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one of the our Summers【5】

ナイトレイブンカレッジのサイドストリートから脇道に入っていく。

月が没した空は鴉の羽のように艶やかに、一面真っ黒で、街灯の無い脇道で把握できるのは手の届く範囲くらいまでだった。腕を伸ばせば、指先が溶けて消えた。それより先は世界が無くなっていると嘘を吐かれても、信じてしまったかもしれない。腕を曲げて確かめれば、指先はちゃんとくっついていたから嘘だとわかった。そんな夜だった。夜の闇に灯るイデアとオルトの髪だけを道標にして、監督生は気絶したままのグリムを抱えて歩いている。グリムはでかい猫のようなものなので、結構重たい。鏡舎からは随分遠くまでやってきた。


十月も終わりに近づいた頃。真夜中の空気は肺から身体を冷やしていって、呼気に含まれる水分は飽和して白くぷかぷかと浮かぶ。深呼吸をすれば、空を突かんばかりに口から白い煙が伸びていった。背伸びをして、大人のふりをして煙草を吸って、なんだか悪いことをしているみたいだと子供心が躍った。早く大人になりたかった。前を歩くふたりの後ろ頭を見上げると、兄のイデアだけが煙草を吸っていて、自分のことを棚に上げて生意気だと言って笑ってやりたくなる。そんなことを考える自分の頭が馬鹿馬鹿しくなって、監督生は結局、乾いた笑みだけを溢した。グリムが凍えるように身じろぎをする。もうすぐ目を覚ます頃合いだろう。



コロシアムの高く聳え立つ立派な壁に沿って裏手に回る。
風がびゅうっと吹いて、広い荒野がぽっかりと現れた。

ゴロゴロゴロゴロ……とオルトが台車を押す音と、ジャリジャリとふたりが石ころを転がす音だけが鳴って、鳴ったそばからどこかに消えていった。だから、この場所がとても広くて荒れた土地なのだとわかった。二本の線香の火。細々とした青い火の煙だけをせっせと食っていては、辿り着けなかった答えだっただろう。しかし、過去と現在と未来を正しく観測するには、青い線香の火くらいでちょうど良かったのだと、監督生が知るのはしばらくあとになってからの話。


恐らく荒野の真ん中で、つまり荒野の端っこから一番遠い場所を見定めて、シュラウド兄弟ははたと立ち止まった。背の高い煙突から、相変わらず煙草の煙がぷかぷかと空に吸い込まれていく。流れるサファイアブルーの髪は昼間に見かけるとド派手極まりないものだが、夜空と繋がっている間だけはその輪郭が曖昧になってしまって、意外にも主張をしないことに気づいた。むしろ星空をそっくり映したマントを身に纏って、夜に溶け込んでいるようだった。難儀な髪だな、と思う。持ち主の意には沿わず、ヒトの多い昼間にはよく悪目立ちして、ヒトも居ない街灯も無い満点の星空の下でだけ姿を隠せるのだから。



いや、『隠す』という表現は正しくないのかもしれない。
きっと星空になってしまうのだ、彼らの髪は。



とても綺麗だな、と思う。

その次に、哀しいなと思った。

監督生が元いた世界では『お星さまになる』という言葉は、『死』と等価である。

夏空の下にいるときには目に刺さるほどの青を纏って、夏風を纏って、眩しいほどの『生』を主張していたというのに。星空の下で揺れる髪は穏やかに夜に滲み出して、次第に見えなくなって、そこにはなにもなかった。生きているのか死んでいるのか、生きていたいのか死にたいのか。その狭間に揺れているのが、彼らのサファイアブルーなのだと感じてしまった哀しい夜だった。



「ふなあ……ここ、どこなんだゾ?」
「あ、グリム。おはよう」

ちょうど、両腕が痺れてきた頃合いだった。
目尻に涙が滲んでいるような気がして、拭いたくなった頃合いだった。

監督生の腕の中にいた魔獣がぐぐっ、と伸びをして寝ぼけた声を漏らす。猫というには大き過ぎて、大型犬というには小さ過ぎるその身体は、抱いたままだといささか重い。いや、訂正。やっぱり、重過ぎた。痺れる腕でグリムをそっと地面に下ろしてやると、ジャリジャリ、と小石を転がす音とともに「ふ、ふなっ!?」と彼は声を上げた。肉球に触れる荒野の感覚に驚いたようだ。

「ここはコロシアムの裏手にある広い場所だよ」

監督生がそう教えてやると、ジャリジャリと地面を弄っていたグリムが空を見上げる。

水色の炎が傾くのに合わせて、監督生の瞳も初めてはっきりと空を映した。




ここで死にたいなと、すぐに思えた。
三百六十度の視界を埋め尽くすのは、そんな星空だった。



さまざまに色染めされたかすみ草の小さな花をひとつひとつ解きほぐして、青とも黒とも言えないガラスの狭間に誰かが丁寧に、丁寧にひとつずつ置いていった。ここは黄色い花を多めに、ここには紫の花を。少し離れた場所に、大きな花首を。見たヒトが幸せになって、哀しくなるように。そんな風にデザインされている幾何学的模様は、星空は、瞬きする間にも変化していく。紫の花があった場所に、今度は青い花が咲く。宇宙の果ての色をした不思議なガラスは波打って、花の煌めきが絶え間なく揺らいでいる。

夜空は移りゆく花束だったのだ。

星の花束を詰め込んだ万華鏡だったのだ。

今この瞬間が一番綺麗だと思っても、瞬きをしたあとの瞳に映るものの方が綺麗だと思った。その次の、その次の瞬きのあとも。ただ、その繰り返しだった。それはただの、繰り返しだというのに。
普段の監督生ならば、うんざりして目を瞑ってしまうような現象のはず。

