第8章 安寧と不穏
身分の低い兄弟は自分が高められる事を、富んでいる人は自分が低くされる事を、誇りとしなさい。
富んでいる人は野の花の様に過ぎ去ります。太陽が昇って熱くなると草は枯れ、花は散り、その美しさは失われてしまいます。
これと同じように富んでいる者も事業の志半ばで没落します。
試練を耐え忍ぶ人は幸いです。これを耐え抜いた者は、主を愛する人に約束された報いとしての命の冠を受けるでしょう。
いかなる人も誘惑に遭う時、「神に誘惑される」と言ってはなりません。神は悪に誘惑される方でもなく、また自ら人を誘惑する方でもありません。
しかし、人はそれぞれ自分の欲に引かれ、そそのかされて誘惑に陥るのです。そして、欲は身籠って罪を生み、罪は熟して死を生み出します。
私の愛する兄弟達、思い違いをしてはなりません。善い贈り物と完全な賜物とは全て上から、光を造られた御父から来るのです。
御父には移り変わりもなく、陰に隠れる事もありません。
御父は、私達を被造物の初穂とする為に、真理の言葉を持って、み旨のまま私達を生んで下さいました。
【ヤコブの手紙 第1章】
「……寝られないのですか?」
「あっ……いや……はい。何だか寝付けなくて……この教会が嫌だとかそういうのじゃないんですけど……」
「いいんですよ。慣れない環境でしょうから」
一つ、灯が揺れた。今まで見上げていた黒い空に灯っている小さな銀の幻燈ではなく、もっと近く、もっとあたたかなカンテラの灯火が影を足元へ伸ばす。
「夜の見回り、ですか?テレーズさん?」
「はい。これが私の毎日の日課なんです。……隣に腰掛けてもいいですか?アルさん?」
テレーズさんの波打つ長い髪が、彼女が被ったレースのヴェールが音なく揺れ動く。了承の返事を口でする代わりに腰掛けていた木のベンチの左半分を開けた。テレーズさんの髪や服に焚き込まれた乳香の、不思議でいてけして不快ではない香りが俺の鼻を強く擽っていた。
「ありがとうございます、テレーズさん」
「どうかされましたか?」
「俺は罪人なのにそれでもここに受け入れて匿ってくださって。臨時政府にそれが知られたらここもタダではいかないはずなのに。それだけじゃない……もし旧教の異端審問会に知られたら黙っては……」
不意に唇に生じた柔らかい感覚に言葉を切り、瞳を瞬かせる。俺の視線のすぐ先でテレーズさんは、悪戯を成功させた子供の様に目を細め、微笑んで、俺の唇に押し当てていた人差し指を外し首を横へと緩慢な動作で振った。
「安らぎを求めてこの地を訪れたのならば受け入れましょう。……あなた方に最初にお話したこの言葉に嘘も偽りもありませんわ。……それとも飽きてしまわれましたか?ここの生活に」
「慣れない生活……か。変な事を言っていいですか、テレーズさん。むしろ逆なんです」
「……逆、ですか?」
「俺はこの場所を……知っている気がするんです。変ですよね。はじめてここに来たはずなのに。……この中庭も、長い石の回廊も、日の出前に一番強くなる乳香の香りも、日没の時に焚かれる没薬の香りも、みんな……みんな知っている気がする」
記憶が、凍っていた記憶の塊が緩やかに弛緩し、融解し、自己主張を始める。それが自分には煩わしく思えて仕方なかった。知らないはずなのに、知っている何かが。
緩やかに溶けて行く。解けて、崩れ落ちて行く。なのにそれが何なのか分からなくて、霧が掛かったようで……見通せない。
「ここはとても古い教会です。歴代の王家に名を連ねる方々もここで洗礼を受けて来たと聞きます。聖王ブルボンも暗君ロッテも……いいえ、それよりもずっとずっと古い時代からある教会です。だから、どこか懐かしく感じるのかもしれませんわ。ここは今ある多くの教会の元になった場所ですから」
「本当に俺は何も知らないんだな。……何も」
「そんなものですわ。私だって知らない事ばかりですもの。現にこうして今お話する事でようやく、アルさんが何を考えてらっしゃったか、どんな人なのか……少しだけ知る事が出来ました」
晩夏の夜風が頬を見えない腕で撫でて行く。盛夏に聴く事が出来ない虫の涼し気な音が徐々に長くなり始めた夜を彩っていた。
「私にできる事はいつでも小さな事です。小さな親切、取るに足らない笑顔、そして……対話。話をする事で全てが解決できるとは私自身も思っていませんわ。いえ、それどころか互いの世界を守る為には境を設けて互いに不干渉であるべき場合もあるでしょう。ただ……ただそれでも対話から始まる事もあると思います。お互いが向き合う事で見えて来る世界も確かにある」
