【短編集】秀才監督生と天才イデア先輩
▼
――人間が床に倒れている。
学園内の階段を気怠げに登っていたイデアの視界に、踊り場で誰かが這いつくばっている奇妙な光景が飛び込んできた。ぐるぐると動き続けていたイデアの高性能な脳味噌が一瞬ぴたりと止まる。階段を登る足もぴたりと止まる。階段から落ちた生徒だろうか。病気の発作でも起きて倒れた生徒だろうか。なんにせよ関わるのは面倒臭いことこの上ない。しかしこの階段を通らなければ愛しの自室へは辿り着けない。自分がとるべき行動を決めかねて、イデアが考え込んでいたその時だった。
「……うわっ」
もぞもぞ。身体を床に投げ出していた人間が動いた。真っ黒なショートカット。きらりと光る眼鏡のレンズ。十六という年齢を考えると大人びたその顔貌。一方的にイデアをライバル視しているオンボロ寮の監督生だ。その手には、カメラ。軍幹部がダイヤルで埋め尽くされたなんともクラシックなスタイルのカメラ。監督生はその背面液晶を熱心に覗き込んでいて、イデアには気付いていない様子だった。
「ねえ、なに撮ってるの。見せてよ」
「ひッ!……あ、イデア先輩。びっくりさせないでくださいよ」
「人の通り道を塞いでる君が悪いんだろ。いいから見せて、写真」
「……そんな大したものじゃないですけど。それでもよければ」
床に這ったままイデアと話をしていた監督生が膝をついて立ち上がる。こっちへ来いとでもいうように先に階段に座り込んでいたイデアの元へ、カメラをかちかちと操作しながら歩いていく。その瞳は少し照れ臭そうにゆらゆらと揺らいでいた。
「こんな、感じのを撮ってます」
「……へえ」
誰もいない階段を見下ろす写真。踊り場を歩く生徒たちの足元を、ひとつ下の踊り場から捉えた写真。吹き抜けに設置されたシャンデリアを見上げるような写真。正直なところイデアは、なかなかいいセンスをしていると思った。しかし決して口には出さない。無言でカメラロールを舐めるように遡っていると、隣から監督生がおずおずとスマートフォンを差し出してきた。画面に映っているのはマジカメのアカウント。
「よく撮れたなって思ったやつはマジカメにあげてます。よければ、どうぞ」
「ふうん。……たくさん、撮ってるんだね」
イデアは監督生の写真アカウントを把握していた。あげられている写真も全てチェック済みである。床に身体を投げ出してまで、そこまで真剣に写真を撮っていることは知らなかったが。そんなことは知らない監督生はそわそわと落ち着かない様子で、ちらちらとイデアの反応を横目で窺っている。
「写真ってなかなかいいものだね。オルトにも搭載してみようかな」
「ありがとうございま」
「きっ、君の写真を褒めたわけじゃないよ。勘違いしないで。写真を撮るっていう行為が興味深いってだけで……。まあ、悪くは、ないけど」
とことん素直になれない人だ、と思った監督生はイデアの言葉にくつくつと苦笑を漏らした。そんなにきらきらとした瞳をするくらいなら、正直に褒めてくれたっていいのに。隣に座っているイデアの顔を盗み見すると、ぶつぶつと早口で何かを呟き始めていた。既に頭の中でオルトに搭載するカメラの構想を始めているのだろう。本当に、ずるいほど、頭のいい人だ。もうこうなってしまっては自分の声は届かない、と監督生はすっくと立ち上がる。
「オルトくんのカメラ、完成したら教えてくださいね。……まあ、教えてくれないんでしょうけど。期待せずに待ってますから」
▼
「あ!監督生さん!」
「あら、オルトくん。なにをしているの?」
休日のある日。課題の気晴らしに、と監督生が植物園の中を散歩していると楽しげな声色のオルトに呼び止められる。すーっと空中を滑らかに移動して監督生に近づいてくるオルト。イグニハイド・ギアの腹付近には、前に会った時にはなかったはずの大きなレンズが搭載されている。監督生は学園の階段でイデアに出会った時のことを思い出す。あの天才は、もうひらめきを現実のものにしてしまったのか。
