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瞬きする。その一瞬、視界がぼやけて、私は眉を顰めた。左目を瞑る。はっきり。右目を瞑る。ぼんやり。
「やっぱり、います」
リリーさんは、同じように正座で私と膝を突き合わせたまま、ウム、と頷いた。ウウム、だったかもしれない。リリーさんの感情は、彼女が興味があるもの以外に対しては非常にわかりにくい。
「そなたの目には龍がおるな」
初めはすわ病気か怯えたものだが、山野先生に相談したところ、私の左目に何かが入り込んでいるらしい。白いものが瞳の中で泳いでいると。なんだそれは。
とにかく同じくノ一のリリーさんに報告して対処法を仰ぐのが良かろうと諭され、私はとぼとぼ歩いてきたのである。
「どうすれば良いでしょうか、このままじゃ忍務にも差し障ります」
「目を布ででも覆い隠しておけば良かろう。」
「そんな、相手との距離を掴めなくて困ります、どうにかして龍を追い出すことは出来ないのでしょうか?」
「しつこい!そう言われても、無いものは無い!」
あああ〜…がくん、と肩が下がるが、リリーさんは既に杖を取り出して、ほっほっほ、と歩き始めていた。
一人になった小屋の中で、体勢を持ち直して左目をさする。
「お前、どうしてこんなところに入っちゃったの」
ぼやけた視界で、私はため息をついた。
自分の体が思うようにならないと、言い知れぬ不安が押し寄せてくる。私の目にいるのは本当に龍なのか、山野先生、リリーさん、皆して私が病気なのを隠しているのではないか。これじゃあ忍者の三病もいいところだ。
とりあえず片目でも当てられるよう、手裏剣を打つ練習をしていると、〇〇、と声がかけられた。
「与四郎、修行お疲れ様」
よ、と手を挙げる彼は、私の目をまじまじと眺めた。
「目の中に龍が潜り込んだって言うのは本当か?」
「そうそう、見てよこれ」
布をするりと外して彼を見つめる。すると、視界がやけにはっきりしていた。わたしは思わず目を見開く。
「なーんも、映ってるように見えねぇけどなぁ」
「嘘、いなくなった」
「ええ?」
彼が眉を顰めるのも無理はない、が、わたしは密かに好意を寄せている彼から疑心暗鬼の目で見られて、少し悲しくなってしまった。
「与四郎〜」
「仁之進」
じゃらじゃら錫杖の音が響く。振り返ると仁之進だ。
「お前、まだ着替えてなかったのか」
「だって、今戻ってきたんだから、疲れちゃったんだもん…」
私はあらあらと眉を下げる。何かなかったか、近くの腰掛け岩に置いていた荷物を探ると、後で食べようと思っていたお饅頭が出てきた。
「仁之進、これあげる」
地面にへたり込んでいた彼が顔を上げた瞬間に差し出すと、彼の顔がぱあっと輝くのがわかった。思わずにっこりしてしまう。老けた顔をしていても、どうにも可愛らしい。
「ありがとうございます〇〇さん、あっ、目に龍が入り込んだとか?」
「らしいんだけど、いなくなったかも…」
思わず尻すぼみな口調になってしまう。が、瞬きした瞬間また目がぼやけた。
もらった饅頭を頬張りながら、仁之進が花火でも眺める町民のようにおお、と簡単の声を上げた。
「確かに、綺麗な白龍だ。」
「え?!」
背後で素っ頓狂な声がして、腕を引かれる。
ぐりんと回転させられ、間近に与四郎の顔がくるが、彼はまた眉を顰めた。
「いないじゃないか」
私は頬を掻く。視界がはっきりしていた。
「今目の前はっきりしてる。もしかしたら、与四郎のこと避けてるのかも?」
「龍が?そんな馬鹿な」
「まあまあ、いいじゃないですか。与四郎、リリー婆さんからお願いだってよ」
「リリー婆さんから?わかった、すぐ行く」
私は彼にも饅頭をあげる。お前の龍、見たかったな、と言われて見世物じゃないんだけど?と唇を尖らせると、冗談だ、と笑われた。
「まあ、きっとすぐ人見知りなおして出てきてくれるよ。私としては出てきてもらっちゃ困るけど…」
そう手を振ると、違いない、と彼は頷いて、風のように走り去ってしまった。
「さてと、」
「仁之進ももう行っちゃうの?」
「ええ、風魔流忍術学校は万年人手不足ですからねえ」
「そりゃあ…あ、頬にお菓子のかす付いてるよ」
ああ、と恥ずかしがる彼にまた笑ってしまう。するとまた視界がぼやけた。今度は右目だ。私は密かに息を呑む。
へへ、と頭を掻く彼が、龍のことですけど、と言って口を開いた。
「なんで与四郎には見えないんだろう」
「本当に。おかげさまでとんでもない嘘つきになった気分だったよ、こんなに困ってるのに。ねえ、龍ちゃん」
「もしかしたら、人見知りじゃなくて、嫉妬してるのかもしれませんね。」
私は彼をまじまじ見返した。
「どう言うこと?」
「だって〇〇さんは、与四郎のことが好きなんでしょう?」
わっと顔が熱くなると同時に目の前が大きくぶれた。
「あ、泳いでる泳いでる」
「な、なんでそれを」
「そりゃあわかりますよ、まあでも与四郎は恋沙汰に興味なさそうだから気づいてないと思いますよ」
かっかと照る頬をそのままに私は額を押さえた。なんとこの龍とやら、人のこころの機敏にも詳しいらしい。これでは、与四郎に龍など見せられそうにない。額を押さえてはあと息をついた。
幼い頃から繰り返し悪夢を見る。悪夢と言っても、思い出が反芻されるだけだが。
昔、風魔の里の忍びが大量に暗殺されたことがあった。私の父も、その中に含まれていた。これは珍しいことではなかった。その頃の私と同年代の里の子供は、皆似たような境遇だったのだ。
それでも、皆悲しいのだからあなたも泣くのではないと言われても、涙は自然に出るもので。放課後、ボロボロ泣いていると、与四郎が横に座ってくれた。
彼は早熟の人だから、いつも他の忍びのたまごよりもやや大人びており、私をちゃちな冗談で笑わせることも、叱りつけることもなく、ただ隣に座っていた。
いつか、聞いたことがある。
「与四郎、先生に言われたの?」
「なんで」
「私のそばにいてくれるから。じっとしてるだけでつまらないのに。」
与四郎はその時初めて困ったような顔をした。なんでかなあ、と呟いてもいた。
「でも、怒らないでくれてありがとう」
涙声でそう告げると、与四郎は爽やかに笑顔を作って、私の頭に手を置いた。
「おれはお前を置いていかない。だから、元気出してくれ。」
じわりと温かい手に目の前が余計に綻ぶ。うん、そう言ってあとは首を縦に何度も振った。
その言葉に絶対はないことを理解していた。
ただでさえ厳しい修行。風魔流忍術学校で六年もの時を過ごすと言うことは、そのまま実践に駆り出されると言うことだ。
悪夢を見る。頭を撫でられた私が、一所懸命に笑顔になって顔を上げると、白くまっさらな山伏装束を着たあなたがいる。
ぱらぱらと、染みるように、絵を描くように、血が滲んでいく。
染まっていく白布をぼんやりと眺めて、私はそれがいつしか死装束に変わっていることに気がつくのだ。
「っ、」
はあ、はあ、はあ、大きく息を吸う、吐く。
幼い頃は混乱から与四郎の顔を見て無事を確認するまで泣き喚いていたものだが、今ではうまく付き合えるようになったものだ。それでも、身の毛もよだつ恐怖だけは、ずっと胸に潜んでいる。
