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私は怒っているのだ。そう主張すると、ねえさんは仕方ない子ね、と苦笑いした。
ねえさんと言っても本当の姉ではない。私の実の姉たちはもう嫁に入ってしまった。ねえさんは私の教育係だった。
「まだ言ってるの?尊奈門様だってお忙しいのだから、仕方ないわよ」
「そうは言っても私と何度も顔を合わせているのに一向に口を利きません。忙しいとはいえど無断欠勤で忍術学園に向かうとは何事ですか。私との約束など忘れてしまっているのです。」
ああ〜…とねえさんは額を抑えて眉を下げた。頭が痛そうであった。
私はぷんすこ拗ねて、米粒が縁についたままのおひつをかかえなおした。これからやっと私たちのご飯だ。お腹が空いていることも私の怒りにさらに薪をくべていた。
ねえさんは私の頭を撫でていい子ね、〇〇、貴方はとってもいい子よ、と囁くように笑う。その手のひらの柔らかさに少しだけ気持ちが紛れて肩を落とす。
「怒っていては可愛い顔が台無しよ」
「ねえさん。私、ねえさんのことが大好きです。ねえさんの仰る事ならばなんでも信じてしまうわ、でもそればっかりは嘘よ。私がもしも可愛かったら、私の実の姉達のように私も縁談があるはずです。」
「あら!卑屈なことを言う口ね、でも実際に縁談がきたら困るのは貴方でしょう?」
私は、マア、ソウデスガ、と口を曲げた。
台所に戻るとてんやわんやであっという間にねえさんは呼ばれて消えていってしまう。あっ、と声をかけることも、お話を聞いてもらったお礼も言えず、私は立ちすくんだ。みんなさっさと食べないと、次は男衆の食器を洗わないといけないのだ。男衆はそのまま会議がある。
私は食いっぱぐれないように必死に仕事をもらった。
私が怒っていたのは、幼馴染の尊奈門にしでかされた仕打ちについてである。
確かに奴は私の誕生日に何か贈り物をすると言った。言ったったら言った。たとえ言わせたとしても。
皿を拭きつつ私は外を見た。りいりい虫が鳴っていた。
幼い振る舞いで気を引こうとするのは不細工だ。そんなこと知っている。それでも私は、尊奈門に、仕方がないやつだ、どうしようもないな、そうため息をつかれたとしても、私を見て欲しかった。
私は尊奈門のことが好きだ。幼い頃は私が彼とずっと一緒にいると疑っていなかった。そのずっと、が、生涯という時間の概念を持って私に迫ってきた時、私はなんの覚悟もできていなかった。私は、ずっと一緒にいたいだけだったのに、私の姉達は口々に言った。
「忍者の里の娘なら、将来はこの里のために尽くさないといけませんよ」
「同盟が必要なら他の里に、血を濃くしたいなら歳が離れている殿方でも、仕えなければなりませんよ」
私はまさか、と口をあんぐりとさせた。姉達はきゃらきゃら笑って私の頬をつねった。
「まぁこの里が平和なうちは、望まない結婚は強いられませんから。だから、貴方。早く嫁に行きなさいね。」
「私たちは、貴方の面倒を見れなくなってしまうけど。達者で暮らしなさいね。」
姉達が私の幸せを願ってそう言っているのはわかっていた。だが、私の隣にいるのは尊奈門が良かった。すぐ怒って、私をこづいて、馬鹿にして、それでも、私の手をちゃんと離さないでいてくれる彼が。
この屋敷で奉仕し始めて、しばらく会っていなかった尊奈門はひどく大人びていた。聞けば組頭のお側で介抱していたらしい。いつのまにか、丸みを帯びた目と、頬の輪郭と、その姿は変わらないのに、固い芯を持っているようだった。
たまたま廊下ですれ違った彼に声をかけると、げっと眉を顰められる。その時、私は少し安堵したのだと思う。その様子は悲しいかな、私のよく知る尊奈門だったから。
忍者に何をしているのか聞くのはマナー違反だ。だから自然と私の話ばかりになってしまうが、尊奈門は昔と変わらない私に目を丸くしたり、眉間を揉んだり、耐えきれないように俯いて肩を振るわせ、大笑いしたりした。
私は嬉しくてずっとにこにこしていたように思う。それから、そう言えば、と、そう!奴から口に出したのだ。
「お前はそろそろ誕生日だったよな?」と。
一瞬呆けるが、うん!と距離を詰めると、尊奈門はしっしと手を振った。
「そんなに食いつくか?」
「だって覚えてるとは思わなかったから。さすが忍者、情報を正確に覚えてたんだね!ね、私に何かない?」
「は、はあ?」
彼は面白いくらいに慌てて色々服を探ったけど、出てくるものは手裏剣やら苦無ばかり。私は笑いを堪えるのに必死だった。その後気まずそうに、或いはやけくそで叫んでいたのだ。
「わかったわかった!なにか準備すればいいんだろ?!」
私は思わず小躍りしてしまうところだった。慌てて袂を抑えて、言ったね、言ったよね、と尊奈門に顔を寄せた。尊奈門は振り払うように顔をそっぽに向け、また今度な、と手で私を払った。
それからはもう夢心地だった。
彼が何を用意してくれるのか、どんなふうに声をかけてくれるのか、何度も考えてはにやけてしまった。
どうであれ約束は約束。たとえ義理の贈り物であっても、尊奈門が私のことを考える時間が少しでもある、そのことが何より嬉しかった。
