大団円では終われない
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#四年、春
四年の春。上級生ともなると、友人のうち何人かは姿を消し、真剣に忍術を学ぶもののみに淘汰されていく。
私はその中でまだ迷いを抱えたまま、騒々しい同期の群れで唖然と立ちすくんでいた。
くのたまは皆、壁に貼られた紙に釘付けになっていた。
混乱渦巻く中、飛び出す様にその場を抜ける。
「あっ、〇〇!」
友人の声も聞こえないふりをした。
医務室で一心不乱に作業していると、障子が開く。
「〇〇先輩」
「伊作、」
様子からするに、彼もどこかしらで掲示板を見たのだろう。伊作は眉を下げて口を開けた。
「い…一体、どういうことですか、忍たまとくのたまの合同委員会解散って…」
私は苦く頷く。
「恐らく、生徒が増えて来たからじゃないかな。わざわざ合同にする必要がなくなったのかも」
「そんな、保健委員会は上級生が少ないのに!」
私もほぞを噛んだ。各委員会の者が皆それぞれの委員会に誇りを持つ様に、私だって保健委員会の一人。目立った活動はなくとも、保健委員会はこの学園の最後の砦だと思っている。それも、傷ついたものを癒し、再起させるための砦だ。人数を減らし、蔑ろにして良いわけがない。一体、学園長はどういうお考えなのかわからないが、聞くところによると忍たまで委員会は続行されるらしい。それでは、くのたまはどこへ行くのか。
「合同委員会がなくなるのはそれだけが理由ではないぞ、くのたまは行儀見習いが多くて上級生の人数が読めないから合同を辞めるとの噂もある。まぁ今年中この制度は続行らしいから俺は関係ないがなぁ」
襖が開いて、六年ろ組の灰水之進保健・体育委員会委員長が入って来た。私はむっと眉を顰めて、いつから聞いていたのですか、と聞く。
「おうおう、壁に耳あり障子に目あり!忍者のたまごというものが情けないぞ?」
「失礼します!ほら、滝」
先輩の後ろを首を傾けて見ると、三年ろ組七松小平太と、一年生の忍たまがいた。
「た、平滝夜叉丸と申します!」
「新入生だ!それで、〇〇。ここで一つ相談なんだが、」
私は灰先輩をキョトンと見上げる。聞いたか?と言われ、ただ首を振ると、先輩は人差し指を天に突き上げて口を開いた。
「我らが保健・体育委員会は来年度から、保健委員会と体育委員会に分かれるそうだ。」
私は口をあんぐりとさせた。先輩は続けて念仏を唱える様に言葉を重ねる。
「新しくできる委員会は他に火薬。先生方でようやく火薬委員会を担当してくださる先生が見つかったのだと。生物、会計、図書、用具、体育、保健、火薬で七つだな。」
まぁまだ変わるかもしれないらしいが…と先輩はうめいた。
「それで、これからが俺の相談だ。〇〇、保健委員会委員長代理をやってみないか?」
一拍、息が止まった。
私はみるみる顔面蒼白になる。対照的に、伊作が顔を紅潮させて医務室中に響き渡る声で叫んでいた。
覚悟をしていないわけではなかった、が、こうも動揺してしまうと、私の決意など砂の城の様なものだったと思い知らされた。
元保健委員会委員長の蝶子先輩も、立派に委員長の職務を勤め上げられたのだ。女にできぬ道理はない。正直、憧れもあった。しかし、今の私は灰先輩に色良い返事をすることはどうしてもできないと思っていた。
はぁ、と桶に水と清潔な布を浸して廊下を歩く。
三病よりも何よりも、胸中を占めるものがある。一つは、私の進退がはっきりしないこと、もう一つは…。
つ、止まって、自室の前でたじろぐ。それでも、意を決して部屋に入った。
陽を私の背中に、薄暗い部屋の中にいる同室を見下ろす。もう何日も床に伏せっていた。
「新しい布を持って来たよ。起き上がれる?」
恐る恐る聞くと、向こうに向いた体のまま、首を横に振られた。
私は、そう、と桶を衝立の向こうに置く。
「ご飯もらってくるからね。ここに桶置いておくね」
そう言って、入ったばかりの部屋を出た。
自分の部屋の癖に、逃げる様に出て、ひどく情けない。
ただ、私は、同室の彼女を置いて、未来に進むことができないでいた。
「おばちゃん、雑炊ください」
「あら、また?」
おばちゃんは頬に手を当て、心配そうに首を傾げる。
「こんなご飯ばっかりじゃあいくら女の子でも栄養摂りきれないわよ、まだ来れそうにないの?」
「ごめんなさい、でも今はゆっくりするのがいちばんの薬だから…」
「保健委員さんが言うなら、仕方ないわね。」
おばちゃんは私の頭を撫でて、少し固めの雑炊と、具沢山の汁物を出してくれた。
えらいわねと言われて、何もいえず目を下す。私は、そんな善い人間ではないのだ。
部屋に戻ると彼女はもう起き上がっていた。
「おばちゃんが雑炊と汁物作ってくれたよ。食べれる?」
「…いらない」
「…そう、ここに置いとくよ、」
同室は、むっと顔を歪ませた。綺麗な顔に湿布、頭には包帯が巻かれている。
「なんか言わないの」
「何を言って欲しいの」
「意気地なし」
「はいはい、体拭けたなら桶を貸して」
彼女が桶を渡してくる、が、手が滑って私の着物にかかった。さっと彼女が青ざめる。
「わ、私のせいじゃない、あんたの不運のせいだから」
そう言って、また、彼女が自分で傷ついた様な顔をした。
「慣れてるからいいの、布団にかからなくてよかった」
咄嗟に返すと、彼女はずっと鼻を啜った。
ひどく涙もろくなった様だった。
「…」
彼女が口を開く、その前に、これ干してくる、と大声で遮った。そのまま部屋を出る。すると、たまたますれ違った同期がぎょっとした。
「〇〇、その服どうしたの?」
「へ、へへ…桶の水ぶちまけちゃって」
「やだ、早く着替え…」
ン、と同期が口をつぐむ。
ちらり、と部屋を見て、私の肩に手を回した。ぐんぐん歩いて部屋から距離をとる。
「いやぁ、まさに濡れ鼠!さすがくのたま、忍者を目指してるだけある!鼠になるにはまず形からってね!」
「ち、ちょっと」
わかってるわよ、気ぃ遣ってんでしょ。ヒュッと矢羽音が飛んだ。私はごくりと喉を鳴らす。
ばさりと手拭いが頭にかけられた。
『…無理しなさんなよ、同室だからって人生まで責任負わなくていいんだから。』
そう言われて、わかってる、と私は桶を抱きしめた。
彼女の部屋で替えの上着を渡されて、中はそのままにいそいそと着替える。すると、彼女は思いついたように笑った。
「そうだ、ちょっと話そうよ。昨年の冬からあの子の看病で全然気が抜けなかったでしょ。」
でも、とか、ええと、とか言ううちに、引っ張られてついていくと、いつの間にか教室についていた。
そこでは、くのたまの同期達が団子を食べながら将棋を指したりあやとりをしていた。
「あ、やっほ、〇〇。とうとうお姫様に部屋から追い出されたの」
わははとみんなして笑い、さ、座りな、と示された。
「机のうでに肘ものっけらんないじゃない」
「しょうがないでしょ、将棋盤持って来たやつがいるんだから。」
そうぶつくさ言い合いつつ、私は心が穏やかになっていくのを感じていた。この、くのたま同士の気がおけない雰囲気に救われていた。
「ね、どれくらいであの子、治りそうなの?」
「傷自体は後は日にち薬」
「じゃあ、"今の自分を受け入れられるかどうか"、だね」
私は目を伏せた。
ねえ、と同期が肩を組んで頬を寄せる。
「"前途有望"なくのたまはみんな帰っちゃったわ。ある子は意気揚々と、ある子は引き摺られるようにして門を潜って。四年にもなってここに残ってるのは、家のはじきものくらいなんだから。くノ一になる、その覚悟が、早ければ早いほど置いていかれる確率が低くなる。あの子だけじゃない、あんたも、そろそろ決めなさいよ。」
家のこと、保健委員会のこと、同室のこと。
私は目がまわる様に感じた。心拍数が速くなる。
「……あんたの同室の縁談が壊れたのは、あんたのせいじゃないんだから」
私は、えずくように涙をこぼした。
三年の冬休みのことだ。同室はふらふらと熱っぽい顔で部屋を出ていった。
私はあえて目を逸らして、気付かぬふりをする。くのたまはそれぞれ初潮が来始めており、中には体の変化についていけず、熱っぽくなる子もいた。特に彼女は顕著で、酷い痛みにお腹を抑えることも多かった。
私が布を持ってくると、いらない!と大声で叫ぶ彼女は、私には弱いところを見せたくない気持ちがあったのだろう。郷里には妹もいるらしい彼女は、時々こうやって私のことを同級生ではなく、庇護下の人間として扱い、拒絶することがあった。
もう三年も一緒だ。なかなか気難しいのは十分理解していた。そうして、部屋から出る彼女は一人になれる場所をいつものように探しにいったのだと、悟っていた。
事態はその晩に急変した。いつまでも帰ってこない同室に痺れを切らし、探しにいくと、学園のどこにもいない。出門票にも名前がない。
あたりは真っ白で、雪に囲まれている中、人気も少ない。名前を呼びながら探すが、誰もいない。
ぞ、と青ざめて、暮れゆく日差しの中、必死に彼女のいそうな場所に当たりをつけた。
