ブレマイ
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今週は圧倒的に人手が足りておらず、カフェへの出勤が続いており、今日も今日とて数時間の残業がついていた。
それを城瀬さんに告げられたのは、今週最初の出勤日すぐのことで。特段大きな用事もないので、とすぐに受け入れればこちらが居た堪れなくなるくらいに頭を下げられた。この人はいつだって、誰よりも何倍も働いているのだ。そんな彼に頼まれては断る理由などなかった。
本日一緒のシフトだったのは城瀬さん、真央さん、明星くん、恋さん、新名さん。そして私の六人。
正午から代行業務が入っていた城瀬さんと新名さんの二人は他の人たちよりも早めに切り上げなければならず、恋さんも同様の理由で夕刻に上がった。段々と人が居なくなるたびに忙しさを増しながらもどうにか業務をこなして、ようやく迎えたのは終業の時刻を遥かに上回った時間。
真央さんはまだまだやらなければいけない事があるらしく更に残業をするようで、今日は私と明星くんの二人で上がることになっていた。
ぐっ、と伸びた彼の大きな手のひらが、カフェの天井を仰いだ。
「ん~……衣都さん、おつかれ。ほないこかあ」
「うん、明星くんもお疲れさま」
労いの言葉と共に微笑みかけられ、軽く会釈を返すと彼の後を追う。
ホールへひょっこりと顔を覗かせる明星くんに続いて近くへ歩み寄り、やや離れたところに座る真央さんに軽く頭を下げる。
「まおち、俺らはそろそろ上がるで。おつかれ~」
「お先に失礼します。真央さん、お疲れ様でした」
「ん、二人ともお疲れ」
真央さんは作業する手は止めないままに私たちの方へと顔だけを向け、僅かに双眸を細めた。
「あ、今日は明星と衣都の二人だけなのか。……ねえ、気をつけてよ」
「はあい、衣都さんのことは責任もってしっかりと送ってきます~」
「いや。そういうことじゃなくて……」
ちらり、何処か気遣わしげな眼差しが向けられる。その視線と言葉の意図を汲み取り、苦笑い気味に頷いた。
この人は、こういうさり気ない優しさを配るのが本当に上手だ。この思いよ伝われ、と出来る限りの感謝を込めて見つめ返せば、やれやれと言わんばかりに眉尻が下がる。やっぱり、この人には頭が上がらない。
*
春と呼ぶには暑すぎるのに、初夏とは呼べない程度の絶妙な気候。生暖かい風がやんわりと吹き抜ける。ただでさえ朝から働き詰めで汗ばんでいた身体は更に変に熱を持ち始めて、少し気持ちが悪い。
いつもであればこの時間に入浴することを考えると面倒に思ってしまったりもするのだが、今日に限っては違った。シャワーが恋しい──ああ、そういえば、この時間は。毎週見ているドラマがあった。
「最近、何かドラマ観てる?」
明星くんと二人きりになることはほとんどない。ドラマをよく観る彼の横顔を見上げながらこれ幸いと尋ねれば、ゆるく口角が上がった。
「観とるよお、めっちゃええやつ。ハートフルなラブコメで、SNSを中心に話題になっとって、昨日の夜にやっとったやつやねんけど。知ってる?」
「あ、明星くんも?実は私もそのドラマが凄く好きで……主演の女優さんの演技が迫力あって、話も毎回緩急がついてるから齧り付いて見ちゃう」
「ふうん、衣都さんもすきなんや?そうそう。女の子の演技もさながら、毎回気になる終わり方やから衣都さんが齧り付いて見たくなる気持ちもわかるわ~。最後もほんまに良かったなあ」
「っ、やっぱり、昨日が最終回だったよね」
急なぎこちのない受け答えに、目の前の彼は面食らって数度瞬いている。それに申し訳なさを覚えるも、やはり落ち込みの方が勝って静かに俯いた。だって今日は終日、手が空くたびに頭の隅にこれが浮かんで気がかりだったのだ。
忙しかったのも相まって仕事中はどうにか割り切れたが、耐えていたぶん一気に気持ちが沈んでいく。顔と声色には出ていないはずだが、言葉が詰まってしまったことによって察されてしまっているかもしれない。そう思うと申し訳なくて仕方がなかった。
「あ~、衣都さん昨日は遅くまで出勤やったんやっけ?あやうく結末言ってまうとこやったわ、ごめんなあ」
「いやいやとんでもない、……私が、悪いので」