雲行きが怪しくなったのは私の誕生日の夜だ。全く音沙汰もない。忙しいタソガレドキ忍軍のことだ。何か忍務が入ったのだろう、心配な気持ちを抑えながら私は布団に横になった。
忙しいかもしれない、でも、もしかしたら夜半でも来てくれるかもしれない、そう思うと眠れなかった。ねえさん方にお願いして、戸の近くにしてもらった布団の中で、まんじりともせず夜明けを迎えた。
尊奈門は、来なかった。
ねえさん達は優しいから、布団を戸の近くにしたいと言った時は少しは揶揄われたけれど、その次の日、翌々日と私が青菜に塩を振ったように萎れていくのを見て、きっとお忙しいのよ、今度誕生日祝いにご飯を食べに行きましょう、と口々に慰めてくれた。尊奈門の姿は確かに見かけない。良くはないが、彼が怪我をするより、私の誕生日を忘れていた方がましだ。全く良くはないが。私は不安でいっぱいになりながら、ねえさん、約束ですよ、と手を握った。
そうしてねえさんとやっとできた休みに連れ立って出た先に、彼…いや、奴がいたのである。
私は思わず口をおさえ、ねえさんに目配せした。ねえさんもこくりと頷いて、私の頭を撫でる。
見つめていると、森の中にずんずん入っていく。
見えなくなってからぷはりと息をすると、ねえさんがあらあらと眉を下げた。
「また行かれるのね」
「…ねえさん、尊奈門はどこに行ったのか知っているのですか?」
「え?!あ、あら…」
ねえさんが唇を歪ませる。そのまま気まずそうに目をうろうろさせた。私は、尊奈門に目立った負傷がないのに安心して、しかし、“全く良くない“ことが起きていることを察していた。
ねえさんは観念して、貴方が知らないのは可哀想だわ、と口を開いた。
「忍術学園に向かわれたのよ、力試しのようなもので、どうしても勝ちたい方がいらっしゃるんですって」
頭に重たい石が落ちてきたような、脳天を砕かれた気持ちであった。
やっと米がふやけて、洗いやすくなってきた。
私は額に浮かんだ汗を大雑把に拭って、かぶりをふる。
ねえさん達のうち、もう仕事が終わった方は夜着を取りに、旦那様がおられる方は寝床の準備をしに家へそれぞれまばらに散っていった。
「最近多いわね」
ぽつりと残っているねえさんのうち一人が口に出した。
「そうね、夜まで集まって会議なんて。最近じゃまともにあの人の顔見てないわ、」
「大きな戦をするのかね」
「…何も言えないからね、私達には」
しんみりとした空気になる。私はわざと音を立てておひつをこすった。
じきに、お風呂から上がったねえさん達が戻ってくる。
「…あれ、」
「あらあら、人数が多いわね、お家の方はいいの?」
戻ってこられたねえさんのうち、旦那様がいらっしゃる方が頬に手を当てて首を傾げた。風呂上がりということもあろうが、本当に、花が匂い立つような美しさだった。
「それが…今夜から仕事らしいのよ、そのうち数人は数日は戻ってこないとのことよ。」
「あら、じゃあ今夜は男手がないのかしら、怖いわね…」
「まぁ明日の明け方には幾人か戻ってくるとのことだし、大丈夫だと思うわ、ただ戸締りはしっかりね」
私は口を引き締めた。おそらく、その中には尊奈門がいる。
大好きなねえさんが私の頭を撫でる。
「大丈夫よ、尊奈門様なら」
私はこくりと頷いた。
風呂に入って、ねえさん達はもしものことがあった時のために食堂と、秘密裏に作られた医務室に籠った。私は、まあ、まだまだ役立たずなので、明日の働きに乞うご期待ということで、布団に一人戻る。その時、〇〇、と旦那様がいらっしゃるねえさんに声をかけられた。
「はい、何でしょうか」
「よかったらこの子もお布団に連れていってもらえない?一緒に面倒みたいのだけれど、ざわざわして眠れないだろうから…」
そう言って下された手には赤ん坊がむずがっていて、私は思わず破顔した。何もできないわけではないのが、嬉しかった。
「ええ、ええ!わたくし、頑張らせていただきますとも!」
「頑張らなくていいから、寝かせてあげてね」
「あ、はい…」
赤ん坊が粗相をしてしまった時もすぐ洗いに行けるよう、戸の近くに布団を敷く。いつもは人がひしめき合う部屋も、敷布団はあるのに私達二人以外誰もおらず、妙に寂しかった。
「ねんねん、ころりよ…」
うとうとしながらお腹を優しくたたいていると、赤ん坊はむにゃむにゃ言って静かになっていく。聞き分けのいい子で本当に助かる。
私もそろそろ眠れるかな、と欠伸していると、ふ、と、あたりが少しだけ明るくなった。戸に向けた背中の方から夜の光が漏れてきたのだ。どきり、と一気に覚醒する。
昔もこんなことがあった。夜、まだ遊びたいのにとむずがる私に、じゃあ迎えにいってやる、と尊奈門が迎えにきてくれた。ねえさん達にこっ酷く叱られたけど、あの時、戸が開いて、大好きな彼の手が差し伸べられた時の嬉しさを今でも覚えている。
静かに、ゆっくりと振り向く。
確かに戸は開いていた。それでも、月がはっきりしない今夜は光が朧で何もわからない。
「尊奈門…?」
思わず声に出すと、静かに、手が差し伸べられた。
どきり、と心臓が高鳴る。
そして、私は口を開けようとした。
「が、あっ、」
「うー、うー、」
後ろで、目が覚めてきてしまったのか、赤ん坊がむずがっている。
私は、呼吸すらままならず、彼の、曲者の手首を抑えた。
どきり、どきり、
「赤ん坊を殺されたくなければついて来い」
