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【短編集】秀才監督生と天才イデア先輩



君はいつもふらりと帰ってくるよね。

連絡も寄越さず夜明けまで姿を消すことにはもう慣れてしまった。どこに行っていたんだって聞けば、大学で夜通し研究していただの、漫画喫茶に泊まっていただの、隣町まで散歩に行っていただのと小さく呟く。寂しそうな瞳で僕を見つめるだけでなにも答えないことも多い。一週間も煙のように失踪していたこともある。そんな時は大抵スマートフォンの電源が切られていて、僕から連絡する手立ては残されていない。警察に捜索願いを出したこともあったけれど、最近はそれもやめた。僕が帰りを待っている限り、君は必ずふらりと帰ってきてくれるから。

東の空が白む頃、ふたりが同棲している部屋のチャイムが鳴く。夢の中から引き摺り出された僕は、扉の向こうに立つ息苦しそうな姿を想像して布団から飛び出した。

「……おかえり。どこに行ってたの」
「ただいま。……研究が、上手くいってて。帰るタイミングを逃しちゃっただけ。ごめんなさい」
「そう。早く入りな」

視線の先には案の定、雨に打たれてしょぼくれた子猫みたいな君が立っていて。その小さな身体に詰め込まれていたエネルギーを全て使い切ってしまったのだろう。空っぽな瞳をした君はとぼとぼと部屋の中に入ってきて、顔も洗わないままに寝床に潜り込む。仕事に行くまでの時間はまだまだ残されているから、僕もその隣にするりと潜り込んで君の存在をいっぱいに感じる。ほら、君は今日もこの部屋に帰ってきた。僕は君の帰りを待つ、ただそれだけでいいと思っているんだ。

「愛してるよ」
「……うん」

君は一度だって好きだとか、愛してるだとか、言ってくれたことってないよね。まだ君の心の中には他の誰かが居るんだって、ずっと前から解っているよ。でも星の見えない東京の空の下では、気付かないふりをして隣で呼吸をしていたいんだ。夢の中で僕じゃない他の誰かに会いに行く君をぎゅっと抱きしめさせて。きっと、きっと馬鹿げていることなんだろうけれど。





改札を抜ける。都心のそれよりも少し広くなった空をビニール傘越しに見上げると、僕の心にも隙間が生まれてくる気がした。そんな心の隙間に潜り込んでくるのは、いつだってとりとめのない妄想ばかり。家へ向かって歩いていた革靴の歩幅はどんどん大きくなる。スーツの裾に跳ねる汚い泥水。いつか君は煙のように空に溶けてしまうんじゃないかって。いつか雨上がりの水溜りみたいに消えてしまうんじゃないかって。もしかしたらそれが今日なんじゃないかって。僕は自分の妄想を振り切るように、雨に濡れるのも構わず君と暮らす小さな部屋へと駆け出した。


チャイムを鳴らす。乱れた息を整えながら十秒ほど待ったけれど、部屋に君は居ないようだった。雫が落ちるビニール傘を適当に畳んでから、鞄の奥に大切にしまっている部屋の鍵を濡れた手で取り出す。冷え切った金属を持つ指先から全身に冷気が回っていった。ダブルロックの鍵穴にそれを差し込む手が震える。寒いからだろうか。不安だからだろうか。それでもふたつの鍵穴を確実に回し終え、冷たいドアに手をかける。

「……あれ、開かない。あの子、鍵もかけずに出て行ったのか?珍しいな」

ドアはその口を開いてくれなかった。軽い強迫性障害を患っている君が、戸締りだの、火の始末だの、エアコンの電源だの、確認行為をやめられない君が鍵もかけずに部屋を出たなんて信じられない。吃驚した僕の頭はその不用心さを咎めることなど忘れていた。冷え切った金属を握り直して、再びふたつの鍵穴に差し込んでくるりと回す。僕の手はまだ震えている。

「ただいまー……、え」

君は、居た。ふたりが暮らす狭い部屋の中に。リビングに繋がる扉は開け放たれていて、その先の暗闇に小さな小さな君の姿。今にも消えてしまいそうな君の顔が苦痛に歪んでいた。どこか浮世離れした君が人間味のある表情を見せることってなかったから、その美しさに僕は思わず息を呑んだ。

「……ああ、なるほどね。こっちの世界ではこの男に媚を売って生きていたわけ。自分の承認欲求を満たすためだけに僕に近づいておきながら、生きる世界が変われば簡単に乗り換えですか。ほんっと誰かに寄生しないと生きていけない寄生虫だよね、君って。あ、おにーさん。コレ、引き取りに来ましたんで」
「ぐ、ぎっ……。イデ、アせんぱ」

柔らかく波打つ長い黒髪に、男にしては線の細すぎる身体。酷い青隈が刻まれた黄色い瞳が僕を捉える。男の大きな手は君の細い首をぎりぎりと締め上げていて、君の顔や衣服には既に酷い暴行を受けた痕跡があった。僕は君を愛しているから守らないといけないのに、身体がぴくりとも動かない。