ぱち、ぱち、目を瞬かせると、また視界がぼやけた。悪夢の後だとうんざりするが、まだ龍は私のもとに棲みついているようだった。
「〇〇〜!!」
仰向きの姿勢から飛び起きる。リリーさんの声だ。
「はあい!」
「な〜にぐずぐず寝ておる!今日は喜三太が帰ってくる日じゃ!準備を手伝え!」
「ただいま参ります!」
嫌な気持ちも吹っ飛んでしまった。私は苦笑いで頭を掻く。急いで服を着替え、リリーさんのもとに向かった。
リリーさんは喜三太のことになると周りが見えなくなるきらいがあるから、私はほとほと呆れて、それでも愛されている彼のことを思うと、ほっと胸がほどけるような安堵を覚える。
「ああ、待ち遠しいの、帰ってきたらもう向こうには行かせたくないんじゃが…」
ここで、リリーさん、喜三太にも友達がいますし、なんて言おうものなら彼女を怒らせることは必須だ。私はなあなあに笑って野菜を切る。
それでも、リリーさんには悪いが、喜三太は本当に忍術学園に行って良かったと思う。風魔流忍術学園の山野先生はとても優秀な方だが、あまりにも人手が少ない。カエルの餌になるナメクジが可哀想だと壺を抱き抱えていた喜三太を思い出す。あの優しい子が、どうかできるだけ長い時間優しいまま育ってほしかった。
「こらぁ!鍋が吹きこぼれるぞ!」
「ああ〜はいはい!」
目がぼやけて湯気なのかよくわからないが、いつも手が覚えているように食材を投入していく。
「ン、これにわしのとっておきの…」
「あらあらリリーさん、喜三太がそろそろ帰ってくる時間ですよ、ここは私に任せて!」
「ん?そうか、それなら早く持ってくるんじゃぞ!そのイナゴも入れておくのじゃ」
ざるの中でわさわさ動くイナゴを渡され、私は苦笑いをした。リリーさんの影が消えてからイナゴは入れずに鍋に蓋をする。ぷすぷすと落とし蓋の向こうで泡が弾ける音が楽しく響いた。
外では、ハッタリだったにも関わらず、大騒ぎする声が響いていた。おそらく喜三太が帰ってきたのだろう。嬉しくて、小唄を口ずさんだ。
「ふふ、キュル、キュル」
は?思わず目を見開いて口を抑える。その途端、抑えた右腕がぞわりと泡立った。
ぎょっとして腕を見ると、驚くことに、白いしみのような龍が、するすると泳いでいた。一瞬気が遠くなる。
「こら!ちょっと、じっとしなさい!」
蚊を叩くように左手でパチンパチンと抑えても、ぬるぬると龍は体をめぐり、気がつくとまた目がぼやけていた。これは思った以上に大物だ、私は暑い厨にいるにも関わらず、背中に冷たい汗をかいた。
いつの間にか蓋がごとごと鳴っており、慌てて戸を開け、分厚い手拭いを持って鍋に駆け寄る。眩しさに目を細めつつえっちらおっちら外に出ると、まだ荷もほどいていない喜三太がにこにこリリーさんと話していた。
積んであった木の枝の近くに鍋をそっと下ろす。
「あっ、〇〇姉ちゃん!」
「喜三太!久しぶり!元気にしてた?」
わあっと駆け寄ってくる彼を体で受け止める。私はしゃがんで、喜三太の頭をぐりぐり撫でた。
「聞かなくてもわかるね、喜三太、男前になったんじゃない?」
「え!ほんと?」
「ほんとほんと、かわいいほっぺしちゃって〜」
「あ!〇〇姉ちゃん僕のことからかったでしょ!」
わはは、と笑っていると、リリーさんが音もなく私の隣に立っていた。一瞬で真顔になる。
「き、喜三太、ご飯出来てるよ、リリーさんが朝から張り切ってたからね!」
「ほんと!リリーばあちゃんありがとう!」
「ほっほっほ、いいんじゃよ、さ、他のみんなにも挨拶がてら呼んでおいで」
「うん!」
私は小さく手を振る。と、リリーさんが私の名前を呼んだ。
「は、はい!」
「そう驚くでない。怒っとりゃせぬわ、喜三太がわしとの話を切ってまでそなたに駆け寄ったことなど…」
へへ、と引き攣り笑いをすると、目の前に青銅の丸い何かが差し出された。
「これは、」
「わしが持っていた鏡じゃ。少し曇ってはいるが、まあ見えるじゃろうし、渡しておく。」
呆然と受け取り、自身の顔を眺める。確かに、瞳に切れ切れと龍の姿が見えた。
「あ、ありがとう、ございます…」
「して、何か変わりは?」
「…それが、目だけでなく、腕や、口にも…」
「口?ならば出ていかなかったのか?」
私はこっくり頷く。フム、とリリーさんは頭を傾げた。
「龍は龍でも何の類の妖か、ともすれば神か…分かれば良いのじゃがな…」
私は思わずうるっと涙してしまう。リリーさん、いつも素っ気ないのに、ちゃんと考えていてくださったのか。彼女はいずれにしても、と腰をポキポキ鳴らした。
「早く解決せんことには喜三太の興味がそちらに削がれてしまう」
思わずずっこけてしまったのは言うまでもなかった。
ご飯を食べながら歓談していると、喜三太はきょろきょろ辺りを見回した。
「どうしたの?」
「与四郎先輩は?」
「今忍務中。昨晩出たから、もう直ぐ帰ってくるよ」
するりと風が舞う。拍子に目を瞬かせると、視界がはっきりとした。
「喜三太!いさしかぶり!」
「お久しぶりです!与四郎先輩!」
「お疲れ様、ご飯出来てるよ」
そう声をかけると、にっこり彼が笑い返してきた。私はそれだけで浮き足立ってしまう。すると、
「あいたたたた!」
「〇〇姉ちゃん?」
背中が引っ張られたように痛んだ。私の手を取って、大丈夫?!と心配してくれる喜三太を撫でて、だ、大丈夫大丈夫…と声を返す。
「体痛めちゃったかも…」
「え!それは大変!リリーばあちゃん、〇〇姉ちゃん中に連れてっていい?」
「おお、優しい子じゃ喜三太。良い良い。行っておいで」
あああ〜…若干涙目で喜三太の手に引かれるまま箸を置く。与四郎とは話す間もなく、私は布団の中に押し入れられてしまった。
「〇〇姉ちゃん、手紙で聞いたよ、龍が入り込んじゃったんだって?」
「うん…心配かけた?ごめんなさい」
「そんなあ、でも、本当に与四郎先輩の前じゃいなかったのに、今は泳いでる。」
喜三太は、いつも私がするように、横たわる私の頭を撫でてにっこりほほえんだ。
「きっと〇〇姉ちゃんのことが大好きなんだね。」
そうかなあ、私はほとほと困って天井を見上げた。
喜三太を迎えて、どんちゃんやっている間は修行がお休みになる。まあ、忍術学園までは遠いので、明日には喜三太は出立してしまうが。
リリーさんは喜三太のそばで話をすることに一日中夢中になり、山野先生、仁之進は久しぶりにできた休みにほっかりとお酒を飲み、くうくう眠り始めてしまった。
いつしか喜三太もうとうとすると、私はリリーさんと喜三太に温かいお湯を湯呑みに入れて出して、それを飲み干したのを合図に二人まとめて部屋へ見送る。思わずくすりと笑顔になりながら後ろ姿を眺めた後、食器を片付けていると、後ろからことりと音がした。
「与四郎、お疲れ様」
「疲れたのはおれじゃなくてお前のほうだろ、ほれ、皿洗いか」
息をつきながら近寄ってくる、その距離に私はわかりやすく動揺した。心なしか今は体のどこかにいる龍もざわめいている。
「い、いいよ!のんびりやろうと思ってたし」
「じゃあおれものんびりお前と話しながらするさ」