「兄さんにカメラ機能を搭載してもらったんだ。監督生さんが写真を撮っているのを見て思いついたんだって。ほら、お腹の部分を見てよ!焦点距離50mm、最小絞りF0.95の大口径レンズだよ!すごいでしょう」
「わあ……、夢のスペックだね。どんな写真が撮れたの?」
「えへへ、監督生さんに褒めてもらえると嬉しいな。スクリーンを展開するね」
オルトは空中に青いスクリーンを展開する。監督生は万能な存在であるオルトがどんな写真を撮ったのか、わくわくしながら投影されるのを待った。
「……え」
「こんなのとか、こんなのとか……。たくさん撮ったんだ!どうかな?監督生さん」
――映し出された写真は、正直気味の悪いものばかりだった。
変な位置にピントが合っており、彩度が高すぎて目に痛いぼやけた花々の写真。木の幹に猫の顔が合成されている写真。植物園の天井に無数の目玉が合成された写真。監督生はふとAIが描いたという絵がネットに掲載されていたのを思い出す。友達のように接していたからすっかり忘れていたが、彼も、いくら高度な存在とはいえ、AIでしかないのだ。人間とは美的感覚を異にしている。なんだか、怖い。不気味だと感じてしまった。
「監督生さん、大丈夫?心拍数が上昇してるよ」
「あっ、いや、なんでもないの。す、すごい写真だなってドキドキしちゃっただけ」
「ふふ、ありがとう!これから兄さんにも見せに行くんだけど、監督生さんもついてきてくれないかな?」
「あ、うん。い、いいよ」
正直監督生はオルトの誘いを断りたかった。イデアの前でこれらの写真を見せられて、どんな顔をすればいいのかわからなかった。しかし無邪気な瞳に誘われては酷く断りづらい。こちらの歩行速度に合わせてふわふわと空中を移動するオルトの後ろを、監督生は気乗りしない足を無理矢理動かしてついていった。
「おかえり、オルト。……は?なんで君がいるの」
「僕が監督生さんを誘ったんだよ、兄さん!」
「あ、なんか、すみません。お邪魔します……」
オルトに連れられてイデアの自室に入った監督生は、不機嫌そうな表情を隠そうともしない部屋の主に迎えられた。しかしイデアの機嫌をとることができるほど、監督生の脳味噌には余裕がない。イデアはオルトを本当の弟として溺愛している。オルトが撮った写真を見て、どんなコメントをすれば彼を傷つけずに済むだろうか。そもそもあの写真を見て、イデアはどんな反応をするのだろうか。監督生の頭の中はまとまらない。気付けばオルトが展開したスクリーンに写真の投影を始めてしまっていた。気味が悪いとしかいえない写真たちを、イデアは驚きもせず、瞬きもせずに無表情に見つめる。下手なことは言うまい、と監督生は沈黙を貫いていた。
「えへへ。僕が撮った写真、どうかな?兄さん。監督生さんにはすごい写真だって褒めてもらったんだよ!」
「……そうだね、いい写真だ。もっと、見たいな。オルト、外に出てもっとたくさん写真を撮ってきてくれないかな」
「わあ、嬉しいな!たくさん撮ってくるね、兄さん」
兄に褒められたオルトが喜び勇んで部屋を飛び出して行く。イデアと監督生に残されたのは居心地の悪い沈黙だけ。イデアはオルトが出て行った扉を見つめている。私も帰りますね、と我慢しきれなくなった監督生が口に出そうとしたその瞬間だった。
「君、アレを見てどう思った?気味が悪いと思ったろ。人間が撮る写真じゃないって思ったろ。……オルトが、人間じゃないって、そう思ったろ」
「あ、いや。そんな、ことな」
突然、イデアが監督生の髪をぐしゃりと鷲掴みにする。「痛い、痛いです」と呻く監督生を無視して、髪を引っ張って連れてきたのは壁の前。この状況を理解できないでいる監督生がイデアを振り返ると、表情を失った男がこちらを見つめ返していた。感情を失った美しすぎるイエローアンバーの瞳。毛先がぱちぱちと赤く爆ぜる。
