このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

【短編集】秀才監督生と天才イデア先輩



「監督生くんが元の世界に戻る手段は永久に失われてしまいました。非常に残念です」
「……え、え、嘘ですよね?学園長、嘘だと言ってください。学園長、学園長!」

魔法史の授業中、校内放送で学園長室に呼びつけられたかと思えば開口一番に突きつけられた残酷な事実。いつも飄々としている学園長が深刻そうな雰囲気を醸し出していて、軽口はその身を潜め、重い口ぶりで確かにそう言った。私の理性は学園長の言葉を否定しようと躍起になって頭の中で暴れ始めたけれど、本能は驚くほど静かにその事実を受け入れてしまっていた。最近になって元の世界に残してきた家族や自分の生い立ちの記憶がうまく思い出せなくなってきていたから。まるで脳味噌に靄が立ち込めたみたいに。

「嘘では、ありません。元の世界の監督生くんは昏睡状態にあり、魂だけがこちらの世界に迷い込んだ状態にあると伝えましたね?」
「はい。でも私の身体が死亡しない限り魂との繋がりは切れない、と。……まさか」
「ええ、そのまさかです」
 
学園長が机上の小瓶を摘んで空中で指を離す。ぱりん、と小さな音。床に叩きつけられた小瓶はいとも呆気なく割れてしまって、中に入っていた夜のように黒い液体がじわりじわりと床に広がっていく。私は液体の行方をじっと見守っていた。

「脳死、です。魂は無事であろうと、容れ物である身体が使い物にならなくしまってはどうにもなりません。仮に元の世界に戻る手段が見つかったとしても、その先にある運命は死、です。監督生くんはそれでも帰るというのですか」
「そんな」

粉々に割れて床に散らばったガラスの小瓶。中の液体は無事ではあるけれど、ガラス瓶の中に戻すことなどできない。それこそ魔法でもない限り。残念ながら私が生きていた世界に魔法は存在しなかった。学園長は魔法を使ってガラスの小瓶を元に戻してみせる。それを見た私の瞳から熱い液体が溢れる感覚がした。

「学園長、教えてくださってありがとうございました。……少し、考えさせてください」
「ええ、心の整理をする時間が必要でしょう」

学園長に一礼をしてから逃げるように背を向ける。一瞬だけ視界に入った仮面の下の表情は窺い知れなかったけれど、口元には憂色を湛えてあった気がする。一刻も早く此処から立ち去りたくなった私は、拳を握りしめて扉の外へと駆け出した。学園長室の重厚な扉を体当たりするようにこじ開けて、学園の長い廊下を走る。行く当てなんてない。そのうち堪え切れなくなった涙がぼろぼろ溢れてくるのを感じた。私に行く当てなんて無いんだ。ひたすらに走った。すれ違った生徒たちがざわついていたけれど、羞恥を感じられるほど心に余裕はなかった。「監督生!」「子分!」とエースやデュース、グリムに呼び止められた気がしたけれど、どんな顔をして彼らに向き合えばいいのか解らなかったから無視して走り続けた。


気づけば嗚咽を漏らしながら走っていて、走り続けて、辿り着いたのは鏡の間だった。

「私、どうしてこんなところに来ちゃったんだろう……ぐず」

思わず呟いた言葉は現在の自分と、棺の中で目を覚ました過去の自分に向けたもの。どうしてこんなところに来ちゃったんだろう。監督生としての始まりの場所である鏡の間が元の世界に繋がっているとでも考えたのかな。どうしてこんな場所に来ちゃったんだろう。周囲からの期待に押し潰されたとしても首を吊る必要なんてなかったのに。誰も居ない鏡の間に、私の嗚咽だけが静かに響く。私の涙だけが落ちていく。


――ギィ、と扉の開く音。

「君、こんなところで何してる……。え、えっ、もしかして泣いてんの?」

音がした方向を振り返ると、扉の前に目を白黒させたイデア先輩が立ち尽くしていた。よりにもよって一番見られたくない場面を一番見られたくない人物に見られてしまった。ごしごしと目を擦って涙を隠す。ずるずると鼻水を啜る。止めどなく溢れてくる涙にそんな行為は焼け石に水だったけれど。イデア先輩の足音が近づいてくる。貴方が嫌いな面倒事なんだからいつものように知らんぷりすればいいのに、躊躇いがちな足音は私に近づいてくる。