必死に探して、赤く霜焼けした手が夜の闇に見えなくなるほど暗くなった時、いつも私たちが登って遊んでいた木の根元で、雪がへこんでいる場所を見つけた。
私が見つけてしまったからいけなかったのだろうか。
誰か他の人に連れていって貰えば、彼女の尊厳は守られていたのだろうか。
だが、私は、白かったはずの雪を赤く濡らして目を瞑る彼女に、そんな優しい対応はできなかった。
彼女を抱えて、医務室に飛び込んで、治療をする。伊作も、灰先輩も、冬休みで帰省しており、頼れる人は誰もおらず、六年の先輩方は卒業試験で学園に不在だった。
ある程度処置をしてから新野先生にお声がけし、それから私は山本先生に引き摺られるように食堂へ行った。無理矢理ご飯を食べさせられて、彼女が目を覚まさなかったらどうしよう、私のせいだ、そう言ってえずいて、吐いて、泣いた。
彼女と面会が叶ったのは、しばらくしてからだった。目を覚ましたのはすぐだったが、彼女が私の看病を拒否していたのだ。鶯が喉を鳴らし始めた頃に、彼女のために特別に設けられた部屋に入ると、彼女は半身起き上がってぼうっとしていた。
「…おはよう」
私が声をかけると、彼女は、口を開けた。
「縁談、破談になった。帰ってくるなってさ。」
声を失くす。ワナワナ震えていると、彼女は私を仰ぎ見た。顔に細かな傷が残って、体は包帯だらけ。それでも、彼女は綺麗だと、私は思っていた。
「私、いらないって」
彼女が男だったら。こんな惨めな思い、せずに済んだかもしれない。だって、治ればまだ動ける、見目に傷跡が残ったからってなんだ、彼女の実力とはなんの関係もない。
ただ、彼女は女だった。
それは等しく、私にも言えた。
もう四年目だ。自分の力量の限界など、すでにわかり始めている。それなのに、私はどうしても、父や母の思う通りには生きられない。親不孝な私に、両親がどんな目を向けるかなんて火を見るより明らかだ。
彼女が家族から言われた言葉は、そのまま私にも、深く刺さったのだった。
「落木したからってそんなになるもんかね」
私は、だから、はやく気づけていたら、違っていた、と無感情に答えた。
生理による腹痛で自制を失った彼女は木から落ちた。それから、あの寒い中長時間放置されて、凍傷も酷く、血も至る所からずいぶん流れてしまった。このまま諦めなければ、きっとある程度は元に戻る。しかし、私達を突き放してきゃらきゃら笑って走る彼女の後ろ姿は、もう見られないだろう。
「…すまんかった」
同期が私の頭をかき混ぜるように撫でる。
ありがとう、と私は呟いた。
保健委員会をよろしくなんて言われて、卒業した先輩方に見せられる顔がない。ましてや、委員長代理なんて。
でも、それでも。私は、ここにしがみついていたいのだ。
ぼんやり机の木目を見ていると、パンパンと手が鳴る。
「さぁさ、あと一人を残してるけど大体揃ったし、話始めるよ」
学級委員長が立ち上がり、みんながにやにや前を向く。私は突然のことに思わず辺りに目を配った。
「四年にもなったからには皆わかってると思うけど、これからは大きなイベントの目白押しよ!」
私を連れてきた同期が頭の後ろで手を組んだ。
「花あつめと卒業試験と…」
「組対抗演舞会!」
ちょっと、台詞とらないでよ!と皆して笑い、委員長はごめん、と頭をかいた。私はこそっと声をひそめる。
「組対抗演舞会って?」
「そこの浦島花子ちゃんにもわかるように説明してやろう」
びしっと委員長にさされ肩をすくめる。ぎょっとして周囲を見回すと、皆やれやれと私を見下ろし息を吐いていた。
「くのたま四年は毎年演劇をやるんだ。あんたは毎回不運のせいで見損なってたけど、チケットも完売で大人気なんだから。」
「ちなみに発表後、その役者同士の関係性についてのうすい考察本が上級生の中で内々に出回る。」
「テーマは色々。毎年指定されるけど、脚本改変は自由。一番先生方の評価が高い組が優勝よ。ここで優勝した組の役者にお城からスカウトが来たこともあるんだから。」
「見られるのは役になりきる変装の術、作法、舞台表現、脚本。ここで〇〇、あんたに脚本を任せたい!」
「ええ?!」
急に私に話が着地して心臓が縮こまった。皆の中ではすでに決まっていることらしく、うんうん頷いていた。
「あんた、昔、見栄切りっていうの?口上述べが上手かったじゃない。あれくらいの自由度があるアドリブありの脚本改変して欲しいのよ。」
「え、や、無理無理無理」
皆じとりと私を見てから、やっちゃってください、と学級委員長に首を振った。彼女はオホン、と喉を鳴らす。
「これは只の劇にあらず!試験なり!役者は我々と、巧みに変装した山本シナ先生である!」
「や、山本シナ先生?!」
そうそう、と皆が首を縦に振った。
「どの場面かはわからないけど、必ず先生が役者として変装して入ってくるの。それに対してうまく受け答えしながら劇を進行させて、完結に導く。山本シナ先生への対応も含めて一番綺麗に舞台をまとめ上げた組が優勝よ。先生、そりゃあもうめちゃくちゃに掻き乱すんだから。全く新しい登場人物で来る時もあれば既存の役ですり替わって出てきたり。自由奔放極まりない!ここで一番読めないあんたの不運に賭けたいのよ。それとあんたのとこの姫がいればもう怖いものないわ」
私はぎくりと口を歪める。
同期皆してにじり寄ってきて、私と肩を組んだり、頬をつついたり、頭を撫でた。
「同情するけどね、あの性根に期待もしてるのよ。あれはうちの組のお姫様なんだから。早く戻って来てもらわないと困るわ」
「あら皆して」
入口を振り返ると、噂をすれば老齢の姿の山本先生だ。
「山本シナ先生!いかがされましたか」
「今年の演目のテーマが決まりました。」
皆ごくりと喉を鳴らす。先生は飛び上がって若い頃の姿に変わり、黒板にカッカと文字を書いていった。
振り返ってにっこり笑う。
「三注・四書・六経・列・荘・老・史記・文選より一つ、その中の故事来歴を捉え劇にすること。…こらこら、」
私含め皆ぽかんと口を開ける。習ったっけ、こんなの。
私たちの様子に山本先生が頭を抱える中、ただ一人学級委員長だけが目を輝かせていた。
「明から昔この国に伝わった文書ね」
同室は静かに言った。私はゴクリと生唾を飲む。
「先生方の考えそうなことだわ。仁・義・礼・知・心。教育的な内容が多いのよ。先生を敬いなさい、女性は男性を敬いなさい…で、私をどうやって神輿に担ぐつもり?」
同室は弱々しく皮肉に笑った。私は何と言えばいいかわからず、眉を下げる。
「わかりきってるわよ、言いたいことなんか。私は嫌よ、あなたたちのお遊戯に付き合うのなんか御免だわ」
「でも、みんなも待ってるよ、あんたが戻ってくるの…」
「……」
彼女は、長いまつ毛をしばたたかせた。
「私の居場所は、いつだってここじゃない。例え家から弾きものにされても、くノ一になんて下ってやらない。」
私は口を曲げる。ずっと抑えていた気持ちの蓋がかぱりと動いた気がして、必死に抑え込んだ。鼻で息を吸う。目を伏せ、努めてからかい調子で口を開いた。
「そんな言い方しないでよ。あなただって、三年間ずっとここで暮らしてきたのに」
「あんたとも三年だけの付き合いだと思ってたから愚図なのも諦めて世話してあげてたのよ。私以外にあんたの不運の面倒見切れないわ。」
「そ、れは…」
「怪我した私の世話していい気になった?冗談。私だって我慢して甘んじてるんだから。…そうだ、あんた以外が脚本するなら、やってあげてもいい」
「……は?」
私は目を瞬かせて彼女を見た。彼女はまだわからないの?と首を傾げた。綺麗な笑みだった。
「あんたに踊らされるのは御免なのよ」
私はあああ、と内心ため息をつく。どこまで自尊心が高いのか、この女は。胃がむかむかするが、それでいいなら説得してみようか、口を開いた。
「ちょっといいかしら。」
背後の戸の向こうから音がする。私は背筋を無意識に伸ばした。山本シナ先生だ。
「はい!」
すっと戸が開いて若い姿の先生がにこりと音を立てるように笑う。
「〇〇、席を外してもらえる?」
同室の顔がこわばる。私はさっと汚れ物を抱え、立ち上がった。
部屋をそそくさと出て洗い物をする。しばらくした後、先生が私のそばに立ってもう終わったわよ、と声をかけ、すぐ消えていった。
部屋に戻ると、同室がわなわな震えていた。
「きめた、決めた!〇〇!」
びしりと指をさされ、私はたじろぐ。親の仇のように彼女は牙を剥いた。
「私が脚本をやる!やるからには他の組には絶対負けないわ、これは私の運命との勝負なのよ!」
辟易した私が組のみんなに伝えると、どっちでもいい、と各々声を返した。
「あの子ならうまくやるし、あんたの同室なんだから、アドリブありでもいいもの作るでしょう」
私はうんざりしてため息をついた。それでも、やる気になったからか以前よりは同室は勢いが出てきている。
本番は秋だ。私は右手を握りしめて、開く。何度か、それを繰り返す。
委員会のこと、同室のこと、将来のこと。悩みは尽きないが、それまでには私も、少しはくノ一らしくなっていればいい。
