short
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
黎明の冷たい空気が頬を撫でる。私は目を何度か瞬かせてから、体をそっと起こした。そのまま、隣で眠っている彼女の頬を人差し指の背でつついた。
「ほら、もう朝だよ。部屋に戻りな」
後輩はむずがるように唸ってから、顔を布団に沈める。
「待て待て。朝までの約束でしょう。ほら、起きて」
ため息をついて布団の中に入れておいた私の半纏を出す。目をこする彼女に被せてやってから、おはよう、と声をかけると、舌ったらずにねえさんすみません、と返ってきた。
部屋から出ていく彼女に手を振って振り向くと、衝立の向こうから同室が呆れた目を向けてきていた。もう服を着替えている。
「お、おはよう」
「おはよう。あんた達のせいで私まで起きちゃったじゃん。あんた、後輩に甘すぎだよ」
「…うむ…」
「また美味しいとこ取られても知らないからね。あの子だって可愛くてもれっきとしたくノ一のたまごなんだから。」
私は萎れつつも頷いて、肌着を脱いだ。
忍術学園の学生は行儀見習いで来ている子も多い。出自もなかなかの名だたる名主の子供から農民子供まで様々だ。それぞれの子に優劣はないが、特に女はこの時期に大きな体の変化が起こりやすい。まあ言うなれば近くに同年代の女の子がいたり、先輩がいるのは色んな意味で助かるのだ。内々の文化で擬似姉妹のような制度もできていた。
同室の"ねえさん"はそれはもう厳しいお方で、同室は夜半になっても鍛錬から帰ってこないこともざらにあった。一方私の"ねえさん"は私には全く興味がなく、私を寄せ付けない方だった。何度情報不足で頼りない思いをしたことか知れない。今になっても厠で真っ赤な血が出て仰天して、怖くて、でも誰にも聞けず、一人で泣いていた思い出で頭が痛くなる。
総合的に見て、私はそんな思いを"妹"にさせるまいと決心するに至った。
「ねえさん!」
至った、のだが。
明るい桃色の服でととと、と走り寄る様はとても可愛いが、私は後輩が持つものに目眩を覚えた。ここは食堂の前の廊下であり、くのたま、忍たま共に学年問わず通る場所であり……特に、今は一番人が混む昼の刻だ。
「ごめんなさい、ねえさんの半纏をお借りしたままで…」
「ああ、いや……」
「今お返しするべきではないのですが、今日夜分から実習とお聞きしましたので、中々お会いできないと思いまして……せめてもと思い、風呂敷に入れたのですが…」
しゅん、と肩を落とす彼女に思わず大丈夫だよ、と返してしまう。そのまま、風呂敷を受け取った。ちなみに同室はもうすでに食堂に並んでいる。
後輩が走り去るのを見届けてから振り返ると、無表情だが険しい顔が私を睨んでいた。
「ウワ!!」
思わず叫ぶと、奴は仰々しく被りを振った。
「〇〇先輩、甘い、甘すぎる。」
「た、竹谷…」
頼む、食堂からの帰りであってくれ、そう願ったのも儚く、私と彼のつま先は同じ方を向いた。とほほ…と彼の前に並ぶ。
「午後も講義があるのに荷物を先輩に押し付けて、しかも馴れ馴れしい態度でお礼は何も無し。聞けばまた先輩、後輩が寒くて寝られないからって部屋に入れたらしいですね。しかも添い寝して欲しいって言葉を聞き入れて。忍たまの一年でも流石にそんな舐めたこと言ってきたら俺は部屋から蹴飛ばしますよ。良くて話を聞いてやるくらいだ。しかも次の日の夜は実習と知っていてそんなことを平気でやってのける。本当に〇〇先輩のことを慕っているなら先輩の休息を邪魔するようなことはしません。……聞いていますか、先輩」
後ろからチクチク彼の言葉が私の耳元に流れてきた。
「聞いてる聞いてる…」
「俺の後輩の指導方針と先輩の指導方針が異なっているのは重々承知ですが、先輩ご自身をすり減らすのはやめてください。後輩は甘やかさなくても自立できます。この学園の門を潜るまで親と離れて歩いてこれたんですから。先輩、もうAランチしか残ってないので俺が言いますよ。おばちゃんAランチ二つー!俺のとこの後輩も一年が四人いますが俺が実習でいない時も動物の世話をやって、毒草園を見て…自分で動けるように指導してきました。あ、おばちゃんありがとう!おい、そこ詰めてもらっていいか?ありがとな。先輩お先に座ってください。」
あれよあれよという間にいつの間にか席に座っている。忍たまと竹谷に挟まれて私は心でつと涙を流した。
竹谷のことが苦手だ。
いや、正確に言えば、苦手になった。
彼が入学して、小さい体に溢れそうなほど大きな目できらきら蟻の行列を見ていた頃、私は彼のことをよく気にかけていた。
彼は年頃の男の子らしく、年上の女性にどぎまぎして、若い姿の山本シナ先生が現れると俊敏な獣のように隠れてしまうほどのはにかみやだった。だからこそ、一つ上でまだ歳の近い私には少し距離があるものの、まだ話ができていた。忍術学園の動物たち、毒草たちは危ないものも非常に多い。けれど危ないものに惹かれるのが男の子の性らしく、傷ばかり作って医務室に行きたがらない彼に思わず近寄ってしまった。
ちょうど自分のねえさんが、私には露ほども興味がないのを悟って、辛くなっていた時期だ。私は私のために、彼に何かしたいと傲慢にも考えていた。
彼は私に怪訝な顔をしたけれど、包帯や傷薬を渡すと、静かに受け取ってくれた。
それを何度か繰り返して、先輩、と声をかけてくれて、彼から声をかけられるのは初めてだったから緊張しながら彼の後ろをついていくと、小さな動物がいた。
「なあに、これ」
「ねこです。たぶん、近くのお屋敷から散歩しにきたんでしょう。この時間によくいます。」
手を伸ばすと、ねこが首を縮めた。竹谷が私の手を取る。
「上から触るとびっくりします。先輩も、大きな人が上から手を下ろしてきたら怖いでしょう。ゆっくり下から撫でてあげてください。」
「う、うん」
ねこは余程竹谷に懐いているようで、私を睨みながらも、竹谷の手が添えられた私の手からは逃げようとはしなかった。恐る恐る撫でると、ねこは次第に目を細める。ぱあっと心が明るくなった。
「竹谷、ありがとねえ」
「いいえ、俺も、いつもありがとうございます」
私は鼻の奥が少し痛くなった。彼なりのお礼なんだ、これが私がしてきたお節介への一つの区切りなんだと思うと、私の気持ちの寄る辺が無くなってしまうと思った。
私は狡くも、彼の顔を見ずに言葉を発した。
「竹谷、あのさあ。これからも、竹谷に声をかけていい?」
竹谷はねこじゃないから逃げないかもしれないが、やっぱり嫌だろうか。途端に萎んだ気持ちで、私は無心にねこを撫でた。
「……先輩の好きにしてください」