「えっ、ほんとに泣いてんの?……だ、大丈夫、です?ぼぼ、僕、やっぱり帰るわ。じゃあ」
「……」

何故か去ろうとするイデア先輩のパーカーの裾をつまんだ私の震える手。私の手の意思のはずなのに私にも解らなかった。ぐしゃりとパーカーを握りしめると、雑巾を絞ったみたいに涙がぽたぽたと床に落ちる。少しだけ嫌そうなため息をついて、隣に腰を掛けた大きな身体。いつもは冷たいと感じるイデア先輩の体温が、今日はなんだかあったかくて心地いいと感じてしまった。

「……なに」
「わ、私、元の世界に帰れなくなりました。脳死だって、学園長が言ってました。元の世界に私の身体も、私の居場所もなくなっちゃったんです」
「ふうん。それで?」

心底面倒臭そうに頬杖をついて、眉間に皺を寄せて。鈍い光を放つ伏し目がちな金の瞳は、時折頷くように瞬きをしながら私の言葉をひとつひとつ受け取る。ぽつりぽつりと涙を落としながら、ぽつりぽつりととりとめのない言葉が溢れてくる。パーカーの裾を握る拳が白く歪んで、ふるふると頼りなく震えだす。言葉にすることで認めたくない現実が次々と心の中に落ちてくる。思考が自己嫌悪の方向へと堕ちていく。

「お、お父さんもお母さんも、弟も。少ないけど、友達も。みんな私が死んだこと、帰ってこれなくなったことをきっと悲しんでます。いい大学に行って、有名な会社に就職して、って期待してくれていたのに。私が弱い所為で、自殺なんか図った所為で」
「もういいもういい。ストップ。ちょっと黙って。失った人生なんて語らなくていい。私の所為で、っていう腹立たしさも悔しさも君の思い上がりでしかないよ。君ひとりの力で人生を左右できるとでも思ってんの?」

苛立ちを隠さない口ぶりで、呆れ返った口ぶりで、イデア先輩は私からぼろぼろと溢れてくる臍を噛む言葉を遮った。相変わらず苛烈な物言いだったけれど。パーカーを握りしめる拳にその大きな手のひらをそっと重ねてくれた。ぎこちなく私の手を包んでくれる手のひらはやっぱりあったかくて、優しくて。握りしめた拳が少しずつ緩んでいく。

「う……、ぐずっ。ごめんなさい」
「あーもう、泣くなよ。べ、別に君を責めてる訳じゃないんだ。語るならせめて未来のことを語れよ。過去なんてどうでもいい。……これから君は、どうしたいんだい?」
「これ……、から?」

気不味そうにきょろきょろと忙しなく動き回っていた金の瞳が、真っ直ぐに私の瞳を見据える。いつも通りぶっきらぼうな物言いだというのに、その言葉の奥に、瞳の奥にじんわりと温かい優しさを感じてしまった。イデア先輩に優しくされることってほとんどないから、心がぐらぐらと揺れてしまう。イデア先輩の瞳の中に居る私もゆらゆらと揺れた。嗚呼、私、本当は。

「私は、私は。イデア先輩に……」

ただひたすらに憧れていた。その頭脳が羨ましかった。一生を懸けても敵わないと確信してしまった目の上のたんこぶだった。疎ましかった。修羅を燃やしていた。妬ましかった。それでも貴方が奥の方に大切にしまっていた優しさに触れてしまった今。有意義な助言を与え道を示してくれる聡明さに再び触れてしまった今。歪に育ってしまった感情の奥底にあった想いが露わになっていくのを感じた。



――私は、イデア先輩に恋をしている。

自覚してしまった恋が胸を締め付ける。悔しいけれど、きっとこれが恋なんだ。よりにもよって最悪のタイミングで目覚めてしまった恋心。馬鹿正直にイデア先輩に伝えてしまえば「元の世界に帰れなくなったからって僕に縋るつもり?」なんて皮肉を言われるだろう。言葉にすれば安い願望でしかないんだ。それを否定できる根拠なんて私の中には無い。本当に「元の世界に帰れなくなったからイデア先輩に縋ろう」と本能が働いているかもしれないんだ。無意識のうちに防衛本能が働いているだけかもしれないんだ。自分が傷つくことを何より恐れる私の中には、次々と言い訳が飛び交う。嗚呼、自覚した瞬間から伝えることが叶わないと決まっている恋なんて。ずっと気づかないままで生きて、死んでしまいたかったのに。