「忘れろ」
「え」
頭蓋が勢いよく硬いものに叩きつけられる音。耳を塞ぎたくなるような鈍い音。激痛が監督生を襲ったのは、不思議とその衝撃の後だった。平衡感覚が狂って崩れ落ちる身体を無理矢理引っ張り上げられて、再び頭を壁に叩きつけられる。強い衝撃に脳が揺れる。視界は赤く染まっていった。瞼の裏まで真っ赤な花火が広がる。監督生の血に塗れた大きな手は、小さな頭を掴み直し、何度も何度も壁に叩きつける。頭から、鼻から、どろどろとした血が流れて、弾けて、口からは悲鳴だけが吐き出された。
「忘れろ。忘れろ忘れろ忘れろ忘れろ。忘れられないなら殺してやる。殺されたくないなら忘れろ。いいな?写真なんか撮ってる君が悪いんだよ。君がカメラを持ってなければオルトがあんな写真を撮ってくることもなかったんだ。なんとか言えよ……なんとか言え!!」
「ぐ……っ、あ、いぎっ。ひゅ、ひゅ」
監督生の喉からひゅ、という喘鳴しか漏れてこなくなった頃。壁と監督生の顔面、そしてイデアの腕は乾きかけた血に塗れていて、ぱりぱりした赤い欠片が床にぼろぼろと落ちていく。監督生の身体からはふっと力が抜けて、こんにゃくのようにどろりと床に崩れ落ちた。イデアがその首を掴んで持ち上げようとするが、全く力が入っていない身体はだらりとその手のひらにぶら下がるだけ。監督生は既に意識を失っていた。
「あーあ、もう飛んだ。ちゃんと忘れただろうな?起きた時に覚えてたらもう一度脳震盪を起こしてやる。セカンドインパクト症候群で死んでも僕は知らないから」
ずるずる、と。死体のような監督生の身体をイデアが引き摺っていく。その轍には真っ赤な血の跡が残されていた。
▼
監督生は目を覚ました。見覚えのある部屋。青く燃える髪が揺らめく特徴的な背中。監督生の劣等感を掻き立て、憧れを抱かせる存在。イデアの部屋だ。
「……イデア先輩」
「あ、起きた?」
くるりと振り返ったイデアの手には包帯と薬。優しい微笑みを湛えたその顔には、ちらと気の毒そうな表情が滲んでいる。そういえば、自分はどうしてイデアの部屋に寝かされているのだろうか。ずきり、と痛む頭。
「君、また死のうとして床に頭をぶつけてたんだ。たまたまオンボロ寮を訪ねた僕がそれを見つけて……。覚えてる?」
「覚えて、ないです。確かに頭がすごく痛い……、迷惑をかけてしまってすみません」
「別に、いいよ。……ところでコレ、見覚えある?君のそばに落ちてたんだけど」
イデアが机の上から持ってきたもの。それはカメラだった。軍幹部がダイヤルで埋め尽くされたなんともクラシックなスタイルのカメラ。監督生は眉を顰める。確かに素敵なスタイルのカメラだが、自分にカメラなんていうセンスのいい趣味はない。オンボロ寮にしまってあったものを自分が掘り起こしたのだろうか。グリムが拾って来たんだろうか。どちらにせよ見覚えのないものだったから、監督生は頭を横に振る。それを見たイデアはふっと微笑んだ。またずきり、と頭が痛む。もう一度カメラに目をやると、なぜか脳味噌が揺れるような気持ち悪さと底知れない恐怖が襲ってきた。
「ひ、う……おぇ」
「脳震盪を起こしていたんだから、頭は動かさない方がいい。薬を出すから。痛み止めと、睡眠導入剤。しばらく寝てなよ」
「ありがとうございます。お言葉に甘えて……」
睡眠導入剤を水で飲み込んだ監督生は、再び眠りに就こうと目を閉じる。ああまた優秀なイデア先輩に迷惑をかけてしまったな、と申し訳ない思いで胸をいっぱいにして。なんだかカメラを目にしてから気分が悪い。早く眠ってしまって忘れたい。二度とあの機械を見たくないと不思議なことを思った。氷のような瞳がこちらを刺していることには気付かない。オルトのイグニハイド・ギアの腹から大きなレンズは既に消えていた。