ぶっきらぼうに彼は言った。私は小さく胸をうたれて、へへ、と笑った。
私をちらりと一瞥して、すぐ去っていくねえさんが脳裏をよぎる。
拒絶されないのが、嬉しかった。
噂されたりしたら彼は離れていってしまう、そう思ったから彼に話しかけるのは慎重に慎重を重ねた。
特にくのたまは噂好きだ。私は、せっかく話せるようになった彼に嫌だと思われたくなかった。
「竹谷、最近怪我しなくなったね」
「まあ学年も上がったので。かぶれる毒ももうわかるようになりましたよ。」
少し口の端を上げて笑う。彼は同級生にはからっと笑うのに、女の子に対しては格好つけたがりだなあと思うと思わずくすくす笑ってしまった。
「じゃあ、もう私薬箱持ってこなくていいね。」
「そうですよ。それに先輩が困ってることがあれば言ってください。力になりますから。」
関わったら最後まで、が生物委員会の精神なんです。
そう言う彼に、私は動物かなんかか、と呆れつつも嬉しくなる。きっと、成長を見守るというのはこういうことなのだ。
彼の頭を撫でる。
「ありがとう。竹谷も何かあったら教えてね。」
竹谷は目を丸くしてから頭を振った。私は手を離してしまう。きっと睨んで彼が去ってしまう。私はその後ろ姿を呆然と眺めて、やっちゃった、と声を漏らしていた。
「セーフ!」
「はいはい、忍友は持ってる?」
「略すのやめなよ、忍たまの友でしょ…よしあった」
半纏を部屋に持って帰って、すぐに教室に戻った。
あの後もご飯を食べ終わるまでありがたい説教は続いて、昼休みぎりぎりになってしまったのだ。
忍術学園は基本忍たまの教育が基盤なので、くのたまも忍たまと同じ教本を使うことがある。私は机の上に本を開いて、一息ついた。
「体力温存しときなさいよ、放課後は実習の計画を確認してすぐ準備なんだから。」
「はあい」
友人は窓際に手をやって、音を鳴らす。
何をしているのか覗き見ると、一羽の鳥が手に降りてきていた。素早く文を結びつけて飛ばす。
「…か、かっこいい、なにそれ」
「うちの"妹"に課題出しとこうと思って。この前勉強がわからないって言ってたから。私が実習から帰ってきたらテストするの」
オオ…と私は胸を押さえる。すごいが、同室である彼女のしごきを知っているからこそ、心臓が縮んだ。
「あんたがねえさん方を反面教師にしてるのはわかるけど、ま、学ぶところもあったと思うよ、私は。」
どういう意味?そう聞き返す前に、戸が空いた。山本先生が入ってこられる。私は姿勢を正した。
彼女が彼女のねえさんの事を評価していたのは知ってはいたが、それでも私は、まだ私のねえさんに寄り添えないでいた。
私と竹谷の距離が少し空いて暫くして。私は夜中に厠で青ざめていた。股から滴り落ちる赤。今となれば無表情で処理できるそれの存在を、私は知らなかった。
痛くないのに、私は怪我をしてしまったのかもしれない。外傷か内傷か。実習で切り傷をしたところから悪いものが入ったのか、ご飯に何か紛れ込んでいて、私の臓腑を食い散らかしているのか。
「ひ」
急にお腹が痛くなった気がして、ずるずる座り込んだ。
怖い。でも誰に言おう。ねえさん、そう思ったが、あの人の目を思い出すと怖くなった。
それでも、と恐る恐る先輩の部屋に行く。何度か戸を叩いて、叩いて、悴んだ手をあたためて、そうして開かれた戸の中にいたのは、ねえさんではなくて、同室の厳しいねえさんだった。
「何」
私が固まると、あいつは今外で鍛錬中、とだけ返ってくる。あんま話しかけないほうがいいよ、苛々してるから、と。
すぐ戸は閉まり、私は身震いした。
言われた通り探すと確かに先輩はいた。身体中から殺気を放って鍛錬していた。
はっと股を押さえる。ぽた、と血が垂れていた。月夜に照らされて、私はこれ以上汚さないようにと廊下から降りる。
「誰」
しゃがみ込んだ私に影がかかる。
「あ、あの…」
先輩はきつく私を睨んだ。
「……部屋に戻りなさい」
私は感情の糸が切れてしまって、なりふり構わずに廊下に上がった。ぽた、とまた血が垂れる。きっと肌着も汚れてしまっている。もう廊下が汚れてしまってもいい。
〇〇!と私を呼んだ声がしたが、ガチガチ鳴る歯を必死に唇で引き結んで、私は部屋に戻った。
一所懸命手拭いを押入れから出して、股に挟んで横になる。まんじりともせずに夜が明けて、私はやっと起きてきた同室を頼った。
同室はびっくりして新野先生を呼んできてくれて、それから私は、色々な説明を受けた。
説明してくださった山本先生が頬を押さえて、困り眉をした。
「今まであまりこんなことはなかったのだけれど…」
私は、ぼろぼろ涙を溢した。恥ずかしかった。男の新野先生もこんな事を起き抜けに言われて居た堪れなかっただろう。誰にでも起きうる事ならば、いつでもいい、教えて欲しかった。
「あの子も、色々あってね…」
山本先生は苦笑いをした。あの子?ねえさんの事だろうか。
ねえさんの過去と私に何の関係もない。私は、ねえさんのようになるまいと、心に決めた。
「あんたのねえさん、昔面倒見てた忍たまに告られたんだって」
私は同室の顔を見上げる。夜衝立を外した部屋に、彼女の声が小さく響いた。
「今日私のねえさんが言ってた。それで、断ったら結構付き纏われたみたいで、怖くなったらしいよ、後輩付き合い」
「……じゃあ、嘘でも付き合っちゃえばよかったのに」
「それがさあ。先輩、好きだったんだって、その忍たまのこと。」
私ははあ?と底を這うような声で返した。
怒ってんね、と同室はへらへら返す。
「四年から上の先輩はね、三年生までの後輩からの告白は受けちゃいけないの。一時の気の迷いのことが多いし、行儀見習いだけで中退する子の告白なんて受けたら地獄よ。で、断ったら結構性格変わっちゃったらしくて。」
その時、少しだけ、ほんの少しだけ、ねえさんが可哀想に思えた。私は口をもごもごさせて、毒を吐き出すようにうめく。
「…じゃあ、ねえさんになんかならなかったらよかったのに」
「…本当にね」
わたしは、布団に潜り込んだ。
お腹の下がぎゅうぎゅう痛んでいた。
「……さん、〇〇さん!」
「え、あ、はい!」
『霞扇の術』
さっと微かな誰かの矢羽音が飛んでくる。ありがとう、と思うが、その瞬間に私は山本先生の目尻に皺が寄ったのを見逃さなかった。
「…この術のことを、霞扇の術、と言いますが、それに仕込む毒は?」
ピリ、と空気が詰める。ガァッと喉の奥が鳴った。確か、確か、
「……麻の実の、粉、です」
「ふむ。良いでしょう。あと、矢羽音の暗号は変えておきなさい。精進するように」
「っはあ〜びびった…」
「ってことはだよ、今日の実習でも矢羽音変えないと駄目かなあ?」
