「もう寝た?」
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「……もう寝ちゃった、よね」
伺うような、ほのかに甘さを伴う声色が室内の静寂へと溶けていく。
まだそこまで眠気は訪れていなかったから返事を返しても良かったのだが、わずかに芽生えた悪戯心。
というのも。今日、キュイは仕事終わりにどうしても断ることの出来ない社交の場へと赴くことになっていて──そこには、多くの女性がいるらしい。やましい事がないからこそこうして事前に伝えてくれたわけだし、そもそも彼は絶対に不誠実な事なんてしないと分かってはいるけれど。無下に出来ないお得意様からのお声掛けであるということから、挨拶程度に顔を出したらすぐに帰ると、そうちゃんと教えてくれる誠実な彼を疑ってなどいないけれど。
やはり。ほんの少しだけ、複雑だ。それを理由に意地悪な事をしてしまうのはどうなのかと悩んだが、このもやもやした気持ちを抱えたまま快く出迎えられる気がしなかった。
以前料理教室を開いた時に訪れた女性たちには、こんな事思わなかったのに。否、あの時とは関係性が違うからこそもやもやとしてしまうのかもしれない。
凄く迷ったけれど、彼が疲れているところに突っかかってしまうのは、やはり避けたい。申し訳ない気持ちでいっぱいではあるが、今日ばかりは狸寝入りさせて貰うことにした。
心の中で彼に「ごめんね」と告げながら、なるべく自然に見えるように呼吸を続ける。
「まあ……この時間だし、仕方ないか」
がさり、ごそごそ、と服を脱ぎ落とす音。着替えを終えたのか、少し静寂が続いたあと「あー」だの「うーん」だのと、小さく唸る声が聞こえる。
「……眠る前に、少しでもいいから、声が聞きたかったな」
まさかこんなにも可愛い独り言が聞けるとは思わなくて、勝手に上がり始める口角を引き縛る。
顔を合わせて、挨拶を交わして、一日を終えたいという気持ちは私も同じだ。──やはり今からでも起き上がり、謝って、おやすみを交わし、お風呂からあがるのを待って。それから、一緒に寝よう。
そう決めて、目を開けようとした時。
「せめて。……少しだけなら……」
独り言が終わりを迎えたと思いきや、段々と足音が近づいてくる。
足元の方のスプリングが小さく弾んだ後ぎしりと何度か音がたって、私の両肩に、おそらく彼の手たちが軽くぶつかる。次第に暗いまぶたの裏の色が更に濃くなって、鼻のあたりが時折あたたかい。
これは、もしや。至近距離で見つめられているのでは。
「っ……」
彼に息が伝わってしまうのが恥ずかしくて、思わず息を止めてしまう。ただでさえ高鳴っていた鼓動が、どきどきと加速していくのを嫌でも感じた。
おそらく時間にして、十秒経ったくらいだろうか。未だに彼の動く気配も、離れていく様子もない。そろそろ呼吸も限界で、軽く身じろぐ。ああ、限界だ。
ぱちりと瞳を開けてしまえば、やはり鼻と鼻の先に彼が居て。
「わあっ!?」
「っ……びっ、くりした……えっと、起こしちゃってごめんね」
「こ、こちらこそごめんね!その、実は起きてて……」
彼の顔が見られて嬉しい気持ちと申し訳ない気持ちとで思考がごちゃ混ぜになって、罪悪感でいっぱいになりながら、彼を見つめる。
キュイは挙動不審な私を見てくすりと小さくふき出した後、眉尻を下げて笑った。
「そうだったんだ……僕こそ、早く帰れなくてごめんね」
「ううん、それも仕事の内だもんね。お疲れさま」
「ありがとう。……ただいま、エマちゃん」
「おかえりなさい」
彼の顔が近付いてきて、しっかりと唇が重なる。
一旦口を離すけれど未だ至近距離のままでいる彼は、気まずそうに目線を横へ逸らす。そして再び此方に向けられた眼差しは、ほんの僅かだけ艶が乗っている。
「えっと、実はね。あんなに近づいてたし……エマちゃんが全然息をしていないから、寝たふりをしていた事には薄々気が付いてたんだ」
「えっ!」
「その……僕もどうしていいか分からなかったというか、君が可愛くて見とれてた、っていうか」
恥ずかしくて、何も言えないまま視線を逸らせる。
「そうだ。……どうして寝たふりなんてしたの?」
「あ……」
本当の事を伝えたら、どう思われるだろう。自分勝手な理由で彼を無視してしまったことを今更ながら後悔する。でも、やっぱり、優しい彼に対してこれ以上嘘を重ねたくなかった。
「実は、……嫉妬、しちゃって」
「嫉妬……?」
「今キュイが女の人たちに囲まれてるのかな、って思ったらもやもやが止まらなくて。……本当、話してて自分が嫌になるよ。幼稚な事をしてしまって、ごめんなさい」
──静寂に包まれる。
嫌われて、しまっただろうか。いや、そんなわけがない、と思いながらも不安が拭えず見上げると、此方を見下ろす彼の頬は紅潮し、何処かむず痒そうな表情で。
「……なんで、君は……こんなに可愛いんだろう。好きな子にこんな可愛いことをされて、言われて。そのままおやすみ、なんてできない。……ごめんね」
紡がれた言葉の内容に呆気に取られていたが、その間にも距離は縮まっていく。何か言わなければ、と開きかけた唇は彼の唇によって塞がれた。それからまた、少しだけ離れて。
「キュ、イ」
「……嫌、かな」
彼は、私が首を縦に振れば間違いなくやめてくれるだろう。キュイがしてくれることで私が嫌に感じることなんて、何もないのに。
余裕なんてない顔をしながらも、最後まで私に選択肢を委ねてくれる目の前の優しくて愛しい人に笑いかけてから、静かに口付けを返す。
目の前で小さなため息が吐かれたあと、再び深く唇が重なった。
ああ、夜はまだ長そうだ
23/07/19