――人間が床に倒れている。
学園内の階段を気怠げに登っていたイデアの視界に、踊り場で誰かが這いつくばっている奇妙な光景が飛び込んできた。ぐるぐると動き続けていたイデアの高性能な脳味噌が一瞬ぴたりと止まる。階段を登る足もぴたりと止まる。階段から落ちた生徒だろうか。病気の発作でも起きて倒れた生徒だろうか。なんにせよ関わるのは面倒臭いことこの上ない。しかしこの階段を通らなければ愛しの自室へは辿り着けない。自分がとるべき行動を決めかねて、イデアが考え込んでいたその時だった。
「……うわっ」
もぞもぞ。身体を床に投げ出していた人間が動いた。真っ黒なショートカット。きらりと光る眼鏡のレンズ。十六という年齢を考えると大人びたその顔貌。一方的にイデアをライバル視しているオンボロ寮の監督生だ。その手には、カメラ。軍幹部がダイヤルで埋め尽くされたなんともクラシックなスタイルのカメラ。監督生はその背面液晶を熱心に覗き込んでいて、イデアには気付いていない様子だった。
「ねえ、なに撮ってるの。見せてよ」
「ひッ!……あ、イデア先輩。びっくりさせないでくださいよ」
「人の通り道を塞いでる君が悪いんだろ。いいから見せて、写真」
「……そんな大したものじゃないですけど。それでもよければ」
床に這ったままイデアと話をしていた監督生が膝をついて立ち上がる。こっちへ来いとでもいうように先に階段に座り込んでいたイデアの元へ、カメラをかちかちと操作しながら歩いていく。その瞳は少し照れ臭そうにゆらゆらと揺らいでいた。
「こんな、感じのを撮ってます」
「……へえ」
誰もいない階段を見下ろす写真。踊り場を歩く生徒たちの足元を、ひとつ下の踊り場から捉えた写真。吹き抜けに設置されたシャンデリアを見上げるような写真。正直なところイデアは、なかなかいいセンスをしていると思った。しかし決して口には出さない。無言でカメラロールを舐めるように遡っていると、隣から監督生がおずおずとスマートフォンを差し出してきた。画面に映っているのはマジカメのアカウント。
「よく撮れたなって思ったやつはマジカメにあげてます。よければ、どうぞ」
「ふうん。……たくさん、撮ってるんだね」
イデアは監督生の写真アカウントを把握していた。あげられている写真も全てチェック済みである。床に身体を投げ出してまで、そこまで真剣に写真を撮っていることは知らなかったが。そんなことは知らない監督生はそわそわと落ち着かない様子で、ちらちらとイデアの反応を横目で窺っている。
「写真ってなかなかいいものだね。オルトにも搭載してみようかな」
「ありがとうございま」
「きっ、君の写真を褒めたわけじゃないよ。勘違いしないで。写真を撮るっていう行為が興味深いってだけで……。まあ、悪くは、ないけど」
とことん素直になれない人だ、と思った監督生はイデアの言葉にくつくつと苦笑を漏らした。そんなにきらきらとした瞳をするくらいなら、正直に褒めてくれたっていいのに。隣に座っているイデアの顔を盗み見すると、ぶつぶつと早口で何かを呟き始めていた。既に頭の中でオルトに搭載するカメラの構想を始めているのだろう。本当に、ずるいほど、頭のいい人だ。もうこうなってしまっては自分の声は届かない、と監督生はすっくと立ち上がる。
「オルトくんのカメラ、完成したら教えてくださいね。……まあ、教えてくれないんでしょうけど。期待せずに待ってますから」
▼
「あ!監督生さん!」
「あら、オルトくん。なにをしているの?」
休日のある日。課題の気晴らしに、と監督生が植物園の中を散歩していると楽しげな声色のオルトに呼び止められる。すーっと空中を滑らかに移動して監督生に近づいてくるオルト。イグニハイド・ギアの腹付近には、前に会った時にはなかったはずの大きなレンズが搭載されている。監督生は学園の階段でイデアに出会った時のことを思い出す。あの天才は、もうひらめきを現実のものにしてしまったのか。