「う…う…」
ぱっと手が離される。そして、首筋に刀が沿った。
私は、わかりました、そう言って、赤ん坊を撫でる。
「おい」
「少しだけ…この子を寝かせてあげたいのです、じゃないと騒ぎ出してしまう」
「…チ、さっさとしろ、」
私は震える手で赤ん坊を撫でた。いつもねえさんがしてくれたように。
「ぼうや、よいこだ、ねんねしな…」
赤ん坊は、うとうとして、静かに瞼を閉じた。それを見届けて、相手を刺激しないようにじりじりと振り返る。
「立て」
そのまま部屋を出て、前を歩かされる。部屋から離れたところで、何か、何か、そう考えていると、相手も同じだったらしい。首に強い衝撃を受け、私の視界がぶれていった。
よかったと思うことがいくつもある。
赤ん坊が、危害を加えられずに、安らかに眠れたこと。
美しいねえさん達がおらず、私だけ部屋に戻っていたこと。
私に、殿方がいなかったこと。
尊奈門に、想いを伝えていなかったこと。
ぱん、と肩を強く打たれて目が覚める。
「何も知らないのか?!」
「…知りません」
目がぼやけて、目の前にいる人間が何人にも見える。複数人いることには変わりないが、それがぼやけて増えて見えて、私の恐怖心を煽った。
「クソ、里で入れるところがここしかないと思ったら…言葉も言えない赤子とガキか…」
「なあ、今なら解放してやる、タソガレドキ忍軍の向かった先を言え」
「知りません…うっ!」
今度は背中を刀の鞘で強く打たれた。おそらく、みみず腫れになっている。何も触られていないのに、体のあちこちが痛くて仕方なかった。
「じゃあ里の女どもの居場所を言え。ちったあ役に立つだろ」
私は動揺して、口を引き結んだ。
「お、それは言えそうだ、な!」
ぎぃ!と自分から出たとは思えない悲鳴が飛び出た。正座させられていた体が倒れてしまう、が、無理やり起き上がらせられた。
「あ、あ、し、知りません、私、わたしは、足手纏いなので、何も教えられずに寝るように言われて、」
「はあ?それが本当ならお前、とんだ腑抜けだな」
「まぁ、俺が入った時も男の名前呼んでたしな、厄介なお嬢ちゃんだ」
そんなもん〜と私を真似て、男達がゲラゲラ笑った。私は目の前の景色が信じられず、頭痛と耳鳴りが身体中に響くのを感じていた。
「ま、どうせ食堂だろう」
今度は動揺しないようにしたが、その様子が気に食わなかったのか、私を男の一人が張り倒した。無理やり縛られている体にそぐわない動きをされて、筋が強張っていた。
「言え。なあ?それくらいわかるだろ…?」
尊奈門とは似ても似つかない顔だ。大人びた、軽薄そうな顔。きっと仕事ができる人なのだろう、なのに、うちの忍軍とは似ても似つかない。
尊奈門なら、雑渡様、山本様、高坂様、他の皆様なら、こんな筋の通らないことはしない。私をいびっても仕方ないのだ。もっと、情報を持つ人間を見繕うべきなのだ。
「が、あああ」
首を絞められ、頭に血が集まるのを感じる。息ができない。口の端から切れ切れと泡が垂れる、
早く意識が遠のいて仕舞えばいい、何も考えられなくなって仕舞えばいい、ああ、何人かはもう動き始めて、数人だけ残っている。何重にも見える、何人だろう…
文字通り神に祈って、私は意識が遠のくのを今か今かと待った。死ぬのかもしれない。こんなことなら、約束なんてしなければよかった。
冷たい風が頬に吹く感触で意識が戻ってくる。
ひゅうう、ひゅうう、左頬に吹き付ける風。
誰かの荒い息遣い。時折、痰が絡まったように、喉を鳴らす。
体のあちこちが痛いのに、お腹だけ、あたたかい。
誰かにおぶわれているのか。
尊奈門であればいい。なのに、今度も裏切られたらと、本当に怖くて、私は何も知らないふりをして、目を閉じていた。
次目を開けると、そこには泣き腫らしたねえさん達が二人座っていた。わたしをいつも可愛がってくれるねえさんと、わたしに赤子を預けたねえさんだ。
「ああ、目が覚めた、目が覚めた、わかる?わたしよ、」
「ねえさん…」
「そう、そうよ…よく帰ってきてくれたねえ」
左からはもう何も言えなくなったねえさんが私の手を取って、頬を擦り付けていた。途切れ途切れに、ありがとう、ありがとう、と聞こえる。それだけで、赤ん坊は無事なのだとわかって、至極安心した。
それからまた眠って、少し食事が食べられるようになった時、ねえさんが隣で徐に口を開いた。
「あの後すぐに山本様が戻られて。皆召集を受けたのに、あなたが見つからなくて。赤ん坊だけが、部屋にいて…怖かったのよ、がらんとした私たちの部屋に、赤ん坊一人だけ…貴方は、どこにもいない」
ねえさんは目を伏せた。
「廊下に泥のついた足跡がうっすらと残っていてね、なんとか探し出せたのだけど、本当に、遅かったわね…」
何をしているのかしら、女一人助けられなくて。こんなの、忍軍の恥晒しよ。ねえさんがいつもとは表情を変えて般若のような形相になる。
私が思わずごくんと粥を飲むと、ねえさんは私の髪をゆっくりすいた。
「髪もまばらになってしまって。しみるでしょうけど、お風呂に入って綺麗にしましょう。」
綺麗に。そう言われると、何気なく、首元を手で触ってしまう。その仕草にねえさんが美しい眉を顰めた。
「……ごめんね」
「あ、いえ、」
いつのまにか包帯が巻かれていた。汗で痒くて、かり、と爪でかいてしまった。