♯四年、夏
じいじいと蝉が鳴いている。
私は少しずつ覚書を書き始めていた。綺麗な紙がなくとも、なんとか書けそうなものを見繕い、硯を磨る。
今日は病人がいないから、薬草も側にある医務室で書きだめすることにした。汗が落ちないよう何度も額を手拭いで拭って筆を滑らせていく。
初心者の教育、薬草のこと、備品のこと、処置の方法、予算会議での処世術……
どこまでやれるかわからない。それでも、もしくのたまが医に関われなくなったら。伊作が、できるだけ辛い思いをしなくて済むように。
「というかこの硯うっすい墨しか出ない…」
必死に擦っていると、スパンと戸が開く。ぎょっと顔を上げると、六年の灰水之進先輩だ。
「今日は当番ではないですよ?」
「そんなことは知っている」
うるさそうにひらひら手をやって、先輩は部屋の中を見渡し、ふむ、と口を窄める。
「……〇〇、いまいいか?」
非常に怪訝な顔をしたと思う。ただ、先輩は真剣な顔をして私を見つめた。背中がヒヤリとし、体温が下がっていく。
「なんでしょう?」
冷静を努めて返すと、先輩は戸を閉めて、明後日の方を眺めて、伊作は、と声を発した。
「……いると思ったが」
「伊作はもう当番終わってます、出て行ったはずですが」
「忍びは全ての可能性を考えるものだ。特にお前は伊作を猫可愛がりしているからな、自分の当番の時も引き留めていても不思議じゃない」
「そんなことしません!」
うんざりして返すと、冗談だ、と笑われた。そして、先輩はどっかとあぐらで座り込んで私の前に陣取る。
「滝には勿論、伊作や小平太にも言うつもりはない。ただ、お前は知っておくべきだと思った。…いいか、卒業された蝶子先輩、奏呵先輩のことだ。」
心拍数が上がる。嫌な動悸だ。
"忍者は情報を取捨選択しなければならない。知りたくもない真実を知って、その真価を見極めなければならない。"
奏呵先輩の声が無惨に脳裏に蘇った。
「卒業後、先輩方が郷里に帰られる道のりで…何者かに襲われたらしい。郷里に帰られたのは一人だけだ。」
きぃん、と耳の奥で耳鳴りがした。恐れていたことが、起きてしまったと思った。
先輩は私の眼前で、すまん、とだけ言う。
いいえ、ありがとうございます、ありがとうございます、それしか私には返せない。私がどんな顔をしているのか、私もわからないからだ。
「…きっと、蝶子先輩です。奏呵先輩が死ぬのなら、蝶子先輩も死んでいます。一人でも帰ることができたなら、死んだのは蝶子先輩です。」
「…俺も、そう思う」
あの人たちは、少し異常だったからな、と先輩が呟く。初めて先輩と意見があった瞬間だった。
先輩は自身の顎を撫でて、目を泳がせる。
「…知っているか、保健体育委員会の、呪い」
え?と首を傾げると、先輩は気まずそうに言った。
「俺は、この委員会が分かれるのにすこしほっとしているんだ。お前、陽太郎元保健委員長のことは覚えているか?」
それは!私が二年の時お世話になった委員長だ。伊作もとても懐いていた。
「それと、お前が酷く懐いていた元委員長」
「私が一年生の時の委員長ですか?」
「ああ。陽太郎委員長はその委員長のことをとても慕っていたが、ある事件を起こした。」
"……どうしても、会いたい人がいるんだ。"
陽太郎委員長の寂しそうな顔が思い出された。
「昔、焔硝蔵が爆発した事件があったろう、その不運の元凶が陽太郎先輩、それを庇ったのが、」
「…まさか、委員長が、」
「…お前の中じゃやっぱりあの先輩が"委員長"なんだな。だが、死んじゃいないよ、ただ、大火傷を負ってしまって素晴らしい幸運もパア、卒業まであと数日だってのに決まってた就職先からも酷い扱いだったらしい」
死んではいない、その言葉になんとか心を撫で下ろす。しかしそれならば今先輩はどちらにいらっしゃるのか。
「呪いってのは、保健委員会にいるものはこうやって卒業時に何かしらの事故に巻き込まれるって話だ。陽太郎先輩は卒業時は特段なかったが、あれはずっと煙硝蔵の事件に呪われて生きてるようなもんだったからな。…それにあいにくこの委員会は他と比べてずっと同じ面子がいることが多い。幸運な委員長でも、体育・保健で別れて活動しててもダメだった。だからいっそ切り離せばそんなことは…」
「…そんなの、三病ですよ」
「んなこたぁわかってる!だがなぁ、気をつけろよ。…保健委員会の不運は、筋金入りだぞ。」
「じゃあ、なんで先輩は、委員長代理を私に任せるなんておっしゃったんですか」
途端先輩は体を引いた。痛いところをつかれたようだった。私は前のめりに先輩の目を見る。
「先輩。前から思っていました、どうして先輩は、保健委員会の活動を積極的にされないのですか?」
「お、お前だって体育委員会の活動してないだろ?」
「私が一年の時『女は裏裏山マラソンについて来れないから嫌だ』って仰ったのは先輩ですよ。」
「ああ言えばこう言う…」
先輩ははぁ、と自身の額をぐりぐり人差し指で押した。
「……俺は、」
そう言ってからゆっくり十秒は経っただろうか。先輩はぽかんと続く言葉を待つ私の頭をむりやりかき混ぜた。
「う、わわ、」
「…やめだ!こんな話!細かいことは気にするな!」
先輩はいつものように小憎たらしい笑顔で笑って、前言った代理の話、考えといてくれ。じゃあ先帰るぞ、と走り去ってしまう。私はじっと背中を睨みつけた。心はざわざわとさざめいて、着火寸前の宝禄火矢を押し付けられたような嫌なしこりが燻っていた。
私が覚書を書き進めるのと当時に、互いに触発し合うように同室も脚本を進めていた。そしてとうとう、夜遅くに同室が筆を置いた。
「おわった」
え、見せてと身を乗り出すと、まだ明日までに時間があるから最後の確認だけしてみんなに話す、とそっけなく返された。
それもそうか、と私は頷いて、引き続き文を書く。同室は足をさすってよろよろ立ち上がり、布団に横になった。
「確認するんじゃないの」
「寝ながらでも読めるから。ね、灯明皿もうちょっとこっちに寄せて」
はいはい、と動かして、私の机の位置もずらす。
案の定寝息が聞こえ始めたので、彼女に布団を被せて紙を抜き取った。墨が写らないよう細心の注意を払って今まで彼女が書いていたものに重ねる。
それからしばらく続けていたが、私もなんだか眠たくなって、しまいにはふっと火を消して若干薄明るくなり始めた空を横目に布団へ潜った。
今年の春から始めた覚書は、まだまだ終わりそうになかった。
教室を開けて私が入ると、間髪入れずに同室が続いた。
「あ!姫!やあっと出てきた」
「みんな久しぶり。できたわよ、脚本」
皆が沸き立つ。久しぶりの教室だというのに同室は臆せず、黒板の前に立った。
「史記の項羽本紀より、垓下の戦いを劇にする」
皆が疑問符を浮かべる。知らない者も多いのだろう、私だって項羽は知ってるけど、昔の人という感想しかない。しかも軍記物。くノ一のたまごの少女たちが軒並みげんなりした顔を浮かべた。
「よくわかんないけど、戦ものは人手が足りないよ、難しくない?」
「待って、姫の話を最後まで聞こう」
委員長がきらりと目を輝かせて級友を制した。よく見ると、彼女だけ不敵な笑みを浮かべている。
「勿論、私たちが劇をするのに、しかも山本先生も参加されての劇なら尚更、ただテーマに沿うつもりはないわ。私たちがやるのはその一部分よ。」
彼女は黒板に向かい、カッカと書いていく。
「……『別れ』?」
「ええ!」
昔を思い出すような笑みで、でもどこか焦っているような剣幕で、同室は皆を見渡した。
「覇王項羽と、その妻虞美人の別れ、最期。その一場面を劇にする!」
「やぁっぱりね!」
委員長は膝を叩いてそう来なくっちゃ、と笑った。
どういうこと?何がそう来なくっちゃなの?ワタワタ周りが狼狽えていると、同室は委員長に一瞥をくれる。心得たとばかりに委員長が皆を見渡した。
「垓下の戦いで項羽は敵の劉邦と戦い、劣勢に陥る。長く本拠地から離れて戦っていた項羽の軍は疲弊しており、それは項羽ももとよりだった。その側で常に項羽を支えていたのが妻の虞美人よ。ずっと項羽の戦いについて回って、そしてとうとう敵にすぐそこまで追い詰められた時も、隣にいた。滅亡を悟った覇王項羽は涙をこぼす。虞よ、虞よ、お前をどうしようか、と。虞美人もその言葉に合わせて、歌をうたう。こんな感じかな」
「…その後、項羽は、協力者に船を用意されて逃げる道を示されたにもかかわらず、自尊心から後に引けずに自ら首を刎ねたとされている。だけど、その場面ではもう虞は出てこない。だから、私は虞は項羽の前で既に自刃していたか、殺されていたのだと思っている。」
皆の顔が引き締まる。しかし、やっと本質が見えてきた。同室は、ただの軍記物ではない、そこらの教訓でもない、姫を主役にした劇をやりたいのだ。
同室が持ってきた紙を右手の甲でパンと叩く。
「私はこの脚本で、虞が自刃したことにした。虞は私が、家臣の役は、委員長、あんたがやって。項羽はこいつにさせるわ」
急に指をさされて仰天してしまう。私?!
