大団円では終われない
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忍術学園、一年生の頃。何故先輩は保健委員会に入ったのか、聞いたことがある。
「それはね、保健委員なら、みんなを分け隔てなく助けてもいいと思ったからさ」
その時は、小骨が喉に引っかかったような違和と共に、私の一番大好きな先輩が言うのだから、そうなのだろうと、正しいのだろうと思っていた。
敵味方無く接するのが保健委員なのだと。
思えば、その時から間違っていたのかもしれない。
これは、私の不運な少女時代の記録である。
#二年、春
大好きな保健委員会委員長が卒業されたことは私の小さな胸にぽっかりと大きな穴を開けたが、その穴に春風が吹き込むようにして新しい後輩達が入学してきたことは、私にとって春を切ない季節から喜びの季節へと変えるのに十分な力を持っていた。
ましてや、
「一年生が保健委員会に入ってくるんですか!?」
その情報を持ってして。
「そんなに慌てなくても、新入生は逃げたりしないよ、多分…」
保健委員会の新委員長は、穏やかに笑って頬をかいた。男らしい腕には痛々しくも包帯が巻かれている。
「だって、他の委員会は下級生がいないところもあるから、嬉しくて!」
「うんうん、優しい子だったらいいねぇ」
「わんぱくな子でも大歓迎だぞ!そしたら体育の方で動いてもらう!」
スパンと襖を開けたまま、四年の先輩が医務室へいけどんと入って来る。
私は思わずむっとしたが、先輩の後ろで粛々と閉めた。我が保健委員会は正式名称を保健体育委員会という。忍たま、くのたまの生徒が少ないため、合同で活動をまとめているのだ。体育委員会の業務は活発な活動が多く、花形ではあるが、生傷が絶えない。よって保健委員会と合併された経歴を持つ、らしい。
薬を煎じていた五年生の先輩が二人して顔を上げた。
「我が委員会の新入生は二名。一名は体育、一名は保健活動希望と聞きます。」
「その他の委員会、生物は零、会計は一、図書は二、用具は一だって!今回は兼任はなさそうですね!」
「そうそう、結構偏ったよな、生物は新入生無しで大丈夫なのかな?動物また増やすんだろ?あ、そろそろ調合変わるよ、薬研貸して」
委員長が手を伸ばすと五年生の先輩方は二人してきっと委員長を睨んだ。男女ではあるが、双子の二人は阿吽の呼吸なのである。
「駄目です。委員長、最近不運続きなんですから。先代委員長が卒業してこのかたずっと生傷絶えてないですよね」
「だからいつもは体育の方ばっかやってる俺が薬くさい部屋で我慢して頑張ってるんですから!あーあ、先代委員長は未曾有の幸運体質だったからなあ」
「悪かったな不運で……」
わはは、とみんなで笑う。その中で、心の穴にまた冷たい風が吹いた。頼れる先代委員長はもう卒業された。他の先輩も頼り甲斐のある素晴らしい方ばかりだが、私は先代保健委員会委員長が大好きで仕方なかった。
どうか、この寂しさを吹き飛ばすくらいの、よい子が入ってくれればいい。そっと願った。
後日、目の前に現れた一年生は一人。おっかなびっくり先輩たちを見上げて、肩をすくめていた。
「あれ、もう一人は?」
「もう体育の方でオリエンテーションしてます。こっちも始めちゃいましょう」
なるほど、四年、五年の先輩が一名ずついらっしゃらないのはそういうことか。新委員長はあはは、と頼りなく笑う。なかなかに空中分解しているが、これでいて要事の時には必ず集合するのだ、恐らく歓迎会はまとめてするからまたその時会えるだろうし、とりあえず問題はない。
それじゃ、と先輩が促すが、新一年生はビクッと固まってしまった。
「先輩、私たちから挨拶した方がやりやすいのではないでしょうか」
「あ、確かに。ゴホン、申し遅れました、僕は六年は組、大辺奈陽太郎です。」
「私はくのたま教室の蝶子。お蝶でもいい。今ここにはいないけど、五年は組の強面奏呵の双子の妹だよ。四年ろ組、灰水之進も兄と共に今体育委員会の方にいる。」
蝶子先輩が私の背を軽く叩いた。私は努めて笑顔で語りかけた。
「私はくのたま教室の〇〇。これからよろしくね」
目がくるくると回って混乱している伊作をみんながつついて笑う。私は伊作に対して、にっと口を開いた。
「先輩方の名前複雑だもんね、も一回繰り返して言ってあげるね。六年のたいへんなようたろう先輩、五年のしめんそか先輩と双子の妹のちょうこ先輩、四年のはいすいのじん先輩。」
うーん、わが委員会ながら、なかなか不吉な名前が多い。
微妙な顔をしていると、あちこちに飛んでいた伊作の目がやっと戻ってきた。段々と緊張がほぐれたようで、彼はやっと笑った。
「一年は組の、善法寺伊作です。将来の夢は、かさぶたになることです。よ、宜しくお願いします!」
「かさぶた?」
「はい!えっと、僕運が悪くて、怪我しょうちゅうするんですけど、かさぶたが出来たら、その度に、もう安心だ、治るよって言ってもらえて、嬉しかったから、僕もかさぶたみたいになりたいです!」
一所懸命に明るく笑う彼に、胸が甘く締め付けられた。蝶子先輩はほのぼのとした顔になり、大辺奈陽太郎保健委員会委員長は目頭を押さえている。私はというと、変なことを言う子だな、とは思ったけど、それと同じくらい、彼が可愛いと感じていた。
多分、愛されて育った子なのだろう。怪我をしても、周りの大人がちちんぷいぷいしてくれるような。
なんだか、それだけで彼を大好きになっていい気がしていた。
「それじゃ、」
「保健委員会委員長!」
スパンといい音を立てて四年の灰先輩が入って来た。
「手始めに裏山ランニングへ行って参ります!救急箱ください!」
「もう?自己紹介ちゃんとした?」
「あっ俺たちの名前言うの忘れてました!すみません」
「気をつけてね、緊張してると上手く動けなくて怪我しやすいから、後輩をちゃんと見てあげてね。」
「はい!」
バタバタ騒ぐ先輩方を尻目に、五年の蝶子先輩が伊作に説明を始めた。
「ここが医務室。顧問は新野先生なんだけど、まだいらっしゃってないの。我が保健委員会は正式名称を保健・体育委員会と言って、上から六年の保健・体育委員会委員長、五年の私と体育の方で主にやってる私の双子の兄、四年の、今入って来た彼、二年のこの子で構成されている。あなたたちが入って来て、総数七名ってとこかな」
「たくさんいらっしゃるんですね…」
「そうでもない。結局保健と体育で活動分かれてるし、実質は保健四名、体育三名で動いていくことになると思う。上になればなるほどくのたま、忍たまも少ないしね。」
「へぇ……」
そうそう、と私も頷く。
「兼任してる先輩も多くいらっしゃるんだよ。図書と生物とか。」
「お、進めてくれてたんだな、ありがとう。おいで、医務室の中を紹介するよ」
「は、はい!たいへんなようだろう先輩!」
「たいへんなよう“た“ろうね。」
伊作は頬を染め、頭を掻きつつ委員長の後を追っていく。
私は、隣で凛と立つ蝶子先輩に話しかけた。
「あの、最下級生がやる業務、私が教えてもいいですか?」
「当たり前でしょ。みんなで面倒見るんだから。上級生は実習も多くて学園にいない時もあるし。その時は頼むね。」
「はい!」
私は嬉しくて浮き足立つのを感じていた。私が入って来た時、当時三年だった灰先輩が一番近い歳の先輩だったが、いけどんな体育活動ばかりで面倒を見てもらえなかったことがしこりのように残っていた。新入生が入って来た時は、私が淋しかった分その子を可愛がってあげたいと思っていた。
丁度、保健委員会委員長が新野先生を呼ぶために部屋を出る。
「伊作!」
わくわくしながら話しかけると、彼はびっくりしたように振り返って、慣れない仕草ではにかんだ。
ああ、可愛い!