溜息を吐いて、いつもなら通り過ぎてしまったはずだった。

それでも初めて、永遠に見ていたいと思えるものに出逢った気がしたのだ。


つまり、この空の下で死にたくなったのだ。

動く鉄道模型も、ブロックで出来た街も、複雑なカラクリ装置も、思い通りに動くプログラムも、興味は惹かれるもののすぐに飽きてしまう子供時代だったと思う。監督生は、今も飽きっぽいだけの十六の子供だ。しかし、視線は永遠に星空へと吸い込まれていく。あのくるくる回る万華鏡を手に取って覗いてみたいと、おかしなことまで考えていた。人間が手に取れる形になったならば、誰がその美しさをアップデートし続けてくれるのだろうか。いや、一度天から剥がして丸めてしまったら、あの星空は『綺麗』なまま二度と変わらなくなってしまう。ずっと『綺麗』なままで、『綺麗』なものだけを映す。決まりきった、順番に。きっと、すぐに飽きてしまう。死にたいという想いにも、飽きてしまうだろう。


足元から「ふ、ふなぁ……」とグリムの声。

やっぱりあの万華鏡は要らないやと思い直して、

「綺麗だねえ、グリム」

監督生はただ、相棒とこの哀しい幸せを分かち合うことにした。

「…………」

彼からの返答は無い。

幼い頃に、アンティークショップに連れていってもらったことがある。

星屑をいっぱいに閉じ込めた大きな水色の瞳は、まるで丸いガラスに咲いた水中花のように見えた。アンティークショップで目を奪われた、あの瓶詰めの花に似ていた。闇の中にぼんやりと浮かぶ真っ白でふかふかな胸毛を上下させて、グリムは冷たい秋夜の空気を静かに吸い込んで、吐き出している。吸い込んで、吐き出している。魔力を秘めたレトロチックで近未来(この世界は未来なのか?)な獣は、楕円形に広げた口から小さな牙を覗かせて、とっくに監督生の言葉も聞こえないほど星空に魅入られていたのだった。


可愛いなと思うその前に、監督生は彼も随分変わったなと感じ入っていた。

監督生がこの世界にやってきたばかりの頃は、ふたりが出逢ったばかりの頃は、誰彼構わず喧嘩を売っては買って、自分の思い通りにならなければたちまちに癇癪を起こす子だったというのに。今のグリムは頭上に広がる星空に想いを馳せ、季節に移り変わる花を愛で、友人と楽しく遊ぶことができる子だ。監督生本人の同意を得ることなく勝手に命名された『猛獣使い』という称号も、意外と的を得ていたのかもしれない。監督生は誰にもバレないように、星屑の瞬きに合わせてくすくすと笑ってみた。くすくす、くすくす。



「なにひとりで笑ってんの……怖いんですが。か、勝手についてきたんだから手伝ってよね」

ボソボソボソ……と背後から、吐息混じりのお小言。

誰にもバレないように、というのは土台無理な話だったようだ。

監督生が振り返ると、長い身体を折り畳むようにして台車のハンドルにもたれかかり、没したはずの曇った月を鈍く光らせてこちらを睨むイデアがいた。イエローアンバーの月がどんよりと曇っているのは、きっと疲れているからだ。普段は全くと言っていいほど運動をしない(と、オルトから聞いている)イデアのこめかみからは、不健康そうな汗がダラダラと流れ続けている。実際に歩いているときには夜風が身体を撫でて涼しくても、ひとたび立ち止まってしまえばどっと汗が穴という穴から吹き出す。よくある話だ。薄い唇は半分開いて白く尖った歯がチラチラ覗いているし、大きな身体は規則的に上下して肩で息をしていた。


ジャリ、と大きなスニーカーが苛立つように地面を掠める。
飛んできた小石がこつん、とたまたま監督生の脚に当たった。

「はいはい。言われなくたって、最初から手伝うつもりだったのに」

イデアの虫の居所が悪くなり始めたのを悟った監督生は、なにを思ったか。

自分でもよくわからないままに、煽り返すような返事をした。


星空に目を奪われたままのグリムに背を向けて、不貞腐れたように台車に身体を預けるイデアのもとに歩いて行く。ジャリジャリと弾ける荒野の小石が、イデアの脚にも当たってしまえばいいのにと頭の片隅で思っていた。わざとでなければ良いのだから、と言い訳をして。そして彼の隣にふわふわと浮かんで、澄んだ満月のような瞳を輝かせているオルトには当たりませんように、とちぐはぐなことも願っていた。

監督生は、地面を蹴る。
一歩進むたびに、小石は飛んでいく。

それは世界にとって無作為なのか、既に決まっていた運命だったのか。ヒトにもモノにも当たることなく、鴉の羽の色をした闇に全て消えていった。つまらないと思うが、仕方のないことだ。そっと座り込んだ監督生が台車の上の小さくて薄っぺらい木箱を覗くと、今度はイデアに「それ、触らないで」と低い声で脅すように言いつけられる。監督生は、さすがに苛々して眉間に皺を寄せた。喉元まで出かかった言葉は心臓までの道を一度逆流して、脈を打つと同時に押し返される。どくん、どくん。面倒事が嫌いな監督生にだって、お小言を吐き出さなければならないときくらいあるのさ。ねえ?