「あ……、イデア先輩に勝ちたい、です」
「ふうん、あそ。せいぜい頑張りなよね。一生無理だと思うけど」
「む」

永遠のように思えた一瞬の後、私は結局いつもの口癖を吐き出した。イデア先輩は金の瞳を細めて口角を釣り上げ、小馬鹿にしたような台詞を返してくる。せせら笑うその顔には神経を逆撫でされたけれど、嗚呼この人はこんなに綺麗な顔をしていたんだって気づいてしまった。恋心はいつだって人間の判断力を奪う。もしイデア先輩の頭脳に勝つことができたら、その時は思い切って告白するんだ。想いびとは一生無理だって言うけれど。

「じゃあね。僕は君と違って忙しいから。もう行くよ」

私の手をもう一度ぎゅっと力強く握ってから、イデア先輩は億劫そうに立ち上がった。見上げたその身体はひょろひょろと細いけれどすごく背が高くて、嗚呼この人はどうしようもないほどに男の人だったんだって気づいてしまった。恋心はいつだって人間の判断力を奪う。隠れるようにくつくつと苦笑して、涙と鼻水を制服の裾で拭って、私もイデア先輩の隣に立った。

「私もイデア先輩と一緒に帰ります」
「僕、これから学園長に用事があるんだけど」
「じゃあ途中までご一緒してもいいですか?」

いいよ、とそっけない言葉が降ってきたから、私のスニーカーは先に歩き出した大きな背中を追って駆け出した。





「学園長、失礼します……」
「ああシュラウドくん。今朝はご苦労様でした」

学園長室の机上には夜色の液体が湛えられた小瓶がひとつ。イデアの足音にゆらりゆらりと液体は煌めいて揺れる。両者は机一枚を挟んで向かい合う。

「あの子は、どっ、どんな反応をしましたか」
「酷く動揺していました。年端もいかない少女が残酷な真実を突きつけられて……、可哀想に。泣きながらここを飛び出して行きましたよ」
「そ、そうですか」

学園長がおもむろに小瓶を手に取る。きらきらと輝きを増していく夜色の液体に魅入られたように、イデアの視線は小瓶の中に吸い取られていく。金の瞳が液体に合わせてちゃぷちゃぷと揺らめく。学園長がぱちんと指を弾くと、小瓶は雲散霧消した。イデアの意識が再び学園長に注がれる。金の瞳は少しの苛立ちを含んで澱んでいた。

「もう『あちらの世界』を監視する必要はありません。改めて、今までご苦労様でした」
「あっ、いや、でも。も、もしかしたら脳死から回復するかも、しれないし。最期まで見守らせてく、くれませんか」
「……ふむ」

仮面の下から伸びる学園長の視線と、きょろきょろと挙動不審に動き回るイデアの視線が何度もぶつかる。青色に燃え上がる髪が質量を増していく様子に気づいた学園長は、わざとらしいため息を吐いて言葉を続ける。

「いいでしょう。断る理由はありません。これからもよろしくお願いしますよ」
「あっ、はい。じゃ、じゃあ僕はこれで……」

学園長の気が変わらないうちに、とイデアは言葉の途中で踵を巡らす。その手の中には消えたはずの夜色で満ちた小瓶が握られていた。


「過去は僕が看取ってやるから、安心して。永遠に僕の傍にいろ」

イデアは夜色の液体を飲み干した。喉仏が上下して、夜はイデアの中に溶けていった。





じゃり、と後ずさる足が奏でる音。私のスニーカーに背中を押された小石たちが奈落の底に落ちていく。再び地球にぶつかる音は聞こえてこない。数十センチ先にはどれほど深い谷が口を開いているのだろうか。もう一歩だって後ろに下がれないところまで私は追い詰められていた。

「イデア先輩、どうして」
「君の運命だよ。早いとこ観念して、受け入れなよ」

私が尊敬してやまないイデア先輩の後ろには、髪の色と同じように青く燃える髑髏のユニットがぷかぷかと浮かんでいる。二年先にNRCを卒業したイデア先輩は、はるばる嘆きの島からやってきて私の卒業を祝ってくれた。「おめでとう。よく頑張ったね」と優しく私の頭を撫でてくれたのはつい先ほどの出来事。だのに、どういうわけか今の私はイデア先輩に殺されようとしている。金の瞳は相変わらず優しく光っているのに、滲み出る殺意。どうにかしてこの場から逃れる方法を考えるけれど、魔法も使えない私が逃走に成功する可能性は限りなく0に近いと脳味噌は訴えていた。