「ゃや、時間ないしまずは計画の確認しないと」
先生が部屋を出てからすぐに机が脇に避けられて、地図が広げられた。
「今日は私のとこのチームで入って印をとるから。今日がこの連日の作戦の前哨戦なんだから、失敗しないよう張り切って行くよ!」
学級委員長が声を出すと、みんなニコッと笑ってオー!と腕を上に上げた。なんだかんだ言って楽しみなのである。
「それと、〇〇のとこはこの地点で見張りを…」
私はじっと地図を見て、地形を頭に叩き込む。同室は私の肩を叩いて、私を振り向かせるとにやっと笑った。懐から武器をぼろぼろ出して、今日はどれで行く?と着せ替えごっこのように笑う。
私は呆れつつどれでもお似合いよ、とだけ返した。
私が三年生から四年生になった頃、私は親から正式に忍びを目指すよう言い渡された。
忍びになれということは、振り落とされず卒業まで生き残れということだ。親の意向を先輩に話すと、それならばと初めての妹を紹介された。
「私はもう卒業する。」
そう短く告げられた言葉に、私はもうこの人の妹ではなくなったのだと知った。
すっと風が通り抜けるように、清々しく、それでいて、何故か虚しかった。
私は初めての妹をそれはもう溺愛した。わからないという前になんでもしてあげて、もちろん女にしかわからないことを色々と伝えた。
花のような子で、私よりもませていて、時々ふとした色にはっとするような子だった。
「ねえさんは、好きな人はいるんですか?」
えっ、と声が出る。彼女は大きくて潤んだ目で私を見上げた。ませてるなあと思いつつも、私は首を振る。
「どうして?」
「竹谷先輩と仲が良いと聞いたので」
私は仰天した。竹谷と話していたのはもう一年くらい前のことだ。しかも、あれほど人目につかないようにしていたのに。本当に忍術学園は恐ろしい。
「そもそも今は全く話してないし…」
彼女は怪訝な顔をした。喧嘩でもしたのですか?と首を傾げる。
「そうだったら、まだよかったけど…私が悪いんだ、怒らせちゃって、それっきり。」
へえ、と後輩は目を瞬かせた。
その話をしていると、なんだか私のみぞおちが痛くなってきた気がした。折角懐いてくれたのに、私が台無しにしてしまった。謝れるのなら謝りたい。
ねこを探すふりをして、彼を探す。
かさっと音がして、ねこかと思ったが、それにしてはかなり大きい。
ずぼっと茂みから飛び出した男の子に私はひっくり返った。忍たま一年生の服を着ている。
びっくりしすぎて何も言えないでいる私に、彼は首を傾げた。肌の白い綺麗な子だった。
「ここは毒草園の前ですよ。危ないです」
「あ、うん、知ってる…」
「……〇〇先輩ですか?」
「あ、はい…あなたは?」
「伊賀崎孫兵です。」
しゅるりと蛇が彼の首を伝う。へび?
「わ!わあ!首!締まっちゃうよ!」
「大丈夫です。彼女は遊んでるだけですから」
ひぃー!私の知らぬうちに生物委員会は崩壊していた!
死んじゃ駄目だよ、と慌てて手を伸ばそうとするが、その手はぱっしと誰かに捉えられる。
「孫兵、虫たち見てきてくれるか、園の水やりは俺がやっとく」
「あ、はい、わかりました」
ぎくりと振り向くと竹谷がいた。彼は呆れたような目を私に向ける。
「先輩、あの蛇毒を持ってるんですから無闇に触ると危ないですよ。」
「あなたの後輩はいいの?」
「あれは孫兵に懐いてますし、あいつも覚悟だけはさせましたから。」
私は愕然とした。危ないとわかっているのに放っておくのか。しかし、被りを振って、彼をきっと見つめる。緑色の装束の彼は私の覚悟を決めた瞳に若干たじろいだようだった。
「な、何ですか」
「竹谷、ごめん!前あなたの断り無しに頭さわっちゃったから、悪かったって思って…」
「ああ、いや、別に」
竹谷は頬をかく。ほんの少しだけはにかんで、照れていた。
「なんか俺も子供だったんで…すみませんでした」
私はほっと胸を撫で下ろす。ぽかぽか心が温まった。
「よかった、竹谷に嫌われちゃったかと思った」
「え、そんなことないです、むしろ…」
そう言った瞬間彼は下唇をギ!と噛んだ。急なことだったので私はまた狼狽える。
「ど、どうしたの」
竹谷は周りに目を配って、ある一点を見て眉をつり上げてから、私の手を引いた。どんどんさっきまで孫兵がいた茂みに入って行く。
「た、竹谷?」
彼は茂みの中で振り返った。彼の背が伸びて、ちょうどくのたまでも背が高い私と同じくらい。二人とも、背の高い茂みの中ですっぽり埋まれていた。
「〇〇先輩、その、…………」
私は彼が何か言葉を探しているのだと知って、辛抱強く待った。彼の手を眺める。私の手首を掴んだ彼の手の節々は、昔よりさらに骨張っていた。ところどころ、皮がむけている。私は知らず、掴まれていない方の手で彼の手を撫でた。彼が息を呑む。
「…怪我、してないね。」
「…し、してません」
「うん、よかった」
「先輩、好きです」
私は顔を上げる。彼はそっぽを向いていた。
尋常じゃないくらいに彼の顔が赤いから、今の言葉は空耳じゃないと知る。
私は急に海に落ちたように息が苦しくなった。
それは幸せなんかではなく、困惑であった。
私は竹谷のことを可愛い後輩だと思っている。なのに、竹谷は私を好きと言った。それは、私が知る「先輩への反逆」であった。
私のねえさんだった先輩が目の端でちかちかと点滅する。
『あんたのねえさん、昔面倒見てた忍たまに告られたんだって』
『怖くなったらしいよ、後輩付き合い』
怖くなるほどの何が起きたのか、私は知らないが、ねえさんから与えられた唯一が、そんな呪いになるとは、この時まで思いもしなかった。
認めたくなくて、私はその点滅を必死に追う。まだ、あるはず。私が、ねえさんから学べたこと。
『四年から上の先輩はね、三年生までの後輩からの告白は受けちゃいけないの。』
気の迷い。私は、この困惑を、そこに落とし込むことにした。私の感情ではなく、何らかの規則に則った行動は、私を安心させた。
竹谷は、付き纏ったりなんてしない。私が大事にしてきた後輩なんだから、そんなことはしないのだ。
「ごめんね、竹谷…」
竹谷に残してしまった爪痕は、私にも平等に注がれることになる。
私が溺愛していた妹は、その後すぐに竹谷に告白した。
彼女は私の話をだんだんと聞かなくなり、ある時、彼女が竹谷と連れ立って町へ行く後ろ姿を見た。
そして、行儀見習いで中退していき、私には新しい妹が与えられた。
──そうして、私はその苦い思い出と一緒に、彼を"苦手"とした。
大事な可愛い後輩だ。その思いは揺るがない。
けれど、彼との思い出は、あらゆる後悔の香りを運んでくる。私にとっては苦すぎた。
実習でへろへろになった私は陽が地面をさすのをぼんやり見つめて、とぼとぼ学園に戻った。