「……あの、流石に」


それでも途中で口をつぐんだ理由は、言葉の受取人不在によるもの。


既に、イデアの意識は監督生に在らず。

互いに信じ合うように、隣のオルトに目配せをしていた。

「オルト」
「了解したよ! 兄さん」

兄に答えたオルトの眼差しは、強くて澄んでいて穢れが一切無かった。

ヒューマノイドは人間に逆らわない。ヒューマノイドは命令を学習している。

概して弟は兄に逆らわない。仲の良い兄弟は以心伝心。

どっちにしたって、監督生には最初から敵わないことだった。

オルトは平べったい木箱を両腕で抱え込み、足裏から噴き出す青い炎の量を微調整して、ゆっくりとそれを持ち上げる。ともに上昇していく。監督生は「触るな」と言われた木箱だ。その炎の量から鑑みて、木箱には結構な質量がありそうだと監督生は冷静に推測していた。ふつふつと湧き出す興味が勝って、苛々はほとんどなりを潜めていた。
静寂の中でパチパチと弾ける炎の音は季節外れの花火みたいで、また忘れてしまった夏を思い起こそうとしている自分がいることに気づく。もう秋だ。季節とは円を描いて順序通りに進むもので、あと一周だけ遠回りをしなければ夏はやってこない。季節の円周上を辛抱強く歩いてみたところで、監督生が取り戻したい夏がそこにあるのかどうかはわからないが。それでも今は、前に進むしかないと思っている。未来に、過去が在るわけがない。パチパチ、と花火が鳴っている。


軽くなった台車を、ゴロゴロとイデアが押して退けた。

今の今までイデアが立っていた場所は、小石のひとつも転がっていなかった。オルトはその比較的平らな地面に木箱をそっと置いて、ガタつかないことを確認したあと、慎重に手を離す。精密機械のような(というか、その通りである)その職人芸を見ながら、監督生はなるほど……と合点が入っていた。イデアはジャリジャリとイラつくように地面を蹴っていたが、決して監督生に嫌がらせをしたいわけでは無かったのだ、と。地面を平らに均したかっただけだ。監督生の蹴り出した小石がイデアにもオルトにも当たらなくて良かったと、今更になってお気楽なことを考えてほっと息を吐いていた。煙草の煙だ。



イデアの両手が、木箱の被せ蓋を掴む。

シュラウド兄弟がどんな観測道具を持ってきたのか、実のところ監督生は聞いていなかった。『天体観測』と聞いてすぐに思いつく望遠鏡にしては、両腕に抱えられそうなその木箱は小さすぎるし薄っぺらすぎる。縦横約百センチ、高さ約二十センチ。見れば見るほど、不思議な形状である。そもそも、イデアが研究したいのであろう『ワームホール』は、その他大勢が想像するような典型的な望遠鏡は観測道具として適していない。恐る恐る、笑ってしまうくらい丁重に、イデアの腕が蓋を持ち上げていく。桐だか檜だかわからないが、浅い底部分と深い蓋が擦れ合って芳しい木の匂いが漂った気がした。不思議なノスタルジアを覚えた。『監督生』はもしかして森からやってきたのだろうか、とふざけたことを考えていた。


しかし、きらりと覗いたのは鈍色の金属。

「……わお」

開いた口が塞がらない、とはまさに監督生の症状を表していた。

目を白黒させながら、ついに全貌を現した装置と、どこか得意げに口角をピクピクさせているイデアとを交互に見る。彼はナントカの鉄人みたいに腕を組んで、時折監督生を盗み見しながら唇をモゴモゴと擦り合わせている。視線は基本的に、右上と左上を行き来していた。あくまで平静を装っているつもりなのだろうが、髪の先が薄紅色に染まって線香花火のように爆ぜていて、監督生の反応に手応えを感じて、得意げになっていることが明らかであった。本当に、難儀で可愛らしい髪の毛である。

自己肯定感は低いが自尊心は高そうなイデアは、監督生が装置についてはっきりと言及してやらない限り、喋り出さないだろう。そう考えた監督生は、まずはなにも言わずにじっくりと装置を観察してみることにした。彼に教えられなくたって、なにかわかるかもしれない。十字に交差した筒。百センチ×百センチ。それぞれの筒の端と筒の交差部には、高さ二十センチほどの金属製の部品……恐らく、中には鏡が吊るされている。鏡は自由質量として振る舞わなければならないからだ。そして残りの筒の端には、これまた恐らく、レーザー発生装置と検出器。監督生はこの構造に見覚えがあったが、それにしても小さい。小さすぎる。知識として頭にあるそれと比べて、コンパクトすぎると首を傾げた。


得意げなイデアの様子が面白おかしくて、わざとなにも言葉にしないでいたが。彼にも話したいことがたくさんあるだろう。聞いて欲しいことがたくさんあるだろう。監督生にも、聞かなければならないことがたくさんあった。もう潮時だった。天才の不可解な挙動の観察はこれまで、として、監督生はイデアを真っ直ぐに見つめる。モゴモゴ、を通り越してパクパク、と口を動かし始めたその様子は魚のようで、笑いを堪えるのに監督生は苦労することとなってしまった。大口を開けて笑えば、繊細な天才の機嫌を損ねかねないと思ったからだ。

「ぶ……く、あの、これ。重力波検出器ですか? それにしては随分コンパクトですね」

シンプルな監督生の言葉に「待ってました!」とばかりに目を輝かせたイデアは、パクパクしていた口をジッパーのように閉じて、代わりに鼻の穴を膨らませる。イエローアンバーの月の曇りは消え去って、夜空の中にぽっかりと綺麗に浮かんでいた。わかりやすいその反応に、つい微笑を溢してしまった監督生を意外にも気に留めることもなく、イデアは意気揚々と唇を開く。

乾燥した唇同士が擦れる音と、スゥ……と大きく空気を吸い込む音が静寂の荒野の中で聞こえた。


「そ、そそそう、マイケルソン干渉計を基本としたレーザー干渉計型重力波検出器。魔導エネルギーを用いないものでは一辺数十キロメートル、宇宙に打ち上げてるものでは百万キロメートルなんてものもあるけど。どこかの大きな研究所長ならまだしも、学生のご身分でそんなもの運用できるはずがないだろ? だから僕は魔導エネルギーを応用して、このサイズにまで仕上げて運用してる。ただの受け皿みたいに見えてるだろうけど、その箱には回路が張り巡らされていて、微小な振動すらもカットするんだ。おっと、触らないで。そこの空間は熱振動を抑えるために、絶対零度に保たれてるから酷い凍傷を負うよ。フヒ、冗談じゃないから気をつけて。あとレーザー光は常にスクィーズド状態を保つように計算機で制御してる。光の量子揺らぎをどこまで抑え込めるかが、重力波検出の鍵だからね……僕の技術とオルトの演算能力の結晶だよ、これは。ちなみにレーザー光の往復回数は、時間の許す限り可変にしてある。ほら、」