「それで?距離感間違えて早々嫌がられたわけね」
じとっと木の上を見上げる。同室がニヤニヤしながら見下ろしていた。
「ちょっと、降りてきてよ、その頬つねってやるから」
「嫌よ、私の特等席だもん。」
苛々しながら木を登り、彼女の下の枝に腰掛けて落ちないように木を跨いだ。
にやにや笑う彼女を猫の様に威嚇しつつ、伊作に思いを馳せる。
薬がどこにあるかわからずオロオロ棚を探す伊作、委員長と包帯を唄をうたいながら巻く伊作、薬草を見つけて花開いたように笑う伊作……思わず笑みがこぼれた。
「気色悪い笑い方!後輩にもっと威厳持って接せないの?」
「あたっ」
彼女が木屑を弾いて飛ばしてくる。額を押さえて私は唇を尖らせた。
「だって、どうすればいいかわからないし」
「だからって好き好き言ってたら小さくても男の子なんだから気まずくなるに決まってるでしょ。加減知らないの?まぁ知らないか。あんた不器用だしね」
「何?落とされたいの?」
がっしり木の幹を掴む。ゆさ、と軽く揺するとやめなさいよと強めに言われた。だったらあんたがやめろ。
「まあいいわ。そんなことよりさ、今度の実習どうする?私とあんたでペア組まない?」
顔を歪める。余裕綽々な彼女に向けてだった。彼女は控えめに言っても綺麗で、頭も良くて、実技の点数も一番だ。そんな彼女と一緒にペアを組むということはつまり、彼女の引き立て役になるということを意味する。
「こら、嫌な顔しない」
「だってただでさえ実習苦手だからさ……」
「お化粧手伝ったげるから」
「よしやろう!!」
あんたってほんと安いわね、彼女が鼻で笑う。どうとでも言え。これで彼女は行儀見習いだから四年目にはこの学舎を出る。誠に腹立たしいことこの上ない。
その時、木の下に伊作の姿が見えた。思わず破顔する。
「伊作!」
そう呼びかけると、彼は肩を揺らして、振り返らずに駆けていった。思わず唖然とする。
「なぜ逃げる?!」
「そりゃあ怖いでしょ、いきなり上の学年が纏わりついてくるようになったら。って聞いてないか」
聞いている。でも、体が勝手に動き出していた。擦り傷を作りながら木からずり落ちて、彼の後を追う。何か嫌なことをしたなら謝るから、お願いだから、嫌いにならないで欲しかった。
私は、あなたのことが大好きなのだから。
そう思った瞬間、目線が地面に落ちた。というか穴に落ちた。誰かが塹壕掘りの練習でもしていたのだろうが、なぜこんな時に。不運だ。
穴に落ちるのは保健委員会として慣れっこなので飛び跳ねて抜けると、伊作の姿はもう小さくなって長屋に入って行った。
忍たま長屋に入ってしまうと、くのたまの私はもう追いかけられなくなる。袴の弛みをぎゅっと掴んだ。
「ね、おかしくない?」
「この私が仕上げたんだから。文句を言うのは許さないよ」
思わず口をへの字にした。彼女、いや、今は彼だ。私たちは男装実習中だった。
「えっと、課題は女性に声を掛けて女だと気づかれないように食事すること、だったかな」
「そうそう。言葉遣い、」
「わ、わかってる」
男装は一年の頃もやったけど慣れない。気合いを入れ直して胸を張った。
そもそもペアでこの実習をするのは、この方が互いに欠点を見つけて指導し合えるからだ。粗探しをしてやろうと睨め付けるけど、同室はどこ吹く風である。
「そこ、ぶつかる」
「え、わあ!」
一瞬で鼻に鈍痛が走る。出店の柱に正面衝突してしまった。
「馬鹿、前見て歩きなさいよ」
「わかってる……」
鼻を押さえつつ、前を滲む視界で見定める。と、小さい影が目の端にかかった。ふわふわな髪が揺れている。
「あっ」
あれは、あれは…!
感動に打ち震えていると、同室は私の肩から真顔で目をやった。
「あんたが尻追いかけ回してる善法寺伊作じゃない?」
「だよね?って"尻追いかけ回してる"は余計です…」
私たちの遠く、目線の先でおどおどしている彼は、今女装実習中のようだった。
「か、」
可愛い〜!悲鳴を押し殺す。こんな時まで、と額を押さえる同室のことは無視した。
「私の実習、伊作の女装姿を見るためにあったに違いない……」
「頭沸いた?」
しかし、あまりにもそわそわしている。気になり目で追うと、大人の男性が店から出てきた。伊作が怯えた様に肩を震わせる。ぴり、と頬が引き攣る。私はいつの間にか目を見張っていた。
「私あの子にする。あんたは?」
同室はすでに興味を失い、違う方をちらりと見て呟いた。好都合、私も決めた、ちょっと別れるね、そう言って人混みを真っ直ぐ進んでいった。
「じゃあいさこちゃん、行こうか」
「あ、えと、」
「善法寺!」
はっと伊作が振り返る。酷く不安げに瞳が揺れていた。私は笑顔を作り、無理矢理声を低く出した。
「やっぱり善法寺だ!待たせたね、人が多くてなかなか進めなかったんだ!」
「……あんた、この子の知り合いかい?」
「はい、これから茶を飲む約束をしておりまして」
知ってる人?と伊作だけに聞こえる声で囁くと、伊作は目を見張って、やや傾ける様な仕草で首を振った。
一方、男は、ふうん、と私をてっぺんから下まで睨めつけるように見る。そして鼻で笑った。
「オオ、嬢ちゃん引っ掛けるにはやけに"可愛い"ガキだなぁ、な、いさこちゃん。」
伊作に親密そうに話しかけ、私は部外者だと馬鹿にしているのが見て取れる。伊作が私の裾を握った。その手を上から優しく押さえると、微かに震えていた。目がきょろきょろと落ち着かない。
私がしっかりしないといけない。いつもなら怖くて絶対にしないのに、伊作が怯えている、それだけで背筋が伸びる思いだった。
「…あはは、ひどい言い草でございますねえ。ところでおにいさん」
じ、と目で睨んで笑う。
「なんだ?」
「その手のお財布も、大変"お可愛らしい"ことで?」
びく、伊作が大きく肩を振るわせる。男が目を細くした。す、と真顔になり、睨まれる。だが、こんな人通りのあるところではまだ手は出せないだろう。先んじて手を打つため私は頭を回転させ、口に手を当てた。
「あらアびっくり!まさか大の大人がお嬢さんのお金を無心するなんて!」
わざと大きな声で言うと、目論見通り人が集まってくる。男は今度は驚いた様に目を見開いて、な、と口を開けた。
「な、な、何をふざけたことを、無礼だと思わないのか!」
鮮やかな布とちっぽけな財布を返そうとせず、命綱の様にぎゅっと握りしめている。
ハッタリといえど、どうやらあながち間違いでもないらしい。おそらく男が持っているのは学園から実習用に支給されているがま口財布だ。
何を抗うのか、そんなものが誇りであるのか、私には理解できないが、大好きで大切な後輩が泣きそうな顔をしている、それだけで私の気はむくむくと苛立ち膨れ上がっていた。今だけは虎だって倒せそうだ。
「……まだ返してくださらない?あら、そう!」
昔私の故郷で見た旅人を思い出す。確かあの人も見下す人の群れの中、毅然と笑っていたっけな。私は敵憎しと笑って口を開いた。忍としてはあるまじく、完全に頭に血が昇っていた。
「…天にあまたの理あれど、この地にある身はただ一つ。人間、この世に生まれ出ずる時はたった一人。そして、死んでいく時もたった一人でございます。…なんとも寂しいことではございませんか…」
道行く人がチラチラと目をこちらに向けるのを頬に感じて、しかし私の眼光は男の眉間を捉え、深呼吸をした。
「天に軌道のあるごとく!人それぞれに運命というものを生まれ合わせております。とかくネの干支の方は終わり晩年が色情的関係において良くない、ヒツジの男は床に飾れ、だがヘビの女は執念深い。そこで一押し二金三男という訳だ。おにいさん、失礼だがあんた、眉と眉の間即ちこの印堂に陰りがある!ということは、おカミさんの放蕩で流されている相であります。その布中々の上品でございますねえ!」
ビクッと男が手元の布を見る。ぎらぎら艶めいて、さも気を引くためのものらしかった。
「あらあの人、この前太夫に足蹴にされてた人じゃない?」
「確かに、よくよく見ると顔に見覚えがあるわ、また女の気を引こうと、涙ぐましいことね」
かしましい女のひそひそ声に、男は脂汗をかいて顔を歪めた。
慌てて財布を伊作に返すと、布も押しつけて走り去っていく。伊作は呆然としてその後ろ姿を見ていた。