前哨戦としては大成功だ。思わぬ戦闘が多かったが。
流石の同室も、今日の妹へのテストはやめとこうかな、と呟いていた。そうした方がいい。私も同室も、交代で休みを取るつもりだったがそんな暇はなかった。今すぐ眠りたい。
冷たい空気が頬を撫でる。私達はよぼよぼ門を潜って、報告だけしてから風呂に向かった。
土埃を取り去って、やっと一息つく。
何か食べ物ないか見てくる、と言った同室に頷いてから私は二人分の荷物を部屋に運ぶため、人気のない廊下をきしきし進んだ。
すぐ、部屋の前に誰かいると気づいた。
私は少しだけ笑って、その名前を呼ぶ。
「!〇〇ねえさん…」
「こら、まだ朝早いでしょう。身体冷えるから部屋に戻りなさい」
「ご、ごめんなさい…お帰りなさい、ねえさん」
私は笑って、はい、ただいま。と返す。
「どうかした?」
「あの、お手紙読んでくださいましたか?」
「手紙?」
ああ、やっぱり!と彼女は眉を下げる。
「まどろっこしいことをした私が悪かったんですが…」
「あ、もしかして半纏に挟んでたの」
「はい…」
悪かったね、すぐ見るよ、そう部屋を開けようとすると、彼女は戸にそっと手をやった。
「いいえ、どうしても、気になって、お疲れのところごめんなさい、今、お聞きしたくて…」
私は彼女の様子に尋常じゃないことを知る。彼女は周りをやけに気にしていた。この長屋では人通りも多い。人がいないであろうこの時間を狙ったのもそういうことか。
私は荷物だけ置かせて、と部屋を開けて、2人分置くのと合わせてさりげなく五色米を並べた。何事もなかったかのように部屋を出る。部屋に私がいないのを同室が気にしないように、少しの心遣いだった。
いつ彼女が言い出すかな、と一緒に歩いて廊下を進む。長屋を抜け、庭を抜け、その先…食堂はもうおばちゃんが支度をしているだろう。門の近くだと私の級友が戻ってくるかもしれない。少し考えて、裏手に回った。
やっと、空気が震えた。
「〇〇ねえさん」
私は、なあに?とできるだけ優しく声をかける。
必要のない苦痛などいらない。取り払ってあげたい。後輩に目を向ける時、あの頃泣いていた私が、そこにいるといつも思っていた。
「ねえさんは、好きな人はいるんですか?」
息が止まった。目眩がする。私は、急に思考停止する脳みそで、必死に口を開けた。
「どうして?」
「……竹谷先輩と以前とても仲が良かったと伺ったので…」
まただ。私は彼女の頭を撫でた。
「竹谷は、前、女の子と付き合ってたから…今はもう別れたかもしれないけど、聞いてあげようか?」
私が悲しまなくていいことなのに、何故か心がばらばらと壊れる。疲れているのだ、早く寝たい。切り上げたい一心で、私は優しく笑った。
「ねえさんは、竹谷先輩のことが好きなんですか?」
「え、私?」
私のことなんかどうでもいいだろう。
『先輩ご自身をすり減らすのはやめてください。』
私は軽々しく笑った。
私は竹谷が苦手だ。こんな苦い思い出ばっかり運ぶ彼が。あの眼差しが、ぶっきらぼうに照れた横顔が。私のことを、うるさくも、慮ってくれた彼が。
竹谷、なんで急に声をかけてきたんだ。あれからこうやって今まで何回か声をかけてもらったけれど、全部眉を顰めて、小言を垂れて。自分を振った私のことが気に入らないなら、無視すればいいのに。
なんだか虚しくなって、私は、竹谷のことが好きなら、直接言いなね、それまでは私も流石に言えないから、と去ろうとする。後輩は必死に私の袖を掴んだ。
「ねえさんが、竹谷先輩をお好きなのか、知りたいのです。」
私はぐわんぐわん揺れる頭の中、必死に寝たいという感情を押し込んで、へらへら笑った。
「私?私みたいなやつなんか見向きもされないよ、大丈夫だよ」
「…ねえさん!ねえさん、私は…っ」
「過分だ」
冷たい音がした。それが、男の人の声色だということを理解するのに、時間がかかった。
内心舌打ちする。くのたまだと言うのに、気づかなかった。不覚だ。気を取られすぎていた。
「竹谷先輩…」
後輩が私の袖から手を離す。
「竹谷、どこから聞いていた」
私は、もう言葉遣いにも気を配れずに彼を見つめた。
「初めから」
彼は私をちらりと見てから、私の後輩に向き直った。
「この人はお前の感情の玩具じゃない。少なくともあと二年は早い」
彼女は、顔を真っ赤にしてから、過ぎたことをいたしました。ごめんなさい、と私に頭を下げた。そしてそのまま走り去ってしまう。
「…酷いね、竹谷先輩」
「…〇〇先輩が言いますか」
彼は私に向き直ると、私の顔と手をかえすがえす眺める。
「…怪我、してませんか」
「してないよ」
「体の方は大丈夫ですか」
「…大丈夫だよ。」
先ほど風呂で検分したが、大丈夫そうだった。
良かった、と彼は呟いた。俺は、そこまでは確かめられないから、と。
静かに時間が経ってから、彼は言った。
「俺の言ったこと、わかりましたか。先輩は優しすぎる。後輩が、過分に調子に乗ります。あいつらは、自分の足で立てるんだから。」
「…そうだね、そうかもしれない。」
「先輩、俺の言うことわかってますか」
「だから、ごめんって、私の後輩が…」
「先輩、狙われてたんですよ」
ん?と私は迂闊に顔を傾ける。はぁ、とこれ見よがしに彼はため息をついた。
「〇〇先輩は知らないと思いますが、俺、昔のあの子とはもう別れてますから」
「…え?あっ、そうなんだ」
「……彼女から聞いて、先輩がなんであんなに早く俺のこと振ることができたのかも、知ってますよ。」
私はぎくり、と肩を振るわせる。
逃げたい、隠れたいのに、彼が私の手のひらを握り込んで、それはもう鎖だ。私は、半ば死んだ脳みそを抱えて、彼から逃れられない。
見ると、彼の背は伸びて、彼の肩に頭を預けるくらいが関の山だった。いつの間にこんなに成長していたんだろう。きっと、今一緒にあの茂みに入っても、彼だけ飛び出てばれてしまう。
私は、そこでやっと自分が置かれている状況を理解した。待って、と声が震える。
「待ちません。」
また、顔を真っ赤にして。それでも、今回は顔を背けなかった。つまり、私の真っ赤な顔も見られてしまう。
その次に続く言葉で、容量を超えた私の頭は壊れて、そのまま意識を失った。教育方針を間違えた、と思い知らされた。
翌日に食堂に行くと、後輩がかけてくる。
「〇〇ねえさん、昨日はごめんなさい、お疲れの中…」
「あ、いやいや…」
「……竹谷先輩、ねえさんから離れてください」
私はえっと目を丸める。寒くて眠れない、と心細そうに縮こまっていた彼女が、射殺さんばかりの勢いで私の後ろを見ている。見計らったように背後の竹谷が私の腰を抱いた。…抱いた?!