最初の青い空中投影モニターがパッと展開されるまでの約一分間、イデアは(恐らく)息継ぎもせずに自らの技術を意気揚々と自慢……いや、監督生にもわかりやすいように装置を紹介してみせた。天才でなくとも理解できるように、それは優しい言葉で。モニターには彼の言う通り、白い文字で『0〜∞』の表示。

髪だけでなく頬までも薄く紅潮していて、まるで夏休みの自由研究を見せびらかす子供のようで、ついつい可愛いと思ってしまう自分がいることに監督生は気づいていた。話す内容やその技術は、高校生の自由研究の域を、いやきっと老練で平凡な研究者の域すらも超えてしまっているのだが。


忙しなく空中をスイスイと移動する人差し指の示すモノを追いながら、監督生はふむふむと頷いたり、眉根を寄せて首を傾げたりしていた。可愛い、と思ったことは秘密にしておいた。口角が上がってしまうのは抑えきれなかったが、悦に入ってしまったイデアはそんな些細な監督生の変化を見抜くことができなかったようだ。イエローアンバーの虹彩はどろりと歪んで、目が完全に据わっていた。


ちなみに彼の話した内容は面白かったものの、半分くらいしか理解できなかった。

「そ、それにしても君、よく重力波検出器なんて知ってたね。女子とか玩具みたいな望遠鏡覗いて『きれーい♡』って、思ってもないことマジカメに呟いて自己満足するだけの無為な存在かと思ってましたわ、フヒ。じゃ、さっさと観測を始めますぞ……」


覇気のない実験開始の合図だった。

頭上に見慣れた青いモニターが、パッパッパッと灯っていく。

よく見えるように、監督生はその場に立ち上がった。身体が砂埃を巻き上げてしまって、装置には降りかからないように気をつけてそれを払う。あの空間には魔導エネルギー回路が張り巡らされているというイデアの台詞を思い出して、必要のない行為だっただろうかと後から気づいた。また砂埃を払う。

そういえば彼の台詞に、女性に対する酷い偏見の言葉が混じっていた気がするが、監督生は除外されているようなのでひとまずスルー。イデアの指先がなにもない夜に触れるたびに灯っていく青いモニターを、黙って、じっと眺めていた。眩いほどの青は夜を照らして、瞬く間に夜は明るくなって、相対的に星が見えなくなっていく。ぼんやりと青く光る髪のそばでは、数え切れないほどの星屑が瞬いていたはずなのに。

宇宙を観測しようとして、その行為によって夜空が見えなくなるとは実に皮肉なことだ。監督生は、宙を見上げたまま思った。イデアの知りたいことも、もしかしたら執着さえ抱いていることも、彼の努力によって反対に迷宮入りしてしまいませんようにと願った。彼の努力が報われますようにと、目を瞑って祈った。


イデアの指が、一番大きなモニターに触れる。

揺らいだ青い光が空中をゆらりゆらりと伝播して、この広場そのものを支配していくような瞬間が訪れる。

途端にそれぞれのモニターに映し出されているよくわからない数値やら波形やらが、目まぐるしく慌ただしく変化を始めた。ぐるぐる、グネグネ。目がチカチカして、頭がクラクラしてきそうだった。しかし、イデアは平然とした顔でその全てに目を通しながら、両手の指を使って迷いなく検出器の制御を続ける。この人には、常人の倍くらいの目や耳や手がくっついているのだろうか。「オルト、レーザー制御にあと四.六パーセントの演算能力を割いて」「……承認しました。標準演算モードを維持し、対象にメモリを開放します」と、兄弟は阿吽の呼吸だ。

モニターが二重三重に増えていき、それに伴い制御項目は指数関数的に上昇の一途を辿る。監督生の視線は青の中を泳いでいた。オルトの演算能力を借りながら、無駄なく、狂いなく、夜を眩しすぎる青で覆い隠していくイデアの指先を追っていると、きっとぐるぐる目が回ってしまいそうになるから。


指の主、その整った顔を見上げた。
背景には、星が見えない暗い空。


装置を制御するイエローアンバーの瞳にモニターが何枚も閉じ込められて、冷たくて青い月みたいにぼうっと光っていた。忙しなく動き回るそれらから、感情は読み取れなかった。人間味の薄れたその瞳はとても美しくて、なんらかの『完成』に近いような気がして、弟のそれとよく似ていた。極限まで脳味噌から無駄を排した人間と、AIと。彼らはお互いに漸近する。彼らはどこまでも恐ろしく似ているが……しかしながら、いつまで経っても似ているだけなんだろう。きっと、決して『同じ』にはなれない。兄弟がそのことについてどう思っているのか、監督生はなにも知らないけれど。



心に穴が空いたような心地になった監督生は、結局、装置に目を落とす。


ピピピピピピピ、と警告するような音が響いた。

「システムオールグリーン。重力波検出を始める……」

気怠そうなイデアの声を合図に、天体観測が幕を開ける。


その声に導かれるように夜空を見上げた監督生だったが、眩しいモニターが重なり合って視界を青色に染め上げていて、やっぱりあの星の花束は見えないままだった。イデアは一等大きなモニターをスワイプして、重力波検出器の前に膝を抱えてズルズル……と崩れるように座り込む。サファイアブルーの髪が荒野にふわりと広がって、柔らかく夜に溶ける。砂埃に曝されても、サファイアブルーにはくすみひとつ現れなかった。規則的に波打つ白い光を瞳に映して、膝の上に重ねた腕に顎を置いて動かなくなった彼は、まるでひとりぼっちでテレビを見る子供みたいだった。ひとりっ子の、鍵っ子のようだった。