男の姿が見えなくなった途端、ハッハッと息が今更上がってくる。目がぶれて、汗が吹き出す。やっと地に足がついた様な気がした。ごほごほと咳をして、赤くなった顔を隠したくて顔を伏せた。一生分の勇気を使った気がした。
「あの、大丈夫かい?もし要らないなら返金するが……」
中から御店主が出てきて、伊作が、あの、すみません、と声を途切れさせる。御店主は伊作の落ち切った肩を見て眉を下げた。
「これだけじゃあないんだよ。あの人、これと先払いで着物の仕立て注文して行ったよ」
「え!」
「よくこんな端金で大きな買い物すると思った。あんた、騙されてたんだねえ」
しみじみ呟かれて、伊作は目をうろうろさせる。
し、失礼します、と言い、掴んでいた私の裾を弾かれた様に放り出して走っていった。微かな寂寥を覚える。
「…ごめんなさい、彼女の代わりに私が」
心配そうな顔をした御店主に布と引き換えに手付金を返金してもらい、好奇の目から逃げる様に私もその場を去った。
「変な子だアな、男の真似をして」
そう訝しそうに言った御店主のことなんか知らずに。
「伊作、ここにいたんだ」
「あなたは、」
近くの橋にもたれた彼に少し笑って言う。
「私だよ。保健委員会二年の」
「〇〇先輩?!」
顔をぱっと赤らめて、伊作は目を伏せた。
「ご、ごめんなさい、ご迷惑を」
「いや良かったよ気づいて」
はい、とお金を返す。その手のお金を握りしめ、伊作が先輩、さっきの口上凄かったです、と言ってくれたが、私は頭をかくことしかできなかった。私の故郷の話はしたくなかったから、ただの下賤でてきとうなハッタリだよ、と馬鹿のように笑って見せる。伊作は、ぱちぱちと目を瞬かせてから、不意に哀しそうに呟いた。
「悪い人だったんですね、あの人は」
「どうなのかな。別にいい人、悪い人がいるわけじゃないと思うよ。私の大好きだった先輩の受け売りだけど、人間はいい時と悪い時があるから。たまたま悪い時だったんだよ」
伊作は縮こまって、小さく頷いた。
「ごめんね、実習中だったんでしょう?」
「で、でも、失敗したので……もういいんです。」
「忍たまの一年の女装実習は、男の人に贈り物をしてもらう、って課題だっけ?」
「はい……」
なるほど、歯軋りをした。どうせ後で何かあげるから、先に金を貸して欲しいとでも言われたのだろう。私は努めて笑った。
「じゃあ、付き合ってくれる?お嬢さん」
伊作は困惑した顔で私の顔を窺う。
「今から美味しいお団子屋さんに行こう。そこで奢ってあげる。」
「そんな!悪いです、」
「こっちは女の子と食事に行かなきゃいけないの。ね?お互い課題が達成出来る!悪いことないでしょ?」
「……」
伊作は俯いた。柔らかく短い襟足が風に揺れている。
途端尖っていた気持ちが萎えて、不安になってしまった。そうだ、伊作は私を避けているのだ。
「あ、無理にとは言わないよ!だって、私、本当の男の子じゃないし…」
「言われたんです」
「え?」
伊作は、申し訳なさそうに両手を合わせて、握りしめた。
「僕、〇〇先輩に甘えすぎだって」
馬鹿のようにあんぐりとする。親から餌をもらう雛だってこんなに口を開けないだろう。
「…先輩はくのたまで、これからもずっと一緒にいれるわけはないのに、いっつも面倒見てもらって、男として自立してないって。ただでさえ僕は、ひどい不運なのに……」
それは薄々気づいていた。伊作は筋金入りの不運だ。既に保健委員会の皆、それぞれ伊作と一緒にいるときに不運確率が急上昇するのは把握済みである。伊作と薬草を摘みに行くと猪に追いかけられ、命拾いして正門をくぐると落とし穴に出迎えられる。もしかしたら、卒業された前委員長の幸運の真逆に位置できるほどかもしれない。それでも。
「それでも、一緒にいたいんだよ。私の今の一番の悩み事、知ってる?」
「……え?」
「どうしたら伊作に避けられなくなるか、だよ。そればっかり」
「……なんで、先輩はそんなに優しいんですか?」
「伊作が好きだからだよ。他の保健委員会の先輩方も同じ。……きっと、忠告してくれた子は、伊作のこと、心配してくれてたんだねぇ」
「……」
伊作は、やっと、ほにゃりと安心したような顔を浮かべた。
「……僕の同室なんです。」
案の定、学園に戻ると私と伊作は減点された。だって伊作は女の子ではないし、私も男の子ではない。結局、補習になってしまった。
それでも、伊作が私を避けなくなった、それだけで私の悩み事は全て消え去っていた。
#二年、冬
すっと頬に刺す朝の冷気に瞼を震わせた。
同室を起こさぬよう、静かに体を起こす。
この学園に通い始めて、二度目の冬が来ていた。
今日は保健委員会の当番で、朝から医務室に行かなければならない。現保健委員長が卒業される前に、来年から残りの保健委員会の生徒でも肩代わりできるよう、意識を高める意味もあった。
顔を洗って服を着替え、廊下を静かに歩く。すると、まだ暗い中、ほのかに医務室から灯が漏れていた。
「二年、〇〇、入ります」
断ってから戸を開けると、中には大辺奈陽太郎保健委員長と、伊作がいた。
「やあ。もうそんな時間か、伊作、交代だよ」
「はい……」
私は眉を顰める。一年生なのに不寝番をさせているなんて。保健委員長のお考えあってのことなのか。
「ああ、そうしかめつらしないで。伊作は本当は昨日の夜までだったんだけど、僕の不寝番についてくれたんだ。」
「だって……先輩は……もうすぐ卒業されてしまうから……」
伊作が寝ぼけ眼で先輩の裾を握る。
「陽太郎先輩、約束ですよ、連れてってくださいね、」
「……ああ、わかってるよ」
だからもうおやすみ、今日は休日だからね、また行く時に呼んであげる。
陽太郎保健委員長がそう背中を優しく叩くと、伊作はつんのめったように立ち上がり、ふらふらと部屋を出ていった。
「伊作とどこかへ行かれるのですか?」
薬草の備蓄を確認しつつ、先輩に問うと、彼は困り眉をして優しく笑った。
「うん、今日の午後に少しね。慈善事業みたいなものだけど……」
保健委員長が休日に度々出掛けては何かしていらっしゃるのは知っていた。私は前のめりになってその話を聞く。
「ん、〇〇も興味あるかい?」
「はい」
「じゃあ、三人で行こうか。今日の当番が終わったら、救急箱を持って正門の前においで。」
私は思い切り頷く。残り時間は少ない。先輩から一つでも多く学び取りたかった。
「包帯はぁ〜、しっかり巻いてもきつすぎず〜」
伊作が山伏装束の委員長とにこにこ歌い歩いている。
私は伊作が先輩のひらひらした白い裾を掴んで離さない様子が可愛らしくて、可愛らしすぎて、じっと先輩の後頭部を睨んでいた。
「〇〇、そんなに眉間に皺寄せないでくれよ。こっちの手を握るかい?」
「結構です!」
む、と膨れてしまう。私は伊作に頼られるのが羨ましいのであって、伊作を押し退けて先輩を独占したいわけではない。それに、両手を後輩に握られていたら、先輩が何かにつまづいた時に身動きが取れない。
「そんなに怒らないでよ、ね。〇〇も歌って歌って?」
「……ゴホン、包帯はぁ〜…しっかり巻いてもきつすぎず〜、」
「この歌、陽太郎先輩が作られたんですよね?」
恥ずかしさに負けず、意を決して歌ったのに伊作に被せられてつんのめる。
トホホ…と体を立て直すと、先輩が伊作に微笑むのが目に映った。
「そうそう。本当は謡みたいにしたかったんだけど、このくらいがやっとだったね。」
「先輩、能にお詳しいんですか?」
伊作がキラキラと目を輝かせる。先輩は頭をかいた。
「そんな立派なものじゃないよ。前実習で忍び込んだ時に見ただけ。でも、風流で取り入る術で少しは勉強したから折角だし何かやりたくて。」
「風流で取り入る術?」
「こらこら、授業でやっただろ?」
先輩が私に目線をよこした。私は今度こそと意気揚々指を立てる。
「風流で取り入る術とは、敵の趣味嗜好に付け込むことで相手の警戒心を緩める術です。」
「たとえば転校生が来た時、その子が興味関心を持っているものを話題に出す方が初対面でも話しやすくなるだろう?相手が関心を持つものの情報を得て、そして自分がその内容を熟知し、相手に取り入るのも忍者の為せる技だよ。」