そう言って桶のそばにしゃがみ皿洗いをする彼に胸が締め付けられる。それを隠して、私は何でもないように笑った。
「与四郎、喜三太とお話できた?」
「んー?…まぁ、リリー婆さんが最優先だからなぁ、ま、おれは忍術学園に行く時もあるし、会える機会が多いからいいんだ」
「羨ましいなあ、私、そこまで遠くは行ったことないから」
「簡単な旅路とは言えんからなあ」
「喜三太について行って、一度でいいから見てみたいと気もするけどね、私と同じくノ一とか、喜三太のお友達とか…」
「その時はおれが連れて行ってやるさ」
嬉しい。こころが泡立って、速くなった鼓動に、何気なく爪先立ちになって、静かに踵を下ろした。
「でもなあ、与四郎さんは引っ張りだこだからなあ」
「なんだあ、他人行儀にしちゃって」
「ふふ、昨晩だって、急に呼びだてされて、忍務で忙しかったんでしょう?」
「あー…まあ、そりゃあ山野先生も、いつもの感じでおれを呼んでしまうだけだよ」
私はきゅっと口を結んだ。先生が近くにいるうちはまだ大丈夫、そう言い聞かせて。
あのね。何度言おうとしたかわからない。
夢を見るんだよ。そんなこと言っても困らせてしまうだけだ。
ねえ、私を置いていかないで。そんなの、唯の我儘だ。
「ん、こっちは終わった、あとは?」
私ははっと顔を上げた。私もあと一枚で洗い物は終わりだった。
「…与四郎、」
「ん?」
「…あ、あのね…」
私は、渇いた唇を引き結んで、舌で濡らした。
「…どうした」
するりと左脚を龍が伝い落ちていく感触がした。私はにっこり笑う。
「これ、私からのお礼。リリーさんと、喜三太の分のあまりだから、少しぬるいけど。」
もう火は落としたから、と、湯呑みに二人分白湯を注ぐ。
「これでゆっくり眠れるよ。」
与四郎は訝しげな顔をしたけど、ありがとう、と律儀に言って口元に湯呑みを運んだ。
それから、ことりと湯呑みを置いて、与四郎は懐に手を入れた。
「〇〇、」
「ん、なあに?」
する、と、白い札。
「気休めのようなもんだが、貰ってくれ」
「え、わ、悪いよ!」
「おれが渡したくて用意したんだ。」
そう言って彼は爽やかに笑うから、受け取らざるを得なくなった。ぽかんと文字がたくさん書かれた札を眺めていると、いつかの時のように、手が頭に置かれた。
「大丈夫だ、おれがお前を守るからな」
私は痛いくらいに唇を噛んでしまう。泣き出さないよう必死だった。
息を無理やり吸って、心を消して、にっこり微笑む。
「ありがとう、大切にするね」
与四郎は嬉しそうに笑う。きっとそれは私を妹のような、守るべき対象と見てのことだ。
おやすみ、そう手を振った後、私は一人で厨にしゃがみ込んだ。札を取り落とさないよう、震える手で命綱のように掴む。
例え妹のように思われていても、私は与四郎のことが好きだった。
ひどい悪夢だ。
こんなに血で濡れているのは初めてかもしれない。私はもはやうんざりしながらついに真っ赤に染まり上げられた死装束を眺めていた。
どんなに心配していても、想いを抱えていても、顧みられることはない。
もし責任感から言っているのなら、もういいのだと、それでも、どうか幸福であってほしいと、できることなら、生きて幸福であれと、私は捨て置いてと。
夢の中なのに目の前がぼやけた。
一所懸命生きている人の生を願うのはあまりにも傲慢だ。私はぽとぽと落ちる涙をそのままに与四郎の服を眺めた。死に顔なんて、例え、夢の中であっても、見たくもなかった。
「キュルキュル」
はっと私は床を見る。私が落とした涙が連なって、龍の幼子のようなものがよたよた必死に歩いていた。私を見上げて、キュルキュル、再び鳴く。
「おまえ、ここまでついてきちゃったの」
手を差し伸べると、私に擦り寄って、つるつると腕を登ってくる。
「ここにいても怖いだけだよ、お帰りなさい」
そう頭を人差し指で優しく撫でると、龍は小さな目を細めて、口を裂けるように開けた。
「え、」
ぬるりと私の懐の中に入り込む。
「ち、ちょ、ちょっと!」
わたわた焦っていると、今度は左の袖の袂から龍が一枚の紙を咥えて飛び出して来た。
「それ、お札」
龍は人懐っこい糸目で笑って、私に見せつけるようにそれを裂けた口でむしゃむしゃ食べた。
「あ、あああ〜!」
げふ、そう音が鳴るように口を開けたかと思うと、龍が私の皮膚から空に飛び出した。
「キィィ」
気持ちよさそうに空を舞うなか、龍は私の体長をゆうに超え、太く大きく成長し、白く輝いて、私の暗い世界を照らした。
はっと気づくと、与四郎の服がいつもの白くまっさらな山伏装束に戻り、花に埋もれるようにして眠っていた。胸が、静かに上下している。生きていた。
「あ…あ…」
「キィィ」
私は泣き笑いして、龍を見上げた。
「ありがとう、ありがとうね…」
龍は再び舞い降りて、私の頬に額を擦り付けた。ゴロゴロ喉を鳴らしている。鱗がちくちくとして、私は吹き出すように笑ってしまった。
久しぶりにすっきりとした目覚めだった。まだ外も薄明りだ。リリーさんより早い目覚めかもしれない。
ぱちぱち、二回瞬きして、リリーさんに貰った銅鏡で瞳を眺めて、思わず吹き出した。
「ありがとうね、龍ちゃん」
左目で変わらず泳ぐそれに、左目を瞑って、瞼の上を静かに手で撫でた。その時、気づいて懐に手を入れると、入れたはずの札が忽然と消えていた。
いよいよ、である。
喜三太が忍術学園に戻って行き、いつもの修行の日々が戻ってきた。
左目に入り込んだ龍はどんどん自由奔放になっていき、今では右目や腕や脚などに墨のように入り込んで動き回るだけでなく、私の夢で幾度も自由に飛び回るようになった。
それでも、やはり、与四郎が隣にいる時だけは、龍は姿を現さなかった。
「どう言うわけかねえ」
「さあ、最近は夢にも出てくるようになっちゃって」
私は苦笑いした。
「でもね、可愛いんだよ、擦り寄ってきて遊んでくれるの。それにお願いしたら仕事のある時には目に入り込まなくなったし」
与四郎はほとほと呆れた、と言う顔で私を睨みつけた。
「まさかとは思うが、お前、それと一生涯添い遂げるつもりじゃないだろうな?」
「さあ…でも、この子、待っているらしいの」
「待っている?何を」
「なんだろう、夢で教えてくれたんだよ、」
与四郎が私の両頬を片手で掴む。迫真の表情だった。
「お前、札は」
私はさっと青ざめる。
やっぱりか。そう言って、彼は懐に手を入れてこの前渡して来たのと同じものを取り出した。
「持っていろ」
「い、いらない」
「どうして!危ないかもしれないんだぞ」
私は与四郎を睨みつけた。私の悪夢をはらってくれた龍を、そんなふうに思いたくなかった。
「私、この子にたくさん助けてもらったんだよ。寂しくなくなったし、なにより、」
う、と口をつぐむ。与四郎は、なにより、何だ、と目を光らせた。
言えるわけがない。あなたが夢で死ななくなりましたなんて。
「な、何でもいいでしょう。」
そう突き放すと、彼もムッと口を尖らせて、ああそうかい!とわざとらしく大きな声で言った。
「じゃあこっちも勝手にやらせてもらう!」
そう言われて、無理やり手に札を握らされる。ぴりり、とかすかに好きな人に触られて手が震えた。