監督生は悩んだ。

イデアが見つめているモニターを裏っ返しに眺めていると、彼の心の裏側を覗けるような気がしていた。自分は彼の隣に座るべきなのか、いつものように敢えて離れて座るべきなのか。必須事項として、強い好奇心に導かれるところとして、重力波の検出結果はリアルタイムで見ていたいのだが……したがって監督生に示された選択肢は、やっぱり寂しそうなイデアの隣に座るか、地面を波打つサファイアブルーの後ろに座るか、だ。モニター裏が教えてくれるのではないかと期待して、癖のある黒髪をくるくると弄んでみた。視線を誰もいない右に寄せて、髪を弄んでいた右手で乾燥した唇の皮を剥いた。味のしない白い皮を地面に捨てて、唇を舐める。じんわりと血が滲むまで待っていても、眩いほどの青は答えを与えてはくれなかった。



そんな中、ヒュ、と秋夜を裂く音。

「兄さん。僕、グリムさんと遊んでいてもいいかな?」
「ふ、ふなッ!?」

つい先程まで合成音声にて『標準演算モード』を名乗り、あくまで計算機として動作していたオルトが、今度は人間味のある声で非常に少年らしい問いを兄に投げ掛けた。気怠そうだったイデアの声とは、まるで正反対に位置する明るく利発な声色。その問いに突然巻き込まれたグリムは当然のことながら驚いて、間抜けな声で反応していた。

イデアと監督生が同時に、オルトへと顔を向ける。

オルトはピカピカのイエローアンバーに青色のモニターを閉じ込めて、それは紛い物の青い月が揺れる不思議な夜のようだった。本物の月は、既に没してしまった。重力波検出装置の周辺を左右にふわふわと浮かびながら、早く夜空に飛び込みたくって堪らないといった様子でうずうず、そわそわとしているように見受けられた。同じ色をした瞳に同じ青い光が重なっても、持ち主の仕草によってこうも受ける印象が変わるものか、と監督生は溜息を溢して感心する。これではどちらが人間で、どちらがAIか区別できたものではない。そもそも区別する必要はない、製作者の意図として、区別しようとすべきではないのかもしれないが。監督生は、なにも、知らないのだ。

チラ、と横目でオルトの製作者であるイデアを見ると、彼は相変わらず子供のように膝を抱えて弟を見上げていた。こちらの青く染まった月は、地平線の向こうに沈んでぼうっと辺りを照らしている。



——困惑、憂慮、不安



監督生の目に、見えたもの。

澱んだ瞳の奥に不安定な感情が隠されているように思えたのは、ただ、監督生の思い違いだったのかもしれない。イデアはあまり迷うことなく、すぐに口を開いた。

「いいよ、遊んでおいで。ただし、処理速度に影響が無い程度にね」

監督生が勝手に覗いてしまった感情を否定するように、イデアは薄く綺麗に笑って、柔らかくて優しい言葉を吐いた。そしてオルトは小さな宝石を溢さんばかりにキラキラと笑って、「わあい! ありがとう兄さん!」と、無邪気な感謝の言葉とともに宙を一回転してみせる。まあるい円を描いたサファイアブルーの炎は、秋の夜空が透けて見えるくらいにずっとずっと先まで澄み渡っていて、監督生が目で追っているうちにその残像は煙のように消えてしまう。まさに見た目通りの年齢、美しいギアのフォルムに相応しい天衣無縫な振る舞いだった。

「グリムさん、君のこと夜空の果てまで連れていくよ!」
「ふな、こ、子分! 助け……」

そのままイデアと監督生の前をぴゅうっと飛んでいったオルトは、じたばたするグリムを軽々と抱き上げて、星の見えないガラスの夜空へ向かってだんだん小さくなっていく。サファイアブルーの短髪がまた夜に溶けて、グリムの悲壮感漂う叫び声も遠くなっていく。監督生は乾燥した唇をひとつ舐めて、口角をキュッと持ち上げて「よかったねえ、グリム」と呟いた。(監督生にとっては)じゃれあっているふたりを捕まえるように空に手を翳すと、あっという間に、彼らの大きさは人差し指の先くらいになってしまっていた。



監督生は腕を下ろして、装置の前に座るイデアに視線をやる。彼もどこか眩しそうに目を細めて、遠のいていくオルトとグリムを眺めていた。普段は真一文字に結ばれている唇が、幸せそうに綻んでいるのを監督生は見逃さなかった。少し、何故か、嬉しくなる。

モニターの眩しい青ではなく、代わりにサファイアブルーの儚い炎が監督生に答えを与えてくれたようだ。それも、弟の。ゴホンとわざとらしく咳払いをして、照れ臭さを隠すように冷たい眼鏡のツルをグリグリと弄りながら、監督生は歩みを進める。ジャリジャリ。うるさいだけだと思っていた荒野の鳴らす音が、感情の隠れ蓑になってくれている気がした。

「失礼しますね。イデア先輩」

彼女がその腰を下ろしたのは、イデアの隣。

ギョッとした目でイデアが監督生を見る。ハッと息を呑む音までも、大袈裟に聞こえる。パチパチパチと髪の先が弾けて、夜を温かい薄紅色に染めていく。その不器用な仕草全てを、心に包んで見えなくした。監督生はジャリジャリと適当に小石を足で退けて、荒れた地面をなるべく平らに均す。イデアの瞳がもう青いモニターに注がれていることを確認して、スラックスが皺にならないように尻から膝裏をさっと撫でて、ストンとその場に座り込む。残っていた小石が尻を刺激してチクチクしたが、もそもそと身体を動かして居心地の良い場所を探った。