「えぇ!ずるいわ、じゃあ私たちはなにすればいいの!」
言わんこっちゃない、級友たちがわいわい騒いだ。と言っても、私を入れて十一人だから大した人数ではないが。
「勿論、兵士の役もあるわよ」
ぶーぶーと皆が不貞腐れていると、もう一度同室はニヤリと笑った。
「冗談よ。なにも私が虞をやりたいわけじゃない。劇のいいところはお化粧し放題なところよ。山本先生の介入に惑わされないように虞美人と項羽の組み合わせを変えつつやるわ。常にアドリブ対応をしておくってことね。そして、同一人物にみせる変化の術、それも含めて評価していただく。」
皆、ぽかんと口を開けた。委員長でさえも少し驚いたように目を見開いている。なるほど、と言う声がした。
同室がぎらりと目を輝かせた。
「殺されるのなんか御免だわ、生きるも死ぬも、選ぶのは私よ」
こうして、劇の準備が始まった。しかし、常の活動は相変わらずである。
同室が復帰したとはいえ、まだ彼女は人並みの生活で精一杯だ。精神的なものもあるのだと新野先生はおっしゃっていた。
級友たちと野外で体力づけに走らされ、気づくともう夕方だ。私は最後尾で学園についた。
「〇〇!遅いわよ」
「は、はい…」
ヘロヘロになりつつ門を潜ると、若い姿の山本先生が腰に手を当てて立っていた。
「さぁ、これで終わり。皆解散!」
いつの間にか級友たちは体技の練習をしており、山本先生の言葉にすぐさま整列したかと思うとありがとうございました!と声をあげて散り散りに散った。
私はよろよろと声をそろえるしかできなかった。
夕食の後は保健委員会の備品確認だけでもしておきたい、灰先輩は保健委員の活動をちっともしてくださらないから伊作に負担をかけてしまっている。
ご飯を食べて、医務室に向かうと、話し声がした。病人だろうか、静かに近寄るが、だんだんはっきりしてきた声色に私は顔を青ざめさせた。
「失礼します!」
「〇〇先輩!」
伊作がぱっと顔を上げる。そこには、伊作と新野先生がいらっしゃった。
「に、新野先生、どうしてこちらに…」
「伊作くんが大変そうだったので、一緒に見ていたのです」
新野先生がゆっくりとした声で返すが、私は心臓を釘で打ち付けられたような気持ちになった。
「も、申し訳ありません……」
「何を謝る必要がありますか、昔と違って今は人手が不足している。この学園は自主自立を宣言していますが、私とてそれに甘んじるつもりはありませんよ」
疲れも頭から吹っ飛んで、冷や汗がダラダラこぼれ落ちる。ああ、失敗だ、失敗だ、
『先生に頼ってはいけないよ。先生に頼って、助からなかったとしたら、それは自分の力が足りなかったんだ。』
奏呵先輩の声が蘇る。ああ、私がもっと要領が良かったら、授業にもついていけて、余裕を持っていたら、もっと強く灰先輩に言えたら、伊作や新野先生を困らせたりしなくて済んだのに、悔しい、辛い、どこで間違えた?どうしたら良かった?
伊作が私の名前を呼ぶ。はっとして伊作を見下ろした。不安そうな顔をしていた。私は笑顔で伊作、遅くなってごめんね、本当にお疲れ様、と返した。
「〇〇先輩もお疲れ様です」
「わ、私なんか」
「いえ、僕にもわかります、〇〇先輩は頑張っています」
伊作が私の手を握る。私をまっすぐ、心配そうに見つめていた。
「僕、頼りないかもしれませんが、これでももう三年生です、だから、無理しないでください。」
私は作った笑顔をどうしたらいいか分からず、ありがとうね、と再度頷いた。これから私が引き継ぐから、ご飯とお風呂行ってきな、そう告げると、伊作は一瞬眉を下げて、それからなんでもないように微笑んだ。いつもの可愛らしい笑顔。そこでようやく私は解けるような安堵を覚える。
伊作が出ていった後、新野先生に向き直り、深く頭を下げた。
「度々ごめんなさい、新野先生」
「どうしましたか?」
「お願いします、教えていただきたいことがあるのです」
簡潔に覚書を書いていることを伝え、そしてその内容についてわからない点を聞く。新野先生はそれなら、と頷いて部屋を出て、すぐに戻ってきた。
「これを渡しましょう。私が昔書いていた覚書です。」
「え!!」
「しかし、今はこれを見ずにやっているので…基本的なことはこれに書いてある通りですが、使う薬草や処置方法など、昔から変わっているものも多い。これを丸ごと参考とは言い難いが、あなたが聞いた疑問くらいはこれで解消できます」
「あ、ありがとうございます!」
じんとしみる思いでその本を抱くと、新野先生は私を見ずに手元の薬草に目を戻した。
私は一瞬湧き立った心が冷めていくのを感じた。
新野先生が苦手だ。教えて欲しいことが山ほどあるのに、何故か先生は私を寄せ付けない。生徒にはそう言うものかとも思ったが、伊作にはとても優しい。私が、かわいくない生徒だからだろうか。
「……えと、備品確認します、ね」
「ああ、もう終わっています」
「え!じゃあ軟膏詰めを…」
「伊作くんがやってくれましたよ。」
「……それでは、私のやることは、」
「〇〇さん、休みなさい。私がいるのだから任せて。」
ぎくりとして、私は目をうろつかせる。それでも、ぐるぐる回る思考回路はいい答えを出せずに、わかりました、とすごすご引き下がるしか脳がなかった。
部屋から出て、くのたまの部屋を通り過ぎて、校庭に出て、適当に歩く。早く、早く。ふっとした浮遊感。目の前がぶれる。
あっという間に私の体は穴に落ちて、空に月しか見えなくなった。
こんな時に私の不運が役立つとは。
私は、誰にも見られないのをいいことにわんわん泣いた。部屋にも、授業でも、医務室にも私の心が休まる居場所がない。将来、くノ一としてやっていけないかもしれない。でも、実家にも戻りたくない。
クタクタのまま泣いて、泣いて、気づいたら穴の中で寝ていた。夏でよかった、冬なら……。
まだ朝ぼらけの中、体を引き上げて部屋に戻りそっといただいた本を置いた。手拭いを持って、もう風呂は冷めているが残りの水でもと体を洗った。
体がキシキシ痛んだ。悔しくて、部屋に帰ってから本を読み耽った。実家という逃げ穴を自分で塞いだのだ、私の居場所は、私が見つけるしかなかった。
劇の衣装を準備する人員と、主演の人員に分かれて作業を進めていく。秋には発表が迫っていて、それ以外にも来年の委員会解散準備や授業などでやることが盛りだくさんである。時間はいくらあっても足りなかった。
私は項羽の役だ。複数人で同じ役を演じるこの劇では、場面ごとに役を成り変わっていく。私は同室と、とうとう追い詰められて項羽が止める間もなく虞美人が自刃してしまう最終局面をやる。
「やっぱり、人が入れ替わってもわからないようにするには体型を太めに合わせるしかないわ、筋肉量がそれぞれ違うもの。」
衣装担当の子が唸った。私は慣れない演技に息切れしていた。どうしたらいいのかそのまま頭に浮かぶ疑問を問う。
「そうね、忍たまの先輩に服借りてきてくれない?すぐは準備できないから練習中にしばらく使わせてもらお。」
げ、と眉を顰める。私が話しかけられる忍たまの上級生は、灰先輩しかいない。
「……午後から、外出しようと思ってたんだけど」
「うん、次の練習の時までにでいいからよろしく」
…わかっていた。不器用な言い訳じゃわざと察してくれないことくらい。
医務室に行って、外出用の荷物を漁る。許可もとっているし私ももう四年だ、先輩方が昔連れていってくださったように野外での医療活動に行く予定を立てていた。
新野先生から本を頂いてから、できるだけ実践を積みたくて最近は放課後や休みの日は足繁く戦場に通っている。
荷物をまとめると、ちょうど外で話し声がした。
「伊作、お前もランニング行かないか?」
「僕は今から医務室番なので…」
「ちょっとくらいいいだろう、滝とももっと関わってもらいたいんだ」
話をしながら入ってくる二人に、私は半目になった。
「先輩、ただでさえ人手が少ないんですから。少しは協力してください」
「どうせ誰も来ないさ」
「でももし来たら困るんですよ、誰かがいないと」
「そこまで言うならお前がやればいい」
「私は」
「は、灰先輩!やっぱりいいです、また連れてってください。」
はっとする。あーあ、伊作に気を遣われてしまったな、と先輩が伊作の頭を撫でる。伊作はうろうろと落ち着かないように目を彷徨わせた。私は内心ほぞを噛む。
「……灰先輩、申し訳ありません」
「おーおー」
私は悪くない、悪くないが、この後頼み事をするには下手に出るのが良いと思った。
「先輩、もう着ない服はありませんか?」
「ん?なんだ男装実習か?」
「いえ、劇で使います。練習用に…大きめの服が欲しいんです」
うーむ、と悩んで、昔の服は全て売ってしまった、今の服は私服しかないが、ときっぱり声が返ってくる。私はそうですか、と首をすくめた。
「〇〇先輩!ぼ、僕のはどうですか?」
「伊作?申し訳ないし、大きめの服が欲しいの。大丈夫よ、ありがとうね」
「……」
伊作は眉をへにょりと下げた。思わず頭を撫でてしまう。さて、どうしようか…そう悩んでいると、先輩はうむ、と一人頷いた。
「まあ待て。同室に聞いてみる。あいつなら何か持ってるかも知らん。」
「あ、ありがとうございます!」
うむ、と先輩が頷き、手が伸びてくる。ぼうっとその手を眺めていると、私の頭に手が置かれた。