「兄さんにカメラ機能を搭載してもらったんだ。監督生さんが写真を撮っているのを見て思いついたんだって。ほら、お腹の部分を見てよ!焦点距離50mm、最小絞りF0.95の大口径レンズだよ!すごいでしょう」
「わあ……、夢のスペックだね。どんな写真が撮れたの?」
「えへへ、監督生さんに褒めてもらえると嬉しいな。スクリーンを展開するね」
オルトは空中に青いスクリーンを展開する。監督生は万能な存在であるオルトがどんな写真を撮ったのか、わくわくしながら投影されるのを待った。
「……え」
「こんなのとか、こんなのとか……。たくさん撮ったんだ!どうかな?監督生さん」
――映し出された写真は、正直気味の悪いものばかりだった。
変な位置にピントが合っており、彩度が高すぎて目に痛いぼやけた花々の写真。木の幹に猫の顔が合成されている写真。植物園の天井に無数の目玉が合成された写真。監督生はふとAIが描いたという絵がネットに掲載されていたのを思い出す。友達のように接していたからすっかり忘れていたが、彼も、いくら高度な存在とはいえ、AIでしかないのだ。人間とは美的感覚を異にしている。なんだか、怖い。不気味だと感じてしまった。
「監督生さん、大丈夫?心拍数が上昇してるよ」
「あっ、いや、なんでもないの。す、すごい写真だなってドキドキしちゃっただけ」
「ふふ、ありがとう!これから兄さんにも見せに行くんだけど、監督生さんもついてきてくれないかな?」
「あ、うん。い、いいよ」
正直監督生はオルトの誘いを断りたかった。イデアの前でこれらの写真を見せられて、どんな顔をすればいいのかわからなかった。しかし無邪気な瞳に誘われては酷く断りづらい。こちらの歩行速度に合わせてふわふわと空中を移動するオルトの後ろを、監督生は気乗りしない足を無理矢理動かしてついていった。
「おかえり、オルト。……は?なんで君がいるの」
「僕が監督生さんを誘ったんだよ、兄さん!」
「あ、なんか、すみません。お邪魔します……」
オルトに連れられてイデアの自室に入った監督生は、不機嫌そうな表情を隠そうともしない部屋の主に迎えられた。しかしイデアの機嫌をとることができるほど、監督生の脳味噌には余裕がない。イデアはオルトを本当の弟として溺愛している。オルトが撮った写真を見て、どんなコメントをすれば彼を傷つけずに済むだろうか。そもそもあの写真を見て、イデアはどんな反応をするのだろうか。監督生の頭の中はまとまらない。気付けばオルトが展開したスクリーンに写真の投影を始めてしまっていた。気味が悪いとしかいえない写真たちを、イデアは驚きもせず、瞬きもせずに無表情に見つめる。下手なことは言うまい、と監督生は沈黙を貫いていた。
「えへへ。僕が撮った写真、どうかな?兄さん。監督生さんにはすごい写真だって褒めてもらったんだよ!」
「……そうだね、いい写真だ。もっと、見たいな。オルト、外に出てもっとたくさん写真を撮ってきてくれないかな」
「わあ、嬉しいな!たくさん撮ってくるね、兄さん」
兄に褒められたオルトが喜び勇んで部屋を飛び出して行く。イデアと監督生に残されたのは居心地の悪い沈黙だけ。イデアはオルトが出て行った扉を見つめている。私も帰りますね、と我慢しきれなくなった監督生が口に出そうとしたその瞬間だった。
「君、アレを見てどう思った?気味が悪いと思ったろ。人間が撮る写真じゃないって思ったろ。……オルトが、人間じゃないって、そう思ったろ」
「あ、いや。そんな、ことな」
突然、イデアが監督生の髪をぐしゃりと鷲掴みにする。「痛い、痛いです」と呻く監督生を無視して、髪を引っ張って連れてきたのは壁の前。この状況を理解できないでいる監督生がイデアを振り返ると、表情を失った男がこちらを見つめ返していた。感情を失った美しすぎるイエローアンバーの瞳。毛先がぱちぱちと赤く爆ぜる。