「竹谷先輩!!」
その時私は目から火花を散らすと言う言葉を初めて理解した。おそらく竹谷も私の肩口で威嚇している。
「ねえさん…あの、もし読んでいらっしゃらなかったら、その、また、別でお話ししたいので…あの手紙は、燃やしてください…」
彼女は竹谷を無視して私に向き直ったかと思うと、そうお辞儀をして、とたたとかけて行った。
私はあはは、と力無く手を振る。もう読んだ。しかも竹谷に座ったまま抱きしめられながら。熱烈な恋文であった。終わりである。
ぱっと手が離されて、私は彼と食堂に並ぶ。彼の同級生が後ろで、私の級友が前で、にやにやにやにや笑っていた。
全て終わりである。
「ほら、もう朝だよ。部屋に戻りな」
後輩はむずがるように唸ってから、顔を布団に沈める。
「待て待て。朝までの約束でしょう。ほら、起きて」
ため息をついて布団の中に入れておいた私の半纏を出す。目をこする彼女に被せてやってから、おはよう、と声をかけると、舌ったらずにねえさんすみません、と返ってきた。
部屋から出ていく彼女に手を振って振り向くと、衝立の向こうから同室が呆れた目を向けてきていた。もう服を着替えている。
「お、おはよう」
「おはよう。あんた達のせいで私まで起きちゃったじゃん。あんた、後輩に甘すぎだよ」
「…うむ…」
「また美味しいとこ取られても知らないからね。あの子だって可愛くてもれっきとしたくノ一のたまごなんだから。」
私は萎れつつも頷いて、肌着を脱いだ。
忍術学園の学生は行儀見習いで来ている子も多い。出自もなかなかの名だたる名主の子供から農民子供まで様々だ。それぞれの子に優劣はないが、特に女はこの時期に大きな体の変化が起こりやすい。まあ言うなれば近くに同年代の女の子がいたり、先輩がいるのは色んな意味で助かるのだ。内々の文化で擬似姉妹のような制度もできていた。
同室の"ねえさん"はそれはもう厳しいお方で、同室は夜半になっても鍛錬から帰ってこないこともざらにあった。一方私の"ねえさん"は私には全く興味がなく、私を寄せ付けない方だった。何度情報不足で頼りない思いをしたことか知れない。今になっても厠で真っ赤な血が出て仰天して、怖くて、でも誰にも聞けず、一人で泣いていた思い出で頭が痛くなる。
総合的に見て、私はそんな思いを"妹"にさせるまいと決心するに至った。
「ねえさん!」
至った、のだが。
明るい桃色の服でととと、と走り寄る様はとても可愛いが、私は後輩が持つものに目眩を覚えた。ここは食堂の前の廊下であり、くのたま、忍たま共に学年問わず通る場所であり……特に、今は一番人が混む昼の刻だ。
「ごめんなさい、ねえさんの半纏をお借りしたままで…」
「ああ、いや……」
「今お返しするべきではないのですが、今日夜分から実習とお聞きしましたので、中々お会いできないと思いまして……せめてもと思い、風呂敷に入れたのですが…」
しゅん、と肩を落とす彼女に思わず大丈夫だよ、と返してしまう。そのまま、風呂敷を受け取った。ちなみに同室はもうすでに食堂に並んでいる。
後輩が走り去るのを見届けてから振り返ると、無表情だが険しい顔が私を睨んでいた。
「ウワ!!」
思わず叫ぶと、奴は仰々しく被りを振った。
「〇〇先輩、甘い、甘すぎる。」
「た、竹谷…」
頼む、食堂からの帰りであってくれ、そう願ったのも儚く、私と彼のつま先は同じ方を向いた。とほほ…と彼の前に並ぶ。
「午後も講義があるのに荷物を先輩に押し付けて、しかも馴れ馴れしい態度でお礼は何も無し。聞けばまた先輩、後輩が寒くて寝られないからって部屋に入れたらしいですね。しかも添い寝して欲しいって言葉を聞き入れて。忍たまの一年でも流石にそんな舐めたこと言ってきたら俺は部屋から蹴飛ばしますよ。良くて話を聞いてやるくらいだ。しかも次の日の夜は実習と知っていてそんなことを平気でやってのける。本当に〇〇先輩のことを慕っているなら先輩の休息を邪魔するようなことはしません。……聞いていますか、先輩」
後ろからチクチク彼の言葉が私の耳元に流れてきた。
「聞いてる聞いてる…」
「俺の後輩の指導方針と先輩の指導方針が異なっているのは重々承知ですが、先輩ご自身をすり減らすのはやめてください。後輩は甘やかさなくても自立できます。この学園の門を潜るまで親と離れて歩いてこれたんですから。先輩、もうAランチしか残ってないので俺が言いますよ。おばちゃんAランチ二つー!俺のとこの後輩も一年が四人いますが俺が実習でいない時も動物の世話をやって、毒草園を見て…自分で動けるように指導してきました。あ、おばちゃんありがとう!おい、そこ詰めてもらっていいか?ありがとな。先輩お先に座ってください。」
あれよあれよという間にいつの間にか席に座っている。忍たまと竹谷に挟まれて私は心でつと涙を流した。
竹谷のことが苦手だ。
いや、正確に言えば、苦手になった。
彼が入学して、小さい体に溢れそうなほど大きな目できらきら蟻の行列を見ていた頃、私は彼のことをよく気にかけていた。
彼は年頃の男の子らしく、年上の女性にどぎまぎして、若い姿の山本シナ先生が現れると俊敏な獣のように隠れてしまうほどのはにかみやだった。だからこそ、一つ上でまだ歳の近い私には少し距離があるものの、まだ話ができていた。忍術学園の動物たち、毒草たちは危ないものも非常に多い。けれど危ないものに惹かれるのが男の子の性らしく、傷ばかり作って医務室に行きたがらない彼に思わず近寄ってしまった。
ちょうど自分のねえさんが、私には露ほども興味がないのを悟って、辛くなっていた時期だ。私は私のために、彼に何かしたいと傲慢にも考えていた。
彼は私に怪訝な顔をしたけれど、包帯や傷薬を渡すと、静かに受け取ってくれた。
それを何度か繰り返して、先輩、と声をかけてくれて、彼から声をかけられるのは初めてだったから緊張しながら彼の後ろをついていくと、小さな動物がいた。
「なあに、これ」
「ねこです。たぶん、近くのお屋敷から散歩しにきたんでしょう。この時間によくいます。」
手を伸ばすと、ねこが首を縮めた。竹谷が私の手を取る。
「上から触るとびっくりします。先輩も、大きな人が上から手を下ろしてきたら怖いでしょう。ゆっくり下から撫でてあげてください。」
「う、うん」
ねこは余程竹谷に懐いているようで、私を睨みながらも、竹谷の手が添えられた私の手からは逃げようとはしなかった。恐る恐る撫でると、ねこは次第に目を細める。ぱあっと心が明るくなった。
「竹谷、ありがとねえ」
「いいえ、俺も、いつもありがとうございます」
私は鼻の奥が少し痛くなった。彼なりのお礼なんだ、これが私がしてきたお節介への一つの区切りなんだと思うと、私の気持ちの寄る辺が無くなってしまうと思った。
私は狡くも、彼の顔を見ずに言葉を発した。
「竹谷、あのさあ。これからも、竹谷に声をかけていい?」
竹谷はねこじゃないから逃げないかもしれないが、やっぱり嫌だろうか。途端に萎んだ気持ちで、私は無心にねこを撫でた。