「心配そうな顔をするな。それくらいはしてやれる。」
私は口を半分開けて、呆気に取られた。少しの羞恥心が芽生えてくる。そんなに不安そうな顔をしていただろうか。しかし、その心配も束の間、先輩の手はすぐ離れていった。
「伊作、そう怒るな」
「え?」
伊作を見ると、伊作の手が灰先輩の腕を掴んでいた。伊作自身も焦ったような、しかしきょとんとした顔をしており、すぐ手を離す。
「…すみません」
私は目を数回瞬かせて、首を傾げた。その時、ちょうど鐘が鳴った。
「いけない、もうこんな時間!伊作お願いね、」
私が荷物を持って出ると、伊作は先輩!と声をかけてきた。なあに、振り返ると、また前と同じ心配そうな表情だ。
「僕に出来ることがあれば、教えてください。」
「…ありがとう」
それだけ返して、私は学園を飛び出す。
伊作がもっと安心できるよう、早く成長したいと思っていた。
四年の春。上級生ともなると、友人のうち何人かは姿を消し、真剣に忍術を学ぶもののみに淘汰されていく。
私はその中でまだ迷いを抱えたまま、騒々しい同期の群れで唖然と立ちすくんでいた。
くのたまは皆、壁に貼られた紙に釘付けになっていた。
混乱渦巻く中、飛び出す様にその場を抜ける。
「あっ、〇〇!」
友人の声も聞こえないふりをした。
医務室で一心不乱に作業していると、障子が開く。
「〇〇先輩」
「伊作、」
様子からするに、彼もどこかしらで掲示板を見たのだろう。伊作は眉を下げて口を開けた。
「い…一体、どういうことですか、忍たまとくのたまの合同委員会解散って…」
私は苦く頷く。
「恐らく、生徒が増えて来たからじゃないかな。わざわざ合同にする必要がなくなったのかも」
「そんな、保健委員会は上級生が少ないのに!」
私もほぞを噛んだ。各委員会の者が皆それぞれの委員会に誇りを持つ様に、私だって保健委員会の一人。目立った活動はなくとも、保健委員会はこの学園の最後の砦だと思っている。それも、傷ついたものを癒し、再起させるための砦だ。人数を減らし、蔑ろにして良いわけがない。一体、学園長はどういうお考えなのかわからないが、聞くところによると忍たまで委員会は続行されるらしい。それでは、くのたまはどこへ行くのか。
「合同委員会がなくなるのはそれだけが理由ではないぞ、くのたまは行儀見習いが多くて上級生の人数が読めないから合同を辞めるとの噂もある。まぁ今年中この制度は続行らしいから俺は関係ないがなぁ」
襖が開いて、六年ろ組の灰水之進保健・体育委員会委員長が入って来た。私はむっと眉を顰めて、いつから聞いていたのですか、と聞く。
「おうおう、壁に耳あり障子に目あり!忍者のたまごというものが情けないぞ?」
「失礼します!ほら、滝」
先輩の後ろを首を傾けて見ると、三年ろ組七松小平太と、一年生の忍たまがいた。
「た、平滝夜叉丸と申します!」
「新入生だ!それで、〇〇。ここで一つ相談なんだが、」
私は灰先輩をキョトンと見上げる。聞いたか?と言われ、ただ首を振ると、先輩は人差し指を天に突き上げて口を開いた。
「我らが保健・体育委員会は来年度から、保健委員会と体育委員会に分かれるそうだ。」
私は口をあんぐりとさせた。先輩は続けて念仏を唱える様に言葉を重ねる。
「新しくできる委員会は他に火薬。先生方でようやく火薬委員会を担当してくださる先生が見つかったのだと。生物、会計、図書、用具、体育、保健、火薬で七つだな。」
まぁまだ変わるかもしれないらしいが…と先輩はうめいた。
「それで、これからが俺の相談だ。〇〇、保健委員会委員長代理をやってみないか?」
一拍、息が止まった。
私はみるみる顔面蒼白になる。対照的に、伊作が顔を紅潮させて医務室中に響き渡る声で叫んでいた。
覚悟をしていないわけではなかった、が、こうも動揺してしまうと、私の決意など砂の城の様なものだったと思い知らされた。
元保健委員会委員長の蝶子先輩も、立派に委員長の職務を勤め上げられたのだ。女にできぬ道理はない。正直、憧れもあった。しかし、今の私は灰先輩に色良い返事をすることはどうしてもできないと思っていた。
はぁ、と桶に水と清潔な布を浸して廊下を歩く。
三病よりも何よりも、胸中を占めるものがある。一つは、私の進退がはっきりしないこと、もう一つは…。
つ、止まって、自室の前でたじろぐ。それでも、意を決して部屋に入った。
陽を私の背中に、薄暗い部屋の中にいる同室を見下ろす。もう何日も床に伏せっていた。
「新しい布を持って来たよ。起き上がれる?」
恐る恐る聞くと、向こうに向いた体のまま、首を横に振られた。
私は、そう、と桶を衝立の向こうに置く。
「ご飯もらってくるからね。ここに桶置いておくね」
そう言って、入ったばかりの部屋を出た。
自分の部屋の癖に、逃げる様に出て、ひどく情けない。
ただ、私は、同室の彼女を置いて、未来に進むことができないでいた。
「おばちゃん、雑炊ください」
「あら、また?」
おばちゃんは頬に手を当て、心配そうに首を傾げる。
「こんなご飯ばっかりじゃあいくら女の子でも栄養摂りきれないわよ、まだ来れそうにないの?」
「ごめんなさい、でも今はゆっくりするのがいちばんの薬だから…」
「保健委員さんが言うなら、仕方ないわね。」
おばちゃんは私の頭を撫でて、少し固めの雑炊と、具沢山の汁物を出してくれた。
えらいわねと言われて、何もいえず目を下す。私は、そんな善い人間ではないのだ。
部屋に戻ると彼女はもう起き上がっていた。
「おばちゃんが雑炊と汁物作ってくれたよ。食べれる?」
「…いらない」
「…そう、ここに置いとくよ、」
同室は、むっと顔を歪ませた。綺麗な顔に湿布、頭には包帯が巻かれている。
「なんか言わないの」
「何を言って欲しいの」
「意気地なし」
「はいはい、体拭けたなら桶を貸して」
彼女が桶を渡してくる、が、手が滑って私の着物にかかった。さっと彼女が青ざめる。
「わ、私のせいじゃない、あんたの不運のせいだから」
そう言って、また、彼女が自分で傷ついた様な顔をした。
「慣れてるからいいの、布団にかからなくてよかった」
咄嗟に返すと、彼女はずっと鼻を啜った。
ひどく涙もろくなった様だった。
「…」
彼女が口を開く、その前に、これ干してくる、と大声で遮った。そのまま部屋を出る。すると、たまたますれ違った同期がぎょっとした。
「〇〇、その服どうしたの?」
「へ、へへ…桶の水ぶちまけちゃって」
「やだ、早く着替え…」
ン、と同期が口をつぐむ。
ちらり、と部屋を見て、私の肩に手を回した。ぐんぐん歩いて部屋から距離をとる。
「いやぁ、まさに濡れ鼠!さすがくのたま、忍者を目指してるだけある!鼠になるにはまず形からってね!」
「ち、ちょっと」
わかってるわよ、気ぃ遣ってんでしょ。ヒュッと矢羽音が飛んだ。私はごくりと喉を鳴らす。
ばさりと手拭いが頭にかけられた。
『…無理しなさんなよ、同室だからって人生まで責任負わなくていいんだから。』
そう言われて、わかってる、と私は桶を抱きしめた。
彼女の部屋で替えの上着を渡されて、中はそのままにいそいそと着替える。すると、彼女は思いついたように笑った。
「そうだ、ちょっと話そうよ。昨年の冬からあの子の看病で全然気が抜けなかったでしょ。」
でも、とか、ええと、とか言ううちに、引っ張られてついていくと、いつの間にか教室についていた。
そこでは、くのたまの同期達が団子を食べながら将棋を指したりあやとりをしていた。
「あ、やっほ、〇〇。とうとうお姫様に部屋から追い出されたの」
わははとみんなして笑い、さ、座りな、と示された。
「机のうでに肘ものっけらんないじゃない」
「しょうがないでしょ、将棋盤持って来たやつがいるんだから。」
そうぶつくさ言い合いつつ、私は心が穏やかになっていくのを感じていた。この、くのたま同士の気がおけない雰囲気に救われていた。
「ね、どれくらいであの子、治りそうなの?」
「傷自体は後は日にち薬」
「じゃあ、"今の自分を受け入れられるかどうか"、だね」
私は目を伏せた。
ねえ、と同期が肩を組んで頬を寄せる。
「"前途有望"なくのたまはみんな帰っちゃったわ。ある子は意気揚々と、ある子は引き摺られるようにして門を潜って。四年にもなってここに残ってるのは、家のはじきものくらいなんだから。くノ一になる、その覚悟が、早ければ早いほど置いていかれる確率が低くなる。あの子だけじゃない、あんたも、そろそろ決めなさいよ。」
家のこと、保健委員会のこと、同室のこと。
私は目がまわる様に感じた。心拍数が速くなる。
「……あんたの同室の縁談が壊れたのは、あんたのせいじゃないんだから」
私は、えずくように涙をこぼした。
三年の冬休みのことだ。同室はふらふらと熱っぽい顔で部屋を出ていった。
私はあえて目を逸らして、気付かぬふりをする。くのたまはそれぞれ初潮が来始めており、中には体の変化についていけず、熱っぽくなる子もいた。特に彼女は顕著で、酷い痛みにお腹を抑えることも多かった。
私が布を持ってくると、いらない!と大声で叫ぶ彼女は、私には弱いところを見せたくない気持ちがあったのだろう。郷里には妹もいるらしい彼女は、時々こうやって私のことを同級生ではなく、庇護下の人間として扱い、拒絶することがあった。