一つ、また一つ、言葉が染みて行く。目を閉じ正面を向いたまま、顔を上げた。「ありがとうございます」という礼の言葉と共に。
「いいえ。私にできる事は小さな事しかありませんから。……あら?アルさん、瞳の色が……」
「あっ、はい。生まれ付きそうなんです。俺、昼と夜とで色が変わるんですよ。昼は緑で夜は紫に……」
「アレキサンドライトのようですね。とても珍しい宝石の名前ですわ。……もしかしたらあなたの両親があなたに贈って下さった宝物かもしれませんね。そう言えば、あの御方もアレキサンドライトのような目を持っていたそうですよ。その人の名はー……」
++++++++++++++++++++
「痴れ者ッ!どこへ連れて行くつもりだ!私は外へなんて……!」
「そう言ってあと何日部屋に引き籠るつもりだよ。ノルンさんに心配かけやがって。いいから少しだけ付き合え」
安息日の午後の市を様々な人種の人間が、様々な思考を持った人間が行き交う。自分達もその雑踏の一部になりながら人の波を縫うように半ば強引に進んだ。後ろでぶうぶう文句を言い続けるこいつの腕を引きながら。
「おっさん。ふかしたサツマイモ二つ。バターも乗っけといてくれ」
「はいよ。んじゃ、そこの皿の上に代金を置いておいてくれ。今包むからよ。……ところで後ろの子はお前さんのコレか?」
「……おっさん。今時そのリアクションは古いと思うぜ?」
作業の傍ら横目でチラリと後ろの連れへと意味ありげな視線を向けて小指を立てたおっさんの、その手を片手で払い除けてもう片方の手で商品を二つ受け取った。
ここも食糧難の煽りを受けて満足に原料が手に入らないんだろう。値段の割に随分と小さい芋だが贅沢は言ってられない、か。長雨と日照不足のせいで穀物の根が腐っちまったって聞いてるしな。特に北の方が酷いと聞いていたから影響があるんだろう。
「まいど」という威勢のいい定型文に背中を押されながら坂道をどんどんと上っていく。何を言っても無駄だと悟ったのだろう。文句を言い続けていた先程までと一転して固く口を真一文字に結んだ女の腕を引きながら。
……俺は知っている。この先に何があるのかを。この道がどこへ続いているのかを。この先には……
世界が開ける。眼下には教会を中心にし放射状に延びる煉瓦の道と古い町並みが広がっていた。落日の炎が家の白い壁を燃え上がらせている。
「……綺麗なもんだろ。ここから見下ろす街ってのも。それともやっぱりお前の目には古びて廃れた街にしか見えないか?」
あいつの顔を覆っていたフードを夕間暮れに風が吹き飛ばす。茜を反射し煌めく金の髪から真下に広がる街並みへと再び視線の先を戻した。
「こっちに来いよ。丁度ガス燈が灯り始めた。こっちの方がよく見える」
返事はない。まあ、そんな事だろうとは思っていたけど。頭を後ろ手で一度掻いて女の細腕を引いた。罵られるとばかり思っていたが、どうやらそれはないらしい。
「綺麗なもんだ。あの灯り一つ一つを灯しているのは平民だ。貴族のあんたが薄汚いと軽蔑してる人間があんなに綺麗な灯りを灯して夜を払っている」
光が充ちて引いて行く。光が山の稜線の間に沈んで光が灯る。震えるぐらい小さな灯火がいくつも、いくつも。変わる世界を色が変わった瞳に写していた。
「わざわざ私に……説教をする為にここまで連れて来たのか?」
「そんなんじゃねえよ。俺が見たいと思った。で、あんたにも見せたかっただけだ。独り占めするには勿体ないからな。誰でもいい。共有したかったんだよ」
世界を変えたいと思った。そう思って赤軍の門戸を叩いた。そう思い込んでいたんだ。自分はそれを望んでいるって。けれど、違った。俺は……
「世界を変えたいとは思わない。そこまで傲慢になれなくなっちまった。ただ、一部の人間のせいで人々が苦しみ命を落としていく……それが許せない。そこに貴族も平民も関係ない。……あんたがどう思うから知らないけどな。ただ……」
「ただ……?」
鸚鵡返しに尋ねる女に先程買った芋を放り投げた。少し冷めちまったけど今から食べても問題ないだろう、それを。
「もしこの景色をあんたが少しでも綺麗だと今感じてるんなら、少なくともその部分だけは俺と同じだ」