「あ……、嫌だ。助けてください、お願い。わ、私が悪いことをしたなら謝りますから。土下座だってなんだってします。どうか、助けて」
「うーん、君は何も悪いことはしていないよ。ただ、運命だから仕方がないんだ。大人しく僕に殺されてよね」

怪しく光る髑髏。その閃光が目を焼いた瞬間、身体を巡る血液が膨張して血管を突き破る。私の身体が弾けて血溜まりが出来上がるその前に、イデア先輩はその口を三日月のように歪めて言葉を紡いだ。赤く染まる視界の中に、ゆらゆらと揺れる青だけが綺麗に映った。


「ああ、愛してるよ」





「うわっ」

私はなんだか見覚えのある場所で目を覚ました。頭はぼーっとしていて、とてもとても長い夢を見ていた気がする。身体に繋がれている管はよくわからない機械であったり、吊るされた点滴なんかに伸びている。身体が重苦しい。ピ、ピ、ピ、ピ、と規則的に鳴る音は恐らく私の心拍と同期している。

「あ、姉ちゃん。やっと目覚ました。主治医の先生呼んでくるね」
「う、え?」

ベッド脇の椅子に座っていたのは弟。見慣れたその顔に安心したのも束の間、弟はこの状況に大して驚くこともなく、ルーチンのように落ち着いて主治医を呼びにカーテンの外へと出ていった。私はどうしてこんなところで寝ているんだ?病気か?何も覚えていない。けれど酷く見覚えのある天井の模様が、この病院に何度もお世話になったことを証明していた。

「ああ、起きましたか。私は貴方の主治医です。覚えていますか?」
「あ……、えと」
「まだ混乱しているようですね。貴方はまた自殺を図ってここへ運ばれてきました。病気ですから仕方のないことですが……。きちんと服薬は続けていますか?」
「ふくやく?えっと……」

私の主治医だという優しそうな顔をした初老の男性は苦笑する。その背中から、心配そうな弟の顔がひょっこり覗いていた。



「では、貴方が置かれている状況についてお話ししましょう」

主治医が優しく話してくれた内容はこうだった。

私は統合失調症という病気を患っていて、ここの病院の外来に通う患者のひとり。幻聴、妄想などの陽性症状が強く出ていて、抗精神病薬による治療を受けている。意識を失ってICUのベッドに寝ていたのは、オーバードーズによる自死を図ったから。私は覚えていないけれど、自殺未遂で運ばれたのは五回目。それも全てここ半年間の出来事。五回の自殺未遂はどれも致死量に遠く及ばない量の服薬だったから見逃してきたけれど、次に自殺未遂で運ばれてきたときには本人の同意なく閉鎖病棟に医療保護入院させられるらしい。私はどこか他人事のように、先生が話す言葉を受け取った。

「私が病気?嘘でしょ。私はまともだもん」
「はいはい。姉ちゃんはいつもそう言うよね。病識を持つことが大事って先生に言われたばかりでしょ」

親が運転する車で家に帰る途中、私の独り言に反応した弟は呆れたようにそう溢した。私の脳味噌は至ってまともなのに、親も弟も先生も、どうしてそんなことばかり言うのだろう。不服に思った私は弟の言葉を無視して、見慣れた車窓を見つめていた。





退院してからというもの、おかしな夢ばかり見る。夢には青く燃え上がる髪を持った青年がいつも登場する。髪の毛が燃えていることなどあり得ないことなのだけれど、夢の中の私はそれを疑うことなど忘れている。美しい青年の顔は明らかにこの国のものではない。しかし不思議と見覚えのある顔だった。青年は優しい顔をして、いつも私の命を否定する言葉を吐く。

「君には生きる価値なんてない。早く死んだほうが世界のためだよ。首吊りなんてどうだい?抗精神病薬のオーバードーズでは致死率が低いからね。早いところ死になよ、ね?」
「五月蝿い、五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い……。黙れ黙れ黙れ黙れ……、消えろクソ野郎!!」
「フヒヒ、相変わらず口が悪いね。仮にも女の子だろう?」
「ううううううう……、五月蝿い死ね!!」