もう三年も一緒だ。なかなか気難しいのは十分理解していた。そうして、部屋から出る彼女は一人になれる場所をいつものように探しにいったのだと、悟っていた。
事態はその晩に急変した。いつまでも帰ってこない同室に痺れを切らし、探しにいくと、学園のどこにもいない。出門票にも名前がない。
あたりは真っ白で、雪に囲まれている中、人気も少ない。名前を呼びながら探すが、誰もいない。
ぞ、と青ざめて、暮れゆく日差しの中、必死に彼女のいそうな場所に当たりをつけた。
必死に探して、赤く霜焼けした手が夜の闇に見えなくなるほど暗くなった時、いつも私たちが登って遊んでいた木の根元で、雪がへこんでいる場所を見つけた。
私が見つけてしまったからいけなかったのだろうか。
誰か他の人に連れていって貰えば、彼女の尊厳は守られていたのだろうか。
だが、私は、白かったはずの雪を赤く濡らして目を瞑る彼女に、そんな優しい対応はできなかった。
彼女を抱えて、医務室に飛び込んで、治療をする。伊作も、灰先輩も、冬休みで帰省しており、頼れる人は誰もおらず、六年の先輩方は卒業試験で学園に不在だった。
ある程度処置をしてから新野先生にお声がけし、それから私は山本先生に引き摺られるように食堂へ行った。無理矢理ご飯を食べさせられて、彼女が目を覚まさなかったらどうしよう、私のせいだ、そう言ってえずいて、吐いて、泣いた。
彼女と面会が叶ったのは、しばらくしてからだった。目を覚ましたのはすぐだったが、彼女が私の看病を拒否していたのだ。鶯が喉を鳴らし始めた頃に、彼女のために特別に設けられた部屋に入ると、彼女は半身起き上がってぼうっとしていた。
「…おはよう」
私が声をかけると、彼女は、口を開けた。
「縁談、破談になった。帰ってくるなってさ。」
声を失くす。ワナワナ震えていると、彼女は私を仰ぎ見た。顔に細かな傷が残って、体は包帯だらけ。それでも、彼女は綺麗だと、私は思っていた。
「私、いらないって」
彼女が男だったら。こんな惨めな思い、せずに済んだかもしれない。だって、治ればまだ動ける、見目に傷跡が残ったからってなんだ、彼女の実力とはなんの関係もない。
ただ、彼女は女だった。
それは等しく、私にも言えた。
もう四年目だ。自分の力量の限界など、すでにわかり始めている。それなのに、私はどうしても、父や母の思う通りには生きられない。親不孝な私に、両親がどんな目を向けるかなんて火を見るより明らかだ。
彼女が家族から言われた言葉は、そのまま私にも、深く刺さったのだった。
「落木したからってそんなになるもんかね」
私は、だから、はやく気づけていたら、違っていた、と無感情に答えた。
生理による腹痛で自制を失った彼女は木から落ちた。それから、あの寒い中長時間放置されて、凍傷も酷く、血も至る所からずいぶん流れてしまった。このまま諦めなければ、きっとある程度は元に戻る。しかし、私達を突き放してきゃらきゃら笑って走る彼女の後ろ姿は、もう見られないだろう。
「…すまんかった」
同期が私の頭をかき混ぜるように撫でる。
ありがとう、と私は呟いた。
保健委員会をよろしくなんて言われて、卒業した先輩方に見せられる顔がない。ましてや、委員長代理なんて。
でも、それでも。私は、ここにしがみついていたいのだ。
ぼんやり机の木目を見ていると、パンパンと手が鳴る。
「さぁさ、あと一人を残してるけど大体揃ったし、話始めるよ」
学級委員長が立ち上がり、みんながにやにや前を向く。私は突然のことに思わず辺りに目を配った。
「四年にもなったからには皆わかってると思うけど、これからは大きなイベントの目白押しよ!」
私を連れてきた同期が頭の後ろで手を組んだ。
「花あつめと卒業試験と…」
「組対抗演舞会!」
ちょっと、台詞とらないでよ!と皆して笑い、委員長はごめん、と頭をかいた。私はこそっと声をひそめる。
「組対抗演舞会って?」
「そこの浦島花子ちゃんにもわかるように説明してやろう」
びしっと委員長にさされ肩をすくめる。ぎょっとして周囲を見回すと、皆やれやれと私を見下ろし息を吐いていた。
「くのたま四年は毎年演劇をやるんだ。あんたは毎回不運のせいで見損なってたけど、チケットも完売で大人気なんだから。」
「ちなみに発表後、その役者同士の関係性についてのうすい考察本が上級生の中で内々に出回る。」
「テーマは色々。毎年指定されるけど、脚本改変は自由。一番先生方の評価が高い組が優勝よ。ここで優勝した組の役者にお城からスカウトが来たこともあるんだから。」
「見られるのは役になりきる変装の術、作法、舞台表現、脚本。ここで〇〇、あんたに脚本を任せたい!」
「ええ?!」
急に私に話が着地して心臓が縮こまった。皆の中ではすでに決まっていることらしく、うんうん頷いていた。
「あんた、昔、見栄切りっていうの?口上述べが上手かったじゃない。あれくらいの自由度があるアドリブありの脚本改変して欲しいのよ。」
「え、や、無理無理無理」
皆じとりと私を見てから、やっちゃってください、と学級委員長に首を振った。彼女はオホン、と喉を鳴らす。
「これは只の劇にあらず!試験なり!役者は我々と、巧みに変装した山本シナ先生である!」
「や、山本シナ先生?!」
そうそう、と皆が首を縦に振った。
「どの場面かはわからないけど、必ず先生が役者として変装して入ってくるの。それに対してうまく受け答えしながら劇を進行させて、完結に導く。山本シナ先生への対応も含めて一番綺麗に舞台をまとめ上げた組が優勝よ。先生、そりゃあもうめちゃくちゃに掻き乱すんだから。全く新しい登場人物で来る時もあれば既存の役ですり替わって出てきたり。自由奔放極まりない!ここで一番読めないあんたの不運に賭けたいのよ。それとあんたのとこの姫がいればもう怖いものないわ」
私はぎくりと口を歪める。
同期皆してにじり寄ってきて、私と肩を組んだり、頬をつついたり、頭を撫でた。
「同情するけどね、あの性根に期待もしてるのよ。あれはうちの組のお姫様なんだから。早く戻って来てもらわないと困るわ」
「あら皆して」
入口を振り返ると、噂をすれば老齢の姿の山本先生だ。
「山本シナ先生!いかがされましたか」
「今年の演目のテーマが決まりました。」
皆ごくりと喉を鳴らす。先生は飛び上がって若い頃の姿に変わり、黒板にカッカと文字を書いていった。
振り返ってにっこり笑う。
「三注・四書・六経・列・荘・老・史記・文選より一つ、その中の故事来歴を捉え劇にすること。…こらこら、」
私含め皆ぽかんと口を開ける。習ったっけ、こんなの。
私たちの様子に山本先生が頭を抱える中、ただ一人学級委員長だけが目を輝かせていた。
「明から昔この国に伝わった文書ね」
同室は静かに言った。私はゴクリと生唾を飲む。
「先生方の考えそうなことだわ。仁・義・礼・知・心。教育的な内容が多いのよ。先生を敬いなさい、女性は男性を敬いなさい…で、私をどうやって神輿に担ぐつもり?」
同室は弱々しく皮肉に笑った。私は何と言えばいいかわからず、眉を下げる。
「わかりきってるわよ、言いたいことなんか。私は嫌よ、あなたたちのお遊戯に付き合うのなんか御免だわ」
「でも、みんなも待ってるよ、あんたが戻ってくるの…」
「……」
彼女は、長いまつ毛をしばたたかせた。
「私の居場所は、いつだってここじゃない。例え家から弾きものにされても、くノ一になんて下ってやらない。」
私は口を曲げる。ずっと抑えていた気持ちの蓋がかぱりと動いた気がして、必死に抑え込んだ。鼻で息を吸う。目を伏せ、努めてからかい調子で口を開いた。
「そんな言い方しないでよ。あなただって、三年間ずっとここで暮らしてきたのに」
「あんたとも三年だけの付き合いだと思ってたから愚図なのも諦めて世話してあげてたのよ。私以外にあんたの不運の面倒見切れないわ。」
「そ、れは…」
「怪我した私の世話していい気になった?冗談。私だって我慢して甘んじてるんだから。…そうだ、あんた以外が脚本するなら、やってあげてもいい」
「……は?」
私は目を瞬かせて彼女を見た。彼女はまだわからないの?と首を傾げた。綺麗な笑みだった。
「あんたに踊らされるのは御免なのよ」
私はあああ、と内心ため息をつく。どこまで自尊心が高いのか、この女は。胃がむかむかするが、それでいいなら説得してみようか、口を開いた。
「ちょっといいかしら。」
背後の戸の向こうから音がする。私は背筋を無意識に伸ばした。山本シナ先生だ。
「はい!」
すっと戸が開いて若い姿の先生がにこりと音を立てるように笑う。
「〇〇、席を外してもらえる?」
同室の顔がこわばる。私はさっと汚れ物を抱え、立ち上がった。
部屋をそそくさと出て洗い物をする。しばらくした後、先生が私のそばに立ってもう終わったわよ、と声をかけ、すぐ消えていった。
部屋に戻ると、同室がわなわな震えていた。
「きめた、決めた!〇〇!」
びしりと指をさされ、私はたじろぐ。親の仇のように彼女は牙を剥いた。
「私が脚本をやる!やるからには他の組には絶対負けないわ、これは私の運命との勝負なのよ!」
辟易した私が組のみんなに伝えると、どっちでもいい、と各々声を返した。
「あの子ならうまくやるし、あんたの同室なんだから、アドリブありでもいいもの作るでしょう」