「今日はねえさんが一緒にいてあげるからね。」
「そんな、悪いです。お仕事をしてください。」
「いいのよ。それとも…見せたくないかしら、」
「だ、大丈夫です、おそらく貞操は奪われていないので!」
ねえさんがひどく傷ついた顔をした。そして、私を抱きしめる。
「違うのよ、もう十分すぎるくらい貴方は辛い目に遭ったのに。」
ねえさんが涙声で言った。私は、なぜか、そのときすとんと素直に許された気がして、ぼろりと涙が出てくるのを感じていた。
「本当に、怖かったの。みんな心配していたのよ」
「私だって、ねえさんじゃなくて、本当によかった、ねえさんが無事で、本当によかった、」
美しいねえさんなら私よりもっと酷いことをされていたに違いない。そんなことをされると考えただけで、身を投げてしまいたいくらい悲しかった。
「…あなた、まだわかっていないのね。私たちは当然、でも男衆も凄かったんですから」
こん、と、外から音がした。軽く物が当たったような些細な音だったが、ねえさんは、静かに私から体を離した。
「〇〇、尊奈門様に会える?」
思わず私は頭に手をやる。いつのまにかザンバラに切られた髪の先、触るだけでわかる頬の腫れ、切れた唇の端。
青ざめて、首を横に振ると、ねえさんは、そうよね、と静かに頷いた。
「…まず体を洗って、綺麗にしましょう。」
結局、ねえさんに来てもらって正解だった。腕が痛くて伸ばせないから体のあちこちを洗ってもらったり、本当に申し訳なかったがやっと人間に戻ったような心地になった。
清潔な浴衣を着て、縁側に座って涼んでいなさい、と言われ、少し恐縮したが、でも早く治して皆の手伝いをする方がよっぽどいいと割り切って、風を頬に浴びる。ねえさんに揃えて切ってもらった髪は、嫁入りには短いけれど、まだ結えるほどはある。
「〇〇」
ぱっと顔を上げると、背中を向けた大男が座っていた。慌てて正座しようとすると、そのままで、と制される。
「雑渡様、それはあまりにも…」
「君は養生するのが先だ。」
渋々元に戻すと、雑渡様は手を下げた。
「すまなかった。我々の落ち度だ。この里の場所が割れてしまったからには次の場所に移る。」
「…はい」
「…君が、もし望むなら。この里を出て安全な場所へ嫁入りの口を探してもいい。そういったことには私より、適任がいるかとは思うが。」
私は首を振った。
「お、お願いです。私も一緒に連れて行ってください!」
必死の懇願が通じたのか、雑渡様の空気が和らいだ。
「…良かった。君がこの場所からいなくなると、悲しむ人間がいるからね。よく養生しなさい。」
最後くらい、と思って、彼の背中に向けて正座して平伏する。
すると、雑渡様が、そう言えば、と口を開いた。
「髪を切ったと聞いたよ。あの子があまりにも不憫だから早く伸びるといいね」
頭を上げると、もうそこには誰もいなくなっていた。
ふ、と視界が暗くなる。誰かが後ろに立っている。
どきり、と胸が軋んだ。
「〇〇」
思わず、自分の首を触る。巻き直された包帯は、きっちり跡を隠していた。それにひどく安心する一方で、馬乗りになって首を絞めてきたあの男の顔がちらついて、怖くて、たまらない。
尊奈門、と声を返すと、彼は庭に立ったまま、じっとしていた。
「ごめんなさい、今、顔を見せられない」
沈黙に耐えかねてそう言うと、彼は、ああ、と、彼らしからぬ静かな声で言葉を返した。
その言葉の節々に、彼が私を、見も知らぬ男に散々痛めつけられて馬乗りにされて首を絞められた私を、軽蔑してはいないか、その温度が声色に乗っていないか、ひどく気にかかる。
「…ごめんなさい、足手纏いで、でも、次の里にも一緒に行かせてほしい、です」
手を手でいじって、そう言うと、尊奈門が縁側に上がってくる音がした。
「…着いてこないなら、引き摺ってでも連れて行こうと思っていたから、問題ない」
俯いて自分の手を見る私に、濃い影がかかる。
そのまま、後ろから抱き抱えるように腕が伸ばされた、が、体には全く触れずに、私の両手の平に巾着が置かれた。
「遅くなって、悪かった」
信じられない思いで、でも、絶対にこの顔を見られたくなくて、巾着を凝視する。震える手で、静かに巾着の口を開くと、中には、櫛が入っていた。
「…尊奈門、すこしだけ、目を瞑って」
「ん、」
瞑った?と確かめると、ああ、と返ってくる。
本当に?と聞くと、違えない、ともう一度返ってきた。
私は振り向いて、顔を上げずにすぐさま尊奈門に抱きついた。
「ありがとう」
尊奈門は、もう一度、悪かった、と呟いて私を抱きしめた。
本当に怖かったのよ、とは、ねえさんの言葉である。
傷が治ってもしきりに言うものだから、私が笑ってしまうと、ねえさんは、もう!と唇を尖らせた。
「がらんとした私たちの部屋に、赤ん坊一人だけ、貴方は、どこにもいない。そうわかった時、尊奈門様がね、鯉口を切ったのよ。すぐに雑渡様に嗜められたけれど。それから、居場所が割れた途端飛び出して…気づいたら、」
「こらこら、引越しの荷物がまだ残ってるんだから無駄話しない!」
珍しくねえさんが咎められ、私は首をすくめた。ねえさんはごめんなさい、と言ってからから笑った。気づくと他のねえさん達もにやにやしている。
「本当に怖かったんだから。」