私は自分の叫び声で目が覚めた。眠っていたというのに心臓がばくばくと跳ねて鬱陶しいし、息は上がって疲れ切っている。とんとんとん、と階段を駆け上がって近づいてくる足音。

「あんたまた夜中に叫んで……、近所迷惑でしょ。起きている間はぶつぶつ独り言ばっかりだし、眠って静かになったかと思えば大声をだして飛び起きるし……。病気なのは解ってるけど、お願いだから静かにしていて頂戴」
「……」

部屋の扉を開けて入ってきたのはお母さん。なんだかよく解らないことを言っている。叫び声を上げたことは認めるけれど、私は病気じゃないし独り言も言わないのに。反抗の意思を無言で示すと、お母さんはため息をひとつ吐いて部屋を出ていった。酷く疲れ切ったような顔をしていたから、あまり眠れていないのだろうか。娘としては少し心配。しん、と静まり帰った自室。百メートル走を終えた後のように喉がカラカラに渇いていた私は、階段を降りて一階にあるキッチンへ向かった。


「ん?」

ごくごくごく。少しだけ小腹も空いていたから牛乳を胃に流し込む。小さな違和感。

「だ、誰!?私のこと見張ってるでしょ!!やめてよ……怖い……」

私は何者かによって見張られていた。こんな深夜に、自宅というプライベートな空間に居るにも関わらずだ。この家は盗撮や盗聴をされているに違いない。私は勇敢にも襲いくる恐怖に逆らって、キッチンの大捜索を始めた。冷蔵庫の中身を全て取り出して、食器棚にしまわれているお皿やコップを全て取り出して、床下収納の中身も全て取り出した。電子レンジの中も、炊飯器の中も、排水溝の中も確認する。だのに、盗撮用の小型カメラも盗聴器も見つからない。多分、プロによる犯行。素人の私に証拠を押さえることなんて出来っこない。スマートフォンを取り出して、警察に連絡するかどうか思案した。このままでは私だけでなく家族にも被害が及びかねない。急がなければ、と震える指でガラスに触れようとした瞬間だった。

「……お前は早く死ぬべきだ。お前は生きているだけで他人に迷惑をかける。お前が死ぬまで俺は見張っているぞ……」
「やだっ、マイクまで仕込まれてるの……?やだやだ、怖いよう」

どこかに仕込まれているマイクからざらざらした音声が流れる。夢の中の青年と同じように、マイクの向こうの人間は私の死を望んでいるらしい。街中を歩いているときにも通行人に同じことを言われた。隣の家の前を通ったときにも隣人に同じことを言われた。そういえば、交番に立っているお巡りさんにも同じことを言われた。もう警察には頼ることができない。ごつん、とスマートフォンが床にぶつかる音がキッチンに響く。世界は私の死を望んでいるのだろうか。私は本当に生きていていいのだろうか。

「お前は生きていてはいけない。……そこにタオルがあるだろう?それで首を吊って死ぬといい」
「でも、苦しいんでしょう?苦しいのは嫌だ」
「大丈夫。苦しいのは一瞬だ。すぐに脳に酸素が回らなくなって多幸感に包まれる。なによりお前の死は世界のためになる。大丈夫、俺が着いている」
「……」

私はキッチンにぶら下がっていた柔らかいタオルを手に取る。苦しみは一瞬だというのなら。幸せに包まれるというのなら。世界のためになるというのなら。心が夜色に塗りつぶされていく。ドアノブにタオルを掛けて、首が絞まるように結び目を作る。インターネットで自殺の方法についてはたくさん調べてきたから、無意識のうちに手が動いた。ふう、とため息。

「さよなら、世界。……ぐ、うっ」

ドアにもたれかかっていた身体を重力に預ける。その瞬間、首が絞まって呼吸ができなくなる。苦しい。苦しい苦しい苦しい。夜が広がっていく。でも私の死が世界のためになるというのなら。苦しみの先に幸せが待っているというのなら。私は六回目で自殺を完遂してみせよう。閉鎖病棟に閉じ込められるくらいなら、絶対に死んだほうがマシだ。


ふわり、と多幸感が私を包む。

意識が夜に落ちる。






――この音は……?