いらないって、そう言おうと口を開く
「キュルルル、ルリ」
はっと口をおさえる。だが、遅かったらしい。与四郎の方がもっと酷い顔をしていた。
「お、お前…」
私は首を横に振って、後退りする。そのまま、後ろに振り向いて体を軋ませながら駆けた。
「待て!」
息を切らして走ると、目の前にリリーさんがいた。
喜三太が学園に戻り、傷心中の彼女は、いつもよりやや背すじが丸く曲がっていた。
リリーさん!そう叫ぶと、キィ、と音が漏れる。
混乱しながら、彼女の影に隠れると、ム?と眉を顰められた。
「リリー婆さん、そこをどいてくれ」
「与四郎、何を慌てておる」
「〇〇の様子がおかしい。無理矢理にでも龍を出さないと不味い!」
リリーさんはフンと鼻息を荒げた。
「騒ぐでないわ、みっともない。お前は〇〇の何じゃ。〇〇のことは本人に決めさせい。」
私はリリーさんの影に隠れて泣いた。
父も、私を産んで亡くなってしまった母もいない今は、リリーさんが私の面倒を見てくれていた。
たまにどうしようもないくらい私を雑に扱うし、喜三太を大好きすぎるし、我儘ばかりだけど、こうやって私の気持ちを一番に聞いてくれるのは、私を引き取った昔も、今も、変わらなかった。
札を持つ手がぶるぶる震える。喉を鳴らそうとすると、キ、という音がする。焦って、なぜかお腹をおさえると、与四郎が目を見開き、憎悪の表情になった。
「〇〇!」
「キエエイ!」
今の叫び声は私ではない。リリーさんだ。
私の腕を捻るように掴んだ与四郎の頬に、リリーさんが平手打ちをお見舞いしていた。
「両者共に頭を冷やせ。今日は二人とも動かせられん。家に篭っておれ」
私は無言で頷き、与四郎は、静かに、しかし聞いたこともないくらい低い声で、はい、と、答えた。
それでも、と思い、家で炊事をして、それから床に早めについた。札は、結局袂に入れていた。
外はあれから急に雨が降り出し始めて、今では雷鳴が轟いている。リリーさんと私で夕餉を手短に済ませて、リリーさんの寝息を聞きながら外の雨音を聞く。
ゴロゴロ、雷鳴が鳴るたびに、なんだか聞いたことのある音だ、とぼんやり考えていた。そして、にわかに瞑っていた目を開いた。
「龍の喉だ」
夢で甘えるように擦り付いて来た時、いつも鳴らす音。
「あなたは、雷の龍だったのかな」
そう呟くと、ふと体が軽くなった。
無性に起きたくてたまらない。
のろのろ起き上がって、私は喉の渇きをそのままに、部屋を出た。いつも炊事している厨を通り過ぎ、浴衣の緩みもそのままに、戸に手をかける。
「〇〇」
ぼうっと振り返ると、リリーさんが正座していた。
「いや、龍よ。その子の体はその子のものじゃ。奪い取っては道理でない。」
「キィィ」
私の意思に反して、喉から声が出る。
「人の理には従わないと申すか。しかしの、それならばわしらもそなたの理に従う筋はない。なあ、その子は散々奪われたのじゃ。その子が大切に思う者もじゃ。これ以上、奪われなさるな」
リリーさんが、静かに、平伏した。
私は、私の形をした何かは、その小さくなった姿を見て、静かにしていたかと思うと、眉を吊り上げた。
振り向いて、雨戸を無理矢理開ける。
「山野先生!仁之進!」
「〇〇!」
いつのまに家に隠れていたのだろう、私の体に二人がしがみついて、わたしの名前をしきりに呼んだ。
「目を覚ませ!喜三太がお前のことを心配していたぞ!」
「与四郎もだ、〇〇さん、どうか正気に戻ってくれ!」
きっと、私の形をした何かは振り返った。
二人が、はっと息を呑む。私だって、意味がわからなかった。
私は、ぼろぼろと泣いていたのだ。
そしてできた緩みに乗じて、私の体は雷雨の中に投げ出される。走って、はしって、形がなくなるくらい駆けて、大泣きしながら、私は雷のもとに駆けた。暖かい寝床にいたのが嘘のように身体中刺されるような雨に打たれる。私は腹をさすって、口を開けた。
すうっと煙を吐くように、龍が飛び出す。
途端に悲しい気持ちが和らいで、私は感情まで龍と共有していたのを知った。
夢で見たように、暗い世界でこの子だけが輝いて、太く大きく成長して、私の頬に頭を擦り付ける。
「やっと帰れるのね、よかった」
ずっと糸目だった龍の目が、かすかに開かれる。
雨粒が龍の目に入らないように、私は手で庇をつくった。なんだか、喜三太のような、弟を見ているようだった。
「気をつけてお帰りね、」
「キィィ」
私の周りをくるくる回って、時折私の腰を鼻先でつつく。私は思わず笑ってしまった。びしょ濡れの浴衣のあわせをしめつつ、龍の頭を撫でる。なかなか飛び立とうとしない龍に、私は、はたと口を開いた。
「もしかして、私を連れて行きたいの?」
すると龍は嬉しそうに一鳴きした。純粋な様子に私も思わず微笑む。
「ありがとう、でもね、」
「駄目だ」
振り返ると、同じく体をしとどに濡らした与四郎が立っていた。後ろに仁之進も途方に暮れたように立っている。
「リリー婆さんに言われて考えた。だけど駄目だ。それだけは、おれに口がある限り、感情がある限り、認められない」
「与四郎」
私の後ろに隠れて、龍がキイキイ鳴いた。私は、龍に振り返ってその頭を体全体で抱きしめる。
「な、」
「龍ちゃん、私ね、あなたが来てくれて嬉しかったよ。私の悪夢を、変えてくれてありがとう。一緒にいてくれてありがとう。私、もう少しここにいたいの。」
ゴロゴロ、喉を鳴らす音がしたから、顔を離して龍の顔を見ると、丸いまなこが私の見つめていた。
私は龍を撫でて、思わず微笑む。
龍も、糸目になって笑って、頭を擦り付けた。それから、天に昇っていく。
「もう迷っちゃ駄目だよ」
そう手を振ると、その手首をいつのまにか近くに来ていた与四郎に捉えられた。
「迷ったんじゃない、選んだんだろう」
「え?」
「お前の苦しみを吸い取って成長していったんだ。あれは多分幸運の兆しだからな」
「へえ」
与四郎の顔を見上げると、無表情だった顔の、薄い唇が次第にわなわな震えて来た。
「…お前は…」
「与四郎!雨だから話は〇〇さんと家に戻ってからだ、〇〇さん、寒いでしょう」
そう仁之進の声がした途端、私の体は舞い上がり、風のように与四郎に運ばれていった。
それから、散々お前は人が良すぎるだのなんでおれを頼らなかっただの怒られた後、龍と夢のことを洗いざらい喋らされて私は顔から火が出る思いをした。
静かに話を聞いていた彼だが、与四郎が死ぬのが怖いという私に、そんなことはとうにしっていた、と笑った。
「ど、どういうこと?」
「んー?」
彼は顎を指でさすって、頭を掻いて、うろうろと目を泳がせる。
「…お前と同じだってことだよ。」
「わ、わからないよ、何が…?」
きょとんと、彼を見上げる。彼は気まずそうに笑った。
「…お前の腹に龍がいるかもしれないと知った時、制御できないくらい憎しみの情がわいた。…生きて幸福であれと、お前は願ってくれたんだよな。おれも同じだ。だがな、おれの方がもっと欲深いぞ。」
彼は、昔私を慰めた時のように、爽やかに笑った。
「お前の幸福の生涯の中には、おれがいたい。お前と一生涯添い続けるのは、おれがいいんだ。」
青天の霹靂。私は口を開けたが、漏れ出るのは、人間の嗚咽だけだった。