ほえ〜と口を開けて頷く伊作は、先輩を見上げている。なんだかとてつもなく悔しいが、先輩の説明の方がわかりやすいため仕方がない。私は素直に敗北を認めた。私の一喜一憂など知るはずもなく、先輩は歩く先を見通した。
「さあ、そろそろだよ。」
ごうん、とひどく獰猛な衝撃音。途端にさんざめく咆哮。不意に現実が間近に迫ってくるのを感じた。目を見開く。
「陽太郎先輩」
気づくと、私も伊作も先輩の服を掴んでいた。
「危ないからね。〇〇と伊作はここにいてくれ。簡易救護所の作り方、教えたよね?」
私は背中につと冷や汗が流れるのを感じつつ、頷いた。
そこは、合戦場だった。
出来るだけ土埃が少ない場所を探す。かと言って茂みの中は虫などにかまれる恐れもあり、衛生面で良くない。木陰になる場所を見つけ、陣地を張る。
「こちらに、」
間も無く先輩が肩を貸しつつ、足軽であろう兵士を連れてきた。伊作が顔を強張らせている。
「座ってください」
「こんなガキに、何が出来る……」
息絶え絶えに吐き出される声には苦痛と不安が混じっている。私はム、と口を歪ませた。
「痛いのに憎まれ口叩かないでください。今からどんどん手当てさせてもらいますよ。伊作、水を」
「は、はい!」
次第に人が増えていくと、自然と連れてこなくても人が寄ってくるようになった。敵味方関係なくこの場所では体を休め、横たわる人々。先輩ももうこの場所につきっきりで世話をしていた。
「伊作、少し休んでおいで。」
先輩が途中で声をかけると、伊作は困り眉で、でも、と呟いた。先輩は優しく笑う。
「声が掠れているよ。疲れただろう、水を飲んでおいで。そろそろ夜になる、合戦が一区切りついたころに帰ろう。」
横たわる兵士が先輩の裾を掴む。はい、と先輩は病者に優しく手を伸ばした。
伊作はまだうろうろと所在なく手を動かしている。私は兵士の上半身の包帯を巻き終えてから立ち上がった。
「伊作、一緒に水飲みに行こう。私たちが倒れたら元も子もない。ね。」
先輩、伊作を休ませて直ぐ戻ります。そういうと、うん、と振り向かずに声が返ってきた。
伊作の背中を押す。少し行くと小川が流れていた。ここは上流だ、毒も入れられてはいないだろう、そう判断し、喉を潤し竹筒にも水を入れる。伊作にも促すと、へっぴり腰になりながら手を伸ばす、すぐ嫌な予感がした。
「危ない!」
伊作が足を滑らす、その数瞬前に手を伸ばして伊作を引っ張る、その反動で私が小川に入ってしまった。鼻に水が入った。
「〇〇先輩!」
「…大丈夫?伊作……」
「僕は大丈夫です、でも先輩が……!ごめんなさい、」
「や、よかったよかった…」
体を持ち上げると同時に、また嫌な予感がした。立て続けだが、自然と体が動く。
「伊作!!」
飛び出すようにして伊作に覆い被さると、す、と弓矢が通っていく。
「ひぃ!」
不運にしても連続すぎる。私はつんとした鼻に顔を歪めつつ冷や汗をかいた。
「ここ、危険だね、早く戻ろう!」
伊作を引っ張って立ち上がると、ぴりっと痛みが走った。思わず顔を顰める。
「……行くよ」
「はい!」
私の若干低くなった声には気づかず、伊作は私の手をぎゅっと握っていた。
救護所が見えた時、先にすることがあるから戻って先輩を手伝って、と水筒を渡しつつ促すと、伊作は今度は私を見て心配そうな顔をした。
「服を絞って行きたいの」
そう恥ずかしそうに笑うと、伊作は顔を真っ赤にしてペコリと頭を下げて茂みの向こうに戻っていった。
私はその後頭部を見送って、座り込む。
「ひ、ねった……」
袂に入れていた包帯を取り出して、自分の足を縛る。じんじんといたんでうまく力が入らない。
「はぁ〜、不運……もっとかっこよく伊作を守れたらなぁ」
あくせく結ぼうとしても、焦りからか益々不格好になってしまう。
ああでもない、こうでもない、呟いていると、カサッと茂みから音がした。
「伊作?先に戻っててって」
いつもの調子を装い、明るく言うと、ぬ、と、虚な大きい影が現れた。
「え」
風が私の頬を切り裂く。否、苦無が耳元を掠めていた。手が震える。
大男だ。しかも、おそらく忍者。
目が、とても鋭い。
なぜ私を狙った?私を敵だと思っている?それとも、私たちが敵味方関係なく手当てしてるのを見たから?
ぐ、と捻ったままの足を動かそうにも、ひどく細い糸のような緊張感の中、指一本も動かせない。
先輩は?伊作は?無事だろうか、先輩が無事なら、伊作はきっと無事なはずだ、私は、一人だ、死ぬのか?不注意だった!格好付けずに救護所に戻ってから足の手当てをすべきだった!馬鹿だ!選択を間違えた!私は、しぬのか、
たくさんの言葉が脳裏に浮かんでは消えて、目の前が狭くなっていく。怖い、死にたくない、死にたくない、
大男がさくり、さくりと近づき、私に手を伸ばした時。
す、と清涼な風と共に、白色が目の前に立ち塞がった。
見上げると、スラリと伸びた背中。わたしは、白装束の、その影に守られる。
その対峙は、とても静かだった。
数瞬後、大男と、白装束のひとの影が連れ添うように、互いを睨みつけながら遠ざかる。大男はあの人を追って行ったようだ。
「〇〇!」
委員長が私を呼ぶ声がする。はい、と細い声を返すと、今度こそ茂みの中から先輩と伊作が顔を出した。
「そろそろ帰るよ、……だ、大丈夫かい?!」
あ、はい、と唖然としつつ言うと、先輩は私の背の木に刺さっていた苦無を勢いよく抜きつつ絶対大丈夫じゃなかったよね?!と叫んできた。
「だ、大丈夫だったんです、なんだか」
「怪我はしてないかい?あ、足を捻ってるじゃないか、」
「これは私が勝手に……」
見せてごらん、と先輩がくるくるまきかけだった包帯をといていく。私は伊作の前で子供のように扱われている恥ずかしさに肩をすくめた。
「陽太郎先輩、先輩はいつもこんな危険な場所で活動されているんですか?」
「たまにね。……連れてきて、悪かった。」
「なぜ、こんな危険なところに来られているのですか?」
単純な疑問だった。危険な場所に休みの日も自ら赴き誰かを救う、それも保健委員会の仕事なのだろうか。
「……」
先輩はちらっと私の顔を見て、申し訳なさそうに目を伏せた。
「……どうしても、会いたい人がいるんだ。」
「え、どなたですか」
「あはは、僕には絶対に会えない方だよ。今頃どうしているだろうか…」
先輩のつむじを見て、私は唸る。はぐらかされてしまった。私は先輩の山伏姿に、先ほどの影を重ねた。
「あ、そういえば、さっき助けてもらいました、誰かに」
「え!もしかして先生も来ていらっしゃったのかな」
「いえ、なんだか変な人で…白い服の…」
息を呑む。つむじを見ていたはずが、先輩の瞳がそこにあった。先輩は、ひどく切羽詰まった表情をしていた。大きな手が、私の肩をすっぽり包んでいる。あまりにも力が強くて、骨が軋んでしまいそうだった。
「どこで」
「こ、ここで、見ました、私を庇ってくれたみたいで、直ぐいなくなってしまって、」
先輩の表情が、怒っているように、悲しんでいるように、苦しい息をしつつ蠢いたあと、最後には安堵のような吐息を漏らした。
「そうか……そうか……いらっしゃっていたのか」
先輩のその顔の裏には涙が隠れているようで、私は何も言えず、ただ先輩の服を掴んでいた。
いつも穏やかで優しいはずの先輩が怖いと思ったのは、初めてだった。
「陽太郎先輩!大丈夫ですか?」
伊作が救急箱を抱えつつ先輩に話しかけた。私も大丈夫ですか、と声をかける。先輩はかぶりを振った。
「ああ、大丈夫だ、今大丈夫になったよ。さ、もう帰ろう。夕ご飯を食いっぱぐれてしまう。」
はい!と立ち上がるも、くらりとへたり込んでしまう。足が痛んでいたし、今朝は早かった。疲れが全身にまとわりついていた。
先輩は私に背中を向け、ほら、と促す。いいです、と慌てて言うも、ゆっくり行ったら遅くなってしまうよ、だから、ほら。と言われて、口をつぐんだ。
おぶわれて茜色の空の中、夜闇から逃げるように、先輩と伊作と帰り道を辿る。
心地良さに、私は郷里の両親におぶわれているような安らぎを感じて、うとうととまどろんでいた。
「陽太郎先輩」
「なんだい?伊作」
私を起こさぬよう、静かに発せられた声。伊作はまだ声変わりしておらず、夢と現の境界を漂う私の耳によく響いた。