だれかが、身にまとう色といい、表情といい、まさしく阿修羅のようだったわ、と、歌うように言った。
ねえさんと言っても本当の姉ではない。私の実の姉たちはもう嫁に入ってしまった。ねえさんは私の教育係だった。
「まだ言ってるの?尊奈門様だってお忙しいのだから、仕方ないわよ」
「そうは言っても私と何度も顔を合わせているのに一向に口を利きません。忙しいとはいえど無断欠勤で忍術学園に向かうとは何事ですか。私との約束など忘れてしまっているのです。」
ああ〜…とねえさんは額を抑えて眉を下げた。頭が痛そうであった。
私はぷんすこ拗ねて、米粒が縁についたままのおひつをかかえなおした。これからやっと私たちのご飯だ。お腹が空いていることも私の怒りにさらに薪をくべていた。
ねえさんは私の頭を撫でていい子ね、〇〇、貴方はとってもいい子よ、と囁くように笑う。その手のひらの柔らかさに少しだけ気持ちが紛れて肩を落とす。
「怒っていては可愛い顔が台無しよ」
「ねえさん。私、ねえさんのことが大好きです。ねえさんの仰る事ならばなんでも信じてしまうわ、でもそればっかりは嘘よ。私がもしも可愛かったら、私の実の姉達のように私も縁談があるはずです。」
「あら!卑屈なことを言う口ね、でも実際に縁談がきたら困るのは貴方でしょう?」
私は、マア、ソウデスガ、と口を曲げた。
台所に戻るとてんやわんやであっという間にねえさんは呼ばれて消えていってしまう。あっ、と声をかけることも、お話を聞いてもらったお礼も言えず、私は立ちすくんだ。みんなさっさと食べないと、次は男衆の食器を洗わないといけないのだ。男衆はそのまま会議がある。
私は食いっぱぐれないように必死に仕事をもらった。
私が怒っていたのは、幼馴染の尊奈門にしでかされた仕打ちについてである。
確かに奴は私の誕生日に何か贈り物をすると言った。言ったったら言った。たとえ言わせたとしても。
皿を拭きつつ私は外を見た。りいりい虫が鳴っていた。
幼い振る舞いで気を引こうとするのは不細工だ。そんなこと知っている。それでも私は、尊奈門に、仕方がないやつだ、どうしようもないな、そうため息をつかれたとしても、私を見て欲しかった。
私は尊奈門のことが好きだ。幼い頃は私が彼とずっと一緒にいると疑っていなかった。そのずっと、が、生涯という時間の概念を持って私に迫ってきた時、私はなんの覚悟もできていなかった。私は、ずっと一緒にいたいだけだったのに、私の姉達は口々に言った。
「忍者の里の娘なら、将来はこの里のために尽くさないといけませんよ」
「同盟が必要なら他の里に、血を濃くしたいなら歳が離れている殿方でも、仕えなければなりませんよ」
私はまさか、と口をあんぐりとさせた。姉達はきゃらきゃら笑って私の頬をつねった。
「まぁこの里が平和なうちは、望まない結婚は強いられませんから。だから、貴方。早く嫁に行きなさいね。」
「私たちは、貴方の面倒を見れなくなってしまうけど。達者で暮らしなさいね。」
姉達が私の幸せを願ってそう言っているのはわかっていた。だが、私の隣にいるのは尊奈門が良かった。すぐ怒って、私をこづいて、馬鹿にして、それでも、私の手をちゃんと離さないでいてくれる彼が。
この屋敷で奉仕し始めて、しばらく会っていなかった尊奈門はひどく大人びていた。聞けば組頭のお側で介抱していたらしい。いつのまにか、丸みを帯びた目と、頬の輪郭と、その姿は変わらないのに、固い芯を持っているようだった。
たまたま廊下ですれ違った彼に声をかけると、げっと眉を顰められる。その時、私は少し安堵したのだと思う。その様子は悲しいかな、私のよく知る尊奈門だったから。
忍者に何をしているのか聞くのはマナー違反だ。だから自然と私の話ばかりになってしまうが、尊奈門は昔と変わらない私に目を丸くしたり、眉間を揉んだり、耐えきれないように俯いて肩を振るわせ、大笑いしたりした。
私は嬉しくてずっとにこにこしていたように思う。それから、そう言えば、と、そう!奴から口に出したのだ。
「お前はそろそろ誕生日だったよな?」と。
一瞬呆けるが、うん!と距離を詰めると、尊奈門はしっしと手を振った。
「そんなに食いつくか?」
「だって覚えてるとは思わなかったから。さすが忍者、情報を正確に覚えてたんだね!ね、私に何かない?」
「は、はあ?」
彼は面白いくらいに慌てて色々服を探ったけど、出てくるものは手裏剣やら苦無ばかり。私は笑いを堪えるのに必死だった。その後気まずそうに、或いはやけくそで叫んでいたのだ。
「わかったわかった!なにか準備すればいいんだろ?!」
私は思わず小躍りしてしまうところだった。慌てて袂を抑えて、言ったね、言ったよね、と尊奈門に顔を寄せた。尊奈門は振り払うように顔をそっぽに向け、また今度な、と手で私を払った。
それからはもう夢心地だった。
彼が何を用意してくれるのか、どんなふうに声をかけてくれるのか、何度も考えてはにやけてしまった。
どうであれ約束は約束。たとえ義理の贈り物であっても、尊奈門が私のことを考える時間が少しでもある、そのことが何より嬉しかった。
雲行きが怪しくなったのは私の誕生日の夜だ。全く音沙汰もない。忙しいタソガレドキ忍軍のことだ。何か忍務が入ったのだろう、心配な気持ちを抑えながら私は布団に横になった。