「やべえ。そろそろ人がきちまうゾ。早いところ制服を……。うーん!!この蓋重いんだゾ。こうなったら……奥の手だ!ふな〜〜〜〜〜それっ!」

青い炎に包まれる。視界は真っ暗でなにが起こっているのか解らない。

「ぎゃーー!?!?」
「さてさて、お目当ての……。って、ギャーー!!!!オマエ、なんでもう起きてるんだ!?」

明るくなった視界の中には驚いた様子の喋る狸。背景にはふわふわとたくさんの棺が浮いている。






これは此処ではない何処かの世界の話。
多感な年頃の少女という生き物。彼女らが放出する感情の中には莫大なエネルギーが秘められているという説が存在する。一年間に発生させるエネルギーは原子力発電所一基を軽く凌駕し、研究途上にある核融合炉に匹敵するという計算結果もある。大雑把に例えるならば、僕たちの世界における魔力のようなものだ。彼女たちは泣き、笑い、苦しみ、もがく中で自身の命を削り、無意識のうちに膨大なエネルギーを放出する。十代の少女たちで編成されたアイドルグループが異様に多い事実も、先に述べた説に矛盾しない。観客は少女たちが放つエネルギーに熱狂しているのだ。しかし未だにエネルギーの観測、回収方法は確立されていない。

命を燃やしてエネルギーを放出するということは、いずれエネルギーは尽き、命は尽きるということでもある。自身が生み出した感情の所為で命を落とす。僕の話を聞いている君は、さぞかし驚いたことだろう。しかし安心して欲しい。喜びや愛情といった正の感情が放つエネルギーは微々たるものであるし、年齢を重ねれば放出されるエネルギー量はほとんど無視できるほどに激減する。また他人の正の感情に触れると、命の損耗は少しずつ回復する。時間の経過によっても回復する。問題は負の感情が放つエネルギーである。怒りや憎しみ、妬みといった負の感情の放出は命の損耗が激しいだけでなく、その穢れが魂に蓄積するという。また大雑把に例えるならば、僕たちの世界におけるブロットのようなもの。魂が穢れきってしまうとオーバーブロットのような現象を引き起こす。感情とエネルギー放出の制御を失った少女の身に、どのような形で穢れが顕在化するのか。希死念慮である。希死念慮は自殺行動へと成長する。自殺を完遂する少女も居れば、未遂で終わる少女も居る。


さて、僕たちの世界の話に戻ろう。
今年のNRCの入学式にとある少女が乱入した。正確には少女とモンスターが乱入した。現在、監督生と呼ばれている少女とグリムである。つまり、君とグリム。学園長は君と初めて対面したときに、その魂に穢れが蓄積しきっていることに気付く。それは命を落としていないことが不思議なほどの穢れだったという。学園長は君に気付かれないように、その穢れを特別な魔法石で出来た小瓶に肩代わりさせた。今、僕が持っている夜色の液体がそれだよ。きらきらして綺麗でしょ?
 学園長は夜色の液体の解析を僕に依頼した。ブロットの専門家や教師陣に依頼して、事が大きくなるのを避けたかったんだろう。僕は純粋に興味があったから快諾した。小瓶を受け取ってすぐに解析に取り掛かった。結論から言えば、夜色の液体は個人情報とエネルギーの塊とでも呼ぶべき物質だった。負の感情が発生した座標やその時点における宇宙のエントロピー量、感情の大きさの絶対値、感情の種類、バイタル、観測したメモリー。フヒヒ、恥ずかしいって?もう見ちゃったよ。それらの膨大な情報から、君が異世界からの来訪者であること、魂が穢れきって自殺未遂をしたこと、魂だけがこちらの世界へ迷い込んできたこと、身体は元の世界で生きていることなどを推測するのは比較的容易だったし、異世界の特定までも可能だった。そして液体の扱いには細心の注意を必要とした。たった一滴で魔力を急激に増幅させ、並の魔法士では制御不能な状態に陥りかねない。つまりそれほどの魔力を有さない魔法士を無理矢理オーバーブロットさせてしまう危険性を孕んでいるんだ。学園長がこの夜色の液体を、外部環境から完全に隔離できる特別な小瓶に閉じ込めたのは正解だったわけだ。どうせ学園長は大方の察しがついていたのだろう。怪しい奴だからね。ああ、ちなみに冒頭で述べた説はこれらの解析結果から僕が提唱したものだったりする。