「卒業、しないでください」
私の体が揺れる。先輩が笑っていた。
「嬉しいな、ありがとう。僕も、昔はそう思ったっけなあ。……伊作、大丈夫だよ。先輩みんながお前のことを大事に思っている。」
眠りに落ちかけながらも、私もそうだと言いたくて、先輩の肩口に頭を擦り寄せた。
ず、と鼻を啜る音が聞こえる。ああ、私も去年はあんなふうだった。先輩、先輩。に、といたずらっ子のように笑う、先代委員長。その隣で、一等嬉しそうに笑っていた、陽太郎先輩。ほろりとまなじりが暖かく濡れる。やだな、春、あんまり辛かったから、もう二度と考えないようにしていたのに。
先輩、先輩。
先輩、卒業、しないで。
「それはね、保健委員なら、みんなを分け隔てなく助けてもいいと思ったからさ」
その時は、小骨が喉に引っかかったような違和と共に、私の一番大好きな先輩が言うのだから、そうなのだろうと、正しいのだろうと思っていた。
敵味方無く接するのが保健委員なのだと。
思えば、その時から間違っていたのかもしれない。
これは、私の不運な少女時代の記録である。
#二年、春
大好きな保健委員会委員長が卒業されたことは私の小さな胸にぽっかりと大きな穴を開けたが、その穴に春風が吹き込むようにして新しい後輩達が入学してきたことは、私にとって春を切ない季節から喜びの季節へと変えるのに十分な力を持っていた。
ましてや、
「一年生が保健委員会に入ってくるんですか!?」
その情報を持ってして。
「そんなに慌てなくても、新入生は逃げたりしないよ、多分…」
保健委員会の新委員長は、穏やかに笑って頬をかいた。男らしい腕には痛々しくも包帯が巻かれている。
「だって、他の委員会は下級生がいないところもあるから、嬉しくて!」
「うんうん、優しい子だったらいいねぇ」
「わんぱくな子でも大歓迎だぞ!そしたら体育の方で動いてもらう!」
スパンと襖を開けたまま、四年の先輩が医務室へいけどんと入って来る。
私は思わずむっとしたが、先輩の後ろで粛々と閉めた。我が保健委員会は正式名称を保健体育委員会という。忍たま、くのたまの生徒が少ないため、合同で活動をまとめているのだ。体育委員会の業務は活発な活動が多く、花形ではあるが、生傷が絶えない。よって保健委員会と合併された経歴を持つ、らしい。
薬を煎じていた五年生の先輩が二人して顔を上げた。
「我が委員会の新入生は二名。一名は体育、一名は保健活動希望と聞きます。」
「その他の委員会、生物は零、会計は一、図書は二、用具は一だって!今回は兼任はなさそうですね!」
「そうそう、結構偏ったよな、生物は新入生無しで大丈夫なのかな?動物また増やすんだろ?あ、そろそろ調合変わるよ、薬研貸して」
委員長が手を伸ばすと五年生の先輩方は二人してきっと委員長を睨んだ。男女ではあるが、双子の二人は阿吽の呼吸なのである。
「駄目です。委員長、最近不運続きなんですから。先代委員長が卒業してこのかたずっと生傷絶えてないですよね」
「だからいつもは体育の方ばっかやってる俺が薬くさい部屋で我慢して頑張ってるんですから!あーあ、先代委員長は未曾有の幸運体質だったからなあ」
「悪かったな不運で……」
わはは、とみんなで笑う。その中で、心の穴にまた冷たい風が吹いた。頼れる先代委員長はもう卒業された。他の先輩も頼り甲斐のある素晴らしい方ばかりだが、私は先代保健委員会委員長が大好きで仕方なかった。
どうか、この寂しさを吹き飛ばすくらいの、よい子が入ってくれればいい。そっと願った。
後日、目の前に現れた一年生は一人。おっかなびっくり先輩たちを見上げて、肩をすくめていた。
「あれ、もう一人は?」
「もう体育の方でオリエンテーションしてます。こっちも始めちゃいましょう」
なるほど、四年、五年の先輩が一名ずついらっしゃらないのはそういうことか。新委員長はあはは、と頼りなく笑う。なかなかに空中分解しているが、これでいて要事の時には必ず集合するのだ、恐らく歓迎会はまとめてするからまたその時会えるだろうし、とりあえず問題はない。
それじゃ、と先輩が促すが、新一年生はビクッと固まってしまった。
「先輩、私たちから挨拶した方がやりやすいのではないでしょうか」
「あ、確かに。ゴホン、申し遅れました、僕は六年は組、大辺奈陽太郎です。」
「私はくのたま教室の蝶子。お蝶でもいい。今ここにはいないけど、五年は組の強面奏呵の双子の妹だよ。四年ろ組、灰水之進も兄と共に今体育委員会の方にいる。」
蝶子先輩が私の背を軽く叩いた。私は努めて笑顔で語りかけた。
「私はくのたま教室の〇〇。これからよろしくね」
目がくるくると回って混乱している伊作をみんながつついて笑う。私は伊作に対して、にっと口を開いた。
「先輩方の名前複雑だもんね、も一回繰り返して言ってあげるね。六年のたいへんなようたろう先輩、五年のしめんそか先輩と双子の妹のちょうこ先輩、四年のはいすいのじん先輩。」
うーん、わが委員会ながら、なかなか不吉な名前が多い。
微妙な顔をしていると、あちこちに飛んでいた伊作の目がやっと戻ってきた。段々と緊張がほぐれたようで、彼はやっと笑った。
「一年は組の、善法寺伊作です。将来の夢は、かさぶたになることです。よ、宜しくお願いします!」
「かさぶた?」
「はい!えっと、僕運が悪くて、怪我しょうちゅうするんですけど、かさぶたが出来たら、その度に、もう安心だ、治るよって言ってもらえて、嬉しかったから、僕もかさぶたみたいになりたいです!」
一所懸命に明るく笑う彼に、胸が甘く締め付けられた。蝶子先輩はほのぼのとした顔になり、大辺奈陽太郎保健委員会委員長は目頭を押さえている。私はというと、変なことを言う子だな、とは思ったけど、それと同じくらい、彼が可愛いと感じていた。
多分、愛されて育った子なのだろう。怪我をしても、周りの大人がちちんぷいぷいしてくれるような。
なんだか、それだけで彼を大好きになっていい気がしていた。
「それじゃ、」
「保健委員会委員長!」
スパンといい音を立てて四年の灰先輩が入って来た。
「手始めに裏山ランニングへ行って参ります!救急箱ください!」
「もう?自己紹介ちゃんとした?」
「あっ俺たちの名前言うの忘れてました!すみません」
「気をつけてね、緊張してると上手く動けなくて怪我しやすいから、後輩をちゃんと見てあげてね。」
「はい!」
バタバタ騒ぐ先輩方を尻目に、五年の蝶子先輩が伊作に説明を始めた。
「ここが医務室。顧問は新野先生なんだけど、まだいらっしゃってないの。我が保健委員会は正式名称を保健・体育委員会と言って、上から六年の保健・体育委員会委員長、五年の私と体育の方で主にやってる私の双子の兄、四年の、今入って来た彼、二年のこの子で構成されている。あなたたちが入って来て、総数七名ってとこかな」
「たくさんいらっしゃるんですね…」
「そうでもない。結局保健と体育で活動分かれてるし、実質は保健四名、体育三名で動いていくことになると思う。上になればなるほどくのたま、忍たまも少ないしね。」
「へぇ……」
そうそう、と私も頷く。
「兼任してる先輩も多くいらっしゃるんだよ。図書と生物とか。」
「お、進めてくれてたんだな、ありがとう。おいで、医務室の中を紹介するよ」
「は、はい!たいへんなようだろう先輩!」
「たいへんなよう“た“ろうね。」
伊作は頬を染め、頭を掻きつつ委員長の後を追っていく。
私は、隣で凛と立つ蝶子先輩に話しかけた。
「あの、最下級生がやる業務、私が教えてもいいですか?」
「当たり前でしょ。みんなで面倒見るんだから。上級生は実習も多くて学園にいない時もあるし。その時は頼むね。」
「はい!」
私は嬉しくて浮き足立つのを感じていた。私が入って来た時、当時三年だった灰先輩が一番近い歳の先輩だったが、いけどんな体育活動ばかりで面倒を見てもらえなかったことがしこりのように残っていた。新入生が入って来た時は、私が淋しかった分その子を可愛がってあげたいと思っていた。
丁度、保健委員会委員長が新野先生を呼ぶために部屋を出る。
「伊作!」
わくわくしながら話しかけると、彼はびっくりしたように振り返って、慣れない仕草ではにかんだ。
ああ、可愛い!