忙しいかもしれない、でも、もしかしたら夜半でも来てくれるかもしれない、そう思うと眠れなかった。ねえさん方にお願いして、戸の近くにしてもらった布団の中で、まんじりともせず夜明けを迎えた。
尊奈門は、来なかった。
ねえさん達は優しいから、布団を戸の近くにしたいと言った時は少しは揶揄われたけれど、その次の日、翌々日と私が青菜に塩を振ったように萎れていくのを見て、きっとお忙しいのよ、今度誕生日祝いにご飯を食べに行きましょう、と口々に慰めてくれた。尊奈門の姿は確かに見かけない。良くはないが、彼が怪我をするより、私の誕生日を忘れていた方がましだ。全く良くはないが。私は不安でいっぱいになりながら、ねえさん、約束ですよ、と手を握った。
そうしてねえさんとやっとできた休みに連れ立って出た先に、彼…いや、奴がいたのである。
私は思わず口をおさえ、ねえさんに目配せした。ねえさんもこくりと頷いて、私の頭を撫でる。
見つめていると、森の中にずんずん入っていく。
見えなくなってからぷはりと息をすると、ねえさんがあらあらと眉を下げた。
「また行かれるのね」
「…ねえさん、尊奈門はどこに行ったのか知っているのですか?」
「え?!あ、あら…」
ねえさんが唇を歪ませる。そのまま気まずそうに目をうろうろさせた。私は、尊奈門に目立った負傷がないのに安心して、しかし、“全く良くない“ことが起きていることを察していた。
ねえさんは観念して、貴方が知らないのは可哀想だわ、と口を開いた。
「忍術学園に向かわれたのよ、力試しのようなもので、どうしても勝ちたい方がいらっしゃるんですって」
頭に重たい石が落ちてきたような、脳天を砕かれた気持ちであった。
やっと米がふやけて、洗いやすくなってきた。
私は額に浮かんだ汗を大雑把に拭って、かぶりをふる。
ねえさん達のうち、もう仕事が終わった方は夜着を取りに、旦那様がおられる方は寝床の準備をしに家へそれぞれまばらに散っていった。
「最近多いわね」
ぽつりと残っているねえさんのうち一人が口に出した。
「そうね、夜まで集まって会議なんて。最近じゃまともにあの人の顔見てないわ、」
「大きな戦をするのかね」
「…何も言えないからね、私達には」
しんみりとした空気になる。私はわざと音を立てておひつをこすった。
じきに、お風呂から上がったねえさん達が戻ってくる。
「…あれ、」
「あらあら、人数が多いわね、お家の方はいいの?」
戻ってこられたねえさんのうち、旦那様がいらっしゃる方が頬に手を当てて首を傾げた。風呂上がりということもあろうが、本当に、花が匂い立つような美しさだった。
「それが…今夜から仕事らしいのよ、そのうち数人は数日は戻ってこないとのことよ。」
「あら、じゃあ今夜は男手がないのかしら、怖いわね…」
「まぁ明日の明け方には幾人か戻ってくるとのことだし、大丈夫だと思うわ、ただ戸締りはしっかりね」
私は口を引き締めた。おそらく、その中には尊奈門がいる。
大好きなねえさんが私の頭を撫でる。
「大丈夫よ、尊奈門様なら」
私はこくりと頷いた。
風呂に入って、ねえさん達はもしものことがあった時のために食堂と、秘密裏に作られた医務室に籠った。私は、まあ、まだまだ役立たずなので、明日の働きに乞うご期待ということで、布団に一人戻る。その時、〇〇、と旦那様がいらっしゃるねえさんに声をかけられた。
「はい、何でしょうか」
「よかったらこの子もお布団に連れていってもらえない?一緒に面倒みたいのだけれど、ざわざわして眠れないだろうから…」
そう言って下された手には赤ん坊がむずがっていて、私は思わず破顔した。何もできないわけではないのが、嬉しかった。
「ええ、ええ!わたくし、頑張らせていただきますとも!」
「頑張らなくていいから、寝かせてあげてね」
「あ、はい…」
赤ん坊が粗相をしてしまった時もすぐ洗いに行けるよう、戸の近くに布団を敷く。いつもは人がひしめき合う部屋も、敷布団はあるのに私達二人以外誰もおらず、妙に寂しかった。
「ねんねん、ころりよ…」
うとうとしながらお腹を優しくたたいていると、赤ん坊はむにゃむにゃ言って静かになっていく。聞き分けのいい子で本当に助かる。
私もそろそろ眠れるかな、と欠伸していると、ふ、と、あたりが少しだけ明るくなった。戸に向けた背中の方から夜の光が漏れてきたのだ。どきり、と一気に覚醒する。
昔もこんなことがあった。夜、まだ遊びたいのにとむずがる私に、じゃあ迎えにいってやる、と尊奈門が迎えにきてくれた。ねえさん達にこっ酷く叱られたけど、あの時、戸が開いて、大好きな彼の手が差し伸べられた時の嬉しさを今でも覚えている。
静かに、ゆっくりと振り向く。
確かに戸は開いていた。それでも、月がはっきりしない今夜は光が朧で何もわからない。
「尊奈門…?」
思わず声に出すと、静かに、手が差し伸べられた。
どきり、と心臓が高鳴る。
そして、私は口を開けようとした。
「が、あっ、」
「うー、うー、」
後ろで、目が覚めてきてしまったのか、赤ん坊がむずがっている。
私は、呼吸すらままならず、彼の、曲者の手首を抑えた。
どきり、どきり、
「赤ん坊を殺されたくなければついて来い」
「う…う…」
ぱっと手が離される。そして、首筋に刀が沿った。
私は、わかりました、そう言って、赤ん坊を撫でる。