なるほど。幸福の兆しか。
私のぼやけた視界の奥、あなたが幸せそうに笑っていた。
「やっぱり、います」
リリーさんは、同じように正座で私と膝を突き合わせたまま、ウム、と頷いた。ウウム、だったかもしれない。リリーさんの感情は、彼女が興味があるもの以外に対しては非常にわかりにくい。
「そなたの目には龍がおるな」
初めはすわ病気か怯えたものだが、山野先生に相談したところ、私の左目に何かが入り込んでいるらしい。白いものが瞳の中で泳いでいると。なんだそれは。
とにかく同じくノ一のリリーさんに報告して対処法を仰ぐのが良かろうと諭され、私はとぼとぼ歩いてきたのである。
「どうすれば良いでしょうか、このままじゃ忍務にも差し障ります」
「目を布ででも覆い隠しておけば良かろう。」
「そんな、相手との距離を掴めなくて困ります、どうにかして龍を追い出すことは出来ないのでしょうか?」
「しつこい!そう言われても、無いものは無い!」
あああ〜…がくん、と肩が下がるが、リリーさんは既に杖を取り出して、ほっほっほ、と歩き始めていた。
一人になった小屋の中で、体勢を持ち直して左目をさする。
「お前、どうしてこんなところに入っちゃったの」
ぼやけた視界で、私はため息をついた。
自分の体が思うようにならないと、言い知れぬ不安が押し寄せてくる。私の目にいるのは本当に龍なのか、山野先生、リリーさん、皆して私が病気なのを隠しているのではないか。これじゃあ忍者の三病もいいところだ。
とりあえず片目でも当てられるよう、手裏剣を打つ練習をしていると、〇〇、と声がかけられた。
「与四郎、修行お疲れ様」
よ、と手を挙げる彼は、私の目をまじまじと眺めた。
「目の中に龍が潜り込んだって言うのは本当か?」
「そうそう、見てよこれ」
布をするりと外して彼を見つめる。すると、視界がやけにはっきりしていた。わたしは思わず目を見開く。
「なーんも、映ってるように見えねぇけどなぁ」
「嘘、いなくなった」
「ええ?」
彼が眉を顰めるのも無理はない、が、わたしは密かに好意を寄せている彼から疑心暗鬼の目で見られて、少し悲しくなってしまった。
「与四郎〜」
「仁之進」
じゃらじゃら錫杖の音が響く。振り返ると仁之進だ。
「お前、まだ着替えてなかったのか」
「だって、今戻ってきたんだから、疲れちゃったんだもん…」
私はあらあらと眉を下げる。何かなかったか、近くの腰掛け岩に置いていた荷物を探ると、後で食べようと思っていたお饅頭が出てきた。
「仁之進、これあげる」
地面にへたり込んでいた彼が顔を上げた瞬間に差し出すと、彼の顔がぱあっと輝くのがわかった。思わずにっこりしてしまう。老けた顔をしていても、どうにも可愛らしい。
「ありがとうございます〇〇さん、あっ、目に龍が入り込んだとか?」
「らしいんだけど、いなくなったかも…」
思わず尻すぼみな口調になってしまう。が、瞬きした瞬間また目がぼやけた。
もらった饅頭を頬張りながら、仁之進が花火でも眺める町民のようにおお、と簡単の声を上げた。
「確かに、綺麗な白龍だ。」
「え?!」
背後で素っ頓狂な声がして、腕を引かれる。
ぐりんと回転させられ、間近に与四郎の顔がくるが、彼はまた眉を顰めた。
「いないじゃないか」
私は頬を掻く。視界がはっきりしていた。
「今目の前はっきりしてる。もしかしたら、与四郎のこと避けてるのかも?」
「龍が?そんな馬鹿な」
「まあまあ、いいじゃないですか。与四郎、リリー婆さんからお願いだってよ」
「リリー婆さんから?わかった、すぐ行く」
私は彼にも饅頭をあげる。お前の龍、見たかったな、と言われて見世物じゃないんだけど?と唇を尖らせると、冗談だ、と笑われた。
「まあ、きっとすぐ人見知りなおして出てきてくれるよ。私としては出てきてもらっちゃ困るけど…」
そう手を振ると、違いない、と彼は頷いて、風のように走り去ってしまった。
「さてと、」
「仁之進ももう行っちゃうの?」
「ええ、風魔流忍術学校は万年人手不足ですからねえ」
「そりゃあ…あ、頬にお菓子のかす付いてるよ」
ああ、と恥ずかしがる彼にまた笑ってしまう。するとまた視界がぼやけた。今度は右目だ。私は密かに息を呑む。
へへ、と頭を掻く彼が、龍のことですけど、と言って口を開いた。
「なんで与四郎には見えないんだろう」
「本当に。おかげさまでとんでもない嘘つきになった気分だったよ、こんなに困ってるのに。ねえ、龍ちゃん」
「もしかしたら、人見知りじゃなくて、嫉妬してるのかもしれませんね。」
私は彼をまじまじ見返した。
「どう言うこと?」
「だって〇〇さんは、与四郎のことが好きなんでしょう?」
わっと顔が熱くなると同時に目の前が大きくぶれた。
「あ、泳いでる泳いでる」
「な、なんでそれを」
「そりゃあわかりますよ、まあでも与四郎は恋沙汰に興味なさそうだから気づいてないと思いますよ」
かっかと照る頬をそのままに私は額を押さえた。なんとこの龍とやら、人のこころの機敏にも詳しいらしい。これでは、与四郎に龍など見せられそうにない。額を押さえてはあと息をついた。
幼い頃から繰り返し悪夢を見る。悪夢と言っても、思い出が反芻されるだけだが。
昔、風魔の里の忍びが大量に暗殺されたことがあった。私の父も、その中に含まれていた。これは珍しいことではなかった。その頃の私と同年代の里の子供は、皆似たような境遇だったのだ。
それでも、皆悲しいのだからあなたも泣くのではないと言われても、涙は自然に出るもので。放課後、ボロボロ泣いていると、与四郎が横に座ってくれた。
彼は早熟の人だから、いつも他の忍びのたまごよりもやや大人びており、私をちゃちな冗談で笑わせることも、叱りつけることもなく、ただ隣に座っていた。
いつか、聞いたことがある。
「与四郎、先生に言われたの?」
「なんで」
「私のそばにいてくれるから。じっとしてるだけでつまらないのに。」
与四郎はその時初めて困ったような顔をした。なんでかなあ、と呟いてもいた。
「でも、怒らないでくれてありがとう」
涙声でそう告げると、与四郎は爽やかに笑顔を作って、私の頭に手を置いた。
「おれはお前を置いていかない。だから、元気出してくれ。」
じわりと温かい手に目の前が余計に綻ぶ。うん、そう言ってあとは首を縦に何度も振った。
その言葉に絶対はないことを理解していた。
ただでさえ厳しい修行。風魔流忍術学校で六年もの時を過ごすと言うことは、そのまま実践に駆り出されると言うことだ。
悪夢を見る。頭を撫でられた私が、一所懸命に笑顔になって顔を上げると、白くまっさらな山伏装束を着たあなたがいる。
ぱらぱらと、染みるように、絵を描くように、血が滲んでいく。
染まっていく白布をぼんやりと眺めて、私はそれがいつしか死装束に変わっていることに気がつくのだ。
「っ、」
はあ、はあ、はあ、大きく息を吸う、吐く。
幼い頃は混乱から与四郎の顔を見て無事を確認するまで泣き喚いていたものだが、今ではうまく付き合えるようになったものだ。それでも、身の毛もよだつ恐怖だけは、ずっと胸に潜んでいる。
