交わった。余ったストールの端を向き直った女の首に綺麗に巻き付けて、ドカリとその場で腰を下ろす。
「座れよ。ついでに昼飯も買って来た。ストールが邪魔なら後で質に流すなり捨てるなり……まあ好きにしろ。お前にあげたものだしな。お前の好きなようにしてくれ」
緩やかに流れて行く。浮かんだ筋状の白い雲が。慣れ合っているつもりはないし、互いに互いの事を信頼しているのかと言われたら間違いなく否、なんだろうが……この時間を案外気に入ってる自分がいるんだ。いや、楽しんでいると言った方がいいのかもしれない。
この女は酷く無知だ。頭がいい悪いという意味で言っているわけじゃない。単純に知らないのだ。俺達の事を、俺達庶民の暮らしを。そんな人間が初めて見る世界、触れる価値観に対して見せる反応が、俺からすれば新鮮で、どこか楽しい。と、同時に痛感させられる。自分の当たり前が当たり前じゃないという事を。
『……美味い、な。この芋は。冷えてもなお、美味い。景色に限ったことではない。肌で感じる芋の温かさ、この味。全て……お前と同じだ。私は、そう思う』
数日前、この女が暮れ霞むこの場所で口にした言葉を思い出しながら緩やかに目蓋を閉じて開放する。あの時も、そして今も去来した思いは決して悪いものではなかった。
変わらないんだ、俺もこの女も。名前も知らない奴だけどそれだけはあの綺麗な黄昏の中で知る事が出来た。
「……硬い……こんな硬いパン食べられたもんじゃ……」
「ああ、そのパンは保存用だからな。そのまま食べたんじゃそりゃあ美味しくねーよ。スープに浸して柔らかくしながら齧るんだ……ん?ちょっといいか?」
小さく首を傾げた女の顔へとすっ、と腕を真っ直ぐに伸ばす。訝し気に俺を見つめる女の口元に付いたパン屑を指先で摘まんで、自分の口の中へと放り込んだ。癖、のようなもんだった。シャアンやルナにもよくやっていたからな。
「うん。値段の割に味は悪く……」
「な、ななななななっ!!!!無礼者!!不敬だっ!!!」
熟れたカラス瓜のよう。そう形容するのが一番近いと思った。顔色を真っ赤なものへと変えて不敬だと連呼する女の様子が滑稽でくつり、と漏れ出た声が徐々に大きなものへと変わっていく。青い空をそのまま仰ぎ腹の底から笑って、ひとしきり笑った後に長い息を一つ吐き出した。息が蒼穹へ帰っていく。
声を出して馬鹿笑いをするなんて何カ月ぶりだろうか。
次の言葉を紡ごうとしたその時だった。ごうっと季節の悪戯のような強い風が吹き抜けて、自分達の周りに積もった色とりどりの無数の木の葉を巻き上げ舞わせたのは。
ああ、そう言えばこの場所はこの季節は昼に強い風が吹くんだった。昔と変わっちゃいない。……昔、昔っていつだ?なんで俺はそんな事を知っているんだろう?
「アルだ」
「何を急に……」
「アル。アルフォート。俺の、名前」
なあ、リック、お前が言った通りだ。俺もお前もこの女も……何も変わらない。生まれた環境の違いがそのまま違いだと言われれば確かに俺もお前もこの女も違うだろう。
だけど、それだけで終わらせたくないと思う自分がいるんだ。勿体ないと思う自分がいるんだ。
「別に自分が名乗ったんだからお前にも名乗れっていう意味じゃねーよ。ただ、お前に名前を教えたくなった。それだけだ」
≪アルフォート≫
各々嫌々ながらとか、しなくてはならないからとか、というようにではなく心の中でこうしようと思った通りに人に与えるべきです。
快く与える人を神は愛して下さるからです。
あなた方が全ての点で、いつも必要なものは何もかも十分に持ち合わせてあらゆる善い行いに満ち溢れた者になるように神はあらゆる恵みを溢れるばかりに与えることがお出来になるのです。
「彼は惜しみなく分け、貧しい人に与えた。その慈しみはとこしえに続く」
と、聖書に書かれている通りです。種蒔く者に種と食べるためのパンを与えて下さる方はあなた方に蒔く種を与え、増やし、またあなた方の慈しみが結ぶ実を益々大きくさせて下さいます。
あなた方は全ての点で豊かにさせていただき、惜しみなく人に物を与えるようになり、その行いは私達を通じて神への感謝の念を生じさせるのです。
何故なら、この様な「援助」の奉仕は聖なる人達の必要を補うだけでなく、神に対する厚い感謝の念によって益々溢れるばかりになるからです。
【コリントの人々への第二の手紙 第8章】
「熱心に何を見てるかと思えば……お前馬鹿かよ。これ銀貨何枚すると思ってんだ」
「ふん、たかが銀だろう。金ならまだしも。おかしな事を言う」
「たかが銀って……お前なあ……」
休日の市を行き交う人々の雑踏がどこか遠いもののように聞こえる。今日何度目か分からない女の金銭感覚がずれた発言に何度目になるか分からない痛みが頭に生じて、思わず自分の眉間に指先を当てて俯き息を吐き出した。
買うのか買わないのかどっちなんだと言いたげな売り子の、文字通り痛い視線が俺に刺さる。顔を上げると同時にどうしたもんかと頭を片手で掻けば……って、もうあの女横にいねえし!!興味の先が映るの早過ぎるだろ!?