「忘れろ」
「え」
頭蓋が勢いよく硬いものに叩きつけられる音。耳を塞ぎたくなるような鈍い音。激痛が監督生を襲ったのは、不思議とその衝撃の後だった。平衡感覚が狂って崩れ落ちる身体を無理矢理引っ張り上げられて、再び頭を壁に叩きつけられる。強い衝撃に脳が揺れる。視界は赤く染まっていった。瞼の裏まで真っ赤な花火が広がる。監督生の血に塗れた大きな手は、小さな頭を掴み直し、何度も何度も壁に叩きつける。頭から、鼻から、どろどろとした血が流れて、弾けて、口からは悲鳴だけが吐き出された。
「忘れろ。忘れろ忘れろ忘れろ忘れろ。忘れられないなら殺してやる。殺されたくないなら忘れろ。いいな?写真なんか撮ってる君が悪いんだよ。君がカメラを持ってなければオルトがあんな写真を撮ってくることもなかったんだ。なんとか言えよ……なんとか言え!!」
「ぐ……っ、あ、いぎっ。ひゅ、ひゅ」
監督生の喉からひゅ、という喘鳴しか漏れてこなくなった頃。壁と監督生の顔面、そしてイデアの腕は乾きかけた血に塗れていて、ぱりぱりした赤い欠片が床にぼろぼろと落ちていく。監督生の身体からはふっと力が抜けて、こんにゃくのようにどろりと床に崩れ落ちた。イデアがその首を掴んで持ち上げようとするが、全く力が入っていない身体はだらりとその手のひらにぶら下がるだけ。監督生は既に意識を失っていた。
「あーあ、もう飛んだ。ちゃんと忘れただろうな?起きた時に覚えてたらもう一度脳震盪を起こしてやる。セカンドインパクト症候群で死んでも僕は知らないから」
ずるずる、と。死体のような監督生の身体をイデアが引き摺っていく。その轍には真っ赤な血の跡が残されていた。
▼
監督生は目を覚ました。見覚えのある部屋。青く燃える髪が揺らめく特徴的な背中。監督生の劣等感を掻き立て、憧れを抱かせる存在。イデアの部屋だ。
「……イデア先輩」
「あ、起きた?」
くるりと振り返ったイデアの手には包帯と薬。優しい微笑みを湛えたその顔には、ちらと気の毒そうな表情が滲んでいる。そういえば、自分はどうしてイデアの部屋に寝かされているのだろうか。ずきり、と痛む頭。
「君、また死のうとして床に頭をぶつけてたんだ。たまたまオンボロ寮を訪ねた僕がそれを見つけて……。覚えてる?」
「覚えて、ないです。確かに頭がすごく痛い……、迷惑をかけてしまってすみません」
「別に、いいよ。……ところでコレ、見覚えある?君のそばに落ちてたんだけど」
イデアが机の上から持ってきたもの。それはカメラだった。軍幹部がダイヤルで埋め尽くされたなんともクラシックなスタイルのカメラ。監督生は眉を顰める。確かに素敵なスタイルのカメラだが、自分にカメラなんていうセンスのいい趣味はない。オンボロ寮にしまってあったものを自分が掘り起こしたのだろうか。グリムが拾って来たんだろうか。どちらにせよ見覚えのないものだったから、監督生は頭を横に振る。それを見たイデアはふっと微笑んだ。またずきり、と頭が痛む。もう一度カメラに目をやると、なぜか脳味噌が揺れるような気持ち悪さと底知れない恐怖が襲ってきた。
「ひ、う……おぇ」
「脳震盪を起こしていたんだから、頭は動かさない方がいい。薬を出すから。痛み止めと、睡眠導入剤。しばらく寝てなよ」
「ありがとうございます。お言葉に甘えて……」
睡眠導入剤を水で飲み込んだ監督生は、再び眠りに就こうと目を閉じる。ああまた優秀なイデア先輩に迷惑をかけてしまったな、と申し訳ない思いで胸をいっぱいにして。なんだかカメラを目にしてから気分が悪い。早く眠ってしまって忘れたい。二度とあの機械を見たくないと不思議なことを思った。氷のような瞳がこちらを刺していることには気付かない。オルトのイグニハイド・ギアの腹から大きなレンズは既に消えていた。