ぱち、ぱち、目を瞬かせると、また視界がぼやけた。悪夢の後だとうんざりするが、まだ龍は私のもとに棲みついているようだった。
「〇〇〜!!」
仰向きの姿勢から飛び起きる。リリーさんの声だ。
「はあい!」
「な〜にぐずぐず寝ておる!今日は喜三太が帰ってくる日じゃ!準備を手伝え!」
「ただいま参ります!」
嫌な気持ちも吹っ飛んでしまった。私は苦笑いで頭を掻く。急いで服を着替え、リリーさんのもとに向かった。
リリーさんは喜三太のことになると周りが見えなくなるきらいがあるから、私はほとほと呆れて、それでも愛されている彼のことを思うと、ほっと胸がほどけるような安堵を覚える。
「ああ、待ち遠しいの、帰ってきたらもう向こうには行かせたくないんじゃが…」
ここで、リリーさん、喜三太にも友達がいますし、なんて言おうものなら彼女を怒らせることは必須だ。私はなあなあに笑って野菜を切る。
それでも、リリーさんには悪いが、喜三太は本当に忍術学園に行って良かったと思う。風魔流忍術学園の山野先生はとても優秀な方だが、あまりにも人手が少ない。カエルの餌になるナメクジが可哀想だと壺を抱き抱えていた喜三太を思い出す。あの優しい子が、どうかできるだけ長い時間優しいまま育ってほしかった。
「こらぁ!鍋が吹きこぼれるぞ!」
「ああ〜はいはい!」
目がぼやけて湯気なのかよくわからないが、いつも手が覚えているように食材を投入していく。
「ン、これにわしのとっておきの…」
「あらあらリリーさん、喜三太がそろそろ帰ってくる時間ですよ、ここは私に任せて!」
「ん?そうか、それなら早く持ってくるんじゃぞ!そのイナゴも入れておくのじゃ」
ざるの中でわさわさ動くイナゴを渡され、私は苦笑いをした。リリーさんの影が消えてからイナゴは入れずに鍋に蓋をする。ぷすぷすと落とし蓋の向こうで泡が弾ける音が楽しく響いた。
外では、ハッタリだったにも関わらず、大騒ぎする声が響いていた。おそらく喜三太が帰ってきたのだろう。嬉しくて、小唄を口ずさんだ。
「ふふ、キュル、キュル」
は?思わず目を見開いて口を抑える。その途端、抑えた右腕がぞわりと泡立った。
ぎょっとして腕を見ると、驚くことに、白いしみのような龍が、するすると泳いでいた。一瞬気が遠くなる。
「こら!ちょっと、じっとしなさい!」
蚊を叩くように左手でパチンパチンと抑えても、ぬるぬると龍は体をめぐり、気がつくとまた目がぼやけていた。これは思った以上に大物だ、私は暑い厨にいるにも関わらず、背中に冷たい汗をかいた。
いつの間にか蓋がごとごと鳴っており、慌てて戸を開け、分厚い手拭いを持って鍋に駆け寄る。眩しさに目を細めつつえっちらおっちら外に出ると、まだ荷もほどいていない喜三太がにこにこリリーさんと話していた。
積んであった木の枝の近くに鍋をそっと下ろす。
「あっ、〇〇姉ちゃん!」
「喜三太!久しぶり!元気にしてた?」
わあっと駆け寄ってくる彼を体で受け止める。私はしゃがんで、喜三太の頭をぐりぐり撫でた。
「聞かなくてもわかるね、喜三太、男前になったんじゃない?」
「え!ほんと?」
「ほんとほんと、かわいいほっぺしちゃって〜」
「あ!〇〇姉ちゃん僕のことからかったでしょ!」
わはは、と笑っていると、リリーさんが音もなく私の隣に立っていた。一瞬で真顔になる。
「き、喜三太、ご飯出来てるよ、リリーさんが朝から張り切ってたからね!」
「ほんと!リリーばあちゃんありがとう!」
「ほっほっほ、いいんじゃよ、さ、他のみんなにも挨拶がてら呼んでおいで」
「うん!」
私は小さく手を振る。と、リリーさんが私の名前を呼んだ。
「は、はい!」
「そう驚くでない。怒っとりゃせぬわ、喜三太がわしとの話を切ってまでそなたに駆け寄ったことなど…」
へへ、と引き攣り笑いをすると、目の前に青銅の丸い何かが差し出された。
「これは、」
「わしが持っていた鏡じゃ。少し曇ってはいるが、まあ見えるじゃろうし、渡しておく。」
呆然と受け取り、自身の顔を眺める。確かに、瞳に切れ切れと龍の姿が見えた。
「あ、ありがとう、ございます…」
「して、何か変わりは?」
「…それが、目だけでなく、腕や、口にも…」
「口?ならば出ていかなかったのか?」
私はこっくり頷く。フム、とリリーさんは頭を傾げた。
「龍は龍でも何の類の妖か、ともすれば神か…分かれば良いのじゃがな…」
私は思わずうるっと涙してしまう。リリーさん、いつも素っ気ないのに、ちゃんと考えていてくださったのか。彼女はいずれにしても、と腰をポキポキ鳴らした。
「早く解決せんことには喜三太の興味がそちらに削がれてしまう」
思わずずっこけてしまったのは言うまでもなかった。
ご飯を食べながら歓談していると、喜三太はきょろきょろ辺りを見回した。
「どうしたの?」
「与四郎先輩は?」
「今忍務中。昨晩出たから、もう直ぐ帰ってくるよ」
するりと風が舞う。拍子に目を瞬かせると、視界がはっきりとした。
「喜三太!いさしかぶり!」
「お久しぶりです!与四郎先輩!」
「お疲れ様、ご飯出来てるよ」
そう声をかけると、にっこり彼が笑い返してきた。私はそれだけで浮き足立ってしまう。すると、
「あいたたたた!」
「〇〇姉ちゃん?」
背中が引っ張られたように痛んだ。私の手を取って、大丈夫?!と心配してくれる喜三太を撫でて、だ、大丈夫大丈夫…と声を返す。
「体痛めちゃったかも…」
「え!それは大変!リリーばあちゃん、〇〇姉ちゃん中に連れてっていい?」
「おお、優しい子じゃ喜三太。良い良い。行っておいで」
あああ〜…若干涙目で喜三太の手に引かれるまま箸を置く。与四郎とは話す間もなく、私は布団の中に押し入れられてしまった。
「〇〇姉ちゃん、手紙で聞いたよ、龍が入り込んじゃったんだって?」
「うん…心配かけた?ごめんなさい」
「そんなあ、でも、本当に与四郎先輩の前じゃいなかったのに、今は泳いでる。」
喜三太は、いつも私がするように、横たわる私の頭を撫でてにっこりほほえんだ。
「きっと〇〇姉ちゃんのことが大好きなんだね。」
そうかなあ、私はほとほと困って天井を見上げた。
喜三太を迎えて、どんちゃんやっている間は修行がお休みになる。まあ、忍術学園までは遠いので、明日には喜三太は出立してしまうが。
リリーさんは喜三太のそばで話をすることに一日中夢中になり、山野先生、仁之進は久しぶりにできた休みにほっかりとお酒を飲み、くうくう眠り始めてしまった。
いつしか喜三太もうとうとすると、私はリリーさんと喜三太に温かいお湯を湯呑みに入れて出して、それを飲み干したのを合図に二人まとめて部屋へ見送る。思わずくすりと笑顔になりながら後ろ姿を眺めた後、食器を片付けていると、後ろからことりと音がした。
「与四郎、お疲れ様」
「疲れたのはおれじゃなくてお前のほうだろ、ほれ、皿洗いか」
息をつきながら近寄ってくる、その距離に私はわかりやすく動揺した。心なしか今は体のどこかにいる龍もざわめいている。
「い、いいよ!のんびりやろうと思ってたし」
「じゃあおれものんびりお前と話しながらするさ」
そう言って桶のそばにしゃがみ皿洗いをする彼に胸が締め付けられる。それを隠して、私は何でもないように笑った。
「与四郎、喜三太とお話できた?」
