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愛は、愛が充ちる場は、パン種と似ている。
女性が愛を摘まんで三斗の粉の中に入れると、全ては大きく膨らみ始める。
独りでいるよりも二人でいるほうがずっと良い。
仕事にしても二人で働く方が捗る。
また二人で寝ると二人とも暖かいではないか。
独りっきりで寝て、どうして暖かくなれよう。
【マテオによる福音書 第13章、コヘレットの書 第4章】
遠く木々の梢を渡る風の音がする。遥か遠い太古から生きる古い楡の樹々の葉が擦れ、揺れる音が。その音と音の間をすり抜ける湿った風の匂いが私の鼻腔を微かに揺すり擽った。いや、これは森の匂いではない。樹々の囁きとよく似ている音だけど違う音。
雨が降った後に感じる湿った土の匂いではない。芽吹き萌えいずる葉の匂いとも違う。不思議な水の匂い。森には絶対に存在し得ない水の匂い。……海の匂い。
その不思議な香りを呼び水にして、私が帰って来る。ゆらゆらとたゆたい微睡む輪郭が曖昧な世界から現世へー……夢の浮橋を渡って。
閉じた瞼を薄らと解放すれば、霞み滲む世界の端に銀が映った。カーテンの隙間からするりと入り込む一条の月光に照らされて淡く、青く浮かび上がって……その輝きに導かれるように私は手を伸ばし、そうするのが当然の様に一房、銀を手に取って両手で包み込んだ。
「綺麗……」
心が声の姿を借りて形になっていく。自分のものとは色彩が異なる髪は私の目には宝石の様に映ったから。
「クローディア……?」
「ごめんなさい。起こしてしまった?」
少し擦れた低い声が私の鼓膜と宵の静(シジマ)を震わせたのはそんな時で、私の名を呼びまだ焦点が合っていない瞳でこちらを見つめる人を、私もまた見つめ返した。その人が発した声によって僅かに目元と唇が綻んでいくのを、私自身感じながら。
この人も、そして私も笑うのは今でも得意ではないけれど、でも、それでも私はこの人と出会って、時を重ねて……笑う事が多くなった。自分だけが分かる程度、かもしれないけれど、でも、確実に。他の誰もが知らなくても私だけは知っている。
「どうした?まだだいぶ早い時間だが……?」
「何でもないわ。ただ、起きてしまっただけ」
彼の厚い胸板に身を寄せ自身の頬を寄せて瞳を閉じれば、トクリ、トクリ、と命の雫が流れ落ちる音がした。森の樹々を流れる水の音の様に、水が命を運んでいる。森が息をするように、この人も息をしている。
「ねえ、グレイ」
「……なんだ」
「私ね、ずっとこうしたかったんだと思うの」
私の首筋を柔らかな銀が掠め擽った。豊かな銀の海に包まれながら、私は少しずつ言の葉を紡ぎ、生み出していく。
黒夜を彩る無数の銀の星屑達。痛いぐらい張り詰めた空気、足元からシンシンと這い上って来る冷気。吐き出した先から白い蒸気と化して行く息。かつて極寒のバルハラントの地で見上げた遠くに輝き瞬く銀と同じ銀色なのに、今私を包んでくれている銀は何よりも暖かい。自分の中で燃える命の炎に薪をくべられているよう。私は私の生を実感できる。
緩やかに体の力が弛緩し、溶けて行く。解けて、崩れて行く。でも、それはけして不愉快なものではなくて、例えるなら白く柔らかな陽光の下にいる時と同じ様に暖かい。……充ちていく。
「……ずっと?」
「ええ、きっと、ずっと、ずっと前から」
寒い夜にこうして頬と頬をくっつけ合って。あなたの腕の中で、あなたの髪に顔を埋めて。
この人の冷えた肩を私の手で暖めて……包んであげたいの。他の誰でもない、私が。
この人は私に世界を教えてくれた。この人のおかげで私は、世界は森一つではないという事を知る事が出来た。海の底にも森がある事も。沢山の人と出会って、同じ数だけ別れて……漂うだけに思えた現在(いま)が、繋がり紡がれて、そして続いていくものだと知る事が、出来た。
深い海の底でユラユラと揺れるウミユリの森があった時代から、遠い昔の不思議な植物たちが胞子の雨を降らせていた時代から、代わる代わるに……私が今、感じている思いも糸の様に紡がれて、そして私の思いもまた糸の繊維の一つとなって未来へと続いていく。
「グレイ……大好き」
思いを言の葉に溶かし込んで、笑みを浮かべて、私はまた旅立つの。あなたと一緒に、あなたの腕の中で微睡み、たゆたって。新しい朝を迎える為に。