「連れのお嬢様なら行ってしまわれましたわ。で、どうされますか?買いますか?それとも買いませんか?」
「いや、買わない……」
「こちらにあるものは全て一点ものですので明日にはなくなってしまうと思います。……熱心に見ていらっしゃいましたよね……彼女」
売り子の女性が被った赤い三角頭巾が、赤によく栄える金の三つ編みが女性の首の動きに合わせるように揺れる。にこりと人が良さそうな笑みを浮かべ無言の圧力を送る売り子にヒクリ……と自分の口元が痙攣したように引き攣った。
「おい。だからあんまり勝手に動くんじゃねーよ。そのうち迷子になるぞ?」
「遅いお前が悪い」
「ほんっとうに可愛げねーな、お前」
「別にお前に可愛いと思われなくても……えっ……」
「取り敢えずそれで勘弁してくれ。今手元にある金じゃこれが精いっぱいだったんだよ」
俺が女に追い付いたのは数日前も二人で来た見晴らしの丘の上で、振り向きもせず背中越しに憎まれ口ばかり叩く女の背中にゆっくり近付いて、そのすぐ後ろで立ち止まった。
腕に抱えながら持って来た荷物の中からさっき買ったばかりのそれを引っ張り出し、女の首に緩く巻き付けて。
首に急に何かを巻かれれば誰だって驚くだろう。自分だって驚く。それが分かっていながらあえてしたのは、そうでもしないとこのヘソが曲がった強情な女はこっちを見ないと思ったからだ。酷く意地っ張りで酷く世間知らずのこいつは。
少しの間、互いの視線が空で交わった。余ったストールの端を向き直った女の首に綺麗に巻き付けて、ドカリとその場で腰を下ろす。
「座れよ。ついでに昼飯も買って来た。ストールが邪魔なら後で質に流すなり捨てるなり……まあ好きにしろ。お前にあげたものだしな。お前の好きなようにしてくれ」
緩やかに流れて行く。浮かんだ筋状の白い雲が。慣れ合っているつもりはないし、互いに互いの事を信頼しているのかと言われたら間違いなく否、なんだろうが……この時間を案外気に入ってる自分がいるんだ。いや、楽しんでいると言った方がいいのかもしれない。
この女は酷く無知だ。頭がいい悪いという意味で言っているわけじゃない。単純に知らないのだ。俺達の事を、俺達庶民の暮らしを。そんな人間が初めて見る世界、触れる価値観に対して見せる反応が、俺からすれば新鮮で、どこか楽しい。と、同時に痛感させられる。自分の当たり前が当たり前じゃないという事を。
『……美味い、な。この芋は。冷えてもなお、美味い。景色に限ったことではない。肌で感じる芋の温かさ、この味。全て……お前と同じだ。私は、そう思う』
数日前、この女が暮れ霞むこの場所で口にした言葉を思い出しながら緩やかに目蓋を閉じて開放する。あの時も、そして今も去来した思いは決して悪いものではなかった。
変わらないんだ、俺もこの女も。名前も知らない奴だけどそれだけはあの綺麗な黄昏の中で知る事が出来た。
「……硬い……こんな硬いパン食べられたもんじゃ……」
「ああ、そのパンは保存用だからな。そのまま食べたんじゃそりゃあ美味しくねーよ。スープに浸して柔らかくしながら齧るんだ……ん?ちょっといいか?」
小さく首を傾げた女の顔へとすっ、と腕を真っ直ぐに伸ばす。訝し気に俺を見つめる女の口元に付いたパン屑を指先で摘まんで、自分の口の中へと放り込んだ。癖、のようなもんだった。シャアンやルナにもよくやっていたからな。
「うん。値段の割に味は悪く……」
「な、ななななななっ!!!!無礼者!!不敬だっ!!!」
熟れたカラス瓜のよう。そう形容するのが一番近いと思った。顔色を真っ赤なものへと変えて不敬だと連呼する女の様子が滑稽でくつり、と漏れ出た声が徐々に大きなものへと変わっていく。青い空をそのまま仰ぎ腹の底から笑って、ひとしきり笑った後に長い息を一つ吐き出した。息が蒼穹へ帰っていく。
声を出して馬鹿笑いをするなんて何カ月ぶりだろうか。
次の言葉を紡ごうとしたその時だった。ごうっと季節の悪戯のような強い風が吹き抜けて、自分達の周りに積もった色とりどりの無数の木の葉を巻き上げ舞わせたのは。
ああ、そう言えばこの場所はこの季節は昼に強い風が吹くんだった。昔と変わっちゃいない。……昔、昔っていつだ?なんで俺はそんな事を知っているんだろう?
「アルだ」
「何を急に……」
「アル。アルフォート。俺の、名前」
なあ、リック、お前が言った通りだ。俺もお前もこの女も……何も変わらない。生まれた環境の違いがそのまま違いだと言われれば確かに俺もお前もこの女も違うだろう。
だけど、それだけで終わらせたくないと思う自分がいるんだ。勿体ないと思う自分がいるんだ。
「別に自分が名乗ったんだからお前にも名乗れっていう意味じゃねーよ。ただ、お前に名前を教えたくなった。それだけだ」
≪アルフォート≫