「んー?…まぁ、リリー婆さんが最優先だからなぁ、ま、おれは忍術学園に行く時もあるし、会える機会が多いからいいんだ」
「羨ましいなあ、私、そこまで遠くは行ったことないから」
「簡単な旅路とは言えんからなあ」
「喜三太について行って、一度でいいから見てみたいと気もするけどね、私と同じくノ一とか、喜三太のお友達とか…」
「その時はおれが連れて行ってやるさ」
嬉しい。こころが泡立って、速くなった鼓動に、何気なく爪先立ちになって、静かに踵を下ろした。
「でもなあ、与四郎さんは引っ張りだこだからなあ」
「なんだあ、他人行儀にしちゃって」
「ふふ、昨晩だって、急に呼びだてされて、忍務で忙しかったんでしょう?」
「あー…まあ、そりゃあ山野先生も、いつもの感じでおれを呼んでしまうだけだよ」
私はきゅっと口を結んだ。先生が近くにいるうちはまだ大丈夫、そう言い聞かせて。
あのね。何度言おうとしたかわからない。
夢を見るんだよ。そんなこと言っても困らせてしまうだけだ。
ねえ、私を置いていかないで。そんなの、唯の我儘だ。
「ん、こっちは終わった、あとは?」
私ははっと顔を上げた。私もあと一枚で洗い物は終わりだった。
「…与四郎、」
「ん?」
「…あ、あのね…」
私は、渇いた唇を引き結んで、舌で濡らした。
「…どうした」
するりと左脚を龍が伝い落ちていく感触がした。私はにっこり笑う。
「これ、私からのお礼。リリーさんと、喜三太の分のあまりだから、少しぬるいけど。」
もう火は落としたから、と、湯呑みに二人分白湯を注ぐ。
「これでゆっくり眠れるよ。」
与四郎は訝しげな顔をしたけど、ありがとう、と律儀に言って口元に湯呑みを運んだ。
それから、ことりと湯呑みを置いて、与四郎は懐に手を入れた。
「〇〇、」
「ん、なあに?」
する、と、白い札。
「気休めのようなもんだが、貰ってくれ」
「え、わ、悪いよ!」
「おれが渡したくて用意したんだ。」
そう言って彼は爽やかに笑うから、受け取らざるを得なくなった。ぽかんと文字がたくさん書かれた札を眺めていると、いつかの時のように、手が頭に置かれた。
「大丈夫だ、おれがお前を守るからな」
私は痛いくらいに唇を噛んでしまう。泣き出さないよう必死だった。
息を無理やり吸って、心を消して、にっこり微笑む。
「ありがとう、大切にするね」
与四郎は嬉しそうに笑う。きっとそれは私を妹のような、守るべき対象と見てのことだ。
おやすみ、そう手を振った後、私は一人で厨にしゃがみ込んだ。札を取り落とさないよう、震える手で命綱のように掴む。
例え妹のように思われていても、私は与四郎のことが好きだった。
ひどい悪夢だ。
こんなに血で濡れているのは初めてかもしれない。私はもはやうんざりしながらついに真っ赤に染まり上げられた死装束を眺めていた。
どんなに心配していても、想いを抱えていても、顧みられることはない。
もし責任感から言っているのなら、もういいのだと、それでも、どうか幸福であってほしいと、できることなら、生きて幸福であれと、私は捨て置いてと。
夢の中なのに目の前がぼやけた。
一所懸命生きている人の生を願うのはあまりにも傲慢だ。私はぽとぽと落ちる涙をそのままに与四郎の服を眺めた。死に顔なんて、例え、夢の中であっても、見たくもなかった。
「キュルキュル」
はっと私は床を見る。私が落とした涙が連なって、龍の幼子のようなものがよたよた必死に歩いていた。私を見上げて、キュルキュル、再び鳴く。
「おまえ、ここまでついてきちゃったの」
手を差し伸べると、私に擦り寄って、つるつると腕を登ってくる。
「ここにいても怖いだけだよ、お帰りなさい」
そう頭を人差し指で優しく撫でると、龍は小さな目を細めて、口を裂けるように開けた。
「え、」
ぬるりと私の懐の中に入り込む。
「ち、ちょ、ちょっと!」
わたわた焦っていると、今度は左の袖の袂から龍が一枚の紙を咥えて飛び出して来た。
「それ、お札」
龍は人懐っこい糸目で笑って、私に見せつけるようにそれを裂けた口でむしゃむしゃ食べた。
「あ、あああ〜!」
げふ、そう音が鳴るように口を開けたかと思うと、龍が私の皮膚から空に飛び出した。
「キィィ」
気持ちよさそうに空を舞うなか、龍は私の体長をゆうに超え、太く大きく成長し、白く輝いて、私の暗い世界を照らした。
はっと気づくと、与四郎の服がいつもの白くまっさらな山伏装束に戻り、花に埋もれるようにして眠っていた。胸が、静かに上下している。生きていた。
「あ…あ…」
「キィィ」
私は泣き笑いして、龍を見上げた。
「ありがとう、ありがとうね…」
龍は再び舞い降りて、私の頬に額を擦り付けた。ゴロゴロ喉を鳴らしている。鱗がちくちくとして、私は吹き出すように笑ってしまった。
久しぶりにすっきりとした目覚めだった。まだ外も薄明りだ。リリーさんより早い目覚めかもしれない。
ぱちぱち、二回瞬きして、リリーさんに貰った銅鏡で瞳を眺めて、思わず吹き出した。
「ありがとうね、龍ちゃん」
左目で変わらず泳ぐそれに、左目を瞑って、瞼の上を静かに手で撫でた。その時、気づいて懐に手を入れると、入れたはずの札が忽然と消えていた。
いよいよ、である。
喜三太が忍術学園に戻って行き、いつもの修行の日々が戻ってきた。
左目に入り込んだ龍はどんどん自由奔放になっていき、今では右目や腕や脚などに墨のように入り込んで動き回るだけでなく、私の夢で幾度も自由に飛び回るようになった。
それでも、やはり、与四郎が隣にいる時だけは、龍は姿を現さなかった。
「どう言うわけかねえ」
「さあ、最近は夢にも出てくるようになっちゃって」
私は苦笑いした。
「でもね、可愛いんだよ、擦り寄ってきて遊んでくれるの。それにお願いしたら仕事のある時には目に入り込まなくなったし」
与四郎はほとほと呆れた、と言う顔で私を睨みつけた。
「まさかとは思うが、お前、それと一生涯添い遂げるつもりじゃないだろうな?」
「さあ…でも、この子、待っているらしいの」
「待っている?何を」
「なんだろう、夢で教えてくれたんだよ、」
与四郎が私の両頬を片手で掴む。迫真の表情だった。
「お前、札は」
私はさっと青ざめる。
やっぱりか。そう言って、彼は懐に手を入れてこの前渡して来たのと同じものを取り出した。
「持っていろ」
「い、いらない」
「どうして!危ないかもしれないんだぞ」
私は与四郎を睨みつけた。私の悪夢をはらってくれた龍を、そんなふうに思いたくなかった。
「私、この子にたくさん助けてもらったんだよ。寂しくなくなったし、なにより、」
う、と口をつぐむ。与四郎は、なにより、何だ、と目を光らせた。
言えるわけがない。あなたが夢で死ななくなりましたなんて。
「な、何でもいいでしょう。」
そう突き放すと、彼もムッと口を尖らせて、ああそうかい!とわざとらしく大きな声で言った。
「じゃあこっちも勝手にやらせてもらう!」
そう言われて、無理やり手に札を握らされる。ぴりり、とかすかに好きな人に触られて手が震えた。
いらないって、そう言おうと口を開く
「キュルルル、ルリ」
はっと口をおさえる。だが、遅かったらしい。与四郎の方がもっと酷い顔をしていた。