Fin
女性が愛を摘まんで三斗の粉の中に入れると、全ては大きく膨らみ始める。
独りでいるよりも二人でいるほうがずっと良い。
仕事にしても二人で働く方が捗る。
また二人で寝ると二人とも暖かいではないか。
独りっきりで寝て、どうして暖かくなれよう。
【マテオによる福音書 第13章、コヘレットの書 第4章】
遠く木々の梢を渡る風の音がする。遥か遠い太古から生きる古い楡の樹々の葉が擦れ、揺れる音が。その音と音の間をすり抜ける湿った風の匂いが私の鼻腔を微かに揺すり擽った。いや、これは森の匂いではない。樹々の囁きとよく似ている音だけど違う音。
雨が降った後に感じる湿った土の匂いではない。芽吹き萌えいずる葉の匂いとも違う。不思議な水の匂い。森には絶対に存在し得ない水の匂い。……海の匂い。
その不思議な香りを呼び水にして、私が帰って来る。ゆらゆらとたゆたい微睡む輪郭が曖昧な世界から現世へー……夢の浮橋を渡って。
閉じた瞼を薄らと解放すれば、霞み滲む世界の端に銀が映った。カーテンの隙間からするりと入り込む一条の月光に照らされて淡く、青く浮かび上がって……その輝きに導かれるように私は手を伸ばし、そうするのが当然の様に一房、銀を手に取って両手で包み込んだ。
「綺麗……」
心が声の姿を借りて形になっていく。自分のものとは色彩が異なる髪は私の目には宝石の様に映ったから。
「クローディア……?」
「ごめんなさい。起こしてしまった?」
少し擦れた低い声が私の鼓膜と宵の静(シジマ)を震わせたのはそんな時で、私の名を呼びまだ焦点が合っていない瞳でこちらを見つめる人を、私もまた見つめ返した。その人が発した声によって僅かに目元と唇が綻んでいくのを、私自身感じながら。
この人も、そして私も笑うのは今でも得意ではないけれど、でも、それでも私はこの人と出会って、時を重ねて……笑う事が多くなった。自分だけが分かる程度、かもしれないけれど、でも、確実に。他の誰もが知らなくても私だけは知っている。
「どうした?まだだいぶ早い時間だが……?」
「何でもないわ。ただ、起きてしまっただけ」
彼の厚い胸板に身を寄せ自身の頬を寄せて瞳を閉じれば、トクリ、トクリ、と命の雫が流れ落ちる音がした。森の樹々を流れる水の音の様に、水が命を運んでいる。森が息をするように、この人も息をしている。
「ねえ、グレイ」
「……なんだ」
「私ね、ずっとこうしたかったんだと思うの」
私の首筋を柔らかな銀が掠め擽った。豊かな銀の海に包まれながら、私は少しずつ言の葉を紡ぎ、生み出していく。
黒夜を彩る無数の銀の星屑達。痛いぐらい張り詰めた空気、足元からシンシンと這い上って来る冷気。吐き出した先から白い蒸気と化して行く息。かつて極寒のバルハラントの地で見上げた遠くに輝き瞬く銀と同じ銀色なのに、今私を包んでくれている銀は何よりも暖かい。自分の中で燃える命の炎に薪をくべられているよう。私は私の生を実感できる。
緩やかに体の力が弛緩し、溶けて行く。解けて、崩れて行く。でも、それはけして不愉快なものではなくて、例えるなら白く柔らかな陽光の下にいる時と同じ様に暖かい。……充ちていく。
「……ずっと?」
「ええ、きっと、ずっと、ずっと前から」
寒い夜にこうして頬と頬をくっつけ合って。あなたの腕の中で、あなたの髪に顔を埋めて。
この人の冷えた肩を私の手で暖めて……包んであげたいの。他の誰でもない、私が。
この人は私に世界を教えてくれた。この人のおかげで私は、世界は森一つではないという事を知る事が出来た。海の底にも森がある事も。沢山の人と出会って、同じ数だけ別れて……漂うだけに思えた現在(いま)が、繋がり紡がれて、そして続いていくものだと知る事が、出来た。
深い海の底でユラユラと揺れるウミユリの森があった時代から、遠い昔の不思議な植物たちが胞子の雨を降らせていた時代から、代わる代わるに……私が今、感じている思いも糸の様に紡がれて、そして私の思いもまた糸の繊維の一つとなって未来へと続いていく。
「グレイ……大好き」
思いを言の葉に溶かし込んで、笑みを浮かべて、私はまた旅立つの。あなたと一緒に、あなたの腕の中で微睡み、たゆたって。新しい朝を迎える為に。
Fin