「おい」
「少しだけ…この子を寝かせてあげたいのです、じゃないと騒ぎ出してしまう」
「…チ、さっさとしろ、」
私は震える手で赤ん坊を撫でた。いつもねえさんがしてくれたように。
「ぼうや、よいこだ、ねんねしな…」
赤ん坊は、うとうとして、静かに瞼を閉じた。それを見届けて、相手を刺激しないようにじりじりと振り返る。
「立て」
そのまま部屋を出て、前を歩かされる。部屋から離れたところで、何か、何か、そう考えていると、相手も同じだったらしい。首に強い衝撃を受け、私の視界がぶれていった。
よかったと思うことがいくつもある。
赤ん坊が、危害を加えられずに、安らかに眠れたこと。
美しいねえさん達がおらず、私だけ部屋に戻っていたこと。
私に、殿方がいなかったこと。
尊奈門に、想いを伝えていなかったこと。
ぱん、と肩を強く打たれて目が覚める。
「何も知らないのか?!」
「…知りません」
目がぼやけて、目の前にいる人間が何人にも見える。複数人いることには変わりないが、それがぼやけて増えて見えて、私の恐怖心を煽った。
「クソ、里で入れるところがここしかないと思ったら…言葉も言えない赤子とガキか…」
「なあ、今なら解放してやる、タソガレドキ忍軍の向かった先を言え」
「知りません…うっ!」
今度は背中を刀の鞘で強く打たれた。おそらく、みみず腫れになっている。何も触られていないのに、体のあちこちが痛くて仕方なかった。
「じゃあ里の女どもの居場所を言え。ちったあ役に立つだろ」
私は動揺して、口を引き結んだ。
「お、それは言えそうだ、な!」
ぎぃ!と自分から出たとは思えない悲鳴が飛び出た。正座させられていた体が倒れてしまう、が、無理やり起き上がらせられた。
「あ、あ、し、知りません、私、わたしは、足手纏いなので、何も教えられずに寝るように言われて、」
「はあ?それが本当ならお前、とんだ腑抜けだな」
「まぁ、俺が入った時も男の名前呼んでたしな、厄介なお嬢ちゃんだ」
そんなもん〜と私を真似て、男達がゲラゲラ笑った。私は目の前の景色が信じられず、頭痛と耳鳴りが身体中に響くのを感じていた。
「ま、どうせ食堂だろう」
今度は動揺しないようにしたが、その様子が気に食わなかったのか、私を男の一人が張り倒した。無理やり縛られている体にそぐわない動きをされて、筋が強張っていた。
「言え。なあ?それくらいわかるだろ…?」
尊奈門とは似ても似つかない顔だ。大人びた、軽薄そうな顔。きっと仕事ができる人なのだろう、なのに、うちの忍軍とは似ても似つかない。
尊奈門なら、雑渡様、山本様、高坂様、他の皆様なら、こんな筋の通らないことはしない。私をいびっても仕方ないのだ。もっと、情報を持つ人間を見繕うべきなのだ。
「が、あああ」
首を絞められ、頭に血が集まるのを感じる。息ができない。口の端から切れ切れと泡が垂れる、
早く意識が遠のいて仕舞えばいい、何も考えられなくなって仕舞えばいい、ああ、何人かはもう動き始めて、数人だけ残っている。何重にも見える、何人だろう…
文字通り神に祈って、私は意識が遠のくのを今か今かと待った。死ぬのかもしれない。こんなことなら、約束なんてしなければよかった。
冷たい風が頬に吹く感触で意識が戻ってくる。
ひゅうう、ひゅうう、左頬に吹き付ける風。
誰かの荒い息遣い。時折、痰が絡まったように、喉を鳴らす。
体のあちこちが痛いのに、お腹だけ、あたたかい。
誰かにおぶわれているのか。
尊奈門であればいい。なのに、今度も裏切られたらと、本当に怖くて、私は何も知らないふりをして、目を閉じていた。
次目を開けると、そこには泣き腫らしたねえさん達が二人座っていた。わたしをいつも可愛がってくれるねえさんと、わたしに赤子を預けたねえさんだ。
「ああ、目が覚めた、目が覚めた、わかる?わたしよ、」
「ねえさん…」
「そう、そうよ…よく帰ってきてくれたねえ」
左からはもう何も言えなくなったねえさんが私の手を取って、頬を擦り付けていた。途切れ途切れに、ありがとう、ありがとう、と聞こえる。それだけで、赤ん坊は無事なのだとわかって、至極安心した。
それからまた眠って、少し食事が食べられるようになった時、ねえさんが隣で徐に口を開いた。
「あの後すぐに山本様が戻られて。皆召集を受けたのに、あなたが見つからなくて。赤ん坊だけが、部屋にいて…怖かったのよ、がらんとした私たちの部屋に、赤ん坊一人だけ…貴方は、どこにもいない」
ねえさんは目を伏せた。
「廊下に泥のついた足跡がうっすらと残っていてね、なんとか探し出せたのだけど、本当に、遅かったわね…」
何をしているのかしら、女一人助けられなくて。こんなの、忍軍の恥晒しよ。ねえさんがいつもとは表情を変えて般若のような形相になる。
私が思わずごくんと粥を飲むと、ねえさんは私の髪をゆっくりすいた。
「髪もまばらになってしまって。しみるでしょうけど、お風呂に入って綺麗にしましょう。」
綺麗に。そう言われると、何気なく、首元を手で触ってしまう。その仕草にねえさんが美しい眉を顰めた。
「……ごめんね」
「あ、いえ、」
いつのまにか包帯が巻かれていた。汗で痒くて、かり、と爪でかいてしまった。
「今日はねえさんが一緒にいてあげるからね。」