――いや、愛しているから、全て解ってしまっているから動かないのだろう。


「……貴方は、ずっとその子の心の中に居た人、ですね。迎えに来てくださってありがとうございます。ずっと、ずっとその子は貴方を待っていました。ずっと探していました。だからどうか手を離してあげてください。連れて帰って、幸せにしてあげてください」
「なにそれ。君、僕のこと探してたの?」

首を締め上げられて、涙で顔をぐちゃぐちゃにした君が何度もかぶりを振る。冷え切った瞳でそれを見た男がふいに首から手を離すと、小さな身体はとさりと床に倒れる。げほげほと苦しそうな息を漏らす君を心配することもなく、男は僕に向かって歩みを進めてくる。暗がりで光る黄色い瞳はまるで死神のよう。

「お前、それを解ってこの子と一緒に居たのか?変わった奴だな。もしかして身体目当てかい?どうだった?ヒヒッ、正直この子ガバガバだったでしょ。僕が何度も何度もぐちゃぐちゃになるまで抱いてやってたからね。中古女ですみませんね、フヒ」
「そ、そういうことは、していない、です。それどころか好きだと言ってもらったことすらありません。その子は、その子の心は貴方でいっぱいだった。僕が入る余地なんてなかったんだ」
「……へえ」

黄色の瞳が満足げに細められる。命の砂時計に突きつけられていた死神の鎌が下ろされるのを感じた。きっとこの男は躊躇なく人を殺せるほどに君を愛しているのだろう。僕なんか一生敵う相手じゃない。唇を噛んだ。本当に、本当に馬鹿げてたなあ。

「じゃあなんでこの子と一緒に居たの」
「……運命、だと思った」

信号が赤から青に変わった瞬間だった。周囲から一歩遅れて頼りなく歩き出す君を見て、空っぽな瞳で空を見つめる君を見て、ああ僕の運命の人だって思った。初めて話しかけたときには既に心の中に他の誰かが居たけれど。目の前の男が心の中に居座っていたけれど。君にとって僕は運命の人じゃないけれど、僕にとって君は運命の人だった。君が想ってやまない大切な人を探し出してしまうまでは、目を瞑って隣に居たいと思ったんだ。今日がその日だなんて思いもしていなかったけれど。男は嗤った。僕を嘲るように嗤った。男は殴れば吹き飛びそうな細い身体をしていたけれど、握りしめた拳が向かうことはなかった。君の大切な人を傷つけることなんて僕に出来るわけがないだろう。

「フヒヒ、ヒヒッ。運命、だってさ。そんな不確かなもの信じるだなんてどうかしてる。君もそう思うだろ?」
「……そうですね、イデア先輩」
「貴方と、その子は運命ではないと言うのですか」

僕の言葉に、君の身体を抱いて部屋から出て行こうとする男の歩みがはたと止まる。ふたりはどうしようもないほどに運命なのだと、せめてそう言って欲しかった。

「人間ってやたらめったら運命って言葉を使いたがるよね。この世界は科学によって定義されること以外、全て偶然で成り立っているというのに。人と人が出逢うことも偶然でしかないんだ。僕も、この子も。でも運命っていう概念の存在は認めてる。だから世界中のどこを探しても、どの世界線を探しても、この子のことを知る者が僕以外に居ないようにするんだ。そうすれば、運命という概念が存在する以上、それは僕とこの子の関係だけに当てはまり得ることになるよね。力づくで偶然を運命たり得るものに仕立て上げるんだ。……答えになったかな?」
「生憎頭が良くないもので、正直理解に及びませんね。……最後にひとつだけ。君は、この部屋に帰ってくることがあるかい?僕が君の帰りを待つことは、許される?」

男に抱かれていた君の瞳が困惑に揺れる。その瞳は星を散りばめたみたいにきらきらしていて。ああ、東京の空にあるはずの星は此処にあったんだって思った。顔はアザだらけになって鼻血を流しているというのに、どこか満ち足りた瞳をしていて。僕が運命を感じたあの空っぽな瞳はもうそこには無かった。君の答えなんて、もう聞かなくたって解るよ。

「私が、帰ることはありません。貴方の記憶から私は居なくなるから。イデア先輩が全て消してくれるから。……ありがとうございました。ごめんなさい」
「そう。僕の方こそ、ずっと隣に居させてくれてありがとう。さよなら」


台所の流しに置いてあった包丁を手に取る。悲鳴をあげる君を引き摺りながら、男は僕を馬鹿にするように笑って部屋を出て行った。君の帰りを待つ、ただそれだけでいいと思えたんだ。それだけでよかったんだけどなあ。切れ味の鈍った古い包丁は、僕の中に出たり入ったりを繰り返す。まるでこの部屋を出て行ったかと思えばふらりと帰ってくることを何度だって繰り返した君みたいに。もう君が帰ってくることはないけれど。喉に深く突き刺した包丁を勢いよく身体から抜くと、滝のように流れ落ちる血液。僕は血に溺れていった。君のことを忘れてしまう前に死なないといけないから。あの男が君のために人を殺せるというのなら、僕は君のためにこの命を捧げてみせるから。早く、早く死んでくれよ、僕。





――ああ、心臓が止まる。どうして僕はこんなことをしているんだっけ?
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