落日が世界を包む。徐々に暮れる世界を乾いた風が渡って行った。
≪アルフォート≫
富んでいる人は野の花の様に過ぎ去ります。太陽が昇って熱くなると草は枯れ、花は散り、その美しさは失われてしまいます。
これと同じように富んでいる者も事業の志半ばで没落します。
試練を耐え忍ぶ人は幸いです。これを耐え抜いた者は、主を愛する人に約束された報いとしての命の冠を受けるでしょう。
いかなる人も誘惑に遭う時、「神に誘惑される」と言ってはなりません。神は悪に誘惑される方でもなく、また自ら人を誘惑する方でもありません。
しかし、人はそれぞれ自分の欲に引かれ、そそのかされて誘惑に陥るのです。そして、欲は身籠って罪を生み、罪は熟して死を生み出します。
私の愛する兄弟達、思い違いをしてはなりません。善い贈り物と完全な賜物とは全て上から、光を造られた御父から来るのです。
御父には移り変わりもなく、陰に隠れる事もありません。
御父は、私達を被造物の初穂とする為に、真理の言葉を持って、み旨のまま私達を生んで下さいました。
【ヤコブの手紙 第1章】
「……寝られないのですか?」
「あっ……いや……はい。何だか寝付けなくて……この教会が嫌だとかそういうのじゃないんですけど……」
「いいんですよ。慣れない環境でしょうから」
一つ、灯が揺れた。今まで見上げていた黒い空に灯っている小さな銀の幻燈ではなく、もっと近く、もっとあたたかなカンテラの灯火が影を足元へ伸ばす。
「夜の見回り、ですか?テレーズさん?」
「はい。これが私の毎日の日課なんです。……隣に腰掛けてもいいですか?アルさん?」
テレーズさんの波打つ長い髪が、彼女が被ったレースのヴェールが音なく揺れ動く。了承の返事を口でする代わりに腰掛けていた木のベンチの左半分を開けた。テレーズさんの髪や服に焚き込まれた乳香の、不思議でいてけして不快ではない香りが俺の鼻を強く擽っていた。
「ありがとうございます、テレーズさん」
「どうかされましたか?」
「俺は罪人なのにそれでもここに受け入れて匿ってくださって。臨時政府にそれが知られたらここもタダではいかないはずなのに。それだけじゃない……もし旧教の異端審問会に知られたら黙っては……」
不意に唇に生じた柔らかい感覚に言葉を切り、瞳を瞬かせる。俺の視線のすぐ先でテレーズさんは、悪戯を成功させた子供の様に目を細め、微笑んで、俺の唇に押し当てていた人差し指を外し首を横へと緩慢な動作で振った。
「安らぎを求めてこの地を訪れたのならば受け入れましょう。……あなた方に最初にお話したこの言葉に嘘も偽りもありませんわ。……それとも飽きてしまわれましたか?ここの生活に」
「慣れない生活……か。変な事を言っていいですか、テレーズさん。むしろ逆なんです」
「……逆、ですか?」
「俺はこの場所を……知っている気がするんです。変ですよね。はじめてここに来たはずなのに。……この中庭も、長い石の回廊も、日の出前に一番強くなる乳香の香りも、日没の時に焚かれる没薬の香りも、みんな……みんな知っている気がする」
記憶が、凍っていた記憶の塊が緩やかに弛緩し、融解し、自己主張を始める。それが自分には煩わしく思えて仕方なかった。知らないはずなのに、知っている何かが。
緩やかに溶けて行く。解けて、崩れ落ちて行く。なのにそれが何なのか分からなくて、霧が掛かったようで……見通せない。
「ここはとても古い教会です。歴代の王家に名を連ねる方々もここで洗礼を受けて来たと聞きます。聖王ブルボンも暗君ロッテも……いいえ、それよりもずっとずっと古い時代からある教会です。だから、どこか懐かしく感じるのかもしれませんわ。ここは今ある多くの教会の元になった場所ですから」
「本当に俺は何も知らないんだな。……何も」
「そんなものですわ。私だって知らない事ばかりですもの。現にこうして今お話する事でようやく、アルさんが何を考えてらっしゃったか、どんな人なのか……少しだけ知る事が出来ました」
晩夏の夜風が頬を見えない腕で撫でて行く。盛夏に聴く事が出来ない虫の涼し気な音が徐々に長くなり始めた夜を彩っていた。
「私にできる事はいつでも小さな事です。小さな親切、取るに足らない笑顔、そして……対話。話をする事で全てが解決できるとは私自身も思っていませんわ。いえ、それどころか互いの世界を守る為には境を設けて互いに不干渉であるべき場合もあるでしょう。ただ……ただそれでも対話から始まる事もあると思います。お互いが向き合う事で見えて来る世界も確かにある」