「それで?距離感間違えて早々嫌がられたわけね」
じとっと木の上を見上げる。同室がニヤニヤしながら見下ろしていた。
「ちょっと、降りてきてよ、その頬つねってやるから」
「嫌よ、私の特等席だもん。」
苛々しながら木を登り、彼女の下の枝に腰掛けて落ちないように木を跨いだ。
にやにや笑う彼女を猫の様に威嚇しつつ、伊作に思いを馳せる。
薬がどこにあるかわからずオロオロ棚を探す伊作、委員長と包帯を唄をうたいながら巻く伊作、薬草を見つけて花開いたように笑う伊作……思わず笑みがこぼれた。
「気色悪い笑い方!後輩にもっと威厳持って接せないの?」
「あたっ」
彼女が木屑を弾いて飛ばしてくる。額を押さえて私は唇を尖らせた。
「だって、どうすればいいかわからないし」
「だからって好き好き言ってたら小さくても男の子なんだから気まずくなるに決まってるでしょ。加減知らないの?まぁ知らないか。あんた不器用だしね」
「何?落とされたいの?」
がっしり木の幹を掴む。ゆさ、と軽く揺するとやめなさいよと強めに言われた。だったらあんたがやめろ。
「まあいいわ。そんなことよりさ、今度の実習どうする?私とあんたでペア組まない?」
顔を歪める。余裕綽々な彼女に向けてだった。彼女は控えめに言っても綺麗で、頭も良くて、実技の点数も一番だ。そんな彼女と一緒にペアを組むということはつまり、彼女の引き立て役になるということを意味する。
「こら、嫌な顔しない」
「だってただでさえ実習苦手だからさ……」
「お化粧手伝ったげるから」
「よしやろう!!」
あんたってほんと安いわね、彼女が鼻で笑う。どうとでも言え。これで彼女は行儀見習いだから四年目にはこの学舎を出る。誠に腹立たしいことこの上ない。
その時、木の下に伊作の姿が見えた。思わず破顔する。
「伊作!」
そう呼びかけると、彼は肩を揺らして、振り返らずに駆けていった。思わず唖然とする。
「なぜ逃げる?!」
「そりゃあ怖いでしょ、いきなり上の学年が纏わりついてくるようになったら。って聞いてないか」
聞いている。でも、体が勝手に動き出していた。擦り傷を作りながら木からずり落ちて、彼の後を追う。何か嫌なことをしたなら謝るから、お願いだから、嫌いにならないで欲しかった。
私は、あなたのことが大好きなのだから。
そう思った瞬間、目線が地面に落ちた。というか穴に落ちた。誰かが塹壕掘りの練習でもしていたのだろうが、なぜこんな時に。不運だ。
穴に落ちるのは保健委員会として慣れっこなので飛び跳ねて抜けると、伊作の姿はもう小さくなって長屋に入って行った。
忍たま長屋に入ってしまうと、くのたまの私はもう追いかけられなくなる。袴の弛みをぎゅっと掴んだ。
「ね、おかしくない?」
「この私が仕上げたんだから。文句を言うのは許さないよ」
思わず口をへの字にした。彼女、いや、今は彼だ。私たちは男装実習中だった。
「えっと、課題は女性に声を掛けて女だと気づかれないように食事すること、だったかな」
「そうそう。言葉遣い、」
「わ、わかってる」
男装は一年の頃もやったけど慣れない。気合いを入れ直して胸を張った。
そもそもペアでこの実習をするのは、この方が互いに欠点を見つけて指導し合えるからだ。粗探しをしてやろうと睨め付けるけど、同室はどこ吹く風である。
「そこ、ぶつかる」
「え、わあ!」
一瞬で鼻に鈍痛が走る。出店の柱に正面衝突してしまった。
「馬鹿、前見て歩きなさいよ」
「わかってる……」
鼻を押さえつつ、前を滲む視界で見定める。と、小さい影が目の端にかかった。ふわふわな髪が揺れている。
「あっ」
あれは、あれは…!
感動に打ち震えていると、同室は私の肩から真顔で目をやった。
「あんたが尻追いかけ回してる善法寺伊作じゃない?」
「だよね?って"尻追いかけ回してる"は余計です…」
私たちの遠く、目線の先でおどおどしている彼は、今女装実習中のようだった。
「か、」
可愛い〜!悲鳴を押し殺す。こんな時まで、と額を押さえる同室のことは無視した。
「私の実習、伊作の女装姿を見るためにあったに違いない……」
「頭沸いた?」
しかし、あまりにもそわそわしている。気になり目で追うと、大人の男性が店から出てきた。伊作が怯えた様に肩を震わせる。ぴり、と頬が引き攣る。私はいつの間にか目を見張っていた。
「私あの子にする。あんたは?」
同室はすでに興味を失い、違う方をちらりと見て呟いた。好都合、私も決めた、ちょっと別れるね、そう言って人混みを真っ直ぐ進んでいった。
「じゃあいさこちゃん、行こうか」
「あ、えと、」
「善法寺!」
はっと伊作が振り返る。酷く不安げに瞳が揺れていた。私は笑顔を作り、無理矢理声を低く出した。
「やっぱり善法寺だ!待たせたね、人が多くてなかなか進めなかったんだ!」
「……あんた、この子の知り合いかい?」
「はい、これから茶を飲む約束をしておりまして」
知ってる人?と伊作だけに聞こえる声で囁くと、伊作は目を見張って、やや傾ける様な仕草で首を振った。
一方、男は、ふうん、と私をてっぺんから下まで睨めつけるように見る。そして鼻で笑った。
「オオ、嬢ちゃん引っ掛けるにはやけに"可愛い"ガキだなぁ、な、いさこちゃん。」
伊作に親密そうに話しかけ、私は部外者だと馬鹿にしているのが見て取れる。伊作が私の裾を握った。その手を上から優しく押さえると、微かに震えていた。目がきょろきょろと落ち着かない。
私がしっかりしないといけない。いつもなら怖くて絶対にしないのに、伊作が怯えている、それだけで背筋が伸びる思いだった。
「…あはは、ひどい言い草でございますねえ。ところでおにいさん」
じ、と目で睨んで笑う。
「なんだ?」
「その手のお財布も、大変"お可愛らしい"ことで?」
びく、伊作が大きく肩を振るわせる。男が目を細くした。す、と真顔になり、睨まれる。だが、こんな人通りのあるところではまだ手は出せないだろう。先んじて手を打つため私は頭を回転させ、口に手を当てた。
「あらアびっくり!まさか大の大人がお嬢さんのお金を無心するなんて!」
わざと大きな声で言うと、目論見通り人が集まってくる。男は今度は驚いた様に目を見開いて、な、と口を開けた。
「な、な、何をふざけたことを、無礼だと思わないのか!」
鮮やかな布とちっぽけな財布を返そうとせず、命綱の様にぎゅっと握りしめている。
ハッタリといえど、どうやらあながち間違いでもないらしい。おそらく男が持っているのは学園から実習用に支給されているがま口財布だ。
何を抗うのか、そんなものが誇りであるのか、私には理解できないが、大好きで大切な後輩が泣きそうな顔をしている、それだけで私の気はむくむくと苛立ち膨れ上がっていた。今だけは虎だって倒せそうだ。
「……まだ返してくださらない?あら、そう!」
昔私の故郷で見た旅人を思い出す。確かあの人も見下す人の群れの中、毅然と笑っていたっけな。私は敵憎しと笑って口を開いた。忍としてはあるまじく、完全に頭に血が昇っていた。
「…天にあまたの理あれど、この地にある身はただ一つ。人間、この世に生まれ出ずる時はたった一人。そして、死んでいく時もたった一人でございます。…なんとも寂しいことではございませんか…」
道行く人がチラチラと目をこちらに向けるのを頬に感じて、しかし私の眼光は男の眉間を捉え、深呼吸をした。
「天に軌道のあるごとく!人それぞれに運命というものを生まれ合わせております。とかくネの干支の方は終わり晩年が色情的関係において良くない、ヒツジの男は床に飾れ、だがヘビの女は執念深い。そこで一押し二金三男という訳だ。おにいさん、失礼だがあんた、眉と眉の間即ちこの印堂に陰りがある!ということは、おカミさんの放蕩で流されている相であります。その布中々の上品でございますねえ!」
ビクッと男が手元の布を見る。ぎらぎら艶めいて、さも気を引くためのものらしかった。
「あらあの人、この前太夫に足蹴にされてた人じゃない?」
「確かに、よくよく見ると顔に見覚えがあるわ、また女の気を引こうと、涙ぐましいことね」
かしましい女のひそひそ声に、男は脂汗をかいて顔を歪めた。
慌てて財布を伊作に返すと、布も押しつけて走り去っていく。伊作は呆然としてその後ろ姿を見ていた。
男の姿が見えなくなった途端、ハッハッと息が今更上がってくる。目がぶれて、汗が吹き出す。やっと地に足がついた様な気がした。ごほごほと咳をして、赤くなった顔を隠したくて顔を伏せた。一生分の勇気を使った気がした。