イデアと監督生との距離は、約三十センチメートル。



「…………」

ふい、と顔を背け気味にして、あくまでもモニターを見張り続けるイデア。ふわふわと自由自在に広がる夜の色をした髪の所為で、その表情ははっきりとは窺えなかった。無表情に見えたり、心配そうに見えたり、機嫌が悪そうに見えたり、少しだけ嬉しそうに見えたり。髪が風に靡くたび、接続の悪いテレビのように違った顔がチラついて見えた。まあ、その大きな手で払い除けられなかった時点で、拒否はされていないものだと監督生は楽観していた。髪の先は相変わらず、薄紅色に染まっていることだったし。

そして監督生もイデアに倣って、少々眩しすぎるモニターを覗く。青色の背景に白い線がうねうねと波打っていて、その振動に合わせて目玉がギョロギョロと上下運動をするのを感じた。白波はいつまでもどこまでも、規則的に振動し続けている。これで波のさざめきでも聴こえたものなら、それは恥ずかしいほどにロマンチックで、イデア曰く「女性ウケの悪い」天体観測も良い雰囲気になると思うのだが。ふたりは黙って、波の振動を見張っている。ちなみに見張っているということは、なんらかの変化を期待しているということだ。つまり————、


重力波というものは、質量を持った物体が加速度運動をする際に発生する。しかも(イデアの作製した装置がとんでもなく高性能だと仮定しても、それに関係なく)観測できるほどの重力波の発生には、高密度で非常に大きな質量を持つ物体が加速度運動をする必要がある。『ワームホール』の存在を観測するには、あくまで一例だが、ワームホールの中を巨大な質量を持つブラックホールが跳ね続ける際に発生するチャープとアンチチャープという重力波を捕捉しなければならない。捕捉の結果、ビームスプリッター上での光の干渉状態が変化するため、モニターに表示される白い光の波に変化が生じるはずなのだ。



……長々と考えを巡らせてしまったが、一言で纏めてしまおう。

監督生は、青いモニター越しに星を探す。

ワームホールの観測は、真っ暗闇の中で十メートル先の針に糸を通すよりずっと困難で、奇跡よりもずっと奇跡みたいな所業なのだ。まさに金持ちSF作家の道楽、研究者のロマン。そもそもワームホールなぞ存在するかどうかも確かでない。監督生はもとより、観測結果が得られることをつゆほども期待していなかった。明るすぎて、星はひとつも見つからなかった。

「……先輩」
「ん、なに」

隣でガリガリと爪を齧り始めていたイデアは、モニターから目を離すことなく、気難しそうな低い声で口数少なく答える。強い光に吸い込まれて見えなくなった、星が瞬いているはずの空の下。力強い青い光に身体中を余すことなく照らされているというのに、彼の周囲だけ空気がどんよりとして重苦しく、暗い部屋に引きこもっているように感じた。いつもと同じ、引き篭もり寮長イデア・シュラウドがそこには居た。


白の振動状態はちっとも変わっていなくて、ずっと目で追っているままだと眼球を操る筋肉が痙攣して、そのうち眼球が上転したまま戻らなくなってしまいそうだ。とんだホラー映像である。そうならないように監督生は一度、疲れた目をぎゅっと瞑って、約三十センチメートルの距離を保ってイデアの横顔を覗き込んだ。監督生の身長くらいはありそうな長い髪が、ゆらゆら揺れて、邪魔をする。彼は疲れた顔をしていないだろうか。

そよ、とふたりの間を夜風が抜けていった。

「先輩は、本当に      」

監督生は、言葉を詰まらせた。

いいや、夜風が言葉の続きを攫ってしまったのかもしれない。


そよそよ吹いていた夜風がざわざわと鳴き出して、イデアの長い髪も攫っていった。

サファイアブルーが掬われて、形の良いイデアの横顔が露わになる。爪を噛む青い唇。噛み締めるたびに上下する喉仏。長くて骨張った指。眉間に皺の寄った白い肌。寒さにかじかんで、可愛らしく赤くなった頬と鼻。気怠げな三白眼は————、まさか



透明な涙を湛えていた。
 


監督生はその光景に、脳が認識するより前に、思いがけず言葉を詰まらせたのだった。認識を終えたあとの横顔もやっぱり美しくて、ちょっと星が見えないくらいの暗い夜空がよく似合っていた。監督生は冷たい空気を吸う。身体を冷やして、頭を冷やした。彼女の先輩は誰よりも賢くて、オルト以外の誰の助けも必要としないくらい自立しているのに、本当は誰よりも弱い存在なのかもしれない。


そして、

「先輩は、どうして通行可能なワームホールを探しているんですか?」

もう一度、質問をした。

そういえば、どこかで繰り返した、使い古した質問だったような。

風に攫われた言葉とは違うものだったかもしれないが、今となっては確かめようがない。ただ、今に限って言えば、こんなふうに問いかけるのが正しいのだと思った。優しくて賢すぎる彼の願いや、祈り、もしかすると執念でさえ、その寄りどころと手がかりを否定してはいけないと思った。イデアは涙を拭うようにして、重ねた腕にずりずりと顔を埋める。くぐもった低い声でも拾えるように、監督生は呼吸を止めて耳を澄ます。「うう」と悲しげな唸り声が聞こえたから、ごく自然に、その怪獣みたいに大きな身体に近づいていた。


イデアと監督生との距離は、十五センチメートル。

優しく寄り添うから、その牙も、鎧も、嘘も、必要ないから捨ててしまいましょう。

「……か、可能性を、探してる」
「可能性、ですか?」

頭を撫でてやるような声で言葉を繰り返して、さらに距離を詰めてきた監督生が腕の隙間から見えたから、イデアはびくりと大きな身体を震わせた。怪獣は、やっぱり弱い。覗き込まれるように五センチほど詰められた距離を、仰反るようにして五センチほど空けた。冷たい夜風が髪を撫でて、イデアの顔も、監督生の顔も、お互いによく見えていた。