「そんな、悪いです。お仕事をしてください。」
「いいのよ。それとも…見せたくないかしら、」
「だ、大丈夫です、おそらく貞操は奪われていないので!」
ねえさんがひどく傷ついた顔をした。そして、私を抱きしめる。
「違うのよ、もう十分すぎるくらい貴方は辛い目に遭ったのに。」
ねえさんが涙声で言った。私は、なぜか、そのときすとんと素直に許された気がして、ぼろりと涙が出てくるのを感じていた。
「本当に、怖かったの。みんな心配していたのよ」
「私だって、ねえさんじゃなくて、本当によかった、ねえさんが無事で、本当によかった、」
美しいねえさんなら私よりもっと酷いことをされていたに違いない。そんなことをされると考えただけで、身を投げてしまいたいくらい悲しかった。
「…あなた、まだわかっていないのね。私たちは当然、でも男衆も凄かったんですから」
こん、と、外から音がした。軽く物が当たったような些細な音だったが、ねえさんは、静かに私から体を離した。
「〇〇、尊奈門様に会える?」
思わず私は頭に手をやる。いつのまにかザンバラに切られた髪の先、触るだけでわかる頬の腫れ、切れた唇の端。
青ざめて、首を横に振ると、ねえさんは、そうよね、と静かに頷いた。
「…まず体を洗って、綺麗にしましょう。」
結局、ねえさんに来てもらって正解だった。腕が痛くて伸ばせないから体のあちこちを洗ってもらったり、本当に申し訳なかったがやっと人間に戻ったような心地になった。
清潔な浴衣を着て、縁側に座って涼んでいなさい、と言われ、少し恐縮したが、でも早く治して皆の手伝いをする方がよっぽどいいと割り切って、風を頬に浴びる。ねえさんに揃えて切ってもらった髪は、嫁入りには短いけれど、まだ結えるほどはある。
「〇〇」
ぱっと顔を上げると、背中を向けた大男が座っていた。慌てて正座しようとすると、そのままで、と制される。
「雑渡様、それはあまりにも…」
「君は養生するのが先だ。」
渋々元に戻すと、雑渡様は手を下げた。
「すまなかった。我々の落ち度だ。この里の場所が割れてしまったからには次の場所に移る。」
「…はい」
「…君が、もし望むなら。この里を出て安全な場所へ嫁入りの口を探してもいい。そういったことには私より、適任がいるかとは思うが。」
私は首を振った。
「お、お願いです。私も一緒に連れて行ってください!」
必死の懇願が通じたのか、雑渡様の空気が和らいだ。
「…良かった。君がこの場所からいなくなると、悲しむ人間がいるからね。よく養生しなさい。」
最後くらい、と思って、彼の背中に向けて正座して平伏する。
すると、雑渡様が、そう言えば、と口を開いた。
「髪を切ったと聞いたよ。あの子があまりにも不憫だから早く伸びるといいね」
頭を上げると、もうそこには誰もいなくなっていた。
ふ、と視界が暗くなる。誰かが後ろに立っている。
どきり、と胸が軋んだ。
「〇〇」
思わず、自分の首を触る。巻き直された包帯は、きっちり跡を隠していた。それにひどく安心する一方で、馬乗りになって首を絞めてきたあの男の顔がちらついて、怖くて、たまらない。
尊奈門、と声を返すと、彼は庭に立ったまま、じっとしていた。
「ごめんなさい、今、顔を見せられない」
沈黙に耐えかねてそう言うと、彼は、ああ、と、彼らしからぬ静かな声で言葉を返した。
その言葉の節々に、彼が私を、見も知らぬ男に散々痛めつけられて馬乗りにされて首を絞められた私を、軽蔑してはいないか、その温度が声色に乗っていないか、ひどく気にかかる。
「…ごめんなさい、足手纏いで、でも、次の里にも一緒に行かせてほしい、です」
手を手でいじって、そう言うと、尊奈門が縁側に上がってくる音がした。
「…着いてこないなら、引き摺ってでも連れて行こうと思っていたから、問題ない」
俯いて自分の手を見る私に、濃い影がかかる。
そのまま、後ろから抱き抱えるように腕が伸ばされた、が、体には全く触れずに、私の両手の平に巾着が置かれた。
「遅くなって、悪かった」
信じられない思いで、でも、絶対にこの顔を見られたくなくて、巾着を凝視する。震える手で、静かに巾着の口を開くと、中には、櫛が入っていた。
「…尊奈門、すこしだけ、目を瞑って」
「ん、」
瞑った?と確かめると、ああ、と返ってくる。
本当に?と聞くと、違えない、ともう一度返ってきた。
私は振り向いて、顔を上げずにすぐさま尊奈門に抱きついた。
「ありがとう」
尊奈門は、もう一度、悪かった、と呟いて私を抱きしめた。
本当に怖かったのよ、とは、ねえさんの言葉である。
傷が治ってもしきりに言うものだから、私が笑ってしまうと、ねえさんは、もう!と唇を尖らせた。
「がらんとした私たちの部屋に、赤ん坊一人だけ、貴方は、どこにもいない。そうわかった時、尊奈門様がね、鯉口を切ったのよ。すぐに雑渡様に嗜められたけれど。それから、居場所が割れた途端飛び出して…気づいたら、」
「こらこら、引越しの荷物がまだ残ってるんだから無駄話しない!」
珍しくねえさんが咎められ、私は首をすくめた。ねえさんはごめんなさい、と言ってからから笑った。気づくと他のねえさん達もにやにやしている。
「本当に怖かったんだから。」
だれかが、身にまとう色といい、表情といい、まさしく阿修羅のようだったわ、と、歌うように言った。