「……先輩の好きにしてください」
ぶっきらぼうに彼は言った。私は小さく胸をうたれて、へへ、と笑った。
私をちらりと一瞥して、すぐ去っていくねえさんが脳裏をよぎる。
拒絶されないのが、嬉しかった。
噂されたりしたら彼は離れていってしまう、そう思ったから彼に話しかけるのは慎重に慎重を重ねた。
特にくのたまは噂好きだ。私は、せっかく話せるようになった彼に嫌だと思われたくなかった。
「竹谷、最近怪我しなくなったね」
「まあ学年も上がったので。かぶれる毒ももうわかるようになりましたよ。」
少し口の端を上げて笑う。彼は同級生にはからっと笑うのに、女の子に対しては格好つけたがりだなあと思うと思わずくすくす笑ってしまった。
「じゃあ、もう私薬箱持ってこなくていいね。」
「そうですよ。それに先輩が困ってることがあれば言ってください。力になりますから。」
関わったら最後まで、が生物委員会の精神なんです。
そう言う彼に、私は動物かなんかか、と呆れつつも嬉しくなる。きっと、成長を見守るというのはこういうことなのだ。
彼の頭を撫でる。
「ありがとう。竹谷も何かあったら教えてね。」
竹谷は目を丸くしてから頭を振った。私は手を離してしまう。きっと睨んで彼が去ってしまう。私はその後ろ姿を呆然と眺めて、やっちゃった、と声を漏らしていた。
「セーフ!」
「はいはい、忍友は持ってる?」
「略すのやめなよ、忍たまの友でしょ…よしあった」
半纏を部屋に持って帰って、すぐに教室に戻った。
あの後もご飯を食べ終わるまでありがたい説教は続いて、昼休みぎりぎりになってしまったのだ。
忍術学園は基本忍たまの教育が基盤なので、くのたまも忍たまと同じ教本を使うことがある。私は机の上に本を開いて、一息ついた。
「体力温存しときなさいよ、放課後は実習の計画を確認してすぐ準備なんだから。」
「はあい」
友人は窓際に手をやって、音を鳴らす。
何をしているのか覗き見ると、一羽の鳥が手に降りてきていた。素早く文を結びつけて飛ばす。
「…か、かっこいい、なにそれ」
「うちの"妹"に課題出しとこうと思って。この前勉強がわからないって言ってたから。私が実習から帰ってきたらテストするの」
オオ…と私は胸を押さえる。すごいが、同室である彼女のしごきを知っているからこそ、心臓が縮んだ。
「あんたがねえさん方を反面教師にしてるのはわかるけど、ま、学ぶところもあったと思うよ、私は。」
どういう意味?そう聞き返す前に、戸が空いた。山本先生が入ってこられる。私は姿勢を正した。
彼女が彼女のねえさんの事を評価していたのは知ってはいたが、それでも私は、まだ私のねえさんに寄り添えないでいた。
私と竹谷の距離が少し空いて暫くして。私は夜中に厠で青ざめていた。股から滴り落ちる赤。今となれば無表情で処理できるそれの存在を、私は知らなかった。
痛くないのに、私は怪我をしてしまったのかもしれない。外傷か内傷か。実習で切り傷をしたところから悪いものが入ったのか、ご飯に何か紛れ込んでいて、私の臓腑を食い散らかしているのか。
「ひ」
急にお腹が痛くなった気がして、ずるずる座り込んだ。
怖い。でも誰に言おう。ねえさん、そう思ったが、あの人の目を思い出すと怖くなった。
それでも、と恐る恐る先輩の部屋に行く。何度か戸を叩いて、叩いて、悴んだ手をあたためて、そうして開かれた戸の中にいたのは、ねえさんではなくて、同室の厳しいねえさんだった。
「何」
私が固まると、あいつは今外で鍛錬中、とだけ返ってくる。あんま話しかけないほうがいいよ、苛々してるから、と。
すぐ戸は閉まり、私は身震いした。
言われた通り探すと確かに先輩はいた。身体中から殺気を放って鍛錬していた。
はっと股を押さえる。ぽた、と血が垂れていた。月夜に照らされて、私はこれ以上汚さないようにと廊下から降りる。
「誰」
しゃがみ込んだ私に影がかかる。
「あ、あの…」
先輩はきつく私を睨んだ。
「……部屋に戻りなさい」
私は感情の糸が切れてしまって、なりふり構わずに廊下に上がった。ぽた、とまた血が垂れる。きっと肌着も汚れてしまっている。もう廊下が汚れてしまってもいい。
〇〇!と私を呼んだ声がしたが、ガチガチ鳴る歯を必死に唇で引き結んで、私は部屋に戻った。
一所懸命手拭いを押入れから出して、股に挟んで横になる。まんじりともせずに夜が明けて、私はやっと起きてきた同室を頼った。
同室はびっくりして新野先生を呼んできてくれて、それから私は、色々な説明を受けた。
説明してくださった山本先生が頬を押さえて、困り眉をした。
「今まであまりこんなことはなかったのだけれど…」
私は、ぼろぼろ涙を溢した。恥ずかしかった。男の新野先生もこんな事を起き抜けに言われて居た堪れなかっただろう。誰にでも起きうる事ならば、いつでもいい、教えて欲しかった。
「あの子も、色々あってね…」
山本先生は苦笑いをした。あの子?ねえさんの事だろうか。
ねえさんの過去と私に何の関係もない。私は、ねえさんのようになるまいと、心に決めた。
「あんたのねえさん、昔面倒見てた忍たまに告られたんだって」
私は同室の顔を見上げる。夜衝立を外した部屋に、彼女の声が小さく響いた。
「今日私のねえさんが言ってた。それで、断ったら結構付き纏われたみたいで、怖くなったらしいよ、後輩付き合い」
「……じゃあ、嘘でも付き合っちゃえばよかったのに」
「それがさあ。先輩、好きだったんだって、その忍たまのこと。」
私ははあ?と底を這うような声で返した。
怒ってんね、と同室はへらへら返す。
「四年から上の先輩はね、三年生までの後輩からの告白は受けちゃいけないの。一時の気の迷いのことが多いし、行儀見習いだけで中退する子の告白なんて受けたら地獄よ。で、断ったら結構性格変わっちゃったらしくて。」
その時、少しだけ、ほんの少しだけ、ねえさんが可哀想に思えた。私は口をもごもごさせて、毒を吐き出すようにうめく。
「…じゃあ、ねえさんになんかならなかったらよかったのに」
「…本当にね」
わたしは、布団に潜り込んだ。
お腹の下がぎゅうぎゅう痛んでいた。
「……さん、〇〇さん!」
「え、あ、はい!」
『霞扇の術』
さっと微かな誰かの矢羽音が飛んでくる。ありがとう、と思うが、その瞬間に私は山本先生の目尻に皺が寄ったのを見逃さなかった。
「…この術のことを、霞扇の術、と言いますが、それに仕込む毒は?」
ピリ、と空気が詰める。ガァッと喉の奥が鳴った。確か、確か、
「……麻の実の、粉、です」
「ふむ。良いでしょう。あと、矢羽音の暗号は変えておきなさい。精進するように」
「っはあ〜びびった…」
「ってことはだよ、今日の実習でも矢羽音変えないと駄目かなあ?」
「ゃや、時間ないしまずは計画の確認しないと」
先生が部屋を出てからすぐに机が脇に避けられて、地図が広げられた。