これで、プラスマイナス〇センチメートルだ。

近づいてくる監督生を慌てて両手を掲げて制したから、涙の滲んだ目尻が丸見えになっていることには気づいていなかった。諦めるように下ろした左手は荒れた地面に触れ、ぎゅうっと拳を握る。大丈夫だ、平気だと心に言い聞かせて、イデアはゆっくりと話し始める。『科学』に精通した監督生になら、理解してもらえる。味方になってくれると思った。拳の中にガラスの破片が紛れ込んでいて、手のひらを切ったけれど痛くなんてなかった。

「……オルトが『あの』身体にならなくて済んだ世界が、あったんじゃないかって。『生きている』十六歳のオルトが存在する平行世界が、観測可能な宇宙の外にあるんじゃないかって。僕はずっと、探してる。僕は、僕は……」

尻すぼみになる言葉とともに、丸く小さくなる背中。

痩せっぽちで頼りなさげで、自信もなさげで、おまけにズビズビと鼻を鳴らすイデアを目の前にして、監督生は思いっきり顔を顰めた。彼の願いや祈り、執念ならば、それとして優しく受け入れるつもりであった。たとえ涙を流していても、弱虫の叫び声を上げていたとしても。しかしこれは、きっと後悔だ。彼は、過去を見ているだけだ。

まだ仰反ろうとする身体を引き止めるように、ダボダボになっているパーカーの左袖を右手で地面に縫いとめる。後悔だけを吐いて現実から逃げようとするヒトを、イデア先輩だと認めたくはなかった。どこまでも聡明であって、自らの知識と技術に絶対の自信を持ち、常に未来を見据えるヒトこそ監督生にとってのイデアだった。そう、彼女は思い込んで、信じていた。ギリギリと無意識のうちに奥歯を噛んでいる。引き千切りそうになるくらいに、パーカーの左袖を地面に押し付けていた。

過去に縋って立ち止まろうとする姿など、あまつさえ立ち戻ろうとする姿など、見たくなんかなかった。険しい顔でイデアの顔を下から覗き込むと、「ヒッ」と情けない声が漏れて、そんな些細なことにさえ苛ついた。珍しく眉を釣り上げて、監督生はイデアを睨みつける。泣きたいのはこっちだ、私の『尊敬』や『妬み』を返せと。



自分勝手に『憧れ』を押し付けてしまっていることには、気がついていないフリをした。

「……どうするんですか?」
「は? どうって……、えぇ?」

地を這うような監督生の声に、イデアは目を白黒させて二の足を踏んだ。無理もないだろう。質問が抽象的すぎたか、と監督生は舌打ちをして補足の言葉を続ける。

「そんな世界が見つかったとして、先輩はどうしたいんですか? その世界の先輩と入れ替わって、『生きている』オルトくんと一緒にハッピーエンド? 今のオルトくんは否定するつもりですか?」
「ハ、ハア!? そんなわけ、ないだろ!!」

ねちねちとしつこく追い詰めてくる監督生の言葉に、モニターの正面を向いていたイデアの身体がガバッと勢いよく彼女の方へと翻った。掴まれていた左袖を力任せに振り解いて、弱々しく握られた拳を空に振りかざす。血が流れている手のひらが、痛かったことを思い出した。思い出して、しまった。拳は二、三の空中投影モニターを突っ切って、青くぼんやりと光を灯しているように見える。相も変わらず、空には星ひとつとして輝いていない。


「——ッ!?」

そのまま振り下ろしてしまおうとしていた場所にあった、ふたつの黒翡翠のような瞳にまたイデアは捉えられた。どんな魔法の力も持たない瞳のはずなのに、その虹彩は熱を帯びて偏光するように赤く滲み、親子ほどの体格差のあるイデアを睨みつけている。簡単に押し潰して、ほじくり返してしまえそうなその目玉を前にして、イデアは何故か動けなくなった。『尊敬』『妬み』『憧れ』、そして穏やかな『崇拝』といったある種の異常な心理状態までも、その瞳は訴えていた。自分に向けられるには重すぎて、勿体なさすぎる監督生の感情に、イデアは情けなくって動けなくなってしまったのだった。




ああ、この少女はきっと、自分なんかに夢を見ている。




振りかぶっていた左腕がプルプルと震えて、それはガクリと地面に落ちた。

「……先輩? すみません、好き勝手に言い過ぎました。すみません」


軽い調子の監督生の謝罪に、恐らくだが本心は込められていない。

まだ、彼女の瞳はイデアの回答を求めていた。

イデアは大きな両手のひらを地面に押し付けて、どうしても監督生の瞳を直視できなくて項垂れていた。彼女はあの黒翡翠のような瞳のまま、丸くしょぼくれたイデアの背中を見つめている。イデアは『期待』されている事実を認識することが、怖かった。自分の知識技術には実際に自信があるが、それは他人のためにあるものではないし、ましてや他人に見せびらかすつもりなど毛頭無かった。『期待』されることは、とても怖いことだ。それに加えて『裏切る』ことは、とても悪いことだ。少なくともイデアは、そういう考えの持ち主だった。
手のひらの皮膚に小石が食い込んでくる。

チクチク、グサリ、と心にも突き刺さっているような気がした。

「ああ……ううん、別にいいよ。僕も未遂とはいえ、手を出そうとして悪かったよ」

イデアは地面に押し付けていた両手のひらを剥がして、曲がっていた背筋を少しだけ伸ばしながら言った。視界は真っ暗で、真っ青。深夜の空き地だから、実験中だから当たり前のこと。まだ、監督生の瞳を直視するのは怖いままだった。パンパンとリズム良く両手を叩いて、汗の滲んだ皮膚に張り付いた小石や砂を落としていく。一度手を叩くたびに異物が傷口に食い込んでピリリと痛むが、いつまでも無様にくっつけているわけにもいくまい。制服の膝に付着した汚れも叩いて落としていく。痛みを伴う行為だが、これは逃れられない必要な儀式だった。