「お、お前…」
私は首を横に振って、後退りする。そのまま、後ろに振り向いて体を軋ませながら駆けた。
「待て!」
息を切らして走ると、目の前にリリーさんがいた。
喜三太が学園に戻り、傷心中の彼女は、いつもよりやや背すじが丸く曲がっていた。
リリーさん!そう叫ぶと、キィ、と音が漏れる。
混乱しながら、彼女の影に隠れると、ム?と眉を顰められた。
「リリー婆さん、そこをどいてくれ」
「与四郎、何を慌てておる」
「〇〇の様子がおかしい。無理矢理にでも龍を出さないと不味い!」
リリーさんはフンと鼻息を荒げた。
「騒ぐでないわ、みっともない。お前は〇〇の何じゃ。〇〇のことは本人に決めさせい。」
私はリリーさんの影に隠れて泣いた。
父も、私を産んで亡くなってしまった母もいない今は、リリーさんが私の面倒を見てくれていた。
たまにどうしようもないくらい私を雑に扱うし、喜三太を大好きすぎるし、我儘ばかりだけど、こうやって私の気持ちを一番に聞いてくれるのは、私を引き取った昔も、今も、変わらなかった。
札を持つ手がぶるぶる震える。喉を鳴らそうとすると、キ、という音がする。焦って、なぜかお腹をおさえると、与四郎が目を見開き、憎悪の表情になった。
「〇〇!」
「キエエイ!」
今の叫び声は私ではない。リリーさんだ。
私の腕を捻るように掴んだ与四郎の頬に、リリーさんが平手打ちをお見舞いしていた。
「両者共に頭を冷やせ。今日は二人とも動かせられん。家に篭っておれ」
私は無言で頷き、与四郎は、静かに、しかし聞いたこともないくらい低い声で、はい、と、答えた。
それでも、と思い、家で炊事をして、それから床に早めについた。札は、結局袂に入れていた。
外はあれから急に雨が降り出し始めて、今では雷鳴が轟いている。リリーさんと私で夕餉を手短に済ませて、リリーさんの寝息を聞きながら外の雨音を聞く。
ゴロゴロ、雷鳴が鳴るたびに、なんだか聞いたことのある音だ、とぼんやり考えていた。そして、にわかに瞑っていた目を開いた。
「龍の喉だ」
夢で甘えるように擦り付いて来た時、いつも鳴らす音。
「あなたは、雷の龍だったのかな」
そう呟くと、ふと体が軽くなった。
無性に起きたくてたまらない。
のろのろ起き上がって、私は喉の渇きをそのままに、部屋を出た。いつも炊事している厨を通り過ぎ、浴衣の緩みもそのままに、戸に手をかける。
「〇〇」
ぼうっと振り返ると、リリーさんが正座していた。
「いや、龍よ。その子の体はその子のものじゃ。奪い取っては道理でない。」
「キィィ」
私の意思に反して、喉から声が出る。
「人の理には従わないと申すか。しかしの、それならばわしらもそなたの理に従う筋はない。なあ、その子は散々奪われたのじゃ。その子が大切に思う者もじゃ。これ以上、奪われなさるな」
リリーさんが、静かに、平伏した。
私は、私の形をした何かは、その小さくなった姿を見て、静かにしていたかと思うと、眉を吊り上げた。
振り向いて、雨戸を無理矢理開ける。
「山野先生!仁之進!」
「〇〇!」
いつのまに家に隠れていたのだろう、私の体に二人がしがみついて、わたしの名前をしきりに呼んだ。
「目を覚ませ!喜三太がお前のことを心配していたぞ!」
「与四郎もだ、〇〇さん、どうか正気に戻ってくれ!」
きっと、私の形をした何かは振り返った。
二人が、はっと息を呑む。私だって、意味がわからなかった。
私は、ぼろぼろと泣いていたのだ。
そしてできた緩みに乗じて、私の体は雷雨の中に投げ出される。走って、はしって、形がなくなるくらい駆けて、大泣きしながら、私は雷のもとに駆けた。暖かい寝床にいたのが嘘のように身体中刺されるような雨に打たれる。私は腹をさすって、口を開けた。
すうっと煙を吐くように、龍が飛び出す。
途端に悲しい気持ちが和らいで、私は感情まで龍と共有していたのを知った。
夢で見たように、暗い世界でこの子だけが輝いて、太く大きく成長して、私の頬に頭を擦り付ける。
「やっと帰れるのね、よかった」
ずっと糸目だった龍の目が、かすかに開かれる。
雨粒が龍の目に入らないように、私は手で庇をつくった。なんだか、喜三太のような、弟を見ているようだった。
「気をつけてお帰りね、」
「キィィ」
私の周りをくるくる回って、時折私の腰を鼻先でつつく。私は思わず笑ってしまった。びしょ濡れの浴衣のあわせをしめつつ、龍の頭を撫でる。なかなか飛び立とうとしない龍に、私は、はたと口を開いた。
「もしかして、私を連れて行きたいの?」
すると龍は嬉しそうに一鳴きした。純粋な様子に私も思わず微笑む。
「ありがとう、でもね、」
「駄目だ」
振り返ると、同じく体をしとどに濡らした与四郎が立っていた。後ろに仁之進も途方に暮れたように立っている。
「リリー婆さんに言われて考えた。だけど駄目だ。それだけは、おれに口がある限り、感情がある限り、認められない」
「与四郎」
私の後ろに隠れて、龍がキイキイ鳴いた。私は、龍に振り返ってその頭を体全体で抱きしめる。
「な、」
「龍ちゃん、私ね、あなたが来てくれて嬉しかったよ。私の悪夢を、変えてくれてありがとう。一緒にいてくれてありがとう。私、もう少しここにいたいの。」
ゴロゴロ、喉を鳴らす音がしたから、顔を離して龍の顔を見ると、丸いまなこが私の見つめていた。
私は龍を撫でて、思わず微笑む。
龍も、糸目になって笑って、頭を擦り付けた。それから、天に昇っていく。
「もう迷っちゃ駄目だよ」
そう手を振ると、その手首をいつのまにか近くに来ていた与四郎に捉えられた。
「迷ったんじゃない、選んだんだろう」
「え?」
「お前の苦しみを吸い取って成長していったんだ。あれは多分幸運の兆しだからな」
「へえ」
与四郎の顔を見上げると、無表情だった顔の、薄い唇が次第にわなわな震えて来た。
「…お前は…」
「与四郎!雨だから話は〇〇さんと家に戻ってからだ、〇〇さん、寒いでしょう」
そう仁之進の声がした途端、私の体は舞い上がり、風のように与四郎に運ばれていった。
それから、散々お前は人が良すぎるだのなんでおれを頼らなかっただの怒られた後、龍と夢のことを洗いざらい喋らされて私は顔から火が出る思いをした。
静かに話を聞いていた彼だが、与四郎が死ぬのが怖いという私に、そんなことはとうにしっていた、と笑った。
「ど、どういうこと?」
「んー?」
彼は顎を指でさすって、頭を掻いて、うろうろと目を泳がせる。
「…お前と同じだってことだよ。」
「わ、わからないよ、何が…?」
きょとんと、彼を見上げる。彼は気まずそうに笑った。
「…お前の腹に龍がいるかもしれないと知った時、制御できないくらい憎しみの情がわいた。…生きて幸福であれと、お前は願ってくれたんだよな。おれも同じだ。だがな、おれの方がもっと欲深いぞ。」
彼は、昔私を慰めた時のように、爽やかに笑った。
「お前の幸福の生涯の中には、おれがいたい。お前と一生涯添い続けるのは、おれがいいんだ。」
青天の霹靂。私は口を開けたが、漏れ出るのは、人間の嗚咽だけだった。
なるほど。幸福の兆しか。
私のぼやけた視界の奥、あなたが幸せそうに笑っていた。