「今日は私のとこのチームで入って印をとるから。今日がこの連日の作戦の前哨戦なんだから、失敗しないよう張り切って行くよ!」
学級委員長が声を出すと、みんなニコッと笑ってオー!と腕を上に上げた。なんだかんだ言って楽しみなのである。
「それと、〇〇のとこはこの地点で見張りを…」
私はじっと地図を見て、地形を頭に叩き込む。同室は私の肩を叩いて、私を振り向かせるとにやっと笑った。懐から武器をぼろぼろ出して、今日はどれで行く?と着せ替えごっこのように笑う。
私は呆れつつどれでもお似合いよ、とだけ返した。
私が三年生から四年生になった頃、私は親から正式に忍びを目指すよう言い渡された。
忍びになれということは、振り落とされず卒業まで生き残れということだ。親の意向を先輩に話すと、それならばと初めての妹を紹介された。
「私はもう卒業する。」
そう短く告げられた言葉に、私はもうこの人の妹ではなくなったのだと知った。
すっと風が通り抜けるように、清々しく、それでいて、何故か虚しかった。
私は初めての妹をそれはもう溺愛した。わからないという前になんでもしてあげて、もちろん女にしかわからないことを色々と伝えた。
花のような子で、私よりもませていて、時々ふとした色にはっとするような子だった。
「ねえさんは、好きな人はいるんですか?」
えっ、と声が出る。彼女は大きくて潤んだ目で私を見上げた。ませてるなあと思いつつも、私は首を振る。
「どうして?」
「竹谷先輩と仲が良いと聞いたので」
私は仰天した。竹谷と話していたのはもう一年くらい前のことだ。しかも、あれほど人目につかないようにしていたのに。本当に忍術学園は恐ろしい。
「そもそも今は全く話してないし…」
彼女は怪訝な顔をした。喧嘩でもしたのですか?と首を傾げる。
「そうだったら、まだよかったけど…私が悪いんだ、怒らせちゃって、それっきり。」
へえ、と後輩は目を瞬かせた。
その話をしていると、なんだか私のみぞおちが痛くなってきた気がした。折角懐いてくれたのに、私が台無しにしてしまった。謝れるのなら謝りたい。
ねこを探すふりをして、彼を探す。
かさっと音がして、ねこかと思ったが、それにしてはかなり大きい。
ずぼっと茂みから飛び出した男の子に私はひっくり返った。忍たま一年生の服を着ている。
びっくりしすぎて何も言えないでいる私に、彼は首を傾げた。肌の白い綺麗な子だった。
「ここは毒草園の前ですよ。危ないです」
「あ、うん、知ってる…」
「……〇〇先輩ですか?」
「あ、はい…あなたは?」
「伊賀崎孫兵です。」
しゅるりと蛇が彼の首を伝う。へび?
「わ!わあ!首!締まっちゃうよ!」
「大丈夫です。彼女は遊んでるだけですから」
ひぃー!私の知らぬうちに生物委員会は崩壊していた!
死んじゃ駄目だよ、と慌てて手を伸ばそうとするが、その手はぱっしと誰かに捉えられる。
「孫兵、虫たち見てきてくれるか、園の水やりは俺がやっとく」
「あ、はい、わかりました」
ぎくりと振り向くと竹谷がいた。彼は呆れたような目を私に向ける。
「先輩、あの蛇毒を持ってるんですから無闇に触ると危ないですよ。」
「あなたの後輩はいいの?」
「あれは孫兵に懐いてますし、あいつも覚悟だけはさせましたから。」
私は愕然とした。危ないとわかっているのに放っておくのか。しかし、被りを振って、彼をきっと見つめる。緑色の装束の彼は私の覚悟を決めた瞳に若干たじろいだようだった。
「な、何ですか」
「竹谷、ごめん!前あなたの断り無しに頭さわっちゃったから、悪かったって思って…」
「ああ、いや、別に」
竹谷は頬をかく。ほんの少しだけはにかんで、照れていた。
「なんか俺も子供だったんで…すみませんでした」
私はほっと胸を撫で下ろす。ぽかぽか心が温まった。
「よかった、竹谷に嫌われちゃったかと思った」
「え、そんなことないです、むしろ…」
そう言った瞬間彼は下唇をギ!と噛んだ。急なことだったので私はまた狼狽える。
「ど、どうしたの」
竹谷は周りに目を配って、ある一点を見て眉をつり上げてから、私の手を引いた。どんどんさっきまで孫兵がいた茂みに入って行く。
「た、竹谷?」
彼は茂みの中で振り返った。彼の背が伸びて、ちょうどくのたまでも背が高い私と同じくらい。二人とも、背の高い茂みの中ですっぽり埋まれていた。
「〇〇先輩、その、…………」
私は彼が何か言葉を探しているのだと知って、辛抱強く待った。彼の手を眺める。私の手首を掴んだ彼の手の節々は、昔よりさらに骨張っていた。ところどころ、皮がむけている。私は知らず、掴まれていない方の手で彼の手を撫でた。彼が息を呑む。
「…怪我、してないね。」
「…し、してません」
「うん、よかった」
「先輩、好きです」
私は顔を上げる。彼はそっぽを向いていた。
尋常じゃないくらいに彼の顔が赤いから、今の言葉は空耳じゃないと知る。
私は急に海に落ちたように息が苦しくなった。
それは幸せなんかではなく、困惑であった。
私は竹谷のことを可愛い後輩だと思っている。なのに、竹谷は私を好きと言った。それは、私が知る「先輩への反逆」であった。
私のねえさんだった先輩が目の端でちかちかと点滅する。
『あんたのねえさん、昔面倒見てた忍たまに告られたんだって』
『怖くなったらしいよ、後輩付き合い』
怖くなるほどの何が起きたのか、私は知らないが、ねえさんから与えられた唯一が、そんな呪いになるとは、この時まで思いもしなかった。
認めたくなくて、私はその点滅を必死に追う。まだ、あるはず。私が、ねえさんから学べたこと。
『四年から上の先輩はね、三年生までの後輩からの告白は受けちゃいけないの。』
気の迷い。私は、この困惑を、そこに落とし込むことにした。私の感情ではなく、何らかの規則に則った行動は、私を安心させた。
竹谷は、付き纏ったりなんてしない。私が大事にしてきた後輩なんだから、そんなことはしないのだ。
「ごめんね、竹谷…」
竹谷に残してしまった爪痕は、私にも平等に注がれることになる。
私が溺愛していた妹は、その後すぐに竹谷に告白した。
彼女は私の話をだんだんと聞かなくなり、ある時、彼女が竹谷と連れ立って町へ行く後ろ姿を見た。
そして、行儀見習いで中退していき、私には新しい妹が与えられた。
──そうして、私はその苦い思い出と一緒に、彼を"苦手"とした。
大事な可愛い後輩だ。その思いは揺るがない。
けれど、彼との思い出は、あらゆる後悔の香りを運んでくる。私にとっては苦すぎた。
実習でへろへろになった私は陽が地面をさすのをぼんやり見つめて、とぼとぼ学園に戻った。
前哨戦としては大成功だ。思わぬ戦闘が多かったが。
流石の同室も、今日の妹へのテストはやめとこうかな、と呟いていた。そうした方がいい。私も同室も、交代で休みを取るつもりだったがそんな暇はなかった。今すぐ眠りたい。
冷たい空気が頬を撫でる。私達はよぼよぼ門を潜って、報告だけしてから風呂に向かった。
土埃を取り去って、やっと一息つく。