「あの、大丈夫かい?もし要らないなら返金するが……」
中から御店主が出てきて、伊作が、あの、すみません、と声を途切れさせる。御店主は伊作の落ち切った肩を見て眉を下げた。
「これだけじゃあないんだよ。あの人、これと先払いで着物の仕立て注文して行ったよ」
「え!」
「よくこんな端金で大きな買い物すると思った。あんた、騙されてたんだねえ」
しみじみ呟かれて、伊作は目をうろうろさせる。
し、失礼します、と言い、掴んでいた私の裾を弾かれた様に放り出して走っていった。微かな寂寥を覚える。
「…ごめんなさい、彼女の代わりに私が」
心配そうな顔をした御店主に布と引き換えに手付金を返金してもらい、好奇の目から逃げる様に私もその場を去った。
「変な子だアな、男の真似をして」
そう訝しそうに言った御店主のことなんか知らずに。
「伊作、ここにいたんだ」
「あなたは、」
近くの橋にもたれた彼に少し笑って言う。
「私だよ。保健委員会二年の」
「〇〇先輩?!」
顔をぱっと赤らめて、伊作は目を伏せた。
「ご、ごめんなさい、ご迷惑を」
「いや良かったよ気づいて」
はい、とお金を返す。その手のお金を握りしめ、伊作が先輩、さっきの口上凄かったです、と言ってくれたが、私は頭をかくことしかできなかった。私の故郷の話はしたくなかったから、ただの下賤でてきとうなハッタリだよ、と馬鹿のように笑って見せる。伊作は、ぱちぱちと目を瞬かせてから、不意に哀しそうに呟いた。
「悪い人だったんですね、あの人は」
「どうなのかな。別にいい人、悪い人がいるわけじゃないと思うよ。私の大好きだった先輩の受け売りだけど、人間はいい時と悪い時があるから。たまたま悪い時だったんだよ」
伊作は縮こまって、小さく頷いた。
「ごめんね、実習中だったんでしょう?」
「で、でも、失敗したので……もういいんです。」
「忍たまの一年の女装実習は、男の人に贈り物をしてもらう、って課題だっけ?」
「はい……」
なるほど、歯軋りをした。どうせ後で何かあげるから、先に金を貸して欲しいとでも言われたのだろう。私は努めて笑った。
「じゃあ、付き合ってくれる?お嬢さん」
伊作は困惑した顔で私の顔を窺う。
「今から美味しいお団子屋さんに行こう。そこで奢ってあげる。」
「そんな!悪いです、」
「こっちは女の子と食事に行かなきゃいけないの。ね?お互い課題が達成出来る!悪いことないでしょ?」
「……」
伊作は俯いた。柔らかく短い襟足が風に揺れている。
途端尖っていた気持ちが萎えて、不安になってしまった。そうだ、伊作は私を避けているのだ。
「あ、無理にとは言わないよ!だって、私、本当の男の子じゃないし…」
「言われたんです」
「え?」
伊作は、申し訳なさそうに両手を合わせて、握りしめた。
「僕、〇〇先輩に甘えすぎだって」
馬鹿のようにあんぐりとする。親から餌をもらう雛だってこんなに口を開けないだろう。
「…先輩はくのたまで、これからもずっと一緒にいれるわけはないのに、いっつも面倒見てもらって、男として自立してないって。ただでさえ僕は、ひどい不運なのに……」
それは薄々気づいていた。伊作は筋金入りの不運だ。既に保健委員会の皆、それぞれ伊作と一緒にいるときに不運確率が急上昇するのは把握済みである。伊作と薬草を摘みに行くと猪に追いかけられ、命拾いして正門をくぐると落とし穴に出迎えられる。もしかしたら、卒業された前委員長の幸運の真逆に位置できるほどかもしれない。それでも。
「それでも、一緒にいたいんだよ。私の今の一番の悩み事、知ってる?」
「……え?」
「どうしたら伊作に避けられなくなるか、だよ。そればっかり」
「……なんで、先輩はそんなに優しいんですか?」
「伊作が好きだからだよ。他の保健委員会の先輩方も同じ。……きっと、忠告してくれた子は、伊作のこと、心配してくれてたんだねぇ」
「……」
伊作は、やっと、ほにゃりと安心したような顔を浮かべた。
「……僕の同室なんです。」
案の定、学園に戻ると私と伊作は減点された。だって伊作は女の子ではないし、私も男の子ではない。結局、補習になってしまった。
それでも、伊作が私を避けなくなった、それだけで私の悩み事は全て消え去っていた。
#二年、冬
すっと頬に刺す朝の冷気に瞼を震わせた。
同室を起こさぬよう、静かに体を起こす。
この学園に通い始めて、二度目の冬が来ていた。
今日は保健委員会の当番で、朝から医務室に行かなければならない。現保健委員長が卒業される前に、来年から残りの保健委員会の生徒でも肩代わりできるよう、意識を高める意味もあった。
顔を洗って服を着替え、廊下を静かに歩く。すると、まだ暗い中、ほのかに医務室から灯が漏れていた。
「二年、〇〇、入ります」
断ってから戸を開けると、中には大辺奈陽太郎保健委員長と、伊作がいた。
「やあ。もうそんな時間か、伊作、交代だよ」
「はい……」
私は眉を顰める。一年生なのに不寝番をさせているなんて。保健委員長のお考えあってのことなのか。
「ああ、そうしかめつらしないで。伊作は本当は昨日の夜までだったんだけど、僕の不寝番についてくれたんだ。」
「だって……先輩は……もうすぐ卒業されてしまうから……」
伊作が寝ぼけ眼で先輩の裾を握る。
「陽太郎先輩、約束ですよ、連れてってくださいね、」
「……ああ、わかってるよ」
だからもうおやすみ、今日は休日だからね、また行く時に呼んであげる。
陽太郎保健委員長がそう背中を優しく叩くと、伊作はつんのめったように立ち上がり、ふらふらと部屋を出ていった。
「伊作とどこかへ行かれるのですか?」
薬草の備蓄を確認しつつ、先輩に問うと、彼は困り眉をして優しく笑った。
「うん、今日の午後に少しね。慈善事業みたいなものだけど……」
保健委員長が休日に度々出掛けては何かしていらっしゃるのは知っていた。私は前のめりになってその話を聞く。
「ん、〇〇も興味あるかい?」
「はい」
「じゃあ、三人で行こうか。今日の当番が終わったら、救急箱を持って正門の前においで。」
私は思い切り頷く。残り時間は少ない。先輩から一つでも多く学び取りたかった。
「包帯はぁ〜、しっかり巻いてもきつすぎず〜」
伊作が山伏装束の委員長とにこにこ歌い歩いている。
私は伊作が先輩のひらひらした白い裾を掴んで離さない様子が可愛らしくて、可愛らしすぎて、じっと先輩の後頭部を睨んでいた。
「〇〇、そんなに眉間に皺寄せないでくれよ。こっちの手を握るかい?」
「結構です!」
む、と膨れてしまう。私は伊作に頼られるのが羨ましいのであって、伊作を押し退けて先輩を独占したいわけではない。それに、両手を後輩に握られていたら、先輩が何かにつまづいた時に身動きが取れない。
「そんなに怒らないでよ、ね。〇〇も歌って歌って?」
「……ゴホン、包帯はぁ〜…しっかり巻いてもきつすぎず〜、」
「この歌、陽太郎先輩が作られたんですよね?」
恥ずかしさに負けず、意を決して歌ったのに伊作に被せられてつんのめる。
トホホ…と体を立て直すと、先輩が伊作に微笑むのが目に映った。
「そうそう。本当は謡みたいにしたかったんだけど、このくらいがやっとだったね。」
「先輩、能にお詳しいんですか?」
伊作がキラキラと目を輝かせる。先輩は頭をかいた。
「そんな立派なものじゃないよ。前実習で忍び込んだ時に見ただけ。でも、風流で取り入る術で少しは勉強したから折角だし何かやりたくて。」
「風流で取り入る術?」
「こらこら、授業でやっただろ?」
先輩が私に目線をよこした。私は今度こそと意気揚々指を立てる。
「風流で取り入る術とは、敵の趣味嗜好に付け込むことで相手の警戒心を緩める術です。」
「たとえば転校生が来た時、その子が興味関心を持っているものを話題に出す方が初対面でも話しやすくなるだろう?相手が関心を持つものの情報を得て、そして自分がその内容を熟知し、相手に取り入るのも忍者の為せる技だよ。」
ほえ〜と口を開けて頷く伊作は、先輩を見上げている。なんだかとてつもなく悔しいが、先輩の説明の方がわかりやすいため仕方がない。私は素直に敗北を認めた。私の一喜一憂など知るはずもなく、先輩は歩く先を見通した。
「さあ、そろそろだよ。」
ごうん、とひどく獰猛な衝撃音。途端にさんざめく咆哮。不意に現実が間近に迫ってくるのを感じた。目を見開く。
「陽太郎先輩」
気づくと、私も伊作も先輩の服を掴んでいた。
「危ないからね。〇〇と伊作はここにいてくれ。簡易救護所の作り方、教えたよね?」