僕は収集した情報をもとに、君が居た世界の情報システムへのアクセスを試みた。僕たちの世界と比べて科学技術がかなり未熟だったおかげで、大して苦労することもなくアクセスは成功した。自殺未遂をしたことから病院で意識を失った状況にあるだろうと睨んだ僕は、次に君が住んでいる地域の病院システムに片っ端からアクセスした。君の身体はあっさりと見つかった。救急センターのあるそこそこ大きな規模の病院のICU。睡眠薬や抗精神病薬のオーバードーズによって意識を消失した君は、家族に囲まれてベッドに横たわっていた。君の身体が目覚めると同時に、魂も自然と身体に戻るだろうと僕は考えた。しかし問題点がひとつ存在する。僕たちの世界と君の世界の時間の流れは相対的に異なっていたんだ。一般相対性理論によると、重力は時空を歪ませ、時間の進みを変化させる。ある惑星から無限遠の距離にある宇宙空間を重力ポテンシャルの基準点(重力ポテンシャルが0となる点)として選ぶ。重力は常に引力として作用するから、有限の距離で重力ポテンシャルは常に負の値をとる。このように定義した重力ポテンシャルが低い惑星上では、重力ポテンシャルが高い惑星上よりも時間がゆっくりと進むんだ。君にも解るように噛み砕いて言えば、質量が大きく重力が強い惑星上では、質量が小さく重力が弱い惑星上よりも時間がゆっくりと進むということ。それくらい解るって?あっそ。君の世界の一日が、僕たちの世界では約一年に相当した。身体は一日かそこらで目覚めるのに、魂は僕たちの世界で一年程を過ごさないといけないわけだ。しかも自然と身体が目覚める保証もない。魂の方から身体にアプローチしなければ目覚めない可能性だってある。魔法も使えない、戸籍もない、身寄りもない君にとってあまりにも残酷な運命だった。

僕は学園長とともに、君を元の世界に帰す方法について議論を交わした。なんとか君の身体に干渉して無理矢理目覚めさせる案。これは却下された。現在の魔法や魔導工学の技術を用いても、魂にしか干渉できないから。大人しく身体が目覚めるのを待つ案。これは採用してもよかったけれど、こちらからアクションを取ることができない。何もしないのと同様であるとして却下された。残された案は、僕たちの世界で君に死んでもらうこと。魂を身体から無理矢理引き剥がして、本来居るべき場所に魂が戻ることを期待した。しかし上手くいく保証はない上に、危険が伴う方法だった。よって、君がNRCを卒業するまでに元の世界に帰れなければ実行することとした。そう怖がるなよ。今の君を殺すつもりはないさ。それはそれとして、僕、君のためにすごく頑張ったと思わない?ヒヒッ、感謝してよね。


僕は君に死んでもらう期限が来るまで、興味本位で夜色の液体に刻まれたメモリーを閲覧し続けた。常に高みを目指し、理想を高く設定することで苛まれる劣等感や焦燥感。周囲の期待を過度に肥大化させて受け取り、それに応えることができない絶望感。周囲からの評価を過敏に気にして、理想の自分を演じている苦悩。君は自分で自分の首を絞め上げ、勝手にもがき苦しみながら生きていたんだね。ああ、そんな悔しそうな顔をするなよ。僕だけが知っている君の破滅的な人格。僕が君を救いたいと思うようになるのに時間はかからなかった。僕だけが君を救える。僕だけが君の救世主になれる。そう信じたんだ。
 一方の君は、自発的に僕へと接触を図ってきたね。勝手に僕を見つけ出して、勝手に闘志を燃やしては劣等感を育てていった。確かに君は優秀な頭脳を持っているけれど、僕には到底及ばないものなのに。その事実を認識しても踊り続けるその姿は酷く滑稽で、哀れで、愛おしかったよ。きっと君は敵視している僕に救われることなど望んでいなかっただろう。それでも僕は君を救いたかった。僕に救われたことで絶望し、どうしようもないほどに破滅的な自分の運命を呪い、救世主たる僕を愛し信仰してしまうことで苦しんで欲しかった。そう怒るなって。ちゃんと座って、僕の話の続きを聞いて。うん、いい子だ。