何か食べ物ないか見てくる、と言った同室に頷いてから私は二人分の荷物を部屋に運ぶため、人気のない廊下をきしきし進んだ。
すぐ、部屋の前に誰かいると気づいた。
私は少しだけ笑って、その名前を呼ぶ。
「!〇〇ねえさん…」
「こら、まだ朝早いでしょう。身体冷えるから部屋に戻りなさい」
「ご、ごめんなさい…お帰りなさい、ねえさん」
私は笑って、はい、ただいま。と返す。
「どうかした?」
「あの、お手紙読んでくださいましたか?」
「手紙?」
ああ、やっぱり!と彼女は眉を下げる。
「まどろっこしいことをした私が悪かったんですが…」
「あ、もしかして半纏に挟んでたの」
「はい…」
悪かったね、すぐ見るよ、そう部屋を開けようとすると、彼女は戸にそっと手をやった。
「いいえ、どうしても、気になって、お疲れのところごめんなさい、今、お聞きしたくて…」
私は彼女の様子に尋常じゃないことを知る。彼女は周りをやけに気にしていた。この長屋では人通りも多い。人がいないであろうこの時間を狙ったのもそういうことか。
私は荷物だけ置かせて、と部屋を開けて、2人分置くのと合わせてさりげなく五色米を並べた。何事もなかったかのように部屋を出る。部屋に私がいないのを同室が気にしないように、少しの心遣いだった。
いつ彼女が言い出すかな、と一緒に歩いて廊下を進む。長屋を抜け、庭を抜け、その先…食堂はもうおばちゃんが支度をしているだろう。門の近くだと私の級友が戻ってくるかもしれない。少し考えて、裏手に回った。
やっと、空気が震えた。
「〇〇ねえさん」
私は、なあに?とできるだけ優しく声をかける。
必要のない苦痛などいらない。取り払ってあげたい。後輩に目を向ける時、あの頃泣いていた私が、そこにいるといつも思っていた。
「ねえさんは、好きな人はいるんですか?」
息が止まった。目眩がする。私は、急に思考停止する脳みそで、必死に口を開けた。
「どうして?」
「……竹谷先輩と以前とても仲が良かったと伺ったので…」
まただ。私は彼女の頭を撫でた。
「竹谷は、前、女の子と付き合ってたから…今はもう別れたかもしれないけど、聞いてあげようか?」
私が悲しまなくていいことなのに、何故か心がばらばらと壊れる。疲れているのだ、早く寝たい。切り上げたい一心で、私は優しく笑った。
「ねえさんは、竹谷先輩のことが好きなんですか?」
「え、私?」
私のことなんかどうでもいいだろう。
『先輩ご自身をすり減らすのはやめてください。』
私は軽々しく笑った。
私は竹谷が苦手だ。こんな苦い思い出ばっかり運ぶ彼が。あの眼差しが、ぶっきらぼうに照れた横顔が。私のことを、うるさくも、慮ってくれた彼が。
竹谷、なんで急に声をかけてきたんだ。あれからこうやって今まで何回か声をかけてもらったけれど、全部眉を顰めて、小言を垂れて。自分を振った私のことが気に入らないなら、無視すればいいのに。
なんだか虚しくなって、私は、竹谷のことが好きなら、直接言いなね、それまでは私も流石に言えないから、と去ろうとする。後輩は必死に私の袖を掴んだ。
「ねえさんが、竹谷先輩をお好きなのか、知りたいのです。」
私はぐわんぐわん揺れる頭の中、必死に寝たいという感情を押し込んで、へらへら笑った。
「私?私みたいなやつなんか見向きもされないよ、大丈夫だよ」
「…ねえさん!ねえさん、私は…っ」
「過分だ」
冷たい音がした。それが、男の人の声色だということを理解するのに、時間がかかった。
内心舌打ちする。くのたまだと言うのに、気づかなかった。不覚だ。気を取られすぎていた。
「竹谷先輩…」
後輩が私の袖から手を離す。
「竹谷、どこから聞いていた」
私は、もう言葉遣いにも気を配れずに彼を見つめた。
「初めから」
彼は私をちらりと見てから、私の後輩に向き直った。
「この人はお前の感情の玩具じゃない。少なくともあと二年は早い」
彼女は、顔を真っ赤にしてから、過ぎたことをいたしました。ごめんなさい、と私に頭を下げた。そしてそのまま走り去ってしまう。
「…酷いね、竹谷先輩」
「…〇〇先輩が言いますか」
彼は私に向き直ると、私の顔と手をかえすがえす眺める。
「…怪我、してませんか」
「してないよ」
「体の方は大丈夫ですか」
「…大丈夫だよ。」
先ほど風呂で検分したが、大丈夫そうだった。
良かった、と彼は呟いた。俺は、そこまでは確かめられないから、と。
静かに時間が経ってから、彼は言った。
「俺の言ったこと、わかりましたか。先輩は優しすぎる。後輩が、過分に調子に乗ります。あいつらは、自分の足で立てるんだから。」
「…そうだね、そうかもしれない。」
「先輩、俺の言うことわかってますか」
「だから、ごめんって、私の後輩が…」
「先輩、狙われてたんですよ」
ん?と私は迂闊に顔を傾ける。はぁ、とこれ見よがしに彼はため息をついた。
「〇〇先輩は知らないと思いますが、俺、昔のあの子とはもう別れてますから」
「…え?あっ、そうなんだ」
「……彼女から聞いて、先輩がなんであんなに早く俺のこと振ることができたのかも、知ってますよ。」
私はぎくり、と肩を振るわせる。
逃げたい、隠れたいのに、彼が私の手のひらを握り込んで、それはもう鎖だ。私は、半ば死んだ脳みそを抱えて、彼から逃れられない。
見ると、彼の背は伸びて、彼の肩に頭を預けるくらいが関の山だった。いつの間にこんなに成長していたんだろう。きっと、今一緒にあの茂みに入っても、彼だけ飛び出てばれてしまう。
私は、そこでやっと自分が置かれている状況を理解した。待って、と声が震える。
「待ちません。」
また、顔を真っ赤にして。それでも、今回は顔を背けなかった。つまり、私の真っ赤な顔も見られてしまう。
その次に続く言葉で、容量を超えた私の頭は壊れて、そのまま意識を失った。教育方針を間違えた、と思い知らされた。
翌日に食堂に行くと、後輩がかけてくる。
「〇〇ねえさん、昨日はごめんなさい、お疲れの中…」
「あ、いやいや…」
「……竹谷先輩、ねえさんから離れてください」
私はえっと目を丸める。寒くて眠れない、と心細そうに縮こまっていた彼女が、射殺さんばかりの勢いで私の後ろを見ている。見計らったように背後の竹谷が私の腰を抱いた。…抱いた?!
「竹谷先輩!!」
その時私は目から火花を散らすと言う言葉を初めて理解した。おそらく竹谷も私の肩口で威嚇している。
「ねえさん…あの、もし読んでいらっしゃらなかったら、その、また、別でお話ししたいので…あの手紙は、燃やしてください…」
彼女は竹谷を無視して私に向き直ったかと思うと、そうお辞儀をして、とたたとかけて行った。
私はあはは、と力無く手を振る。もう読んだ。しかも竹谷に座ったまま抱きしめられながら。熱烈な恋文であった。終わりである。
ぱっと手が離されて、私は彼と食堂に並ぶ。彼の同級生が後ろで、私の級友が前で、にやにやにやにや笑っていた。
全て終わりである。