私は背中につと冷や汗が流れるのを感じつつ、頷いた。
そこは、合戦場だった。
出来るだけ土埃が少ない場所を探す。かと言って茂みの中は虫などにかまれる恐れもあり、衛生面で良くない。木陰になる場所を見つけ、陣地を張る。
「こちらに、」
間も無く先輩が肩を貸しつつ、足軽であろう兵士を連れてきた。伊作が顔を強張らせている。
「座ってください」
「こんなガキに、何が出来る……」
息絶え絶えに吐き出される声には苦痛と不安が混じっている。私はム、と口を歪ませた。
「痛いのに憎まれ口叩かないでください。今からどんどん手当てさせてもらいますよ。伊作、水を」
「は、はい!」
次第に人が増えていくと、自然と連れてこなくても人が寄ってくるようになった。敵味方関係なくこの場所では体を休め、横たわる人々。先輩ももうこの場所につきっきりで世話をしていた。
「伊作、少し休んでおいで。」
先輩が途中で声をかけると、伊作は困り眉で、でも、と呟いた。先輩は優しく笑う。
「声が掠れているよ。疲れただろう、水を飲んでおいで。そろそろ夜になる、合戦が一区切りついたころに帰ろう。」
横たわる兵士が先輩の裾を掴む。はい、と先輩は病者に優しく手を伸ばした。
伊作はまだうろうろと所在なく手を動かしている。私は兵士の上半身の包帯を巻き終えてから立ち上がった。
「伊作、一緒に水飲みに行こう。私たちが倒れたら元も子もない。ね。」
先輩、伊作を休ませて直ぐ戻ります。そういうと、うん、と振り向かずに声が返ってきた。
伊作の背中を押す。少し行くと小川が流れていた。ここは上流だ、毒も入れられてはいないだろう、そう判断し、喉を潤し竹筒にも水を入れる。伊作にも促すと、へっぴり腰になりながら手を伸ばす、すぐ嫌な予感がした。
「危ない!」
伊作が足を滑らす、その数瞬前に手を伸ばして伊作を引っ張る、その反動で私が小川に入ってしまった。鼻に水が入った。
「〇〇先輩!」
「…大丈夫?伊作……」
「僕は大丈夫です、でも先輩が……!ごめんなさい、」
「や、よかったよかった…」
体を持ち上げると同時に、また嫌な予感がした。立て続けだが、自然と体が動く。
「伊作!!」
飛び出すようにして伊作に覆い被さると、す、と弓矢が通っていく。
「ひぃ!」
不運にしても連続すぎる。私はつんとした鼻に顔を歪めつつ冷や汗をかいた。
「ここ、危険だね、早く戻ろう!」
伊作を引っ張って立ち上がると、ぴりっと痛みが走った。思わず顔を顰める。
「……行くよ」
「はい!」
私の若干低くなった声には気づかず、伊作は私の手をぎゅっと握っていた。
救護所が見えた時、先にすることがあるから戻って先輩を手伝って、と水筒を渡しつつ促すと、伊作は今度は私を見て心配そうな顔をした。
「服を絞って行きたいの」
そう恥ずかしそうに笑うと、伊作は顔を真っ赤にしてペコリと頭を下げて茂みの向こうに戻っていった。
私はその後頭部を見送って、座り込む。
「ひ、ねった……」
袂に入れていた包帯を取り出して、自分の足を縛る。じんじんといたんでうまく力が入らない。
「はぁ〜、不運……もっとかっこよく伊作を守れたらなぁ」
あくせく結ぼうとしても、焦りからか益々不格好になってしまう。
ああでもない、こうでもない、呟いていると、カサッと茂みから音がした。
「伊作?先に戻っててって」
いつもの調子を装い、明るく言うと、ぬ、と、虚な大きい影が現れた。
「え」
風が私の頬を切り裂く。否、苦無が耳元を掠めていた。手が震える。
大男だ。しかも、おそらく忍者。
目が、とても鋭い。
なぜ私を狙った?私を敵だと思っている?それとも、私たちが敵味方関係なく手当てしてるのを見たから?
ぐ、と捻ったままの足を動かそうにも、ひどく細い糸のような緊張感の中、指一本も動かせない。
先輩は?伊作は?無事だろうか、先輩が無事なら、伊作はきっと無事なはずだ、私は、一人だ、死ぬのか?不注意だった!格好付けずに救護所に戻ってから足の手当てをすべきだった!馬鹿だ!選択を間違えた!私は、しぬのか、
たくさんの言葉が脳裏に浮かんでは消えて、目の前が狭くなっていく。怖い、死にたくない、死にたくない、
大男がさくり、さくりと近づき、私に手を伸ばした時。
す、と清涼な風と共に、白色が目の前に立ち塞がった。
見上げると、スラリと伸びた背中。わたしは、白装束の、その影に守られる。
その対峙は、とても静かだった。
数瞬後、大男と、白装束のひとの影が連れ添うように、互いを睨みつけながら遠ざかる。大男はあの人を追って行ったようだ。
「〇〇!」
委員長が私を呼ぶ声がする。はい、と細い声を返すと、今度こそ茂みの中から先輩と伊作が顔を出した。
「そろそろ帰るよ、……だ、大丈夫かい?!」
あ、はい、と唖然としつつ言うと、先輩は私の背の木に刺さっていた苦無を勢いよく抜きつつ絶対大丈夫じゃなかったよね?!と叫んできた。
「だ、大丈夫だったんです、なんだか」
「怪我はしてないかい?あ、足を捻ってるじゃないか、」
「これは私が勝手に……」
見せてごらん、と先輩がくるくるまきかけだった包帯をといていく。私は伊作の前で子供のように扱われている恥ずかしさに肩をすくめた。
「陽太郎先輩、先輩はいつもこんな危険な場所で活動されているんですか?」
「たまにね。……連れてきて、悪かった。」
「なぜ、こんな危険なところに来られているのですか?」
単純な疑問だった。危険な場所に休みの日も自ら赴き誰かを救う、それも保健委員会の仕事なのだろうか。
「……」
先輩はちらっと私の顔を見て、申し訳なさそうに目を伏せた。
「……どうしても、会いたい人がいるんだ。」
「え、どなたですか」
「あはは、僕には絶対に会えない方だよ。今頃どうしているだろうか…」
先輩のつむじを見て、私は唸る。はぐらかされてしまった。私は先輩の山伏姿に、先ほどの影を重ねた。
「あ、そういえば、さっき助けてもらいました、誰かに」
「え!もしかして先生も来ていらっしゃったのかな」
「いえ、なんだか変な人で…白い服の…」
息を呑む。つむじを見ていたはずが、先輩の瞳がそこにあった。先輩は、ひどく切羽詰まった表情をしていた。大きな手が、私の肩をすっぽり包んでいる。あまりにも力が強くて、骨が軋んでしまいそうだった。
「どこで」
「こ、ここで、見ました、私を庇ってくれたみたいで、直ぐいなくなってしまって、」
先輩の表情が、怒っているように、悲しんでいるように、苦しい息をしつつ蠢いたあと、最後には安堵のような吐息を漏らした。
「そうか……そうか……いらっしゃっていたのか」
先輩のその顔の裏には涙が隠れているようで、私は何も言えず、ただ先輩の服を掴んでいた。
いつも穏やかで優しいはずの先輩が怖いと思ったのは、初めてだった。
「陽太郎先輩!大丈夫ですか?」
伊作が救急箱を抱えつつ先輩に話しかけた。私も大丈夫ですか、と声をかける。先輩はかぶりを振った。
「ああ、大丈夫だ、今大丈夫になったよ。さ、もう帰ろう。夕ご飯を食いっぱぐれてしまう。」
はい!と立ち上がるも、くらりとへたり込んでしまう。足が痛んでいたし、今朝は早かった。疲れが全身にまとわりついていた。
先輩は私に背中を向け、ほら、と促す。いいです、と慌てて言うも、ゆっくり行ったら遅くなってしまうよ、だから、ほら。と言われて、口をつぐんだ。
おぶわれて茜色の空の中、夜闇から逃げるように、先輩と伊作と帰り道を辿る。
心地良さに、私は郷里の両親におぶわれているような安らぎを感じて、うとうととまどろんでいた。
「陽太郎先輩」
「なんだい?伊作」
私を起こさぬよう、静かに発せられた声。伊作はまだ声変わりしておらず、夢と現の境界を漂う私の耳によく響いた。
「卒業、しないでください」
私の体が揺れる。先輩が笑っていた。
「嬉しいな、ありがとう。僕も、昔はそう思ったっけなあ。……伊作、大丈夫だよ。先輩みんながお前のことを大事に思っている。」
眠りに落ちかけながらも、私もそうだと言いたくて、先輩の肩口に頭を擦り寄せた。
ず、と鼻を啜る音が聞こえる。ああ、私も去年はあんなふうだった。先輩、先輩。に、といたずらっ子のように笑う、先代委員長。その隣で、一等嬉しそうに笑っていた、陽太郎先輩。ほろりとまなじりが暖かく濡れる。やだな、春、あんまり辛かったから、もう二度と考えないようにしていたのに。
先輩、先輩。
先輩、卒業、しないで。
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