学園長との取り決め通り、卒業式の日に僕は君をこの手で殺した。


君はこちらの世界で死亡したことで、魂は元の世界に戻ることができた。僕たちの世界での記憶は残っていない。僕は君の監視を続けた。破滅的な人格を持ったままの君は、根本的な解決がなされていない君は二週間ほどで再び自殺を図った。とっくに君は死に魅せられていたんだね。一度の殺害では君を救えなかった。僕たちの世界は一四年ほど経過していたけれど、君を救いたいという僕の願望は消えていなかった。僕は君の魂が迷い込んだ世界を探した。魂の情報が刻まれた夜色の液体を大切に保管していたから、それは容易だった。君はまた同じ世界の同じ時間に迷い込んでいた。つまり僕にとっての過去だね。無数にある世界から偶然にも再び同じ世界を選び出す確率は天文学的に低い。因果関係があることは明らかだった。グリムが関係しているのか、はてさて僕が保管している夜色の液体に導かれたのか。現在に至るまでその原因はよく解っていないんだ。僕は君を救うために過去に戻る方法を探し始めた。過去に戻ることは理論上可能であるけれど、膨大な魔力を必要とする。それこそマレウス・ドラコニアくらいの魔力がなければ不可能な魔法。科学の分野においても光速を超える運動は確認されていない。見かけ上の超光速運動(6cに相当する)は観測されているけれど。あ、その顔、知らなかったんだね。でも、あくまで光学上の錯覚でしかないんだ。相対性理論に反するような物理過程は伴っていない。しかし僕の手には膨大なエネルギーが握られていた。そう、あの夜色の液体。君の魂の穢れ、負の感情が蓄積された不思議な液体。僕はそのエネルギーを利用して魔力を増幅させ、過去に戻り、君に再会した。もっとも君にとってはハジメマシテだけどね。


過去に戻った僕に対しても、君は同じように、馬鹿のひとつ覚えみたいに劣等感を育てていった。同じ運命を繰り返す君はやはり酷く滑稽で、哀れで、愛おしかった。その破滅的な人格を唯一知っている僕だけが、君を救うことができる。その思いは信仰に近いものに変わったんだ。僕はまたNRCを卒業していこうとする君を殺した。そろそろ察しがついてきたんじゃないかな?

君の魂はまた元の世界に帰った。死に魅せられている君は再び自殺を図るだろうとの確信があった。しかしまた十数年も待つのは億劫だった。僕は君の魂に干渉して、自殺を誘発することにした。夢に入り込んで、ひたすらにその生を否定してやった。怖かった?ごめんね。でも君を救うためだったんだ。君が三度目の自殺を図ったのは、元の世界に帰ってから十日後だった。僕はそんな地獄のようなサイクルを繰り返した。もともと鬱病を患っていた君だったけれど、さらにストレスが積み重なって統合失調症を患うようになったね。脳内の神経伝達物質の化学的不均衡が原因だと言われているから、魂だけで僕たちの世界にやってきた今の君は患っていないけれど。よかったね。夢の中で僕から浴びせられる否定の言葉以外に、幻聴や妄想に悩まされる。ありもしない陰口が絶えず聞こえ、被害妄想、注察妄想、追跡妄想などが頭を支配する。君の自殺のサイクルはどんどん短くなっていった。



何度世界を繰り返しただろうか。哀れな君が気づかないうちに。君は自殺をやっと完遂した!脳死を経て、自殺を繰り返す君に疲弊した家族が生命維持装置を外すことを望んだ。君の世界での君の心臓は止まった。死んだ。僕はその死をこの目で見届けた。魂はもちろん僕たちの世界にある。魔法も使えない、戸籍もない、身寄りもない異世界からやってきた君が期待されることもなければ、周囲からの評価を過度に気にする必要もない世界。君の破滅的な思考もいくらか軽減されるだろう?僕は遂に君を破滅的な運命のループから救い出したんだ。救世主になったんだ。これから君は僕を愛し信仰するべきなんだ。君の魂は僕が握っているべきなんだ。それくらい理解できるよね?

「過去は僕が看取ってやるから、安心して。永遠に僕の傍にいろ」
「なっ……、イデア先輩!?どういうつもり……」

モニターに映る葬儀を見届けて、君の魂の結晶たる夜色の液体を飲み干す。感情が僕の腹の中で暴れ回るのを力づくで抑え付けてやると、君の魂は僕の中に溶けていく。君の魂は物理的にも僕のものになったんだ。おい、逃げるな。もう君の魂は僕の傍を永遠に離れられないんだよ。僕は君の魂を救ってあげたんだから当たり前だよね?君は僕のもの。これからは僕を愛して、信仰するんだ。なに、泣くほど嬉しいの?ヒヒ、頑張った甲斐があったよ。




――愛してるよ。
4/4ページ
スキ