私はうんざりしてため息をついた。それでも、やる気になったからか以前よりは同室は勢いが出てきている。
本番は秋だ。私は右手を握りしめて、開く。何度か、それを繰り返す。
委員会のこと、同室のこと、将来のこと。悩みは尽きないが、それまでには私も、少しはくノ一らしくなっていればいい。
♯四年、夏
じいじいと蝉が鳴いている。
私は少しずつ覚書を書き始めていた。綺麗な紙がなくとも、なんとか書けそうなものを見繕い、硯を磨る。
今日は病人がいないから、薬草も側にある医務室で書きだめすることにした。汗が落ちないよう何度も額を手拭いで拭って筆を滑らせていく。
初心者の教育、薬草のこと、備品のこと、処置の方法、予算会議での処世術……
どこまでやれるかわからない。それでも、もしくのたまが医に関われなくなったら。伊作が、できるだけ辛い思いをしなくて済むように。
「というかこの硯うっすい墨しか出ない…」
必死に擦っていると、スパンと戸が開く。ぎょっと顔を上げると、六年の灰水之進先輩だ。
「今日は当番ではないですよ?」
「そんなことは知っている」
うるさそうにひらひら手をやって、先輩は部屋の中を見渡し、ふむ、と口を窄める。
「……〇〇、いまいいか?」
非常に怪訝な顔をしたと思う。ただ、先輩は真剣な顔をして私を見つめた。背中がヒヤリとし、体温が下がっていく。
「なんでしょう?」
冷静を努めて返すと、先輩は戸を閉めて、明後日の方を眺めて、伊作は、と声を発した。
「……いると思ったが」
「伊作はもう当番終わってます、出て行ったはずですが」
「忍びは全ての可能性を考えるものだ。特にお前は伊作を猫可愛がりしているからな、自分の当番の時も引き留めていても不思議じゃない」
「そんなことしません!」
うんざりして返すと、冗談だ、と笑われた。そして、先輩はどっかとあぐらで座り込んで私の前に陣取る。
「滝には勿論、伊作や小平太にも言うつもりはない。ただ、お前は知っておくべきだと思った。…いいか、卒業された蝶子先輩、奏呵先輩のことだ。」
心拍数が上がる。嫌な動悸だ。
"忍者は情報を取捨選択しなければならない。知りたくもない真実を知って、その真価を見極めなければならない。"
奏呵先輩の声が無惨に脳裏に蘇った。
「卒業後、先輩方が郷里に帰られる道のりで…何者かに襲われたらしい。郷里に帰られたのは一人だけだ。」
きぃん、と耳の奥で耳鳴りがした。恐れていたことが、起きてしまったと思った。
先輩は私の眼前で、すまん、とだけ言う。
いいえ、ありがとうございます、ありがとうございます、それしか私には返せない。私がどんな顔をしているのか、私もわからないからだ。
「…きっと、蝶子先輩です。奏呵先輩が死ぬのなら、蝶子先輩も死んでいます。一人でも帰ることができたなら、死んだのは蝶子先輩です。」
「…俺も、そう思う」
あの人たちは、少し異常だったからな、と先輩が呟く。初めて先輩と意見があった瞬間だった。
先輩は自身の顎を撫でて、目を泳がせる。
「…知っているか、保健体育委員会の、呪い」
え?と首を傾げると、先輩は気まずそうに言った。
「俺は、この委員会が分かれるのにすこしほっとしているんだ。お前、陽太郎元保健委員長のことは覚えているか?」
それは!私が二年の時お世話になった委員長だ。伊作もとても懐いていた。
「それと、お前が酷く懐いていた元委員長」
「私が一年生の時の委員長ですか?」
「ああ。陽太郎委員長はその委員長のことをとても慕っていたが、ある事件を起こした。」
"……どうしても、会いたい人がいるんだ。"
陽太郎委員長の寂しそうな顔が思い出された。
「昔、焔硝蔵が爆発した事件があったろう、その不運の元凶が陽太郎先輩、それを庇ったのが、」
「…まさか、委員長が、」
「…お前の中じゃやっぱりあの先輩が"委員長"なんだな。だが、死んじゃいないよ、ただ、大火傷を負ってしまって素晴らしい幸運もパア、卒業まであと数日だってのに決まってた就職先からも酷い扱いだったらしい」
死んではいない、その言葉になんとか心を撫で下ろす。しかしそれならば今先輩はどちらにいらっしゃるのか。
「呪いってのは、保健委員会にいるものはこうやって卒業時に何かしらの事故に巻き込まれるって話だ。陽太郎先輩は卒業時は特段なかったが、あれはずっと煙硝蔵の事件に呪われて生きてるようなもんだったからな。…それにあいにくこの委員会は他と比べてずっと同じ面子がいることが多い。幸運な委員長でも、体育・保健で別れて活動しててもダメだった。だからいっそ切り離せばそんなことは…」
「…そんなの、三病ですよ」
「んなこたぁわかってる!だがなぁ、気をつけろよ。…保健委員会の不運は、筋金入りだぞ。」
「じゃあ、なんで先輩は、委員長代理を私に任せるなんておっしゃったんですか」
途端先輩は体を引いた。痛いところをつかれたようだった。私は前のめりに先輩の目を見る。
「先輩。前から思っていました、どうして先輩は、保健委員会の活動を積極的にされないのですか?」
「お、お前だって体育委員会の活動してないだろ?」
「私が一年の時『女は裏裏山マラソンについて来れないから嫌だ』って仰ったのは先輩ですよ。」
「ああ言えばこう言う…」
先輩ははぁ、と自身の額をぐりぐり人差し指で押した。
「……俺は、」
そう言ってからゆっくり十秒は経っただろうか。先輩はぽかんと続く言葉を待つ私の頭をむりやりかき混ぜた。
「う、わわ、」
「…やめだ!こんな話!細かいことは気にするな!」
先輩はいつものように小憎たらしい笑顔で笑って、前言った代理の話、考えといてくれ。じゃあ先帰るぞ、と走り去ってしまう。私はじっと背中を睨みつけた。心はざわざわとさざめいて、着火寸前の宝禄火矢を押し付けられたような嫌なしこりが燻っていた。
私が覚書を書き進めるのと当時に、互いに触発し合うように同室も脚本を進めていた。そしてとうとう、夜遅くに同室が筆を置いた。
「おわった」
え、見せてと身を乗り出すと、まだ明日までに時間があるから最後の確認だけしてみんなに話す、とそっけなく返された。
それもそうか、と私は頷いて、引き続き文を書く。同室は足をさすってよろよろ立ち上がり、布団に横になった。
「確認するんじゃないの」
「寝ながらでも読めるから。ね、灯明皿もうちょっとこっちに寄せて」
はいはい、と動かして、私の机の位置もずらす。
案の定寝息が聞こえ始めたので、彼女に布団を被せて紙を抜き取った。墨が写らないよう細心の注意を払って今まで彼女が書いていたものに重ねる。
それからしばらく続けていたが、私もなんだか眠たくなって、しまいにはふっと火を消して若干薄明るくなり始めた空を横目に布団へ潜った。
今年の春から始めた覚書は、まだまだ終わりそうになかった。
教室を開けて私が入ると、間髪入れずに同室が続いた。
「あ!姫!やあっと出てきた」
「みんな久しぶり。できたわよ、脚本」
皆が沸き立つ。久しぶりの教室だというのに同室は臆せず、黒板の前に立った。
「史記の項羽本紀より、垓下の戦いを劇にする」
皆が疑問符を浮かべる。知らない者も多いのだろう、私だって項羽は知ってるけど、昔の人という感想しかない。しかも軍記物。くノ一のたまごの少女たちが軒並みげんなりした顔を浮かべた。
「よくわかんないけど、戦ものは人手が足りないよ、難しくない?」
「待って、姫の話を最後まで聞こう」
委員長がきらりと目を輝かせて級友を制した。よく見ると、彼女だけ不敵な笑みを浮かべている。
「勿論、私たちが劇をするのに、しかも山本先生も参加されての劇なら尚更、ただテーマに沿うつもりはないわ。私たちがやるのはその一部分よ。」
彼女は黒板に向かい、カッカと書いていく。
「……『別れ』?」
「ええ!」
昔を思い出すような笑みで、でもどこか焦っているような剣幕で、同室は皆を見渡した。
「覇王項羽と、その妻虞美人の別れ、最期。その一場面を劇にする!」
「やぁっぱりね!」
委員長は膝を叩いてそう来なくっちゃ、と笑った。
どういうこと?何がそう来なくっちゃなの?ワタワタ周りが狼狽えていると、同室は委員長に一瞥をくれる。心得たとばかりに委員長が皆を見渡した。
「垓下の戦いで項羽は敵の劉邦と戦い、劣勢に陥る。長く本拠地から離れて戦っていた項羽の軍は疲弊しており、それは項羽ももとよりだった。その側で常に項羽を支えていたのが妻の虞美人よ。ずっと項羽の戦いについて回って、そしてとうとう敵にすぐそこまで追い詰められた時も、隣にいた。滅亡を悟った覇王項羽は涙をこぼす。虞よ、虞よ、お前をどうしようか、と。虞美人もその言葉に合わせて、歌をうたう。こんな感じかな」
「…その後、項羽は、協力者に船を用意されて逃げる道を示されたにもかかわらず、自尊心から後に引けずに自ら首を刎ねたとされている。だけど、その場面ではもう虞は出てこない。だから、私は虞は項羽の前で既に自刃していたか、殺されていたのだと思っている。」
皆の顔が引き締まる。しかし、やっと本質が見えてきた。同室は、ただの軍記物ではない、そこらの教訓でもない、姫を主役にした劇をやりたいのだ。
同室が持ってきた紙を右手の甲でパンと叩く。
「私はこの脚本で、虞が自刃したことにした。虞は私が、家臣の役は、委員長、あんたがやって。項羽はこいつにさせるわ」
急に指をさされて仰天してしまう。私?!