身を乗り出したままの監督生の肘あたりを見つめて、イデアは再び話し出す。

「正直なところさ、」
「はい」
「どうするのか、どうしたいのか……決めてなかったんだ」

なんとも哀れむべき本音を、正直に、イデアは監督生に吐き出した。
情けなさに歯を食いしばる。彼女が「ウンウン」と懸命に頷くのが、青いモニターによってできていた影の先に見えていた。見えてしまっていた。その仕草にまだ自分が『期待』されていることを悟ったイデアは、「おぇ……」と大して食べてもいない胃の中身が逆流してくるのを感じていた。パーカーの胸元をぐしゃりと掴んで、酸っぱい胃酸を食道の中でやり過ごす。これ以上、醜態を晒してなるものかと思っていた。何故だろうか? わからなかったが——、



一方的に『期待』するのはいいが、僕だってただのヒトだ。
勝手に作り上げた『偶像』を投影して文句を言うのは、お門違いじゃないか?


イデアはそんな正論を振りかざしそうになるのを、ぐっと堪えた。きっと純粋に、眩しくて目も開けてられないくらいに、監督生はイデアを尊敬している。自惚れでもなんでもなく、現実として尊敬し、信仰してさえいる。その気持ちをぶち壊すのは、気が進まなかった。しかし、彼女の中にあるイデアの『偶像』は、彼女自身が作り上げたものだ。彼女自身が口にするべきものだ。その『偶像』崇拝の対象になってやるかどうかは、イデアはあとから決めればいい。だって、僕は彼女が作り上げた愚かしい『偶像』も、彼女自身のことも、これっぽっちも知らないままなのだから。

そう思えたら、監督生の瞳も真っ直ぐに見つめることができた。

「君は、どうしたらいいと思う?」
「え……」

丸眼鏡に反射する青い光がゆらゆらと揺らいでいた。

大きな黒翡翠の瞳が、無表情なイデアの顔だけを映していた。

小さな喉が唾液を嚥下して、こくりと上下して止まる。監督生は驚きに目を見開いて、唾を飲み込んだまま呼吸を止めていた。どこまでも聡明で、監督生の手には絶対に届かないイデアでさえ決められないことを、自分如きが決められるわけがないと思った。しかし目の前のイエローアンバーは決して戯けた色をしているわけでもなく、真っ直ぐに監督生の瞳を射抜いていた。勝手に『憧れ』を押し付けるならば、お前の中にある『答え』を示してみせろと。そう言われているような気がした。


さっきまでイデアの左袖を押さえていた右手と、土に塗れた膝を手のひらで叩く。ずっとチクチクして痛かった部位が、ぎゅっと一瞬痛みを増して、小石や土が地面にポロポロ落ちていった。いつまでも、小さな痛みを享受し続けることも選べたが。そんなのは未来が見えていない愚かな行為だし、果てまで痛いのは嫌だし、なにより格好悪い。自分が追いかけるべき『憧れ』は、そんな形をしていないはずだ。


監督生はもう、気が付いていないふりをしなかった。

「えっと……、なにもしなくていいと思います」
「それは、どういうこと?」

眩しい青い光に照らされているというのに、監督生を見据えるイエローアンバーの瞳孔はどんどん開いていく。まるで「逃げられると思う?」と意地悪く問われているように感じて、監督生はキッと強い眼差しで見つめ返してやった。逃げる気などなかった。距離が近すぎて、眼鏡による矯正視力がピントを合わせることができなくて、頭がクラクラしていた。



ピピピピ、とイデアの背後で電子音が鳴る。


一等大きなモニターに示された波形は、干渉を受け変化していた。チラ、と横目でモニターを確認したイデアが「フヒ。ワームホール、再びはけーん」と目を細めて呟いた。

「ワームホールの先の世界に『オルトくん』がいても、それが、確かめられただけでいいと思います。そんな世界もあったんだなって。それはそれで、幸せなんだろうけど、先輩にはオルトくんがいるじゃないですか」

監督生がポツリポツリと編み出した言葉を噛み締めるようにして、イデアは何度も瞬きをしていた。もしかすると世界の解釈違いだと怒鳴られるかと思ったが、彼は長い睫毛で瞬きをするだけで、穏やかで聡明な、ずっと嬉しそうな目をしていた。それは、監督生の憧れた姿にとても近かった。

そんな目で見つめられた監督生は、眉間に皺を寄せて涙を堪える。きっと、情けなくて不細工な顔をしている。酷いことを言ってしまった、酷い態度をとってしまったというのに、イデアがあまりにも優しい目をしているものだから。勝手に『憧れ』を押し付けてしまったというのに、それを許して、あまつさえ自身に包含してくれたものだから。


「ヒヒッ……そうだね。拙者たるもの、拙者自身が作り上げたオルトを大切にしないと」


イデアは夜空を見上げる。

パッパッと青いモニターが順番に消えていって、辺りが真っ暗になって、隠れていた星たちが次々と空に灯る。監督生もイデアに倣って夜空を見上げると、遥か彼方にオルトとグリムが手を繋いで、輪になって、くるくると回っていた。満点の星空の下で、彼らは一番に輝いていた。遠くからでもよく響いているその楽しそうな笑い声は、まるで星々の旋律に支えられたオーケストラのようだった。可愛らしくて、綺麗で、いつでも一番近くにいてくれて、一番守らなければならないものだ。

イデアも、監督生も、同じようにそう思った。
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