貰った謝罪に罪悪感を覚える。明星くんは一ミリ足りとも悪くないし、実際、本当に私が悪いのだ。
──主に、昨日の私が。
「あれ、その感じ。もしかして」
「……うん、おそらくはお察しの通り。実は録りはぐっちゃって」
「あちゃ~、この前の俺やん……辛いなあ、よしよし」
そういえば直近に、明星くんにも似たようなことがあった。
番組の録画を忘れていた明星くんがとても落ち込んでいていて、ちょうど上がりだった私がこれから始まるそれを録画しようかと提案したのだが、恋さんが私の部屋へ上がり込むのはいかがなものかと止めてくれた。
しかし実際のところ、恋さんはその番組を録画をしていて。その時の彼はお灸を据える意味合いも込めてかそれを直接明星くんに伝えはしなかったけど、なんだかんだ上手いこと場をおさめてくれたのだった。
「あ、せやったら今からうちくる?」
「えっ?」
「昨晩リアタイしとってんけど、念の為録画もしててん」
気になっていた番組を見逃してしまった身としては大変ありがたいお誘いではあったが、互いに残業していたこともあり、時計の針はもうすぐ23時を回ろうとしている。
さすがに、この時間から同僚の部屋へお邪魔するのは気が引ける。そして──彼に下心があるわけではないだろうけれど、これに対してすんなりと頷いていいのかどうか悩んでしまう程私は子供ではなかった。
良識のある大人は、深夜に、異性の同僚の部屋へは行かない。いや、相手の性別に関わらず断るべきだ。
しかしこれらを全て伝えてしまっては彼からの善意をないがしろにしてしまっているような気がするし、なんだか自意識過剰なようにも思えたので、真意を半分だけ隠すことにした。
「……いや、流石にこんな時間からお邪魔するわけには」
「さっき、事務所出る時明日休み言うてたやん?俺も明日はオフやし、そっちさえ良ければぜ~んぜんええよ。むしろおいで」
へらりと笑いかけられながら告げられた言葉には、気遣いの類など滲んでいないように見えた。
むしろ、とまで言われてしまえばそれ以上の遠慮もしづらく、どうしたものかと考えあぐねる。
「えっと、揺くんは?」
「ん~、たぶん今日ゆらはおらんなあ。確かお泊まり」
「そっ、か」
それならば尚更お邪魔するのは憚られる。無論、揺くんがいたとしてもこの時間に訪れるのはけして褒められたことではないが。
「え~?べつに俺、衣都さんが不安になるようなことはせんと思うよ?」
至極誠実な言葉のように見えて、その実どうとでもとれるような、なんとも優しく、曖昧な中身だ。返答に悩んで、口を噤む。
「それに」
ふと顔が此方に向けられ、こちらを覗き込むようにして傾く。その近さに思わず息を飲む。
「たとえ俺がどんなことをしたって、衣都さんは靡かんやろ」
そう言って、垂れ気味の眦が更にやさしく下がり、あやしく歪む。
こちらに向かって伸びた右の指たちの背が、私の左頬をさらりと撫で下ろしていく。それらが離れるのと同時に、輪郭が熱を持ち始めた。
確かに、私はこういうことでいちいち感情を態度には映さない。でも、だからといって戸惑っていないわけではない。顔に出ないタイプで本当に良かった、と思いながら心の中で溜息をつく。
「衣都さん」
振り返ると、どろりととろけた深い橙色に捉えられた。
大きな蜂の巣のかたまりから、直接はちみつを舌に乗せられたような、噎せ返るほどの甘ったるさを覚える。もちろん、そんなわけはないのだけれど。
視線は反らせないまま、心臓はばくばくと脈を打つ。いつの間にか触れ合った指先が絡んで、関節を少し撫でられた後、緩く巻き付く。振りほどくまでもなく、少しでも動けばほどけてしまうくらいの軽い力だった。
淀みゆく思考の中で真央さんの顔が浮かぶ。想像の中の彼は未だ「ほら、言わんこっちゃない」と警鐘を鳴らし続けてくれている。
そう。言うまでもなく、誰に言われるまでもなく、絶対に頷いたらいけない。分かっている。分かっているはずなのに。
「……なあ。うち、くる?」
指も、足も、凍りついたように動かないのに。こくりと、喉が浅ましく上下した。
24/05/22
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