「えぇ!ずるいわ、じゃあ私たちはなにすればいいの!」
言わんこっちゃない、級友たちがわいわい騒いだ。と言っても、私を入れて十一人だから大した人数ではないが。
「勿論、兵士の役もあるわよ」
ぶーぶーと皆が不貞腐れていると、もう一度同室はニヤリと笑った。
「冗談よ。なにも私が虞をやりたいわけじゃない。劇のいいところはお化粧し放題なところよ。山本先生の介入に惑わされないように虞美人と項羽の組み合わせを変えつつやるわ。常にアドリブ対応をしておくってことね。そして、同一人物にみせる変化の術、それも含めて評価していただく。」
皆、ぽかんと口を開けた。委員長でさえも少し驚いたように目を見開いている。なるほど、と言う声がした。
同室がぎらりと目を輝かせた。
「殺されるのなんか御免だわ、生きるも死ぬも、選ぶのは私よ」
こうして、劇の準備が始まった。しかし、常の活動は相変わらずである。
同室が復帰したとはいえ、まだ彼女は人並みの生活で精一杯だ。精神的なものもあるのだと新野先生はおっしゃっていた。
級友たちと野外で体力づけに走らされ、気づくともう夕方だ。私は最後尾で学園についた。
「〇〇!遅いわよ」
「は、はい…」
ヘロヘロになりつつ門を潜ると、若い姿の山本先生が腰に手を当てて立っていた。
「さぁ、これで終わり。皆解散!」
いつの間にか級友たちは体技の練習をしており、山本先生の言葉にすぐさま整列したかと思うとありがとうございました!と声をあげて散り散りに散った。
私はよろよろと声をそろえるしかできなかった。
夕食の後は保健委員会の備品確認だけでもしておきたい、灰先輩は保健委員の活動をちっともしてくださらないから伊作に負担をかけてしまっている。
ご飯を食べて、医務室に向かうと、話し声がした。病人だろうか、静かに近寄るが、だんだんはっきりしてきた声色に私は顔を青ざめさせた。
「失礼します!」
「〇〇先輩!」
伊作がぱっと顔を上げる。そこには、伊作と新野先生がいらっしゃった。
「に、新野先生、どうしてこちらに…」
「伊作くんが大変そうだったので、一緒に見ていたのです」
新野先生がゆっくりとした声で返すが、私は心臓を釘で打ち付けられたような気持ちになった。
「も、申し訳ありません……」
「何を謝る必要がありますか、昔と違って今は人手が不足している。この学園は自主自立を宣言していますが、私とてそれに甘んじるつもりはありませんよ」
疲れも頭から吹っ飛んで、冷や汗がダラダラこぼれ落ちる。ああ、失敗だ、失敗だ、
『先生に頼ってはいけないよ。先生に頼って、助からなかったとしたら、それは自分の力が足りなかったんだ。』
奏呵先輩の声が蘇る。ああ、私がもっと要領が良かったら、授業にもついていけて、余裕を持っていたら、もっと強く灰先輩に言えたら、伊作や新野先生を困らせたりしなくて済んだのに、悔しい、辛い、どこで間違えた?どうしたら良かった?
伊作が私の名前を呼ぶ。はっとして伊作を見下ろした。不安そうな顔をしていた。私は笑顔で伊作、遅くなってごめんね、本当にお疲れ様、と返した。
「〇〇先輩もお疲れ様です」
「わ、私なんか」
「いえ、僕にもわかります、〇〇先輩は頑張っています」
伊作が私の手を握る。私をまっすぐ、心配そうに見つめていた。
「僕、頼りないかもしれませんが、これでももう三年生です、だから、無理しないでください。」
私は作った笑顔をどうしたらいいか分からず、ありがとうね、と再度頷いた。これから私が引き継ぐから、ご飯とお風呂行ってきな、そう告げると、伊作は一瞬眉を下げて、それからなんでもないように微笑んだ。いつもの可愛らしい笑顔。そこでようやく私は解けるような安堵を覚える。
伊作が出ていった後、新野先生に向き直り、深く頭を下げた。
「度々ごめんなさい、新野先生」
「どうしましたか?」
「お願いします、教えていただきたいことがあるのです」
簡潔に覚書を書いていることを伝え、そしてその内容についてわからない点を聞く。新野先生はそれなら、と頷いて部屋を出て、すぐに戻ってきた。
「これを渡しましょう。私が昔書いていた覚書です。」
「え!!」
「しかし、今はこれを見ずにやっているので…基本的なことはこれに書いてある通りですが、使う薬草や処置方法など、昔から変わっているものも多い。これを丸ごと参考とは言い難いが、あなたが聞いた疑問くらいはこれで解消できます」
「あ、ありがとうございます!」
じんとしみる思いでその本を抱くと、新野先生は私を見ずに手元の薬草に目を戻した。
私は一瞬湧き立った心が冷めていくのを感じた。
新野先生が苦手だ。教えて欲しいことが山ほどあるのに、何故か先生は私を寄せ付けない。生徒にはそう言うものかとも思ったが、伊作にはとても優しい。私が、かわいくない生徒だからだろうか。
「……えと、備品確認します、ね」
「ああ、もう終わっています」
「え!じゃあ軟膏詰めを…」
「伊作くんがやってくれましたよ。」
「……それでは、私のやることは、」
「〇〇さん、休みなさい。私がいるのだから任せて。」
ぎくりとして、私は目をうろつかせる。それでも、ぐるぐる回る思考回路はいい答えを出せずに、わかりました、とすごすご引き下がるしか脳がなかった。
部屋から出て、くのたまの部屋を通り過ぎて、校庭に出て、適当に歩く。早く、早く。ふっとした浮遊感。目の前がぶれる。
あっという間に私の体は穴に落ちて、空に月しか見えなくなった。
こんな時に私の不運が役立つとは。
私は、誰にも見られないのをいいことにわんわん泣いた。部屋にも、授業でも、医務室にも私の心が休まる居場所がない。将来、くノ一としてやっていけないかもしれない。でも、実家にも戻りたくない。
クタクタのまま泣いて、泣いて、気づいたら穴の中で寝ていた。夏でよかった、冬なら……。
まだ朝ぼらけの中、体を引き上げて部屋に戻りそっといただいた本を置いた。手拭いを持って、もう風呂は冷めているが残りの水でもと体を洗った。
体がキシキシ痛んだ。悔しくて、部屋に帰ってから本を読み耽った。実家という逃げ穴を自分で塞いだのだ、私の居場所は、私が見つけるしかなかった。
劇の衣装を準備する人員と、主演の人員に分かれて作業を進めていく。秋には発表が迫っていて、それ以外にも来年の委員会解散準備や授業などでやることが盛りだくさんである。時間はいくらあっても足りなかった。
私は項羽の役だ。複数人で同じ役を演じるこの劇では、場面ごとに役を成り変わっていく。私は同室と、とうとう追い詰められて項羽が止める間もなく虞美人が自刃してしまう最終局面をやる。
「やっぱり、人が入れ替わってもわからないようにするには体型を太めに合わせるしかないわ、筋肉量がそれぞれ違うもの。」
衣装担当の子が唸った。私は慣れない演技に息切れしていた。どうしたらいいのかそのまま頭に浮かぶ疑問を問う。
「そうね、忍たまの先輩に服借りてきてくれない?すぐは準備できないから練習中にしばらく使わせてもらお。」
げ、と眉を顰める。私が話しかけられる忍たまの上級生は、灰先輩しかいない。
「……午後から、外出しようと思ってたんだけど」
「うん、次の練習の時までにでいいからよろしく」
…わかっていた。不器用な言い訳じゃわざと察してくれないことくらい。
医務室に行って、外出用の荷物を漁る。許可もとっているし私ももう四年だ、先輩方が昔連れていってくださったように野外での医療活動に行く予定を立てていた。
新野先生から本を頂いてから、できるだけ実践を積みたくて最近は放課後や休みの日は足繁く戦場に通っている。
荷物をまとめると、ちょうど外で話し声がした。
「伊作、お前もランニング行かないか?」
「僕は今から医務室番なので…」
「ちょっとくらいいいだろう、滝とももっと関わってもらいたいんだ」
話をしながら入ってくる二人に、私は半目になった。
「先輩、ただでさえ人手が少ないんですから。少しは協力してください」
「どうせ誰も来ないさ」
「でももし来たら困るんですよ、誰かがいないと」
「そこまで言うならお前がやればいい」
「私は」
「は、灰先輩!やっぱりいいです、また連れてってください。」
はっとする。あーあ、伊作に気を遣われてしまったな、と先輩が伊作の頭を撫でる。伊作はうろうろと落ち着かないように目を彷徨わせた。私は内心ほぞを噛む。
「……灰先輩、申し訳ありません」
「おーおー」
私は悪くない、悪くないが、この後頼み事をするには下手に出るのが良いと思った。
「先輩、もう着ない服はありませんか?」
「ん?なんだ男装実習か?」
「いえ、劇で使います。練習用に…大きめの服が欲しいんです」
うーむ、と悩んで、昔の服は全て売ってしまった、今の服は私服しかないが、ときっぱり声が返ってくる。私はそうですか、と首をすくめた。
「〇〇先輩!ぼ、僕のはどうですか?」
「伊作?申し訳ないし、大きめの服が欲しいの。大丈夫よ、ありがとうね」
「……」
伊作は眉をへにょりと下げた。思わず頭を撫でてしまう。さて、どうしようか…そう悩んでいると、先輩はうむ、と一人頷いた。
「まあ待て。同室に聞いてみる。あいつなら何か持ってるかも知らん。」
「あ、ありがとうございます!」
うむ、と先輩が頷き、手が伸びてくる。ぼうっとその手を眺めていると、私の頭に手が置かれた。
「心配そうな顔をするな。それくらいはしてやれる。」
私は口を半分開けて、呆気に取られた。少しの羞恥心が芽生えてくる。そんなに不安そうな顔をしていただろうか。しかし、その心配も束の間、先輩の手はすぐ離れていった。
「伊作、そう怒るな」
「え?」
伊作を見ると、伊作の手が灰先輩の腕を掴んでいた。伊作自身も焦ったような、しかしきょとんとした顔をしており、すぐ手を離す。
「…すみません」
私は目を数回瞬かせて、首を傾げた。その時、ちょうど鐘が鳴った。
「いけない、もうこんな時間!伊作お願いね、」
私が荷物を持って出ると、伊作は先輩!と声をかけてきた。なあに、振り返ると、また前と同じ心配そうな表情だ。
「僕に出来ることがあれば、教えてください。」
「…ありがとう」
それだけ返して、私は学園を飛び出す。
伊作がもっと安心できるよう、早く成長したいと思っていた。
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