一つ、また一つ、言葉が染みて行く。目を閉じ正面を向いたまま、顔を上げた。「ありがとうございます」という礼の言葉と共に。
「いいえ。私にできる事は小さな事しかありませんから。……あら?アルさん、瞳の色が……」
「あっ、はい。生まれ付きそうなんです。俺、昼と夜とで色が変わるんですよ。昼は緑で夜は紫に……」
「アレキサンドライトのようですね。とても珍しい宝石の名前ですわ。……もしかしたらあなたの両親があなたに贈って下さった宝物かもしれませんね。そう言えば、あの御方もアレキサンドライトのような目を持っていたそうですよ。その人の名はー……」
++++++++++++++++++++
「痴れ者ッ!どこへ連れて行くつもりだ!私は外へなんて……!」
「そう言ってあと何日部屋に引き籠るつもりだよ。ノルンさんに心配かけやがって。いいから少しだけ付き合え」
安息日の午後の市を様々な人種の人間が、様々な思考を持った人間が行き交う。自分達もその雑踏の一部になりながら人の波を縫うように半ば強引に進んだ。後ろでぶうぶう文句を言い続けるこいつの腕を引きながら。
「おっさん。ふかしたサツマイモ二つ。バターも乗っけといてくれ」
「はいよ。んじゃ、そこの皿の上に代金を置いておいてくれ。今包むからよ。……ところで後ろの子はお前さんのコレか?」
「……おっさん。今時そのリアクションは古いと思うぜ?」
作業の傍ら横目でチラリと後ろの連れへと意味ありげな視線を向けて小指を立てたおっさんの、その手を片手で払い除けてもう片方の手で商品を二つ受け取った。
ここも食糧難の煽りを受けて満足に原料が手に入らないんだろう。値段の割に随分と小さい芋だが贅沢は言ってられない、か。長雨と日照不足のせいで穀物の根が腐っちまったって聞いてるしな。特に北の方が酷いと聞いていたから影響があるんだろう。
「まいど」という威勢のいい定型文に背中を押されながら坂道をどんどんと上っていく。何を言っても無駄だと悟ったのだろう。文句を言い続けていた先程までと一転して固く口を真一文字に結んだ女の腕を引きながら。
……俺は知っている。この先に何があるのかを。この道がどこへ続いているのかを。この先には……
世界が開ける。眼下には教会を中心にし放射状に延びる煉瓦の道と古い町並みが広がっていた。落日の炎が家の白い壁を燃え上がらせている。
「……綺麗なもんだろ。ここから見下ろす街ってのも。それともやっぱりお前の目には古びて廃れた街にしか見えないか?」
あいつの顔を覆っていたフードを夕間暮れに風が吹き飛ばす。茜を反射し煌めく金の髪から真下に広がる街並みへと再び視線の先を戻した。
「こっちに来いよ。丁度ガス燈が灯り始めた。こっちの方がよく見える」
返事はない。まあ、そんな事だろうとは思っていたけど。頭を後ろ手で一度掻いて女の細腕を引いた。罵られるとばかり思っていたが、どうやらそれはないらしい。
「綺麗なもんだ。あの灯り一つ一つを灯しているのは平民だ。貴族のあんたが薄汚いと軽蔑してる人間があんなに綺麗な灯りを灯して夜を払っている」
光が充ちて引いて行く。光が山の稜線の間に沈んで光が灯る。震えるぐらい小さな灯火がいくつも、いくつも。変わる世界を色が変わった瞳に写していた。
「わざわざ私に……説教をする為にここまで連れて来たのか?」
「そんなんじゃねえよ。俺が見たいと思った。で、あんたにも見せたかっただけだ。独り占めするには勿体ないからな。誰でもいい。共有したかったんだよ」
世界を変えたいと思った。そう思って赤軍の門戸を叩いた。そう思い込んでいたんだ。自分はそれを望んでいるって。けれど、違った。俺は……
「世界を変えたいとは思わない。そこまで傲慢になれなくなっちまった。ただ、一部の人間のせいで人々が苦しみ命を落としていく……それが許せない。そこに貴族も平民も関係ない。……あんたがどう思うから知らないけどな。ただ……」
「ただ……?」
鸚鵡返しに尋ねる女に先程買った芋を放り投げた。少し冷めちまったけど今から食べても問題ないだろう、それを。
「もしこの景色をあんたが少しでも綺麗だと今感じてるんなら、少なくともその部分だけは俺と同じだ」
落日が世界を包む。徐々に暮れる世界を乾いた風が渡って行った。
≪アルフォート≫
