03
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手首に何かが触れている。なんだろう、温かい。
ふ、と持ち上げた瞼の先にぼんやりと人影が映る。日は暮れてしまったのだろうか、薄暗い部屋ではその形貌はよく見えない。けれど肌に触れる、その人の手が、優しくて心地よくて。わたしは再びゆっくりと目を閉じる。
「……おい、いつまで寝る気だ」
瞬間、届いたのは知らない若い声。まだ危なげで不安定な、けれどそれは確かに男の声。
カッと目を見開いたわたしは反射的に掴まれていた手を振り払い、体ごと男から距離を取る。――離れなければ。その思考が一瞬にして脳内を占拠した。だから自分が決して軽傷とは言えない身であるということなんてすっかり忘れてしまっていたのだ。
「……っ、」
「動くな馬鹿。悪化させたいのか」
この痛みは、デジャヴだ。悲鳴を上げる全身に悶えていれば呆れた声がかけられる。目が覚めたなら点滴取るぞ、なんて痛みに震えているわたしを尻目にさっさと部屋の明かりを点けた彼は、淡々とわたしの腕に伸びている管を取り始めた。初対面に馬鹿とはあんまりだ。涙目の女などまるで見えていないような彼を少し恨めしく思いながら、けれどわたしは無言でその行為を甘受する。知らない男のはずなのに、さっきから触れる手の感触がどうにも心地よい。
静かに腕の処理をしていくその姿を、わたしはしかめた顔のままちらりと窺う。手際の良さに似合わない、案外幼い顔がそこにあった。ふかふかとした斑模様の帽子が作る影で表情は見えづらいものの、端正な造形であることは伺える。歳は二、三ほど上だろうか。俯く双眸には少し隈ができていて、どこか妖しい雰囲気を感じさせる。わたしが眠る前に会った二人よりもまだ若いだろうと思うのに、誰よりも大人びているような錯覚がした。
「……」
スッ、とこちらに向いた瞳の鋭さにたじろぐ。まるで見定められているようで、その眼差しに耐えられずわたしは慌てて視線を逸らす。
きっと、恐らく、目の前のこの人が彼らの言っていた“もう一人の仲間”なのだろうけれど、わたしをただの善意だけで助けてくれた人のようには到底見えない。伝わる警戒心がそう思わせた。
外した視界で、彼が離れていくのがわかった。密かに息をつき目で後を追えば、あの開け放たれた扉の先はキッチンだろうか。そういえば眠りにつく前に白熊がスープを温めたと言っていた。まだ残っているのなら少し分けてほしいなあなんて、つい心中で強請ってしまうほど空腹を感じているらしいわたしは、けれどそんなことを彼に言い出せるはずもなく。おとなしくベッドの上で待機する。まだ頼みやすそうなあの二人と一匹はなぜ今この場に居ないのか。
「……、へ……?」
「食え。良くなりたきゃまずはちゃんとした栄養を摂れ。治るもんも治らねえ」
だから数分して戻ってきた彼から温められたスープの入った器を差し出されたときは、つい間抜けな声を発さずにはいられなかった。思いがけず叶った欲求に戸惑ってスープと彼に何度も視線を往復させて、早くしろという鋭い形相で睨まれてしまっては慌てて器を受け取りその液体に口をつけるほかなく。途端に口内に広がる優しい味。とても美味しくて完食した。
実は、彼は案外いい人なのだろうか。食事の前にこの体を起こす手伝いをしてくれたし、水まで用意して世話を焼いてくれた。そもそも治療を施してくれた事実もある。人は見かけによらないと言うが、勘違いしているだけでやはり彼は善意からわたしを助けてくれたのだろうか。
“そのうち帰ってくるだろうから、礼ならその時に言えよな”
餌付けされた犬よろしく食べ物を与えられ少しばかり心を開き始めていたとき、そこでふと頭を過ぎるのはキャスケット帽の彼の言葉。そうだ、わたしはこの人にまだ何も伝えられていなかったなと顔を上げる。
「あ、あの……た、助けてもらって、」
「……」
「……、この手当も、その……すみません……」
「……いや」
「…………」
早めに逸らしてしまった視線。その鋭い双眸にハッと気付いて、直視できなくなった。
空になった食器を片付けて彼はベッドの脇にある椅子に再び腰を下ろした。じっと見つめられるも、けれど俯くわたしにそれは交わらない。目が合えばありありとわかる。その榛色の瞳の奥に、彼はずっと警戒の色を宿し続けている。たとえ彼という人間を見直してみたところで、わたしに対する警戒が緩むわけではないとようやく理解する。
面倒を見てくれているのも何か見返りを求めてのことだろうかとふと考えるも、その何かの検討が全くつかず脳内で首を振る。わたしを観察していた彼は徐に口を開いた。
「お前を助けたのはいくつか聞きたいことがあったからだ」
「……え?」
「なぜあの森に居た?それもあんな格好で」
「…………わ、わかりません……」
「……、この島は無人島だと聞いていたが、いつからここに居る」
「えっ……島、ですか……ここが……?」
まさか、どうやらわたしを生かしておく理由が本当にあったようだ。だが、しかし。
彼は一体何の話をしているのだろう。確かに日本は島国だけれど無人島では決してないし、はたまたわたしは島育ちでもない。急に島というワードを出されても混乱してしまう。
汲み取れない質問に堪らず顔を上げれば、若干警戒心が削がれた代わりに、ひどく変なものを見るかのような瞳とぶつかる。盛大に眉をひそめたその顔ときっと今わたしは同じ顔をしていると思う。
「お前、自分の名前はわかるか?」
「……た、玉森、千歳です」
「……記憶を失ってるわけじゃねえんだな。どうやってここへ来たか覚えてねえのか」
「いえ……その、気がついたら、森の中に居て……」
「誰かに連れて来られたのか」
その言葉に思い返してみるも、学校を出て自宅近辺に着いてからは誰とも出会わなかったので違うだろうと、ふるふると首を横に振る。記憶喪失を疑われても仕方がないほど、彼からの質問にまともな返答ができない自分がだんだんと情けなくなってくる。わたし自身が知りたいことを聞かれても非常に困るのだ。
ーーはた、とそこでわたしは、大事なことを思い出した。
「す、すみません、」
「?」
「親に、すぐに連絡を取りたいんですが……電話を貸してもらえませんか……?」
まずい。何日経っても目が覚めなかったというような話をあの二人と一匹がしていたから、わたしがあの神社を訪れてから、かなりの時間が経ってしまったということになる。ここは町の病院というわけではなさそうだし、わたしも身元のわかるような物は持っていないからきっと自宅に連絡なんていっていないはずだ。一刻も早くコンタクトを取らないとまずい。
「でんわ……?」
けれど、彼からの返答はイエスでもノーでもなく。まるで聞き慣れない単語のように発されたそれに、わたしの混乱は増すばかりだった。